岩手県奥州市衣川区石神にある磐神社は、『延喜式』神名帳 陸奥国胆沢郡の筆頭社である。名前の通り、本殿はなく、代わりに拝殿背後の巨岩が神体として祀られている、── というようなことは、文献やネットを調べてあったから始めから承知して出かけていったのだが、それでも拝殿背後の磐座を最初に目にしたときは、思わず「おおっ」という声が出てしまった。神さびた巨岩の存在感に圧倒されたからである。全国的に見ても、これほど顕著な印象を与える磐座はそうないだろう。
磐神社
神体の巨岩
磐座の巨岩は東西10.2m、南北8.8m、高さ4.2mある
辺りは田が広がり、これ以外の岩の露頭は認めらない
人為的に搬入されたものだろうか
山や岩石や樹木などを祭祀の対象としていた
神社ほんらいの姿を伝える神社だ
ところで境内にあった看板には「当社のすぐ右前方には安倍館があり、安倍氏は当社を守護神(荒覇吐神)として尊崇し、磐井以南に威を振るう拠点をこの地に形成したと伝えられる。」とあった。
安倍館は、俘囚長だった忠頼の代から、前九年の役で頼時・貞任の父子が滅ぼされるまでの八十余年間、奥州安倍氏の居館だったと伝わる。
奥州阿倍氏は平安後期における陸奥・出羽の豪族で、北上川流域で栄えていた。その出自については、朝廷に従うようになった土着の蝦夷であるとか、中央の名族、阿倍氏が奥州に下った際に残した子孫であるとか言われるが、彼らの間に伝えられた伝承では「神武東征の際、滅ぼされた長脛彦の兄、安日(あび)が放逐されて津軽に入りその始祖となった。(「あべ」は「あび」の転訛)」と伝わっていた(『平泉雑記』が伝える安倍氏自身の家伝などに、この伝承が見られる。)。
長脛彦は記紀に見える大和の土着勢力の首領で、東征する神武天皇に激しく抵抗して殺されている。しかし、記紀には彼の兄で安日などという人物の記事はなく、これはもちろん後世の創作である。しかし、そうだとしても、どうしてこんな突飛な伝承が生まれたのか、という疑問は残るだろう。
これに対し太田亮は、平将門・藤原純友の後裔と称した武家が多数発生したのと同様に、奥州安倍氏が長脛彦の武勇を尊び、それにあやかろうとしたためだろうとしている。しかし、中央の名門貴族だった阿倍氏との同族関係を擬態するとかだったらまだ分かるが、奥州安倍氏がわざわざ自分たちの祖として創作した人物が、よりにもよって長脛彦の兄であったというのは腑に落ちない。そもそも、朝廷に対し融和的であった彼らが前九年の役で中央政府に背くきっかけとなったのは、頼時の息子の貞任の妻に、陸奥守だった源頼義の武将の妹を迎えようとしたところ、その武将が安倍氏が蝦夷の子孫であることを理由に断ったため、と伝承されているのだ。そんな彼らが大和朝廷から異族として蔑視されていた長脛彦の兄というポジションの人物を始祖にするとはとても思えない。ここにはたんなる絵空事に終わらない深刻なものが感じられる。
ふと思うのは、磐神社から北西に1kmほど隔たった場所に松山寺という寺院があり、そこの山門の横に女石神社という小さな神社があって、社殿背後の女石という岩石を祀っている。磐神社と女石神社は夫婦神であり、前者が後者に通うという伝承があるのだが、こうした男神から女神のところへ通婚するという伝承は三輪山型の神婚説話を思わせる。
女石神社
女石
例えば崇神記によれば、イクタマヨリビメのところに、比類ない姿かたちをした男が夜ごとに訪れ、やがて姫は妊娠する。怪しんだ父母が娘に、今度、男が訪ねてきたら、紡いだ麻糸を男の裾に刺しておけと教える。姫がその通りにすると、糸は戸の鉤穴を通り抜けて三輪山に至っており、男がこの山の神、オオモノヌシ神であったことが分かったという。あるいは崇神紀によれば、三輪山の神が夜な夜な妻のヤマトトトイモモソヒメのところに通ってくる。姫が夫の顔を見たいと言うと、承知したオオモノヌシ神は、自分は明朝、櫛笥の箱に入っているが、姿を見ても驚いてはいけない、と言い渡す。明朝、姫が箱の中に見たのは小蛇だった。彼女が驚き叫ぶと、オオモノヌシ神は恥じて人の姿になり、三輪山に帰還する。姫は悔いて座り込み、陰部を箸で撞いて死亡する。このほか、オオモノヌシ神が小川で用便中のセヤダタラヒメのところに丹塗矢となって流下し、神婚するという神武記の記事もある。
雨上がりの三輪山
オオモノヌシ神は大和の地主神である。その神がさまざまな女性の所に通婚した伝承が記紀にみられるのも、大和の土着勢力が祀っていた古い神々の生態を伝えるものだろう。奈良県磯城郡田原本町八田にある伊勢降神社の男神は、同天理市庵治町の伊勢降神社の女神の所に通ったという伝承がある。また、奈良県桜井市江包の素盞鳴神社と同市大西の市杵島神社はそれぞれ素盞鳴尊と稲田姫命の夫婦神を祀るが、両社では毎年二月十一日に「お綱はんの嫁入り」と称される祭礼が行われ、初瀬川をはさんで江包から雄綱(男綱)、大西から雌綱(女綱)を運び寄り、神前でそれぞれの大注連縄を結合させる。これらの伝承や祭礼は、神婚する大和の神々の古き生態を思わすものがある。
神武天皇が大和に入った際、先住勢力としてそこにいたのは長脛彦たちだけではなかった。『古事記』によれば、天皇が熊野から吉野に入った際、岩を押し分けて出てきた尾のある人に出会った。彼はイワオシワクノコと名乗り、吉野のクズの祖神である。奈良県下には、盆地東部の山間部を中心に「クズ神社」という神社が多く分布しているが、これらはこのイワオシワクノコを祖神とする古代クズ族たちによって祀られたものだろう。
クズ神社には雌雄あるものがある。桜井市倉橋の九頭竜神社と同市下の九頭神社は、前者に男神、後者に女神が祀られ、両社セットの夫婦神とされる。この2つの神社はともに社殿なく、樹木を神体に磐座があるが、夫婦神で岩石に対する信仰がみられることは、磐神社を思わせないではいられない。夫婦神のクズ神社の例としては他に、吉野町入野にある上宮神社と国樔神社などもある(ただし後者は廃社)。
桜井市下の九頭神社(女神)
社殿の施設はなく、背後の橿の木を神体に
その手前に鎮護石が置いてあるだけの神社である
倉橋の九頭竜神社(男神)の磐座
このようにこれらの神社の事例からは、大和の土着勢力によって祀られていた神々には、雌雄あって通婚する習性のあったことが感じられる。磐神社の男神が女石神社の女神のところに通うという伝承を知ったときも、こうした大和の神社のことを想起した。
あるいは、天皇家の祖先が大和に入った際、抵抗して放逐された先住者たちの中には本当に北上川流域まで落ち延びた者たちがいたのかもしれない。磐神社を最初に祀ったのは彼らであった。また彼らはその際、磐神社の男神が女石神社の女神のところに通婚するという信仰もまた大和から持ち込んだ。その後、当社近くに居館を構えることになった安倍氏は地主神として磐神社を祀り、この神社を最初に祀った者たちの伝承を自分たちの始祖伝承に取り入れた。安倍氏はその際、長脛彦の兄、安日なる人物を創作したが、その場合、磐神社を最初に祀った者たちの祖先が、本当に長脛彦の兄であったかどうかはあまり問題とならない。というのもこのケースにおいて長脛彦とは、「神武東征以前から大和にいた先住勢力」のアイコンにすぎないからだ。
ほとんど『白鳥伝説』の世界だが、とにかくこうしたことで当社は興味の尽きない神社である。
当社に訪れたのは9月の初旬だったが、岩手ではもう秋が完全に感じられた。神体の巨岩の存在感や、狛犬の可愛さなども印象に残っているが、何よりもみちのくで思いがけず懐かしい大和の神社を想起させる古社に出会えた嬉しい驚きが忘れられない。また、当社の近くで食べた郷土料理「ひっつみ」の味も忘れられない。
【磐神社】
『延喜式』神名帳 陸奥国胆沢郡の筆頭に登載ある小社、「磐神社」に比定される。読みは武田本に「いわの神社」とあり、地元の呼称も同じ。現祭神は伊邪那岐命。
当社には本殿がなく、代わりに東西10.2m、南北8.8m、高さ4.2mの巨岩を神体として祀っている。拝殿はあるが、もともと当社は社殿を設けないならわしで、かつてはそれさえもなかった。今の拝殿は明治三十年頃、近郷の氏子の強い要望による寄付金で建てられたという。
神体の巨岩
磐神社拝殿
俺はこれまで見てきた狛犬の中では、ここのが一番
神体は大きいだけでなく、いかにも長い風雪に耐えた感があり、神さびている。また、大きな機械を連想させるフォルムも非常に印象的。
当社から1kmほど西北にかつて磐神社と習合関係にあったらしい松山寺という寺院があり、その山門のかたわらに女石神社という小社がある。社殿背後に岩石が祀られており、磐神社と女石神社は夫婦神で、前者の男神は後者の女神のところに通ったとされる。
松山寺
女石神社
女石
磐神社の祭神は伊邪那岐命とされるが、これはもちろん創祀の頃からのものではない。女石神社の祭神と夫婦神ということで附会されたものだろう。他に石凝姥神という説もあるらしいが、これも社名に附会されたのだろう。物神としての石神がほんらいの祭神だったという見方もあるが、女石神社の女神のところに通ったとなると、ある程度、人格神化していたことになる。
なお、磐神社にはかつて、安倍晋三総理大臣の名代で岸信夫氏が参拝に訪れたことがあるという。