神社の世紀

 神社空間のブログ

穀霊白鳥(1)【杓子の森の磐座(滋賀県米原市上野)】

2012年01月29日 21時47分14秒 | 磐座紀行

 『藤氏家伝』に近江国守だった頃の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ@不比等の長男)が伊吹山へ登ろうとしたところ、土地の人が次のような伝説を語ったという。すなわち、「昔、ヤマトタケル皇子がこの山を登ろうとしたが、中腹で伊吹山の神に害されて白鳥となり、そのまま飛んで行ってしまった。」というのだ。とても恐ろしい場所だから登るのは止したほうが良い、というのである(結局、武智麻呂は登った。)。

 記紀によれば、ヤマトタケル尊は伊吹山に登って山の神に害され、下山してから居寝の清水を浴びることで正気に返ったものの、結局、そのダメージからは立ち直れずに伊勢の能褒野(のぼの)で病没したことになっている。景行天皇は尊の御陵を能褒野に造ったが、尊の魂は白鳥になって河内まで飛んでいった。そのいっぽう、この武智麻呂を説得しようとした人物の言うことを見ると、地元では山の神に害された尊は下山しないで山中でそのまま白鳥になって飛んでいったというふうに伝承されていたことが分かる。これは大きな違いだ。

 この武智麻呂のエピソードは『藤氏家伝』の下巻に収められており、筆者は武智麻呂の孫の延慶である。血縁者が書き残したものである上、時代的にも近いので信憑性がある。武智麻呂が近江国守だったのは和銅五年(712)から霊亀二年(716)なので、『日本書紀』が成立した養老四年(720)よりも早く、この近江の人が語ったヤマトタケル尊の伝説は、記紀のそれより古い形を伝えている可能性が高い。

 『古事記』にはヤマトタケル尊を害した伊吹山の神は牛ほどの大きさをした猪だったとあり、「伊吹山の神は誰ですか」でも書いたが、わが国のオオオクニヌシ神やギリシア神話のアドーニスのように、ユーラシア大陸の両端にはこのように猪に殺害される青年神の系譜が見られる。これらの神にはいずれも「ダイイング・ゴッド」としての古い穀霊の面影が宿っており、ここから伊吹山の神との戦いに破れたヤマトタケル尊の伝承にも、古くからこの地域で信仰されていた穀霊の神話が混入している疑いがある。

 おそらく、その神話とは「湖北地方の(稲の)穀霊は秋になって収穫の時期になると伊吹山に登り山の神に殺害される。しかし、春になって田植えの時期になると、山麓にある居寝の清水で復活を遂げ、湖北地方に広がる田に戻ってゆく。」というようなものだったろう。田畑で育てられてから収穫のために刈り取られる穀物の霊は、それゆえ、他者によって殺害される宿命にある。しかし殺害された穀霊は農耕のサイクルに従って春になるとまた冥界から呼び出され復活するのだ。

 その場合、伊吹山の神に害されたヤマトタケル尊がそのままこの山で白鳥になって飛んでいったと言う伝承は深刻なものとなる。というのも、『豊後国風土記』速見郷の「田野」の記事などから分かるとおり、わが国の古代人の間には穀霊白鳥の信仰があったからである。

 「田野」の記事とは次のようなものだ ── 。
 かつて速見郷に田野と呼ばれる肥沃な野があり、ここを耕作していた農民たちは自分のところで食べきれないほどの収穫があった。このため、彼らは自分たちの富に思い上がり、刈った稲を畝に放置したりするようになった。その挙句、餅を弓の的にして遊んだところ、餅は白鳥となって飛び去った。農民たちはその年のあいだに死に絶え、それから田野の土地は水田に適しなくなった、という。

 餅を的にして遊んでいるとそれが白鳥になって飛び去ったというモチーフは、『山城国風土記』逸文の秦伊侶具の記事にも見られるが、この白鳥は餅に宿っていた稲の穀霊である。田野の記事は穀霊に見放されるとどんなに稔り豊かであった田も荒地となり、農民たちは死に絶えるしかない、という古代人の信仰をよく伝えている。ヤマトタケル尊の魂が白鳥になって飛んでいったという記紀神話も、一般的には死後の魂がそういう姿をとるという古代人の信仰を示すものだと解釈されているが、尊が白鳥になって飛んでいったのが伊吹山中であったとなると、殺害された穀霊が白鳥の姿になって飛んでいったという古い伝承がヤマトタケル尊のそれに混入した結果とも解釈できる。

伊吹山

 

穀霊白鳥(2)」つづく

 

 


光と島【都久夫須麻神社(滋賀県長浜市早崎町)】

2012年01月09日 14時00分22秒 | 近江の神がみ

 かつては神社めぐりやバス釣りのために週末を湖北地方で過ごすことがよくあって、そんな時の帰途は長浜まで高速に乗らないで湖岸道路を通り、夕景の琵琶湖を眺めて帰ってくることにしていた。

対岸から眺めた竹生島

 今はもう合併でなくなった湖北町やびわ町の辺りを車で走っていると、夕陽を映す湖面の向こうに竹生島がシルエットとなって浮かんでいる、── 湖国を代表する景観の一つだが、旅情だの何だのと言う前に、その異様なほど孤独な姿に胸をうたれた。そしてそんな竹生島の姿を眺めていると、湖北の古代人は死後の魂がこの島に行き着くと考えていたのではないかと思えてきた。沖合でポツンと沈黙を守っている黒い影が、どこかしら死を連想させたからである。ちなみに白州正子も水に浮かび、岡が二つある竹生島は前方後円墳の手本になったのではないかとどこかで書いており、同じような観想がはたらいているのを感じる。

沖合でポツンと沈黙を守っている黒い影

 総じて私は、竹生島は前方後円墳というよりベックリンの「死の島」に似ていると思うのだが、両者とも岡が2つある小さな島で、どちらかというと女性的なフォルムをしている。そう言えば竹生島の神も浅井姫命、市杵島姫命、蹈鞴姫命など諸説あるが女神とされることが多い。とすれば、洋の東西を問わずそういう形をした島に死のイメージがつきまとうのは母胎回帰願望の一種なのかもしれない。いずれにせよ最初の頃の私は、竹生島に対して幽冥な場所というイメージを抱いていた。

竹生島全景
言われてみれば濠の横から眺めた前方後円墳に似ている

ベックリンの「死の島」
第一次大戦で敗戦したドイツ人の間ではこの絵の人気が高く
複製画やポストカードが多く作られたという
こうした人気の秘密は、神秘的な画面にそこはかとなく漂う
不思議な安らぎにあるとおもう
そしてその源泉は母胎回帰願望に求められるのではないか

 しかしそれも実際に上陸してみるまでの話であった。長浜から乗った高速船を竹生島港で下りるなり、辺りにたちこめるグラマラスで透明な光に驚嘆させられた。湖面で反射された光線が直射日光と混ざり合い、大気中にあふれ出ているのだ。竹生島にいるかぎりどこへ行ってもこの光、光、光である。私はいつも対岸から眺めていた時に抱いていたイメージとの、あまりのギャップに唖然となった。竹生島の宝厳寺は西国三十三箇所の一つだが、思わず「観音浄土に行くと、こんな光があふれているのだろうな。」と納得してしまった。

竹生島港から見上げる宝厳寺の眺め

同上

宝厳寺
都久夫須麻神社の神宮寺で本尊は弁財天
また一緒に祀られている千手観音は、西国三十三ヶ所の第三十番札所に当たる

三重の塔

 この島には式内社の都久夫須麻神社が鎮座している。小さな岬のたもとに建っている当社の拝殿は湖に面した側がテラス状になっており、そこから琵琶湖をのぞむと、放散する光の強度によって大気と湖水の境界がほとんど失われかかっている。まるで島が空中に浮かんでいるようなので、空と水のかなたから近づいてくる船が母船に近づく宇宙船のように見える。

宝厳寺と都久夫須麻神社を結ぶ船廊下
ここを抜けるときは妙にワクワクさせられますね

船廊下外観
小型のラピュタみたいです

 


 

都久夫須麻神社

滋賀県長浜市早崎町1665に鎮座。「つくぶすま神社」・通称「竹生島神社」
Mapion

 琵琶湖北部に浮かぶ周囲2kmほどの竹生島南東部に鎮座し、『延喜式』神名帳近江国浅井郡に登載ある同名の小社に比定される。

 ただし竹生島は平安期頃から神仏習合が進み、明治初年の神仏分離までは西国三十三箇所の一つに数えられる観音霊場と弁財天信仰が隆盛していた。その頃、島内には神官が1人もおらず、完全に仏教色一色に染まっていたのである。

 当社の前身はその弁財天社で、本殿の中に弁財天像が祀られていた。それが明治四年、大津県の指示で都久夫須麻神社に改称され弁財天も撤去された。ちなみに、それに先だって大津県が竹生島に対し、「島内に都久夫須麻神社という神社があるはずだから、関連資料を提出するように」と命じた時、島側は明らかに都久夫須麻神社と認められるようなものは存在しないと回答している。したがってこの弁財天社が、確実に式内社であったかどうかは不明である。また創祀の頃の当社は、島の北西部にある「寄瓶尾」にあったが、天平勝宝三年(751)に「我社を巽宮に遷すべし」という信託があったため、現在地に遷座してきたともいう。

 現祭神は公式には、市杵島姫命、浅井姫命、宇賀御魂命の三柱だが、これらは『神名帳考証』をはじめとした諸書にある説を網羅したもので、ほんらいの祭神は不明である。由緒には「総国風土記に雄略天皇三年に浅井姫命を祀る小祠が出来たのが始まりである」などとあるが、もちろん確かなことは分からない。おそらく、当社の信仰は神秘的なたたずまいをした竹生島じたいを崇拝の対象とする自然信仰にはじまったものだろう。ちなみに竹生島という島名も、神の島を意味する「いつくべのしま(斎部島)」の音転という説がある。

 そのいっぽう、竹生島は『帝王編年記』に見える伊吹山の神と浅井姫命の争闘の記事をはじめ、極めて伝承豊かな島であり、そうした伝承群が都久夫須麻神社の祭祀と何か関係があった可能性もある。しかし神仏習合の時期があまりにも長かったため、島内からこうしたことを突き止める手かがりは失われている

島内にある黒龍堂
竹生島は龍神信仰が盛んで、島内にはこうした龍神を祀る小祠が複数ある
龍神は謡曲『竹生島』にも登場し、都久夫須麻神社の神紋は「玉龍」

 当社の本殿は豊臣秀頼が伏見桃山御殿の一部を移築して造営させた典型的な桃山建築で、もちろん国宝。

私が参拝した昨年の晩秋は改修中でした

 『滋賀県神社誌』から当社の由緒を引用しておく。

「総国風土記に雄略天皇三年に浅井姫命を祀る小祠が出来たのが始まりであるとしている。縁起によれば神亀元年天照皇大神の信託により当竹生島に市杵島姫命が祀られ、天平三年には聖武天皇が参拝され神殿を新築し、社前に天忍穂耳命、大己貴命を祀り、天平宝字八年藤原仲麻呂の反乱の際当社の神護により治乱したので年号を天平神護と改め、祭神に従五位の神位が授けられたと記されている。平安期に入って神宮寺たる宝厳寺が島内に建立された。それ以後天台の僧がたびたび参拝するに及んで「辨智」「辨財」の利益を受け辨弁財天信仰が盛んになった。寿永二年平経正が当社の拝殿で仙童の琵琶で秘曲を弾じたことが平家物語や源平盛衰記に出ている。貞永元年、享徳四年、更らに永禄元年と火災に遭っているがいずれも再建され、特に慶長七年豊臣秀頼は片桐旦元を普請奉行として伏見桃山御殿の一部を移し造営させたものが現社殿である。明治四年都久夫須麻神社と改称し、明治九年郷社に列し、同三十二年県社に加列し本殿は国宝に指定された。昭和五年境内地、社有地一帯は史跡名勝地に指定された。」
 ・『滋賀県神社誌』p523

 

  


謹賀新年

2012年01月02日 10時38分03秒 | その他

 明けましておめでとうございます。

 昨年は日本にとって大変な一年でしたが、今年が再生の年となるよう祈念いたします。がんばろう日本。がんばろう東北。

 この地味なブログも訪問者がだんだん増えてきました。来てくださった方々、読んでくださった方々、いつも元気をいただいております。本当にありがとうございます

 初詣はまだ行っていないですが、辰年にちなんで龍穴神社の画像を。