神社の世紀

 神社空間のブログ

神社とは何か(7)

2012年09月02日 19時36分54秒 | 神社一般

★「神社とは何か(6)」のつづき 

 地縁集団的な「場所」としての神社について掘り下げてみる。 

 宮本常一の有名な『忘れられた日本人』の冒頭には、対馬にある伊奈の集落で、神社にある建物の中に村中の主立った者たちが集まって泊まり込みをしながら寄り合いをし、村内の重要な決定をしてゆく様子が描かれている。

 「伊奈の村は対馬も北端に近い海岸にあって、古くはクジラのとれたところである。私はその村に三日いた。二日目の朝早くホラ貝の鳴る音で目がさめた。村の寄り合いがあるのだという。朝出がけにお宮のそばを通ると、森の中に大ぜい人があつまっていた。〈中略〉いってみると会場の中には板間に二十人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話し合っている。雑談をしているようにみえたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得がいくまで何日でも話し合う。はじめには一同があつまって区長から話をきくと、それぞれの地域組でいろいろにはなしあって区長のところにその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとって夜も昼もない。ゆうべも暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。」
 ・宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫p11~14 

 宮本は伊奈の区有文書を貸してもらえるよう、その寄り合いにかけたのだが、朝、最初にそのことが議題にあがると、「重要なことだから、よく話し合おう。」ということになって協議は別の事柄に移ってしまった。その後、区有文書のことに話が戻ると誰かがこれと関係がありそうな話をし、そうすると別の者がまたその話から連想された別の世間話をひとしきりする。そしてまた別の話の話題に移って、また戻る。そんなことを繰り返して議論はゆっくりと展開し、最後にやっと宮本を案内してくれた老人が、「どうだろう、せっかくだから貸してあげたら…。」と言い出し、他の者もそれに賛成したので貸してもらえたという。 

 伊奈ではこうした寄り合いが昔から行われており、かつては「夜になって話がきれないとその場に寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論が出るまでそれがつづいたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得いくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。(前掲書p16~17)」という。


伊奈久比神社


同上


同上
 

伊奈には現在、主要な神社として上県郡の式内社、伊奈久比神社と
能理刀(のりと)神社の2社が鎮座している
後者はかつて熊野権現と称し、『対州神社誌』には卜部の祀る官社であったとある
式内社の行相神社に比定する説もあるが、現在はやや荒廃しているようだ 

宮本が寄り合いに同席したのは、この二社のどちらかだったのではないか


能理刀神社
 

 こういう話し合いは、会社でやったらダメ会議だが、昔の村落共同体で行われるぶんには極めて有効であったことがよく分かる。 

 伊奈の寄り合いは神社で行われているが、おそらく対馬の他の村落でもこうした例が多かったのではないか。私が対馬を旅行したとき、当地の神社では拝殿のなかに囲炉裏がきってあって、内部がまるで山小屋のような感じになっているものが多かった。おそらく、伊奈と同じような寄り合いの場所として使われるので、そうした設えがあったことだと思う。そう考えながらそれを眺めると、冬になって村人たちが囲炉裏端に寄って話し合っている情景が目に浮かぶようだった。

対馬によくある囲炉裏がきってある拝殿内部の例
(上郡町志多留の五王神社で撮影)
 

 神社の敷地内に公民館が建っているのは全国どこでもよく見かけるが(寺院の敷地内にそれがあるパターンは少ない感じがする。)、これも対馬に限らず古くから神社でこうした寄り合いが行われた伝統の名残だろう。神社の由緒だの伝承だのも、こうした寄り合いの席上で口承されたものが多かったのではないか。
 神社に隣接してゲートボール場(グラウンドゴルフ場?)があるのもおなじみの光景だが、実際に老人たちが競技をしている様子を見ていると、自分が玉を打つ順番でない時はずっと駄弁っている。ああいうのも神社が寄り合いの場であったふんいきを伝えるものかもしれない。いずれにせよ、神社はそれが鎮座する村落において、市役所や公会堂のように公的な空間として機能していた。 

 もっとも市役所や公会堂というものは言うまでもなく、古くから日本にあったものではない。明治になってからヨーロッパ諸国の先例を輸入したものである。ところがわが国が開国した頃、ヨーロッパにおいてはもうすでに都市文化の上に育った市民社会が成熟しており、市役所などの公的空間もこうした社会・文化の産物であった。いっぽうわが国では、京都や大阪の堺のような少数の例外を除くとまだ市民社会が成熟しておらず、これは基本的に現在でもそうだと思う。したがって日本における公的空間としての市役所等はヨーロッパの市民社会の産物を形だけ借りて、まだ中身がそこに追いついていない状況なのである。そしてそれを考えるとこうして村落共同体が寄り合いなどを行う場として機能していた神社は、極めてローカルではあるものの、わが国の真性にして伝統的な公的空間なのである。 

 だが、神社がたんに村落共同体の公的空間にすぎなかったら、神社とはそうした集団の成員いがいの者に対してもっと閉鎖的で、ほんらい余所者の参拝など歓迎されなかったに違いない。ところが、私は全国各地のさまざまな神社を参拝してきたが、その際に土地の人から閉鎖的な印象をうけた経験があまりないのである。 

 例えば朝、田舎に鎮座する神社を参拝していると、境内を清掃していた土地の人が向こうから先に挨拶をしてきたり、他府県から来たことが分かると礼を言われたり、といった経験は神社巡りが好きな人なら誰でもしたことがあると思う。また、その神社の由緒について土地の人に聞く場合もほとんど抵抗を感じない。むしろ、仕事の手を休めてでも熱心に教えてくれたり、あるいは知らない場合は申し訳なさそうな顔をして、「もっと詳しい人がいるから」などと土地の古老の名前と家を教えられたりするのである。 

 考えてみるとこれは結構、不思議なことだ。言葉のイントネーションからしていかにも余所者という感じの者がやってきて、古くからその村落の信仰生活の中心であった施設について伝承やら旧社地やら祭神について根掘り葉掘り聞くのである。普通だったら、これとは真逆の反応が返ってきてもおかしくないだろう。ところが(繰り返しになるけれども)これまで私は全国いたる所でそうしたことをやってきたが、それで不愉快な反応が返ってきたという経験はまだほとんどしたことがないのだ。これはたまたま運が良かった所為なのか。 

 思うに、神社が公的空間であるというのは二面性があり、比較的閉じられたローカルな地縁集団のそれという面とともに、もっと広くその神社が鎮座している地域に限定されない不特定多数の人びとに開かれたそれという面もあるのではないか。後者はその神社の神聖なふんいきに対し、ある程度、自分を謹んで感謝の気持ちを抱くような者なら万人に開かれているという意味である。

 ちなみに、寺院と違って神社は観光地になっているような有名なものでも拝観料を取っているケースがほとんどない。これなども色々な理由が考えられるだろうが、その一つとして今、言ったように神社は万人に開かれた公的空間だから、拝観料など取ってはいけないという意識があるのではないか。 

 もともと神社にはあまり人を疎外しないようなところがある。例えば神社の境内ではよく子どもの姿を目にするし、シーソーやジャングルジムなどが設置してある神社もよく見かける。これは神社の境内が子どもが遊ぶのに手頃な空間を提供するからだろうが、それとともに、子どもが神社で遊んでいてもあまり注意されないからではないか。これに対し、寺院で子供が遊んでいると、どこか別の場所で遊ぶように大人から叱られる確率が高いように思う。これもやはり神社は「万人に開かれた公的空間」であるという意識がみとめられる例の一つと言って良いのではないか

神社の境内では子どもの姿をよく見かける
(大和国添上郡の式内社、和爾坐赤坂彦命神社で撮影)

 『日本書紀』には即位前の履中天皇や阿閉臣事代(雄略紀)が時の権力者からの追求を逃れて、石上神宮に隠れるエピソードがある。聖域としての神社にはこうしたアジールとして側面があった。
 正安元年(1299)に成立した絵巻物の『一遍上人絵伝』などを見ると、町にある神社には乞食が多く集まっていた様子が描かれている。神社は人が集まる場所なので物乞いをしに彼らが集まったのだろうが、そのいっぽうで、こうしたアジールとしての伝統から神社は乞食が居ても追い立てを食らう確率が少なかったのではないか。これもまた、神社が「万人に開かれた公的空間」であった事例の一つである。

  

「神社とは何か(8)」につづく

 

 

 

 


神社とは何か(6)

2012年08月19日 23時41分37秒 | 神社一般

★「神社とは何か(5)」のつづき

 「場所」とは何か。 

 まず、「場所」と「位置」の違いから。 

 以前、ここでも紹介したが、植島啓司は『日本の聖地ベスト100』で、それまで定位置をもたなかった在来信仰による祭祀の場が、神籬や磐座のような地面の定着物を祭祀の対象とすることで固定化され、同一地点で反復して行われるようになったことが神社発生の契機であるとした。ようするに「神社=在来信仰の祭祀を行う定まった場所」という見解である。ちなみに、戦前の津田左右吉が書いた『日本古典の成立』にも、神社とは自然発生的に成立した、定常的に祭祀・呪術の行われる「場所」だとしている箇所があるので、こうした神社理解にはそれなりの歴史がある。 

 ただし、議論の趣旨から言って植島は、「場所」という言葉をたんに「地表上の正確な地点」という意味で使っている感じがする。そのような「場所」は情報値として緯度と経度しかもっていないので、「位置」と言い換えても差し支えないだろう。しかし、「位置」は「場所」ではない。「場所」とは、「位置」と、そこにあるもろもろの事物、例えば神社の場合で言うと神籬とか磐座とか社殿の建物とかに人間の活動が関係し、それによって意味が付着した状態になったものを言う(レナード・ウルフは『場所の現象学』で、「場所」の個性を構成するこうした「位置・活動・意味」の3点セットを、絵画におけるキャンバス・絵の具・画題になぞらえている。)。

 例えば、単なる住所は「位置」であるが、それが自分の生家のものであれば「場所」となる。

 ただし、生家はかなり個人的な「場所」であるが、その他にも集団的な「場所」である「ムラ」、大衆的な「場所」である「ディズニーランド」、国民的な「場所」である「国家」などがある。
 神社という「場所」も、それが「場所」である限り、これらいずれかの主体によって構造化されているはずだが、その特定はけっこう難しい。例えば神社は寺院と違い、どちらかというと個人の精神的な救済よりも、共同体などの社会集団の共通利益を擁護する性質が強い。そしてこうしたことは、特にある集落で古くから祀られてきたいかにも「村の鎮守さま」然とした神社に良く当てはまる。したがって、神社という「場所」は、基本的には地縁的集団によるものだという感じがする。

 しかし、例えば出雲大社や大神神社のように他府県にも熱心な信者がいるような、信仰圏の非常に広い神社の場合、もはや地縁単位の集団による「場所」としてだけでは捉えきれないはずである。また、天皇家の氏神で、かつては皇室以外の参拝ができなかった伊勢神宮は、普通の神社の場合のようには地元の地縁的な共同体とつながりがあるとは思えない。しかも伊勢神宮は現在でも近代以降のナショナリズムの記憶を引きずっており、国家的規模の「場所」として考えられる側面もある。が、そのいっぽうで、江戸期末から明治初期にかけて盛んであった「伊勢詣り」などは、信仰というより庶民のレジャーという色彩が強かったと言うが、今でもおかげ横丁の雑踏の中にはそうした大衆的な「場所」のふんいきも漂っている。

 いずれにしても、神社が主体のどのレベルによって構造化される「場所」であるか、という問題にはこれ以上、深入りしないことにする。それは知識社会学が取り組むような問題であり、あまりに深く追求すれば「神社とは何か」という問題からはそれてしまうだろう。繰り返しになるが、神社というものの古くからのありようを考えると、この「場所」は基本的には大字単位程度の地縁的集団によるものと考えるのが一番、しっくりする。一部の有名神社を除けば、だいたいそれを標準と考えて差し支えないのではないか。そこでこの場はとりあえず、神社とはそのような集団による「場所」ということにして話を進める

 

神社とは何か(7)」につづく

 

 

 


神社とは何か(5)

2012年08月13日 23時56分43秒 | 神社一般

★「神社とは何か(4)つづき

 井上による神社批判の徹底したラジカルさは、それはそれで評価できるが、神社とは何かを考える際、私が問題にしたいのはもっと普通の神社のイメージである。 

 例えばこんな紀行文の一節があったとする。 

「今でも山里に住む人たちから厚く信仰されているその神社の神域に足を踏み入れると、巨杉がそびえ立つ境内はまことに神気がこもっていて、その先に荘厳な社殿が並んでいる様子は西行でなくても「かたじけなさに 涙こぼるる」という気分にさせられる。」 

 これは私が作ったものだが、空気や水が澄んだ山里にこんな神社が鎮座しているというのは、日本人が神社に対していだく理想のイメージの一つであるとともに、普遍的な神社のそれと言っても良いだろう(この文章そのものと言って良いような神社というのも実在するが。)。 

 あるいは、「そんなイメージはあまりにもロマンチックすぎやしないか。」と言われかもしれない。しかし神社とロマン派のつながりというと、三島由紀夫や保田與重郎の例をはじめ枚挙にいとまがない。神社のイメージは元々どこかしらロマンチックなのである。総じて「神社とは何か」という問題に答えようとする場合、こうして理想化された神社のイメージの震源はどこにあるのかとか、神社とロマン派とのつながりはどうして生じるのかとか、風致が優れた神社を訪れた際の感動はどうして生まれるのか、等々という問題に本気で取り組む必要がある。そうでなければ神社批判にならないのだ。これに対し、「神社」という語は律令用語として使われだしたものであるから云々というような井上の議論はあまりにも形式的である。その内容は今後の神道史・神社史研究に影響を与えるかもしれないが、だからといってアカデミズムの世界を越えてそれが社会の通念になるほど一般化するとは思えない。就中、そこには「場所性」が欠けているのである。

 だが、場所についての議論に移る前にもう一つだけ、触れておきたいことがある。 

 これまで井上の神社理解にさんざ反駁を加えてきた私だが、だからといって井上が批判した福山敏男の提唱する「日本に固有の宗教施設である神社は、弥生時代やそれ以前の時代にさかのぼる農耕儀礼のなかから自然発生的に成立したもので、当初は社殿なく神籬や磐座を祀っていたが、やがて仮設の社殿が祀られるようになり、ついには現在のように常設の社殿を設けるようになった。」というような神社の起源説にも満足しているわけではない。 

 思うに「磐座・神籬」→ ・・・ →「常設社殿」というのは神社の歴史としてはもちろんこの順番だったろうが、福山がこれを考えた時には「常設社殿」の代替物を過去に求めて、「常設社殿」→ ・・・ →「磐座・神籬」と時系列を逆にさかのぼっていったと思う。その場合、思考の起点はあくまでも「常設社殿」にあり、そういう意味でこれは「神社の歴史」というより、「常設社殿発生までの前史」という性質のものなのだ。ちなみに福山は宗教史家ではなく建築史家だったから、こうした発想をしたのも無理からぬことである。

 
飯石神社

かつての神社には現在のような常設社殿の設けがなく、代わりに
磐座・神籬のような自然物を祀っていたというのは神社史の常識である
しかしそれが現在のように広く一般に受け容れられたのは、
飯石神社の事例によるところが大きかったのではないか


飯石神社々殿

この神社は出雲国飯石郡の式内社だが、拝殿だけで本殿がなく
代わりに二重の瑞垣で囲われた石を神体として祀っている
かつての神社は本殿の代わりに岩石などを祀っていたということを
これほど分かりやすく示した事例が他にあろうか

当社の神体は神道考古学の創始者である大場磐雄の『まつり』にも、
扉の写真で紹介されている(上のそれと同じようなアングルの写真)

『まつり』は一般向きの書物として多くの読者を獲得したと思われるので、
それだけ当社の神体が一般の目に触れる機会も増えたはずだ 

 もしも神社という宗教施設が社殿だけから成り立っているのなら、これはこれでも良いかもしれない。しかし実際の神社は社殿だけで成り立っている訳ではない。普通は社殿の前には参道が延びているのであり、また社殿の背後には多くの樹木が生えていて、所謂、鎮守の森を形成しているのである。これはいつの時代から始まったのかは分からないが、全国どこの神社でもだいたいそうで、参道があり、社殿があって、その背後は森になっているというのは神社の定型的なフォーマットとなっている。中近世に創建されたような比較的新しい神社でもそうであるし、住宅地にある神社でもそうである。住宅地の中にある箱庭のような小さな神社でも、しばしば参道のスペースが削られないで残っているのを見かけると感心してしまう。

住宅地の中にある小さな神社の例

この小さな神社の前には、社殿の敷地の
何倍もスペースをとっている参道がある

この参道は、すぐ横を並行して市道が通っているため、
アプローチとしてあまり意味がないが、
それでもやはり神社には参道が必要なのだろうか

 それにしてもこれはどうしてなのだろうか。理屈で考えるなら神がいる社殿さえあれ良いはずなのに、地形的な制約や、鎮座しているな場所が街中である等の理由がない場合、ほとんどの神社は社殿だけではなく参道と社殿背後の森をそなえている。とくに社殿背後の森は寺院にはほとんど見られないもので、明らかに神社とくゆうの事象である。また参道は神社だけでなく寺院にも見られるが、これも神社の場合、格式が高くなると参道を広げたり長く延ばしたり、石灯籠をたくさん並べたりして立派にする傾向がある。これに対し、寺院の場合は格式が高くなると建築物や庭園などは立派にするが、神社ほど参道にこだわることはないと思う。したがって神社の成立について考える場合、常設社殿の成立ではなく、「社殿・参道・背後の森」からなるこうしたフォーマットがどのようにして成立したかが問題にされなければならないのだが、福山の説ではその説明がつかないのだ。


春日大社参道に見られる石灯籠群

このように参道に多くの石灯籠を並べているのは
ほとんどの場合、神社であって寺院ではない。何故?

 そこで神社とは「場所」であるという見地から、こういったことに答えてみたい。

 

 

神社とは何か(6)」につづく

 

 

 


神社とは何か(4)

2012年07月23日 22時53分06秒 | 神社一般

★「神社とはなにか(3)」のつづき

 また、こうした本殿がなく自然物を祀る式内社の例は、政府があった畿内に少なく、そこから離れるのにしたがって増えてゆきそうなものだが、じっさいにはそうでもない。いやむしろ畿内でも古代に王権の本拠地があった大和には大神神社いがいにも本殿のない式内社が少なくないのである。それどころか個人的印象では、対馬や南紀のように地形的な理由で古い文化が保存されやすい地方を除くと、大和という土地は山や岩石を祭祀するアニミズムの信仰形態を残す神社がもっとも多く残っているのである。これも律令政府が常設神殿の造営によって、それまでの原始的なアニミズムの信仰を本気で断絶しようとしたのなら奇妙な現象である。

【本殿がなく自然物を神体としている大和の式内社】

葛上郡の大穴持神社

神体山の唐笠山中腹に鎮座
本殿はなく百日紅、つつじ、樫などの神樹が瑞垣の中にあるだけ

高市郡の天津石門別神社

これまた拝殿だけで本殿はなく、高さ1.8mほどの石垣上に
板石を巡らせ、その中に生えた榊が神体となっている

高市郡の飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社

当社の社殿は遙拝造になっており、背後に延びる山の尾根を拝している

城上郡の忍坂山口坐神社

拝殿背後にある高さ50cmほどの立石が神体

十市郡の畝尾都多本神社

当社の境内は全体が泣沢森(『万葉集』202)となっており、
古代・埴安池の水源地であったとも言われる
こうしたことからか拝殿背後の石垣上には神殿がなく、
代わりに瑞垣を巡らせた中にある井戸が神体となっている

(かつては井戸から榊が生えていて、枯れる前はそれが神体だったとも言う)

添上郡の天乃石立神社の神体

岩石を祀る神社の中でもっとも感銘深いものの一つ

天照皇大神が隠れていた天岩戸の扉が飛来したとも伝わる

周囲の幽邃なふんいきも特筆される

当社にある建築物は床のない簡素な拝殿のみ

 さらに、社殿が造営された神社でも、果たして井上が言う通り、「祭神が常時神殿に鎮座するものとされ、この固定化された祭神そのものが信仰の対象とされる。これは、本尊を祭ってそれを信仰の対象とする寺院と、その契機において本質的に異なるところがない。」と言えただろうか。どうも、これについても慎重な検討が必要だと思う。 

 例えば京都の賀茂別雷神社は社伝によると、天武六年に本殿を造営したが、この建物は背後に扉があり、祭事の時はそれを開いて北北西にある神体山の神山を拝していたという。要するに神殿ではなく遙拝殿で、実質的には山を祀る自然信仰のままだったのだ。 

 また、この扉は後に廃されたが、それでも天正年間に本殿が新しく造営されるまで、その位置に扉形の板が打ち付けてあったという。つまり、かなり後世まで遙拝殿の痕跡を残していたことなるが、それにもかかわらず当社もまた式内明神大社で、二十二社の中の一社であり、官社の中でも別格の扱いを受けていたのである。天皇のお膝元に鎮座する最重要神社さえも、信仰面ではこのようにアニミズムとの連続性が顕著だったのだ。

 井上のもう一つの著書、『日本の神社と「神道」』の中には、じしんの神社理解を以下のように要約している箇所がある(これは先行する丸山茂と三宅和朗の研究の要点をまとめた部分だが、「筆者もまたこれらの見解を基本的に指示すべきものと考える。」と述べているのでそのように読める。)。 

「(1)国家の手による恒常的な祭祀施設(神殿)の成立をもって「神社」の成立と考え、(2)その一般的な成立は天武朝期の官社制の成立に重要な画期が認められるとし、かつ(3)それは従来の在地の信仰との間に明らかな飛躍・断絶と重層性が存する〈後略〉」
    ・井上寛司『日本の神社と「神道」』校倉書房p64 

 井上の主張では、このうちの(3)に見られる「飛躍・断絶」が強調され、「国家の手による恒常的な祭祀施設(神殿)の成立をもって「神社」の成立と考え」、それ以前のアニミズムの時代は「神社」成立の「前史」として切り捨てられる訳だが、これまで各地の古社の例を見てきた通り、アニミズム信仰の時代と天武十年以降の間には依然として強い連続性が認められる。したがい、官社化に伴う常設神殿の造営をもって「神社」の成立とする議論は首肯できない。 

 総じて天武十年以降、律令政府が各地の有力神社に常設神殿を造営して官社化したのは、それまで各地の首長たちの手にあった在地の神がみの祭祀権を律令の統制下に置くことが目的だったはずである。そこには地域勢力に対する支配を強め、天皇の権力基盤を強化する狙いがあった。ただし当然のことだが、そのような意図にかなう神社というのは、どのようなそれでもよい訳ではなかったろう。それは当時の祭政一致の地域社会において、すでに強大な宗教的権威を獲得した神が祀られている、それこそその地域でもっとも聖なる場所=神社でなければならなかったはずである。したがって、常設神殿を造営して官社化するにしても、そうした宗教的権威まで否定してしまっては元も子もなかったはずで、あくまでもそれは残したまま、在地勢力の祭祀権だけを律令の統制下に置くことが課題だったのだ。つまり、律令政府は政策的にも官社化以前からつづく祭祀の連続性を担保する必要があったのであり、そこに「飛躍・断絶」を導入して「神社」を成立させる意図はなかったのである。 

 もっとも、すでに引用した通りある程度は井上も、こうしたアニミズムの信仰の時代と、天武十年以降の間にある連続性を認めている。が、そうだとしてもそれを過小評価している感じがする。それはこの連続性を認めると、両者間の「飛躍・断絶」がなくなり、天武朝期の官社制の施行による「恒常的な祭祀施設(神殿)の成立をもって「神社」の成立と考え」ることもできなくなるからではないか、と邪推したくなる。 

 井上やそれに先行する神社研究は、それまで自然発生的に生じたとされてきた神社における常設の神殿が、そうではなくて天武十年以降、政策的に造営が進められてきたことを明らかにした点や、またその際、それ以前に行われていた原始的なアニミズムの信仰がフィルタリングされた可能性を示唆するなど、今後の神社史研究に大きな影響を与えるだろう。しかし天武十年が神社にとっての画期であるとしても、官社化に伴う常設神殿の造営をもって神社の成立とまで言い切るのは行き過ぎであったように思われる。

 


神社とは何か(5)」につづく

 

 

 


神社とは何か(3)

2012年07月21日 11時27分31秒 | 神社一般

★「神社とは何か(2)」のつづき 

 こうした神社観は従来のものとかなり違うので、もしもこれが広く受け容れられれば、神社のイメージを大きく変えるだろう。しかし率直な疑問として、例えば大和の大神神社は三輪山を神体としているので本殿がないが、当社は現在、宗教法人登録されているのはもちろん、神社庁からは別表神社にも指定されている。これほどの神社が「神社」ではないのだろうか。 

 井上はこうしたことについて次のように述べている。 

「これまで見てきたように、常設神殿の創出や祭神の改編と固定化、あるいは官社としての位置づけなど、律令制の成立にともなって成立した「神社」は、それ以前とは大きく異なるものであった。しかし、人びとの神々との具体的なかかわりかた、あるいはその信仰内容という点からすると、そこに明らかな連続性も認められる。祭神を祭るための常設神殿が設けられ、常時そこに神が鎮座するとされるにもかかわらず、依然として神は目に見えないものとされ、祭礼の度ごとに神楽や奏楽などによって神を招き降ろすための儀礼が必要とされたことなどは、そのもっともわかりやすい一例といえよう。
 そうしたこともあって、律令政府の思惑やたびたびの命令にもかかわらず、官社としての神社の実態、とりわけ常設神殿の造営が容易に進まなかったことを指摘しておかなくてはならない。藤原氏の氏神として、あるいは春日造りの神殿形式などで知られる大和の春日大社の神殿が八世紀後半の神護景雲二年(七六八)になってようやく創建された(「神社」として整備された)というのも、その一例である。」
    ・前掲書p43~44
 
「その結果として常設神殿が存在しないなど、本来の神社としての条件を備えていない、いわば非「神社」ともいうべき施設が多数を占めた。そのため「神社」という概念そのものがきわめて曖昧なものとなってしまった。これは、律令政府の掲げる理念や目標・建て前と社会の実態とのズレという、より本質的な問題とも密接に関わるところで、律令政府がその当初からきわめて深刻な問題を抱えて出発したことを示すものとして注目される。
 律令政府としてはこれを放置することができず、律令制を維持・運営していくための新たな対応策を講じなければならなかった。八世紀末から九世紀以後における古代神社制度の転換は、そうした律令制の対応を示すものであったといえる。 

 古代神社のありかたが大きく変化した最初は、平城京から長岡京を経て平安京への遷都がおこなわれていた直後の延暦十七年(七九八)のことである。
 それまでの官社を、官幣社と国幣社とに分け、地方の神社を神祇官ではなく各国の国司の管轄下に置くこととした。また、これにともなって、祈年祭の班幣も国幣社に関しては国司からおこなわせることとした。これは、桓武朝期における律令制再建築の一環をなすもので、地方の実情をよく知る国司を動員することによって律令政府のめざす神社整備の政策を推進しようとしたものであった。
 この政策はそれなりの誠功を収め、これ以後官社(官国幣社)の整備はおおいに進み、常設神殿をもつ神社が一般的となっていった。」
    ・前掲書p45~46 

 とあるのだが、だとすれば康保四年(967)に施行された律令の施行細則に当たる『延喜式』の神名帳に登載された神社にはすべて社殿がなければおかしい。しかし、式内社の中には大神神社をはじめ、現在でも本殿の代わりに山や岩石を神体として祀るものが少なからずあるのである(『延喜式』が制定された頃は、現在よりさらに多かったろう)。

【本殿がなく、自然物を神体として祀る式内社の例】

若狭国遠敷郡の弥和神社

神社の施設はこの簡素な拝所だけ
神体は背後にある野木山

野木山

陸奥国桃生郡の石神社

常陸国那賀郡の石船神社

社殿は拝殿だけで本殿はなく、瑞垣で囲われた大石が祀られている

瑞垣の中の大石

加賀国江沼郡の宮村いそ(「山」へんに「石」)部神社

本殿はなく、瑞垣で六角形に囲まれた神地が拝されている
神地の中には樹木が生え、その根元には神霊が寄り付いた石があるという

対馬上県郡の天神多久頭魂神社

本殿はなく、天道山と呼ばれる神体山を廃する遙拝施設があるだけ

遙拝施設

神体山の天道山
二基の石塔は対馬の天道信仰に特有のもの

 もしも常設神殿の造営によって、それまでの自然物を祀っていた神社との間に断絶を生じさせ、新たに「神社」を成立させることが律令政府の方針であったとすれば、何故こうした神社が『延喜式』神名帳に載っているのだろうか。むしろ積極的にそこから排除されてもおかしくないのではないか。しかも、それら本殿のない式内社の中には大神神社をはじめ、諏訪大社(上社本宮)、金鑚神社など、明神大社に列する等、極めて神階の高いものがあるのだ(ちなみに、大神神社は中世期においても二十二社に加列している。)。 

 

神社とは何か(4)」につづく