神社の世紀

 神社空間のブログ

孤独な場所で(9)【三笠の山にいでし月かも】

2012年12月03日 22時42分35秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(8)」のつづき 

 春日山でこのような祭儀が行われたとすれば、それはいつの遣唐使が渡海する折りのことだったろう。 

 和銅三年(708)に、奈良に都が遷ってからであることは言うまでもない。そして遣唐使船の航路として、とくに唐から帰国の際、九州南部から沖縄、屋久島及、種子島といった南島へ漂着する可能性の高い航路が採用されていた時期の遣唐使だったことも間違いなかろう。というのもそれこそが、こうした祭祀と南九州にいた隼人たちとの間に繋がりもたらしたと考えられるからである。してみると、次の3回の遣唐使が候補としてあがってくる(遣唐使の回数は数え方によって違いがでてくるが、ここでは上田雄『遣唐使全航海』にしたがった。)。 

 ・第8回 養老元年(717)
 ・第9回 天平五年(733)
 ・第10回 天平勝宝四年(752) 

 ところで、有名な阿倍仲麻呂の「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」は、唐にあった彼が、沖天の月を振り仰いで「この月は故郷の三笠山(=春日山)にかかる月とおなじものなのだ。」という感慨を詠んだものである。 

 第8回遣唐使の一員として大陸に渡り、科挙に合格して唐の官僚となった彼は、やがて玄宗皇帝からその才を愛でられるようになり、唐の官僚機構の中で栄達をとげる。日本から第9回の遣唐使が来た際もそのまま唐に残り、第10回のそれでようやく帰国をこころざすが漂流して失敗。結局、望郷の念にさいなまれながら唐土で没する。この歌については、第10回の遣唐使船で帰国する際の、送別の宴席で歌ったとかの諸説があるが、仲麻呂が隼人の巫女によって遣唐使の航海安全のために三笠山で行われた月神との神婚儀礼のことを知っており、この歌にはそのイメージが滲んでいると考えたらどうだろうか。 

 月には「月桂」の故事があり、目には見えても手が届かない遥かなあこがれという謂のあることはすでに述べた。大陸の古い伝説に起因するこうしたイメージは、わが国にも古くから伝わっており、したがって、仲麻呂がここで唐土に昇る月に三笠山のそれを重ねて歌っているのも、遥かな故郷へのあこがれを月に託しているのである。 

 だが、実際問題として彼と故郷の間には広大な海があった。それを乗り切ることは危険な航海を伴う(結局、彼を乗せた船は漂流し、故国にたどり着けなかったことはさっき述べた。)。隼人の巫女が遣唐使船の航海安全を祈願して春日山で月神と神婚していたと彼が知っていたとすれば、この歌には故郷へのあこがれだけではなく、さらにこうした航海が月神の加護によって成功してほしいという思いもまた含まれていたことになる。 

 それからまた、彼の場合、月桂の故事は通常とは異なり、あこがれの対象(=故郷)のほうが自分から離れて手が届かない場所にあるのではなく、自分のほうがあこがれの対象から離れた唐土にいる、という格好で立ち現れている。その場合、故郷から遠く離れた孤独な場所で月を介して故地と結びつくという点で彼の立場は、古くから自分たち一族が齊き祀ってきた月神と春日山で神婚した隼人の巫女とあまりにも似ている。そこに見られるイロニーにも、仲麻呂は気付いていたかもしれない。 

 よだんだけど、『万葉集』に阿倍虫麻呂という中級官人の「雨ごもる三笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜は降ちつつ」という歌が載っており、ここにも三笠山の月のことが登場する。彼は藤原広嗣の乱の際、佐伯常人とともに例の板櫃川の戦いで隼人たち24人を率いて、広嗣側の隼人たちに投降を呼びかけた人物で、彼らと強いつながりがあった。 

 この歌は月見の宴席で作られたらしいが、それに同席した大伴坂上郎女は「山の端のささらえ壮士天の原門渡る光見らくしよしも」の歌を作っている。
 「ささらえ壮士(をとこ)」は月を擬人化した表現で、『万葉集』にはやはり同種の「天にます月読壮士(巻六・985)」「み空ゆく月読壮士(巻七・1371)」「月人壮士(巻十・2043、2051、222)」「月人壮(巻十・2010)」「月人乎止祐ヲトコ(巻十五・3611)」が見られる。これらが単なるレトリックではなく、古い時代の月神信仰を感じさせることはしばしば指摘されるが、こうしたことも、春日山を舞台とした隼人たちによる月神との婚儀が行われたことを暗示しているかもしれない。 

 いずれにせよ、仲麻呂がこうした儀礼のことを知っていたとすれば、それが行われたのはやはり第8~10回の遣唐使頃だったことになろう。 

 よだんも含め、かつて猿沢池に身を投げた采女の伝説について私が考えていたのは以上のようなことだった。それにしても、隼神社という神社についてもっと知りたい。藤原頼長(1120~1156)の日記である『台記』には、当社について「陸奥鼻節神社同神也」という興味深い記事がある。これをきっかけに東北に旅行して鼻節神社を訪れた。神社めぐりで東北を訪れたのはこれが最初だった。


鼻節神社々殿
 


社地遠景
 

 その折りに塩竃神社にも参詣した。塩竃神社は主祭神として塩土老翁神を祀っているが、一説によればこの神は鼻節神社のある七ヶ浜町花渕浜からこの地に上陸したとされ、鼻節神社の祭神は塩竃神社のそれと同躰とも言われる(ただし、鼻節神社の現祭神は猿田彦命)。 

 塩竃神社を訪れたのは夕刻だった。境内では会社帰りらしい背広姿のサラリーマンが神門の前で一瞬、足を止め、一礼してからまた家路を急ぐという姿を何度も見かけた。おそらく毎日の習慣なのだろう。都市の生活に息づいている神社というのは好ましいものだが、ここでは特にそれを感じた。社前の長い石段を下りて街中に出ると歩道の縁石がぴかぴか光っているような錯覚を覚えた。三笠山で行われた隼人たちの巫女と月神の婚儀の探求は、ひとまず雲散霧消してしまった感じだが、その時、これから東北にハマりそうな予感がした(じじつ、そうなった)。 

「孤独な場所で」(完) 

 

 

【おまけコラム:福江島の五社神社】 


福江島の五社神社
 

南回りルートで唐に渡る遣唐使船は、
五島列島でもっとも西にある福江島の三井楽町あたりから、
大陸に向かって一気に海に乗り出した
遣唐使たちにとってこの島は、
帰国するまでは最後に目にする国土であったのだ

島内には遣唐使にちなむ遺跡も少なくない 


門 

この島の大津町にある五社神社は、五島最古の神社と言われる
社伝によると持統天皇九年(695)正月二十八日、
天照大神、武甕槌神、経津主神の三柱を奉斎、
下って称徳天皇の神護景雲三年(769)正月九日に、
大和の春日大社から、天児屋根神、姫神の夫婦神を合祀したという 

こうした社伝に見られる当社と春日大社の関係は興味ぶかい
あるいは春日山の麓で行われた遣唐使の祭祀がこの地まで
波及したものではないか、などと考えてしまう 


社殿 


同上 


「筥崎鳥居」 

五島藩主だった五島盛利が石田陣屋や福江城下町の無事竣工に感謝し、
寛永十五年(1638)に奉納したもので完成度の高い優品である
福岡県の筥崎神社の鳥居に似ているため、この名で呼ばれるという

 

 

 


孤独な場所で(8)【孤独な場所で】

2012年11月11日 20時56分10秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(7)」のつづき

 かつて、春日山にあったという隼神社は、この山のどこに鎮座していたのだろう。


春日山
古都の東に楯のような山稜がつづく

 おそらくそこは、湧水が見られる場所であったように思われる。 

 京都市中京区にある隼神社は、奈良市の同名社を平安遷都に伴って勧請したものだが、明治になってから現在地に遷座する前は、今よりも300mほど北に鎮座していた。『式内社の研究』には、かつてのこの旧社地が、「いったいの畑のアチコチに水が湧いていた。」とあり、ここから当社の祭祀に湧水が関係していたことが感じられる。したがって、春日山に鎮座していた頃の隼神社も、周囲に湧水が見られたことが類推されるのだ。


京都市中京区壬生梛ノ宮町の隼神社
当社は平安遷都の際に奈良から当地に遷ったもので、
奈良にある隼神社は元社にあたる
現在は元祇園として知られる梛神社の境内社となっている


「式内隼神社旧蹟」の石標
旧社地は現社地から
四条通を渡って、
坊城通を300mほど北上した場所にあり、
現地には「式内隼神社旧蹟」の石標が立つ

 春日山中でそういう古い祭祀に関係のある清泉というと、龍王池のことが思い浮かぶ。 

 龍王池は春日山稜線の南端に近い標高約380mの山林中にあり、佐保川と能登川の水源にあたる。北側にある小高い場所には十八段の石階をひかえて南面する朱塗りの社殿が鎮座するが、ちょうど池を見下ろすような格好のこの小さな神社が、式内大社の鳴雷(なるいかつちの)神社である。神名帳では大和国添上郡の筆頭に登載されている。


龍王池


鳴雷神社
現在は春日大社の末社となり、施設はこの社殿だけとなっているが
平安中期までは二月と十一月の祭礼に
「絁(あしぎぬ)」をはじめとした莫大な供物が奉納され、
中臣氏の官人が差遣されていた
これは春日祭と軌を一にするもので、
朝廷からの崇敬のほどを示すものである

 龍王池はそもそも、鳴雷神社の神体として原始的な水源祭祀の対象となっていたものだろうが、中世以降は龍神信仰と習合し、雨乞いの聖地として近隣諸国から多くの崇敬を集めていた。その霊験に関する記録は枚挙にいとまがないというが、現在は参道らしい参道もなく、周囲の樹林を水面に映すたたずまいは静謐そのものである。 

 池は直径8.5mの円形で石積みで周囲を護岸してあり、外観は鏡に似ている。「野守の鏡」をテーマにした謡曲『野守』が飛火野を舞台にしていたり、神功皇后が戦勝を祈願して山頂に鏡を納めた鏡山の麓に鎮座する鏡神社が勧請されたりと、春日山のしゅうへんに伏在するこうした鏡への偏執は注意をひく。 

 それはともかく、隼人たちの呪能を神格化して祀ったらしい隼神社が、かつて龍王池しゅうへんにあったと考える場合、鳴雷神社の存在は意義深い。
 『延喜式』巻28大儀の条には「隼人の服装」についての記述があるが、その様子は『日本霊異記』(上巻一)にある、小子部栖軽(ちいさこべのすがる)が雄略天皇の勅命で雷神を捕えた時の姿、「緋(あけ)の蘰(かずら)を額(ぬか)に著け、赤き幡鉾(はたほこ)をあげ」と酷似する。井上辰雄はここから、隼人には雷神の鎮魂という職掌があり、小子部連との結びつきはそこから生じたと推測したが、その場合、鳴雷神社は社名からしてほんらいは雷神を祀ったものだろうから(現祭神は天水分神)、井上が推測したような職掌を介して、隼人たちの呪能がこの場所で展開したことが考えられる。 


小子部栖軽を祀ると言われる奈良県橿原市の小部神社
大和国十市郡に登載ある式内大社の論社でもある


奈良県明日香村にある雷丘
『日本霊異記』にある伝承で栖軽が雷神を捉えた場所である

 龍王池の東側には水中に下りる石段がついている。堆積物が多くて確かめられないが、おそらく池の底に下りられるのだろう。水中で行われる何らかの儀式に使われたと思われる。


水中に下りる石段

 ここからは私の夢想だ。

 都が奈良にある頃、隼人たちの巫女の1人が龍王池につれてこられた。
 文武四年に彼らが覓国使を剽却した際、事件の首謀者の筆頭には「薩摩の比売(ひめ)」なる人物が見られる。おそらく隼人たちの首長だったのであろうが、女性の名であるところから判断すると、すぐれた呪能を発揮する巫女的な指導者であったと考えられる。今、龍王池に連れてこられたのも、そのような人物であった。

 彼女の故郷は南九州にあった。しかし、当時の朝廷は隼人たちの呪能を高く評価し、それを積極的に利用しようとしたため、この巫女の場合もその霊力を買われて出仕させられ、現在、ある祭祀に臨んでいるのである。

 その日は中秋の名月の夜であった。おりしも沖天の満月が龍王池の水面に映る。やがてその巫女は池に入って、この故国から引き離された孤独な場所で、自分たちの部族が祀る月神との婚儀を果たす。古代人は月と潮の満ち引きの関係を知っていたと言われる。月はヒコホホデミノ命が海面を溢れさせて兄に復讐した潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)の等価物だった。位の高い隼人たちの巫女は、月神と交わることで、海や河川や霧や降雨などとなって自然界に遍在する水への支配力を取り込むことができるのだ。今、龍王池に連れてこられた隼人の巫女の場合、求められているのは、こうした月神から取り込む水への支配力によって、遣唐使船団の、海路の安全を保障することにあった ── 。

 やがて、龍王池の畔にはこうした祭祀にちなんで、月神と、この巫女の間の神婚儀礼によって生まれたとされた御子神が祀られるようになった。これが隼神社の創祀である。当社の現祭神は火酢芹命(=月神)と角振神の父子二座であるが、古社で父子二座というのは珍しい。あるいは、この巫女と角振神の母子二座がほんらいの祭神であったかもしれない。

 その後、この龍王池の畔にあった隼神社は何らかの理由で、今の角振新屋町に遷座した。それに伴って、かつて満月を映す龍王池に入って月神との婚儀を遂げた隼人の巫女の記憶は、角振新屋町に近い猿沢池へと転移し、天皇の寵愛が薄れたことを嘆き、中秋の名月の晩にこの池に身を投げた采女の悲話として伝承されるようになった。

 

孤独な場所で(9)」につづく

 

 

 


孤独な場所で(7)【二つの鏡神社】

2012年11月01日 23時17分42秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(6)」のつづき

 広嗣の乱後、10年もしないで聖武帝は譲位する(749)。新帝となった孝謙帝のもとで藤原仲麻呂が台頭し、かつての広嗣の政敵たちもこれに前後して政界の浮き沈みを経験するようになる。 

 天平十七年(745)、玄は筑紫観世音寺別当に左遷され、その翌年、任地で没する。驕りのせいからか、彼は世間から疎んじられるようになっていたらしい。『続日本紀』に載せる卒伝によれば、「藤原広嗣が霊の為に害せらる」とあり、当時、その死が広嗣の怨霊によるものという風評のあったことが分かる。天平勝宝八年(756)には橘諸兄も讒言を受けて政界を引退し、翌年には没する。


頭塔
南都鏡神社と同じ奈良市高畑町にある

『元亨釈書』には、空中から手があらわれて玄を連れ去り、
後日、頭のみが興福寺に落ちていた、
これは広嗣の怨霊の仕業であった、という伝承が見られる
頭塔には、この玄の首を葬ったとの伝承がある

(じっさいは七段に築造された土製の塔であり、
奈良時代の僧、実忠によって造営された)

 玄よりは人望のあった吉備真備も、天平勝宝二年(750)には筑前守・肥前守に左遷されていた。
 唐津の鏡神社は、藤原広嗣を二ノ宮の祭神として祀っているが、社伝によればこうして北九州に配流されていた際、真備によって創建されたと伝わる。広嗣が斬られたこの地で、その霊を慰めるためであったという(境内にある看板の由緒記による)。


唐津の鏡神社で藤原広嗣を祀る二ノ宮の本殿

 この社伝は結構、信憑性があるのではないか。これまで見てきたとおり、広嗣はその反乱のきっかけとなった上奏文で、真備と玄のことを攻撃していたし、そのためもあってか、『東大寺要録』には広嗣の乱が鎮圧された後の玄が千手経一千巻の書写・供養を発願して広嗣の霊の鎮撫に努めたとある。この記事はその際に写経された「千手千眼陀羅尼経残巻」が一巻だけが現存するため史実であることが確かめられるのだが、生前の玄が広嗣の怨霊を恐れていたことを伺わすものである。そして、そこまでしたにも関わらず玄は広嗣の怨霊によって殺されたという風評がたっていたのだから、真備もそれを恐れ、これを慰めるために広嗣を祭神とする神社を創建したのはありそうなことなのだ。

 ちなみに、『松浦廟宮本縁起』には天平十七年(745)、真備が当社を祀り、さらに彼が大宰少弐に任ぜられた天平勝宝六年(754)、奏して神宮寺に神田を寄進したとある。

 翌・天平勝宝三年(751)、藤原清川を遣唐大使とする遣唐使が企画される。この時、56歳の吉備真備も副使に任命され、再び入唐をめざす。『万葉集』4241の注にあるbの祭祀(「春日にて神を祀る」)はこの時に行われたものである。彼もまたそこに参列したことだろう。

 この時の遣唐使は往路は順調であったが、帰路は前回と同じく多難なものとなった。4隻の遣唐使船は天保十二年(753)十一月、蘇州を出航して帰途に就くが、第1・第2・第3船は冬の強い季節風に遭って沖縄に漂着する。南風が吹くのを待って再度、出航し、第2・3船はそれぞれ薩摩国阿多郡と屋久島に漂着できたが(ちなみに吉備真備は第3船に乗船していた。)、第1船はベトナム北部まで流された後、現地人の襲撃により乗員180余名の大半が殺害された。生存したのは大使の藤原清河と阿倍仲麻呂をはじめとした十余名だけであるが、この2人はその後、唐までは戻ったものの、望郷の念にさいなまれながらそこで没している。第4船も途中で船火事に遭うなどのアクシデントに見舞われ、薩摩国石籬浦にたどり着いた時は蘇州を発ってから150日以上が経っていた。

 それにしても、こうしてみるとこの度の遣唐使船はその帰路、全ての船が南島や薩摩国の領域内に漂着していることがわかる。これは多治比広成が遣唐大使だった、前回の遣唐使の場合にも見られる傾向であり、おそらく、隼人たちの反乱が収束し、その統制も進んだために、唐から日本を目指す遣唐使船はもはや現地の隼人たちを恐れずに南島や南九州に上陸できるようになったことを示すものだろう。南島や南九州は、最初から目的地として設定された訳ではなく、あくまでも漂流して南に流された場合のセイフティ・ネットではあるが、それにしても唐から帰国する航路での有効性は相対的に高まっていたのである。

 こうした中で、天平四年(733)の遣唐使と天平勝宝二年(750)のそれのほぼ中間に挟まる天平十二年(740)の藤原広嗣の乱は、遣唐使と隼人たちの間に不協和音を響かせ、たいへんなインパクトをもったはずである。また、その首謀者である広嗣は、吉備真備や玄のような遣唐使の経歴をもつ者に対して屈折した感情を抱いて刑死し、没後は怨霊となって後者を害したなどと言われた。おそらく、遣唐使の祭祀の地であった春日山の南麓に唐津の鏡神社が勧請されたのは、こうした負のインパクトを介してではなかったか。広嗣の怨霊を慰撫することで、その荒ぶる霊力を取り込み、遣唐使の守護神として祭り上げようという逆転の祭祀である。

 そして、このように御霊神となることで遣唐使にとって両義的な存在となった場合、藤原広嗣は隼人たちと遣唐使の祭祀の地であった春日山南麓を結びつける契機ともなりえたのだ。


南都鏡神社
奈良市高畑町468に鎮座
Mapion

祭神として藤原広嗣、天照皇大神、地主神を祀る

ウィキなどにもあるわりと一般的な社伝によれば
大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守として
唐津の鏡神社を勧請したものと伝わる

福智院
Mapion

ただし神社の発行している「御由緒」には、
当初は奈良市奈良町にある福智院の前身、平城清水寺の境内において
玄の弟子である報恩により崇められ、
その創建は天平年間であったとある

あるいは吉備真備が遣唐副使に任命された際、
自ら創建した唐津の鏡神社を勧請したことも考えられる


福智院の石仏


南都鏡神社の紅葉

 

孤独な場所で(8)」につづく

 

 

 


孤独な場所で(6)【藤原広嗣の乱】

2012年10月29日 21時55分18秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(5)」のつづき

 つづいて、藤原広嗣について。


南都鏡神社本殿
延享四年(1747)に春日大社の第三殿を移築したものと伝わる

 奈良市高畑町の南都鏡神社について私が、春日山の南麓で遣唐使が航海安全を祈願した祭祀の、遺存の社であると考えていることはすでに述べたが(詳しくはココ  →  「赤い土の地母神【遣唐使と鏡神社】」)この神社の祭神は天照大神・藤原広嗣・地主神である。このうち、藤原広嗣はもともと佐賀県唐津市鏡の鏡神社で祀られていたものであるが、当社はこの唐津のほうの鏡神社を勧請したものである(紛らわしいので、これから後者を「南都鏡神社」と表記する。)。唐津の鏡神社は息長足姫命(一ノ宮)と藤原広嗣(二ノ宮)を祭神とするが、二ノ宮は広嗣が当地で処刑された10年後の天平勝宝二年(750年)、肥前国司に左遷された吉備真備によって創建された。それにしてもなぜ、遣唐使の祈願所であった地に、はるばる唐津からこの神社が勧請されてきたのだろうか。


唐津市の鏡神社


同、藤原広嗣を祀る二ノ宮

 隼人たちの反乱は養老四年のそれをもって終息したため、それ以後、朝廷による南九州への統制は何とか浸透し、唐から帰還する遣唐使がもし南島に漂着しても、ひとまずそこにいる住民から襲撃される恐れはなくなった。それかあらぬか、天平四年(733)に多治比広成を大使とする遣唐使が企画された時は、前回のaのように春日山で祭祀が行われた記録が『続日本紀』には見られない。

 ちなみにこの時の遣唐使は全船、無事に唐に到着し、天平六年(734)十月、帰国の途についた。広成を乗せた遣唐使船(第1船)は他の3船と供に唐の蘇州を出航したが、やがて「悪しき風たちまち起りて彼此相失う」という事態に見舞われた後、種子島に漂着する。
 その後、この船の乗組員は翌年の三月には平城京に到着しているが、彼らの中には吉備真備や玄といった後の政界の有力者もいたほか、唐から招来した莫大な量の書籍・文物も携えていたため、この第1船だけでもわが国の政治文化に与えた影響はそうとうに大きい。

 そのいっぽうで、判官の平群広成が指揮した第3船は悲惨だった。崑崙国まで流され、原住民の襲撃や疫病により、広成ら4名を除き115名いた乗組員が全滅しているのである。第1船とは明暗を分けた格好だが、もしも隼人たちが朝廷に帰順していなければ、彼らの勢力圏に漂着した第1船もまた同じような運命をたどったかもしれない。

 いずれにせよ、この頃の遣唐使にとって、南九州の隼人たちはそれほど恐るべき存在ではなかったと言えるだろう。だがその後、遣唐使と朝廷は、隼人たちとの関係でもう一度、危機を迎えるのである。その原因を作ったのが藤原広嗣であった。

 藤原広嗣は不比等の生んだ藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)のうち、式家の開祖である藤原宇合(ふじわらのうまかい)の長子であった。天皇家との縁戚関係から、聖武帝の朝において圧倒的な権勢を誇っていた四兄弟の1人を親に持つため、普通であれば広嗣もまた、政権内での栄達が約束されていただろう。しかし天平九年、順調であったはずの彼の人生は暗礁に乗り上げる。当時、流行していた天然痘によって四兄弟が相次いで倒れたのである。後ろ盾を失ったことと、反藤原勢力の台頭により天平十年、彼は大宰少弐に左遷されてしまう。


広嗣が左遷された太宰府政庁跡

 この左遷を不服とした広嗣は政界から吉備真備(きびのまきび)と玄(げんぽう)を除くよう、任地の北九州から朝廷に上奏する。これに対し聖武天皇は広嗣を召喚しようとするが、彼は従わず、天平十二年(740)、弟の綱手とともに反乱を起こす。藤原広嗣の乱である。朝廷は鎮圧のため、大野東人を大将軍とする追討軍を直ちに派兵した。

 両軍の決戦は北九州市内を流れる板櫃川を挟んで行われたが、広嗣の軍勢の中には多くの隼人たちがおり、広嗣は自ら先鋒をつとめて彼らを率いていた。いっぽう朝廷は派兵にあたって畿内にいた24名の隼人を御所に召し、位を授け、その官位に当たる色の服を賜与して発遣する。川を挟んで両軍がにらみ合っている時、この朝廷から送り込まれてきた隼人たちが広嗣軍にいる同胞に投降を呼びかけた。その内容は、「逆人広嗣に随いて官軍を拒棹フセぐ者は、直にその身を滅ぼすのみに非ず、罪は祭祀親族に及ばん。」というものだった。


広嗣軍と政府軍が対峙した板櫃川古戦場
北九州市小倉北区にある到津八幡宮ふきんの板櫃川が伝承地


同上

 それまで、大宰少弐だった広嗣からの命を、朝廷からのそれと信じていた反乱軍の隼人たちは、当然のことながら自分たちが官軍の側についていると信じていた。ところが、敵軍から聞こえる同胞の言葉によって、自分たちが騙されて逆賊の側についていたことを知らされるのである。広嗣軍にいた隼人たちは動揺し、相次いで戦列を離れはじめる。そしてこれが転機となり、広嗣はこの決戦に大敗した。敗走した彼はやがて肥前国松浦郡で捕らえられ、綱手と共に唐津で処刑される。

 この反乱のきっかけとなった広嗣から朝廷への上奏文には、政界から吉備真備と玄を除くようにあることはすでに述べた。いっぱんにこの2人は当て馬にすぎず、上奏分の本当の目的は反藤原氏勢力の領袖であった右大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)を攻撃することにあったと考えられているが、2人が遣唐使であったことも見逃せない。地方の下級役人の出身でありながら、藤原氏の勢力が後退した後の政界で彼らがニューリーダーになれたのも、この経歴のおかげだったのはずである。したがいこの上奏文には、中央貴族出身である広嗣の、遣唐使に対するルサンチマンが滲んで見える。

 また、南九州の隼人たちを手兵に納め、かつ遣唐使に対してこのような反感を抱く者が九州で反乱を起こしたのだから、これが鎮圧されなかったら遣唐使の派遣にとって大きな障害となったことは間違いない。一時的なものとはいえ、これが隼人たちとの関係をめぐる遣唐使の新たな危機であった。と同時におそらくこれが、遣唐使たちによる春日山の祭祀と隼人たちを結びつけるもう一つの契機になったのではないか。

 

孤独な場所で(7)」につづく

 

 

 


孤独な場所で(5)【赤の部族】

2012年10月25日 23時53分17秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(4)」のつづき

 唐から帰還する遣唐使船にとって、種子島や屋久島をはじめとする九州島南部の島々は、万一、漂流したときの救いとなる安全ネットであった。おそらくこのためだろう、朝廷は文武二年(698)に覓国使を南島に派遣している。

 「覓国使(くにまぎし)」=「国をもとめる使い」は現地調査団にようなもので、漂流した遣唐使がたどりついた場合に備え、南島の位置関係や上陸したときに飲料水が確保できる地点などの調査にあたったらしい。だが、『続日本紀』によると朝廷は出発する彼らに、身を守るための武器を支給したという。当初からこの任務は危険なものと予感されていたことがわかる。

 その予感は的中した。2年後の文武四年(700)に、「薩末の比売、久売、波豆、衣評督衣君縣、助督衣君弖自美、また肝衝難波」等が、肥の国の兵らを従えて覓国使の「刑部真木」等を「剽却」したため、朝廷がこれに対して犯罪と同じような処分を行った記事があるのだ。

 「剽却(ひょうきゃく)」は宇治谷孟の現代語訳では、物品を脅し取ることの意にとっているが、いずれにせよ、ここに見られる「薩末の比売」をはじめとした者たちは在地の隼人たちの首長層であったと考えられる。この事件の背景には、朝廷によって強化される支配に対し、彼らが危機感を強めていたことがうかがえるが、だからといって政府としては、遣唐使船が隼人たちの勢力圏に漂着した際、その安全が保障できないことになるので、こうした事態をそのまま見過すことはできなかったはずだ。

 そのためもあってか、緊張の高まりにもかかわらず、朝廷は隼人たちの統制を強化し、それに反発する彼らは以後、たびたび反乱を起こすことになる。すなわち、それぞれ大宝二年、和銅六年、養老四年の反乱である。特に養老四年のそれは、隼人たちが大隅国守の陽侯史麻呂を殺害するという衝撃的なもので、朝廷はただちに大軍を派兵してこれを鎮圧したが、たいへんな苦戦を強いられた。しかしこれ以後、大きな隼人の反乱は見られなくなる

霧島市隼人町にある比売城の岩山
政府軍に対し徹底抗戦した隼人たちは
ここに立てこもって最後まで戦った

 隼人たちの反乱を年代順に並べてみる。

  1.文武四年(700) 薩末の比売等が覓国使を剽却する。
  2.大宝二年(701) 薩摩、種子島の隼人たちが命に背く
  3.和銅六年(713) 大伴宿禰安麻呂が大将軍に任ぜられ、乱後に受勲(経過は不詳)
  4.養老四年(720) 隼人反きて、大隅国守陽侯史麻呂を殺せり

 いっぽう、遣唐使たちが春日山のふもとで航海安全を祈願した祭祀はこうである。

  a.養老元年(717) 遣唐使が神祇を盖山(みかさやま)の南に祠る。
  b.天平勝宝三年(751)遣唐使が春日にて神を祀る(『万葉集』4241の注)。
  c.宝亀八年(777) 遣唐使が天神地祗を春日山(=御蓋山)の下に拝した。

 1~4とa~cを比較すると、aは3と4の中間に位置し、隼人たちとの緊張がまだ解けない時期にこの祭祀がはじまったことを示している。

 当時の遣唐使たちはどんな気持ちでaに参加しただろうか。唐への渡海が危険であることは覚悟の上だろうが、帰途において領国であるはずの南九州に漂着した場合も、下手をすると原住民から危害が加えられるかもしれないとなると、「せめてそれだけは何とかしてくれ。」という気持ちが強かったのではないか。また、遣唐使を唐に派遣する政府としても、南九州の隼人たちの統制が難航する中で、せめて神頼みの世界だけは彼らをこの事業に協力させたいと望んだのではないか。そしてそう考えてくると、都にいて皇居の守護などにあたっていた隼人たちを朝廷が動員し、その強い呪能によって海難から遣唐使船を守らしめるようこの祭祀にあたらせたのではないか、という疑いが生じる。

 その場合、2つの契機が両者の結びつきを強めた可能性がある。藤原広嗣と赤い土だ。

 まず後者から説明する。

 本館のほうの「赤い土の地母神【遣唐使と鏡神社】」で述べたように、私はかつてふきんに残る伝承などから、奈良市高畑町にある鏡神社こそ、春日山の南麓で遣唐使たちが航海の安全を祈願した祭祀の、遺存の社であると考えた。


奈良市高畑町の鏡神社

 また同じく「赤い土の地母神【赤い浪の威力】」と「赤い土の地母神【空海という回路】」では、こうした祭祀が高畑町きんぺんで行われたのは、この地に露頭する赤い土にマジカルな威力がもとめられたためだと論考した。わが国の古代には『播磨国風土記』逸文の「尓保都比売命」の伝承によく現れているように、赤色の呪力によって邪気を祓い、航海の安全を保障するような魔術が行われていたのである。


南都鏡神社と同じ高畑町内にある赤穂神社

「赤穂」は「丹生」と同じく赤っぽい粘土質の土のことで、
高畑町きんぺんには酸化鉄を含んだ褐色土の露頭がみられ、
ふきんには「丹坂町」の地名もある
赤穂神社は大和国添上郡の式内社

 破邪のための赤色魔術は隼人たちも行ったらしい。『延喜式』には隼人たちの装束について、耳形鬘(犬の耳の形をした鬘バン=髪飾り)は白赤木綿で作り、肩布ヒレは緋帛のものとする旨の規定がある。ちなみに「緋」は赤の中でも、とりわけ鮮やかなそれのことである。さらに、平城京跡から出土した有名な隼人の楯には、上下の鋸歯紋と中央の大きなS字渦巻によく目立つ赤が使われている等、こうして見てくると隼人たちにとって赤は特権的な色彩であったことがわかる。

 「海幸・山幸」の神話には彼らの祖である火酢芹命が弟に服従する場面で、「赭をもって掌に塗り、面に塗りて」とある。赭(そほに)は赤土のことで、ここから彼らは儀礼の際に、赤土を使って手のひらと顔面を赤く塗ったことが分かる。おそらく破邪のためだろうが、あるいは平城京にいた隼人たちが顔に塗ったのは、高畑町きんぺんの赤土だったかもしれない。隼人たちと春日山のふもとで執行された遣唐使の祭祀は、こうした赤土の呪術を介して結びつくのである。  

 
春日大社末社の椿本神社
春日大社の末社になっている椿本神社は
隼人の呪能を神格化した角振神を祀るものだが、
現地に行くと赤色の幣帛を奉納する風習が見られる


アップ
扉の前に並んでいるミニ幣帛を買って、足許に供える


足許アップ
祠の足許には供えられた赤い幣帛がびっしり並ぶ

この風習がいつ頃から始まったかは不明だが、
隼人たちと赤色呪術の関係を思わすものがある

 

孤独な場所で(6)」につづく