神社の世紀

 神社空間のブログ

孤独な場所で(6)【藤原広嗣の乱】

2012年10月29日 21時55分18秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(5)」のつづき

 つづいて、藤原広嗣について。


南都鏡神社本殿
延享四年(1747)に春日大社の第三殿を移築したものと伝わる

 奈良市高畑町の南都鏡神社について私が、春日山の南麓で遣唐使が航海安全を祈願した祭祀の、遺存の社であると考えていることはすでに述べたが(詳しくはココ  →  「赤い土の地母神【遣唐使と鏡神社】」)この神社の祭神は天照大神・藤原広嗣・地主神である。このうち、藤原広嗣はもともと佐賀県唐津市鏡の鏡神社で祀られていたものであるが、当社はこの唐津のほうの鏡神社を勧請したものである(紛らわしいので、これから後者を「南都鏡神社」と表記する。)。唐津の鏡神社は息長足姫命(一ノ宮)と藤原広嗣(二ノ宮)を祭神とするが、二ノ宮は広嗣が当地で処刑された10年後の天平勝宝二年(750年)、肥前国司に左遷された吉備真備によって創建された。それにしてもなぜ、遣唐使の祈願所であった地に、はるばる唐津からこの神社が勧請されてきたのだろうか。


唐津市の鏡神社


同、藤原広嗣を祀る二ノ宮

 隼人たちの反乱は養老四年のそれをもって終息したため、それ以後、朝廷による南九州への統制は何とか浸透し、唐から帰還する遣唐使がもし南島に漂着しても、ひとまずそこにいる住民から襲撃される恐れはなくなった。それかあらぬか、天平四年(733)に多治比広成を大使とする遣唐使が企画された時は、前回のaのように春日山で祭祀が行われた記録が『続日本紀』には見られない。

 ちなみにこの時の遣唐使は全船、無事に唐に到着し、天平六年(734)十月、帰国の途についた。広成を乗せた遣唐使船(第1船)は他の3船と供に唐の蘇州を出航したが、やがて「悪しき風たちまち起りて彼此相失う」という事態に見舞われた後、種子島に漂着する。
 その後、この船の乗組員は翌年の三月には平城京に到着しているが、彼らの中には吉備真備や玄といった後の政界の有力者もいたほか、唐から招来した莫大な量の書籍・文物も携えていたため、この第1船だけでもわが国の政治文化に与えた影響はそうとうに大きい。

 そのいっぽうで、判官の平群広成が指揮した第3船は悲惨だった。崑崙国まで流され、原住民の襲撃や疫病により、広成ら4名を除き115名いた乗組員が全滅しているのである。第1船とは明暗を分けた格好だが、もしも隼人たちが朝廷に帰順していなければ、彼らの勢力圏に漂着した第1船もまた同じような運命をたどったかもしれない。

 いずれにせよ、この頃の遣唐使にとって、南九州の隼人たちはそれほど恐るべき存在ではなかったと言えるだろう。だがその後、遣唐使と朝廷は、隼人たちとの関係でもう一度、危機を迎えるのである。その原因を作ったのが藤原広嗣であった。

 藤原広嗣は不比等の生んだ藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)のうち、式家の開祖である藤原宇合(ふじわらのうまかい)の長子であった。天皇家との縁戚関係から、聖武帝の朝において圧倒的な権勢を誇っていた四兄弟の1人を親に持つため、普通であれば広嗣もまた、政権内での栄達が約束されていただろう。しかし天平九年、順調であったはずの彼の人生は暗礁に乗り上げる。当時、流行していた天然痘によって四兄弟が相次いで倒れたのである。後ろ盾を失ったことと、反藤原勢力の台頭により天平十年、彼は大宰少弐に左遷されてしまう。


広嗣が左遷された太宰府政庁跡

 この左遷を不服とした広嗣は政界から吉備真備(きびのまきび)と玄(げんぽう)を除くよう、任地の北九州から朝廷に上奏する。これに対し聖武天皇は広嗣を召喚しようとするが、彼は従わず、天平十二年(740)、弟の綱手とともに反乱を起こす。藤原広嗣の乱である。朝廷は鎮圧のため、大野東人を大将軍とする追討軍を直ちに派兵した。

 両軍の決戦は北九州市内を流れる板櫃川を挟んで行われたが、広嗣の軍勢の中には多くの隼人たちがおり、広嗣は自ら先鋒をつとめて彼らを率いていた。いっぽう朝廷は派兵にあたって畿内にいた24名の隼人を御所に召し、位を授け、その官位に当たる色の服を賜与して発遣する。川を挟んで両軍がにらみ合っている時、この朝廷から送り込まれてきた隼人たちが広嗣軍にいる同胞に投降を呼びかけた。その内容は、「逆人広嗣に随いて官軍を拒棹フセぐ者は、直にその身を滅ぼすのみに非ず、罪は祭祀親族に及ばん。」というものだった。


広嗣軍と政府軍が対峙した板櫃川古戦場
北九州市小倉北区にある到津八幡宮ふきんの板櫃川が伝承地


同上

 それまで、大宰少弐だった広嗣からの命を、朝廷からのそれと信じていた反乱軍の隼人たちは、当然のことながら自分たちが官軍の側についていると信じていた。ところが、敵軍から聞こえる同胞の言葉によって、自分たちが騙されて逆賊の側についていたことを知らされるのである。広嗣軍にいた隼人たちは動揺し、相次いで戦列を離れはじめる。そしてこれが転機となり、広嗣はこの決戦に大敗した。敗走した彼はやがて肥前国松浦郡で捕らえられ、綱手と共に唐津で処刑される。

 この反乱のきっかけとなった広嗣から朝廷への上奏文には、政界から吉備真備と玄を除くようにあることはすでに述べた。いっぱんにこの2人は当て馬にすぎず、上奏分の本当の目的は反藤原氏勢力の領袖であった右大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)を攻撃することにあったと考えられているが、2人が遣唐使であったことも見逃せない。地方の下級役人の出身でありながら、藤原氏の勢力が後退した後の政界で彼らがニューリーダーになれたのも、この経歴のおかげだったのはずである。したがいこの上奏文には、中央貴族出身である広嗣の、遣唐使に対するルサンチマンが滲んで見える。

 また、南九州の隼人たちを手兵に納め、かつ遣唐使に対してこのような反感を抱く者が九州で反乱を起こしたのだから、これが鎮圧されなかったら遣唐使の派遣にとって大きな障害となったことは間違いない。一時的なものとはいえ、これが隼人たちとの関係をめぐる遣唐使の新たな危機であった。と同時におそらくこれが、遣唐使たちによる春日山の祭祀と隼人たちを結びつけるもう一つの契機になったのではないか。

 

孤独な場所で(7)」につづく

 

 

 


孤独な場所で(5)【赤の部族】

2012年10月25日 23時53分17秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(4)」のつづき

 唐から帰還する遣唐使船にとって、種子島や屋久島をはじめとする九州島南部の島々は、万一、漂流したときの救いとなる安全ネットであった。おそらくこのためだろう、朝廷は文武二年(698)に覓国使を南島に派遣している。

 「覓国使(くにまぎし)」=「国をもとめる使い」は現地調査団にようなもので、漂流した遣唐使がたどりついた場合に備え、南島の位置関係や上陸したときに飲料水が確保できる地点などの調査にあたったらしい。だが、『続日本紀』によると朝廷は出発する彼らに、身を守るための武器を支給したという。当初からこの任務は危険なものと予感されていたことがわかる。

 その予感は的中した。2年後の文武四年(700)に、「薩末の比売、久売、波豆、衣評督衣君縣、助督衣君弖自美、また肝衝難波」等が、肥の国の兵らを従えて覓国使の「刑部真木」等を「剽却」したため、朝廷がこれに対して犯罪と同じような処分を行った記事があるのだ。

 「剽却(ひょうきゃく)」は宇治谷孟の現代語訳では、物品を脅し取ることの意にとっているが、いずれにせよ、ここに見られる「薩末の比売」をはじめとした者たちは在地の隼人たちの首長層であったと考えられる。この事件の背景には、朝廷によって強化される支配に対し、彼らが危機感を強めていたことがうかがえるが、だからといって政府としては、遣唐使船が隼人たちの勢力圏に漂着した際、その安全が保障できないことになるので、こうした事態をそのまま見過すことはできなかったはずだ。

 そのためもあってか、緊張の高まりにもかかわらず、朝廷は隼人たちの統制を強化し、それに反発する彼らは以後、たびたび反乱を起こすことになる。すなわち、それぞれ大宝二年、和銅六年、養老四年の反乱である。特に養老四年のそれは、隼人たちが大隅国守の陽侯史麻呂を殺害するという衝撃的なもので、朝廷はただちに大軍を派兵してこれを鎮圧したが、たいへんな苦戦を強いられた。しかしこれ以後、大きな隼人の反乱は見られなくなる

霧島市隼人町にある比売城の岩山
政府軍に対し徹底抗戦した隼人たちは
ここに立てこもって最後まで戦った

 隼人たちの反乱を年代順に並べてみる。

  1.文武四年(700) 薩末の比売等が覓国使を剽却する。
  2.大宝二年(701) 薩摩、種子島の隼人たちが命に背く
  3.和銅六年(713) 大伴宿禰安麻呂が大将軍に任ぜられ、乱後に受勲(経過は不詳)
  4.養老四年(720) 隼人反きて、大隅国守陽侯史麻呂を殺せり

 いっぽう、遣唐使たちが春日山のふもとで航海安全を祈願した祭祀はこうである。

  a.養老元年(717) 遣唐使が神祇を盖山(みかさやま)の南に祠る。
  b.天平勝宝三年(751)遣唐使が春日にて神を祀る(『万葉集』4241の注)。
  c.宝亀八年(777) 遣唐使が天神地祗を春日山(=御蓋山)の下に拝した。

 1~4とa~cを比較すると、aは3と4の中間に位置し、隼人たちとの緊張がまだ解けない時期にこの祭祀がはじまったことを示している。

 当時の遣唐使たちはどんな気持ちでaに参加しただろうか。唐への渡海が危険であることは覚悟の上だろうが、帰途において領国であるはずの南九州に漂着した場合も、下手をすると原住民から危害が加えられるかもしれないとなると、「せめてそれだけは何とかしてくれ。」という気持ちが強かったのではないか。また、遣唐使を唐に派遣する政府としても、南九州の隼人たちの統制が難航する中で、せめて神頼みの世界だけは彼らをこの事業に協力させたいと望んだのではないか。そしてそう考えてくると、都にいて皇居の守護などにあたっていた隼人たちを朝廷が動員し、その強い呪能によって海難から遣唐使船を守らしめるようこの祭祀にあたらせたのではないか、という疑いが生じる。

 その場合、2つの契機が両者の結びつきを強めた可能性がある。藤原広嗣と赤い土だ。

 まず後者から説明する。

 本館のほうの「赤い土の地母神【遣唐使と鏡神社】」で述べたように、私はかつてふきんに残る伝承などから、奈良市高畑町にある鏡神社こそ、春日山の南麓で遣唐使たちが航海の安全を祈願した祭祀の、遺存の社であると考えた。


奈良市高畑町の鏡神社

 また同じく「赤い土の地母神【赤い浪の威力】」と「赤い土の地母神【空海という回路】」では、こうした祭祀が高畑町きんぺんで行われたのは、この地に露頭する赤い土にマジカルな威力がもとめられたためだと論考した。わが国の古代には『播磨国風土記』逸文の「尓保都比売命」の伝承によく現れているように、赤色の呪力によって邪気を祓い、航海の安全を保障するような魔術が行われていたのである。


南都鏡神社と同じ高畑町内にある赤穂神社

「赤穂」は「丹生」と同じく赤っぽい粘土質の土のことで、
高畑町きんぺんには酸化鉄を含んだ褐色土の露頭がみられ、
ふきんには「丹坂町」の地名もある
赤穂神社は大和国添上郡の式内社

 破邪のための赤色魔術は隼人たちも行ったらしい。『延喜式』には隼人たちの装束について、耳形鬘(犬の耳の形をした鬘バン=髪飾り)は白赤木綿で作り、肩布ヒレは緋帛のものとする旨の規定がある。ちなみに「緋」は赤の中でも、とりわけ鮮やかなそれのことである。さらに、平城京跡から出土した有名な隼人の楯には、上下の鋸歯紋と中央の大きなS字渦巻によく目立つ赤が使われている等、こうして見てくると隼人たちにとって赤は特権的な色彩であったことがわかる。

 「海幸・山幸」の神話には彼らの祖である火酢芹命が弟に服従する場面で、「赭をもって掌に塗り、面に塗りて」とある。赭(そほに)は赤土のことで、ここから彼らは儀礼の際に、赤土を使って手のひらと顔面を赤く塗ったことが分かる。おそらく破邪のためだろうが、あるいは平城京にいた隼人たちが顔に塗ったのは、高畑町きんぺんの赤土だったかもしれない。隼人たちと春日山のふもとで執行された遣唐使の祭祀は、こうした赤土の呪術を介して結びつくのである。  

 
春日大社末社の椿本神社
春日大社の末社になっている椿本神社は
隼人の呪能を神格化した角振神を祀るものだが、
現地に行くと赤色の幣帛を奉納する風習が見られる


アップ
扉の前に並んでいるミニ幣帛を買って、足許に供える


足許アップ
祠の足許には供えられた赤い幣帛がびっしり並ぶ

この風習がいつ頃から始まったかは不明だが、
隼人たちと赤色呪術の関係を思わすものがある

 

孤独な場所で(6)」につづく

 

 

 


電線

2012年10月16日 20時57分05秒 | 徒然

 溝口健二は時代劇のロケをしていたとき、助監督に邪魔な電柱を切り倒すよう命じて困らせたそうである。信じられないほどわがままで、撮影現場では暴君として振る舞ったことが伝説となっている監督らしいエピソードだが、気持ちはわからないでもない。というのも、私も神社の画像を撮ろうとして、いかにも邪魔くさい電柱が社殿の脇にあったりすると、同じような気持ちにかられることがあるからだ。 

 しかし、電柱だけならまだ構図を工夫すれば絵として処理できるかもしれない。問題はむしろ電線である。風景に汚い横の線を入れてゆくあの物体だけは、どうにもならないだけに許しがたい。

一例

 ところで電線と言えば、そのせいでわが国の景観はここ十数年の間に深刻なダメージを受けていることをご存じか。 

 下の画像はどこにでもある電線の様子だが、電柱に直接、架かっているのは昔からあった(電気の)電線とアナログの電話回線である。しかし、それ以外の線もここには写っている。引き延ばしたバネのような螺旋の中を通っているものがそれで、これはネットの回線類なのである。


 おそらく現在では日本全国、どこの地域でもこのような回線が張り巡らされているはずだが(気がつかなかった人は外出したときに一度、注意してみてほしい。)、ネットの回線はこうしたクルクルの中を通る上、電線と比較して低いところに架設してあるので、普段は意識しなくとも、景色を写そうとしたときなどはものすごく気になり出すこと請け合いである。 

 また、下の画像のクルクルの中には黒い保護カバーに覆われたさらに太い回線が写っているが、これはケーブルテレビのものだ。これもどこでも見かけるものだが、風景に及ぼす影響はネット回線以上に破壊的である。

 こうしたネットやケーブルテレビのインフラ整備が進んだのはここ十数年くらいのはずだか、大げさに言えば日本人が普段、接している風景の質がこんなにも短期間で悪化したのは史上はじめてではないか。リアルだヴァーチャだなどと埒もない話に入れあげている間に、現実世界が本当にネットに浸食されていたというのは皮肉というしかない。しかもその割には今でもこの問題が大きく取り上げられている様子はないし、意外な盲点ではないだろうか。


金鑚神社の社頭風景

金鑚神社は武蔵国児玉郡の式内大社だが、
当社は大和の大神神社と同じで本殿なく、
社地背後の三室ヶ嶽を神体として祀っている

じつはこの画像のバックに写っているのがその三室ヶ嶽で、
この山の全景が綺麗に写せるアングルは多分これだけなのだが
電線の所為で酷いことになっている

しかし、ひときわ目立つクルクルの中の回線がなければ、
これも今ほど気にならなかったとおもう

 

 

 


孤独な場所で(4)【春日山と遣唐使の祭祀】

2012年10月14日 23時53分02秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(3)」のつづき

 この隼神社は社地の移動を経験しているらしく、境内の看板によると創祀の地は「春日ノ邑率川坂上」であったという。おそらく開化天皇陵の近くだろう。


開化天皇陵

市街地の中に異空間

 だが、これとは違う記事が『大和志』に見られる。「隼神祠 在南都角振町 昔在春日山号曰椿本神祠」とあって、隼神社はかつて春日山にあり、椿本神祠と称していたというのだ(ちなみにかつては隼神社じたいも椿本神社とよばれることがあったらしい。)。 

 おそらく、社地に関する伝承としてはこちらのほうが信憑性が高いだろう。というのも、春日山は春日大社の東にある山塊であるが、現在、春日大社の本殿瑞垣の北西側に角振神を祀った椿本神社という小祠があるからである。おそらく、かつての隼神社が春日山に鎮座していたからこそ、遷座後もそのつながりからこの小祠が祀られているのではないか。そのいっぽう、「春日ノ邑率川坂上」にあったという伝承は、『元要記』にかつて隼神社の前には率川神社の鳥居が立っていたという記事があるので、こうした率川神社とのつながりとか、率川神社の社地が開化天皇の皇居であったとする伝承のなかから自然発生したように思われる。


椿本神社
祭神は角振大神で、看板によるとその神徳は
「勇猛果敢な大宮の眷属神に坐し、天魔退散攘災の神様である。」


後殿御門
春日大社の末社には栗柄(くりから)神社という神社があり、
祭神は(角振神の父神である)火酢芹命である
栗柄神社は春日大社の瑞垣内にある内院末社5社中の一であり、
54社あるという末社中でも別格の扱いを受けている

看板には「門戸守護、邪霊の侵入を防ぐ攘災の神様として信仰が篤い」
とあり、上記した椿本神社のそれとよく似ているのは父神だからか

なお、内院末社は瑞垣内にあって直接、参拝できないため、
参拝は画像の後殿御門(うしろどのごもん)の前で行う

 隼神社が春日山に鎮座していたということは、隼人たちとこの山との間に何らかのつながりがあったという疑いを抱かせる。だが、南九州に故郷をもつ彼らに、南都の東にそびえる春日山と直接的なつながりがあったとは思えない。おそらく、両者の結びつきは何かを介したものであろう。そしてその何かとは遣唐使の祭祀だったと考える。 

  『続日本紀』等には渡航前の遣唐使たちが春日山しゅうへんで祭祀を行った記事が見られる。 

 『続日本紀』養老元年(717)二月一日の条には、「遣唐使が神祇を盖山(みかさやま)の南に祠る。」とある。盖山は現在、御蓋山と表記され、春日大社の東にある神体山であり、この山の背後に楯のように連なる山塊が春日山である(下の画像を参照)。


三笠山と春日山
中央にある笠を伏せたような三角形の山が御蓋山
そのバックに連なっている台形状の山塊が春日山

 『万葉集』巻十九には、天平勝宝三年(751)に遣唐大使に任命された藤原清河に光明皇后が賜った「大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち(4241)」という歌が収められているが、その注には「春日にて神を祀る日に、藤原太后(光明皇后)の作らす歌一首」とある。 

 さらに『続日本紀』宝亀八年(777)二月六日の条には「遣唐使が天神地祗を春日山の下に拝した。」という記事もある。そこには続けて、「去年、風調トトノはずして、渡海することを得ず、使人復頻マタシキりに以て相替る、是に到りて、副使小野朝臣石根重ねて祭祀を脩するなり。」とあるので、前年にも同じような祭祀が行われたらしい。

 ここでちょっと、奈良朝の遣唐使について説明する。 

 唐の律令を全面的に取り入れた大宝律令の施行や、長安を手本にした平城京の造営が象徴するように、当時のわが国にあって唐の政治・文化の吸収は政策上、最大の課題であった。遣唐使はこのために、唐に渡って様々な分野の知識を持ち帰るために派遣されたのであり、はたんなる親善使節ではなく、当時の日本が国家の命運をかけて行っていた大事業だった。

 しかしそのいっぽうで当時の航海・造船技術では、遣唐使が大陸まで行ってまた無事に帰ってこられる確率は必ずしも高くなかった。遣唐使の一団に選ばれた者たちの中には、帰朝してから各界で栄達を遂げた者が多かったが、その影には海の藻屑と消え去った者らも少なからずいたのである。

 しかも倭国・百済連合軍が白村江の戦いに敗れ、新羅との関係が緊張するようになると、もっとも着実に唐へ渡れる北回りルート(北九州から壱岐・対馬を経て、半島の西岸を伝わりながら中国の港に到着するルート)は避けられるようになってしまう。このため、五島列島から東に船出し、一気に海を渡って唐の海岸線にたどり着く南回りルートが採用されるようになったが、このルートは往路と比較して復路に問題があった。すなわち、日本から唐に向かうときは多少、航路が逸れても長大な唐の海岸線のどこかにたどり着ける可能性が高いが、唐から日本に帰るときは、目標となる九州島西部の海岸線は長くないのでそうはいかないのだ。


ふぜん河
五島列島には遣唐使にちなんだ遺跡が少なくない
画像は福江島の「ふぜん河」
海岸にちかい岩盤からわき出す清水で、
遣唐使船に乗せる水として使われたという

 しかもそれに輪をかけて問題があった。九州の南部には隼人たちの国があり、彼らは朝廷に帰順していなかったのである。したがって、せっかく遣唐使が南九州までたどり着いても、そこにいる彼らによって害される恐れがあった。

 

孤独な場所で(5)」につづく

 

 

 


孤独な場所で(3)【角振明神】

2012年10月03日 07時49分46秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(2)」のつづき

 ただし、隼人たちの月神の場合、そうした神婚儀礼は当然、月の出る夜間に行われたと思われる。就中それは、煌々と月がさえ渡る満月の夜ではなかったか。あたかも、現在でも隼人たちの故郷であった南九州には、十五夜満月の下で相撲を取ったり綱引きをしたりする習俗が残っているように。

『日本書紀』天武十一年七月条に、大隅隼人と阿多隼人が
朝廷で相撲をとった記事があるなど、
古くから隼人たちは相撲と関係ぶかい

画像は鹿児島県鹿屋市串良町有里の月読神社境内で見かけた土俵

 またその神婚も、神霊の憑依した樹木の映像ではなく、月のイメージを映した水面に巫女が入ることで達成されたかもしれない。 

 そう考えた私は、どこか満月の夜に若い娘が入水したというような伝承が残っている土地はないか、と捜してみた。そしてその結果、ゆき当たったのが冒頭で紹介した猿沢の池に身を投げた采女の悲話だったのである。すでに述べたとおり、彼女が身を投げたのは中秋の名月の晩であり、その霊を慰める采女祭もその日の晩に行われるからである。


采女祭(2006年)


同上


上空の満月

 そこで、この采女の伝承が、隼人たちによって行われた月神との神婚儀礼の記憶を伝えている可能性はないか検討してみた。

 

猿沢池の東畔には入水前の采女が衣類を掛けたという柳がある
(何代目のものだろうか) 

こうしたモチーフは白鳥処女説話(羽衣説話)を連想させ、
采女の伝説の基底に、
別の古いタイプの神話が眠っている可能性を思わせる

 まず、采女が入水した当時の平城京に、彼らが存在していなければならない。が、この条件はクリアできる。というのも、養老令などに衛門府に属する隼人司に彼らを出仕させる旨の規定があり、また実際に平城京跡からは彼らが儀式に使用していたエキゾチックなデザインの楯が発見されているので、当時の奈良に隼人たちがいたのは確実だからだ。 

 しかし、では何故、朝廷によって故郷から引き離された隼人たちの神婚儀礼が、異郷である奈良の地で行われたのか、── この問題は後で考えるとして、まず采女の伝承に隼人たちによる月神との神婚儀礼が関係していたとすれば、猿沢池のしゅうへんに彼らと関係のある古社が残されていないだろうか、── そう思って捜したところ直ちに、采女神社から西に200m程しか離れていない場所で隼(はやぶさ)神社という神社が見つかった。


隼神社
Mapion


神体の柿の木

当社は治承四年に平家の焼き討ちに遭ったため、
それ以来、社殿なく柿の木を神体としている
柳の木が神体だったこともあるという

当社はふだん、入り口の門が閉まっていて中に入れない
采女神社もそうだが、奈良市内にこうした神社が多いのは
鹿を入れないためだろうか

 隼神社は通称を「角振(つのふり)明神」とか「角振隼明神」という。現在の鎮座地は角振新屋町だが、これは地名に社名が転移したものだろう。江戸時代中期に村井古道によって著された『奈良坊目拙解』には「角振神は火酢芹命の御子で、隼神は父である。父子二座をまつる」旨の記事があり、祭神を火酢芹命(父)と角振神(子)の二座としている。前者は隼人の祖神であり、『海幸・山幸』の神話に登場した海幸のことである。社名の「隼」も、「隼人」からきたものだろう。

 なお、当社の祭神には文献によって多少のぶれがあるので、下にそれをまとめてみた(以下、よほどのマニアでなければ、読まずに飛ばしてもらってかまわない。)
    
  『奈良坊目拙解』に「火酢芹命」と「角振神」の二座とする旨の記述があることは上述の通りだが、『奈良市史 社寺編』はこれを引用するものの(p180)、祭神は「隼総別命」一座のみとしている。『奈良県史5神社編』は「火酢芹命・隼総別命」の二座、境内にある由緒書の看板には「角振隼総別命」とだけある(ただしこの看板は風化している上、当社の境内は柵がしてあり、近寄って読むことが出来ないため、判読が困難だが)。なお、平成祭りデータで「隼神社」の検索をかけても当社のことはヒットしない。春日大社の摂社でもなく、旧無格社らしいので単立社かもしれない。
    
  ちなみに隼総別命(はやぶさわけのみこと)という神名は、仁徳天皇の異母弟であった速総別王(はやぶさわけのおおきみ)とよく似ている。両者の混同から生じたものではないか。

 この奈良にある隼神社じたいは式内社ではないが、神名帳の京中三座のうちには「隼神社」の名前が見えている。こちらのほうの隼神社は現在、中京区壬生梛ノ宮町に、元祇園とされる梛神社と並んで鎮座しているが、都が京都に遷った際、一緒に奈良から遷座したものと言われている。つまり、この猿沢池の近くにある隼神社は京都にある同名式内社の元宮だったことになるのだ。現在ではポケット・パークのような境内になってしまっているが、非常に由緒の古い神社なのである。ちなみに、境内にかかっている読みにくい由緒書の看板には、舒明天皇の代に創建されたとある。


京都市中京区の隼神社

元祇園として知られる梛神社(左側に写っている社殿)の境内社となっている

 隼神社の祭神、角振神については次のような伝承がある。 

 『多聞院日記』天文12年(1543年)7月1日条によると、ある時、天皇が禁裏で受戒しようとすると、白昼にもかかわらず多くの天狗が出現し、異類異形のモノどももやって来た。そこで天皇が、今日の禁裏の番をする神は誰かと問うと、「角振の神です。」と答える声がして、この神が浄衣をハリハリとさせながら出仕する音が聞こえたかと思うと、天魔たちはあまねく消滅したという。 

 「また、延慶2年(1309年)の『春日権現記絵』第4巻「天狗参入東三条殿事」には、関白・藤原忠実の東三条邸に忍び込んだ天狗法師を、角振明神の霊威によって追い払う話が見られ、その終わり部分に以下の記載がある。 …その御聲につきて春日大社神主時盛まいりて候けり、これをみて天狗法師どもみなにげうせにけり、つのふり、はやぶさの明神は春日御にて、御社におわします也。」
 ・ウィキペディア「角振隼総明神」の項からコピペ 

 こうした伝承は『古事記』で、天皇家の祖であるヒコホホデミノ尊によって降参させられた火酢芹命が「僕は今より以後は、汝命の昼夜の守護人と為りて仕え奉らむ」と誓った記事、あるいは『日本書紀』で「諸の隼人等、今に至るまでに天皇の宮墻ミカキの傍を離れずして、代ヨヨに狗イヌして奉事る者なり」とあるそれ、さらに律令制時代の隼人たちが衛門府に属し、「吠声」を発することによって皇居を災いや妖魔から呪的に守る任務についていたことを連想させる。角振神とは、こうした天皇の居住空間を守護する隼人たちの呪能を神格化したものらしい。

 

孤独な場所で(4)」につづく