神社の世紀

 神社空間のブログ

霧につつまれたハリネズミ【多久神社(島根県出雲市多久谷町)】

2011年08月15日 00時30分02秒 | 出雲の神がみ

「神奈樋山。郡役所の東北六里百六十歩。高さ百二十丈五尺、周り二十一歩。峯の西に石神がある。高さ一丈。周り一丈。道の傍に小さい石神が百余りある。古老が伝えて言うことには、阿遅須枳高日子命(あぢすきたかひこのみこと)の后の天御梶日女命(あめのみかぢひめのみこと)が、多宮(たく)の村までいらっしゃって、多伎都比古命(たきつひこのみこと)をお産みになった。そのときお腹の中のこどもに教えておっしゃったことには、「おまえのお母様が今まさに生もうとお思いになるが、ここがちょうどよい。」とおっしゃった。いわゆる石神は、これこそ多伎都比古命の御依代だ。日照りのときに雨乞いをすると、必ず雨を降らせてくれるのだ。」
 ・『出雲国風土記』 萩原千鶴現代語訳 講談社学術文庫p176~177

 これは『出雲国風土記』楯縫郡条にある神奈樋山の記事である。この山は出雲市多久谷町の大船山に比定されており、その麓に鎮座している式内社の多久神社では、多伎都比古命と天御梶日女命が祀られている。

多久神社
『延喜式』神名帳 出雲国楯縫郡の小社

多久神社本殿

社頭の様子

 風土記の記事にある「石神」は長い間、所在が失われていたが、昭和36年頃に再発見された。大船山々頂から北西の支脈にある烏帽子岩がそれである。位置や大きさが風土記の記述と合っていたこともあるが、ふきんから古墳時代前期の祭祀用の土器が見つかったことが決め手となったようだ。これに伴い、大船山も風土記の神奈樋山であることが確実となった。つまり楯縫郡の神奈樋山は、石神が発見されたことではじめて特定できたのである。このことは意義深い。

  「かむなび(神奈備)」とは神が籠もる山や森林などのことである。同風土記には大船山以外にも意宇郡、秋鹿郡、出雲郡に「かむなび山(神名火山、神奈樋野)」の記事があり、それぞれ松江市の茶臼山、同市の朝日山、斐川町の仏経山に比定されている。いずれも周辺の平野部にそびえ、ランドマークとなるような山で、その地域で生活していた古代人から信仰を集めるようになったのも、自然な成り行きであったことを感じさす。

茶臼山
『出雲国風土記』意宇郡の神奈樋野に比定される

朝日山
『出雲国風土記』秋鹿郡の神名火山に比定される

 これに対し大船山は、宍道湖に面した平野から眺めると周辺の山塊に埋没してしまってあまり目立たない。この山は多久谷をさかのぼって初めて顕著な山容を見せるのである。その姿を目にできる範囲は限られてくるので、ランドマークと呼ばれるにはふさわしくない。こうした他の3つの「かむなび山」と大船山の違いは何を意味するのだろうか。思うに大船山においては石神への信仰のほうが一次的なもので、山への信仰は二次的であったのではないか。つまり、石神があったからこそ大船山は「かむなび山」として信仰を受けるようになったのであり、その逆ではないのである。また、そう考えると風土記の石神に比定される烏帽子岩のことがますます重要に感じられてくる。

大船山

大船山がこのように秀麗なフォルムを見せるのは
多久谷町のある谷間をある程度、
奥に入った場所で眺めたときだけである

 なお、『出雲国風土記』には山や河川、島などのデータが郡ごとに列挙されているが、意宇郡以外の「かむなび山」はいずれもその記載順序が筆頭である。ここから出雲の「かむなび山」とはたんなる特定の神社の神体山というに留まらず、その山のある郡の地霊そのものが鎮まるスケールの大きな存在であったことがうかがえる。

 

 

 大船山では祭祀用の土器が3箇所から見つかっている。一つは石神に比定される烏帽子岩周辺で、他の二つは「長滑らの滝」という小さな滝の近くである。風土記によれば、石神は多伎都比古命の依代であるというが、この滝からは烏帽子岩が見えるという。おそらく神名、「たきつひこのみこと」に含まれる「たき」とは長滑らの滝のことで、この神はその神格化なのだろう。

 風土記の記事には、石神は日照りのときに雨乞いをすると必ず雨を降らせてくれたとあり、多伎都比古命は祈雨神として信仰されている。大和国高市郡にはウス滝と呼ばれる滝を神格化して祀る飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社という式内社があり、皇極女帝が祈雨をした場所の有力候補となっている。同種の信仰だろう。

 なお、発見された土器片は烏帽子岩周辺で見つかったものは古墳時代前期のものであるのに対し、長滑らの滝周辺で見つかったものはやや新しく同中期~後期頃とみられるという。石神への祭祀のほうが、滝へのそれより先行していたようだ。

 

 

 天御梶日女命(あめのみかぢひめのみこと)については別の場所で改めて書くことにして、その夫神で多伎都比古命の父神でもある阿遅須枳高日子命について触れておく。『古事記』にはこの神、アヂスキタカヒコネ神(アヂシキタカヒコネ神)は、その親友で返し矢によって死んだアメノワカヒコの喪屋を弔問した際、容姿が似ていたので親族からアメノワカヒコと勘違いされ、これに立腹して持っていた剣で喪屋を切り伏せ足で蹴り放った伝承がある(『日本書紀』にも類話がある。)。

 『出雲国風土記』仁多郡三沢郷には、アヂスキタカヒコネ神が髭が長く伸びるようになってからも昼夜、泣き止まず、言葉も発しなかった、親神のオオオクニヌシ神が船に乗せて八十島を巡って楽しませようとしたが、それでも口をきかなかった、やがてオオオクニヌシ神の夢でアヂスキタカヒコネ神が口をきいたので、翌朝、子神に尋ねると「御沢」と答えた、その場所を尋ね当てると水が湧き出たのでみそぎした、今でも国造が『出雲国造神賀詞』奏上のために朝廷に参向する際はここでみそぎする、という話を載せる。

三澤神社
『延喜式』神名帳 出雲国仁多郡の式内小社
アヂスキタカヒコネ神(阿遅須枳高日子命)を祀り、
『出雲国風土記』仁多郡三沢郷の記事との関係をうかがわす
ふきんには風土記に登場した三澤の池もある

三澤の池

 成人してからも泣きやまず、言葉も発しないというと記紀にある垂仁天皇の御子であったホムチワケの説話が連想される。おそらく出雲地方に伝わっていたアヂスキタカヒコネ神の伝承が皇室神話に取り入れられ、ホムチワケ説話が成立したのだろう。
 なお、同神門郡高岸郷にもアヂスキタカヒコネ神がひどく泣くので高床式の建物を造り、そこに立てた梯子を上り下りさせて養育した記事がある。

 

 

 神奈樋山の石神の記事で、多伎都比古命を出産する天御梶日女命は「汝の命の御祖の向位に生まむと欲ほすに、此処し宣し」と言っている。

 この部分の解釈は「向位」が難解なので諸説ある。例えば「向位」を「尚泣(~のごとく泣く)」の誤写とみて、「おまえの父(のアヂスキタカヒコネ神)のように泣きなさい。」とする説もある。うまい解決だとは思うが、仁多郡三沢郷や神門郡高岸郷の原文でアヂスキタカヒコネ神は「哭」いているにもかかわらず、ここでだけ「泣」いたとするのが気になる。

 最初に引用した萩原法子の現代語訳では主語の「御祖」を天御梶日女命のことと捉え、「おまえのお母様が今まさに生もうとお思いになるが、ここがちょうどよい。」としている(「御祖ミオヤ」は父と母いずれにも解釈できる。)。しかし文脈から言って、この「御祖」を出産しようとする天御梶日女命本人とするのは無理があるだろう。これはやはり父神のアヂスキタカヒコネ神とするべきだと思う。

 個人的には「おまえの父の位(鎮座している場所)と向き合って生もうと思うが、ここがちょうど良い場所だ。」とするのに惹かれる。もっとも、そのままでは意味が取りがたいが、『出雲国風土記 フシギ発見の旅ガイドブック』(ザ・出雲研究会編)によると、石神からは神門郡高岸郷の比定地である出雲市天神町がよく見えると言う。

 さっき紹介したとおり、高岸郷には泣き止まないアヂスキタカヒコネ神を喜ばすために上り下りさせた高い梯子のある高床式の建物があったと『出雲国風土記』にある。
 おそらくこの建物は同神を祀る神殿で、古代の出雲大社本殿と同じく、柱によって空中に高く持ち上げられ、そこに登る高い梯子もついた壮大な建造物だったのではないか。大船山から高岸郷までは約20km離れているが、もしかすると石神のある場所からもそれが望めたのかもしれない。

 石神を訪れたときはこうしたことを確認したかったのだが、生憎、霧のせいでかなわなかった。濃霧の中で蔦状の植物におおわれた石神は、なんだかロシアのノルシュテインの『霧につつまれたハリネズミ』という切り絵アニメに登場した主人公のハリネズミみたいで、妙にいじらしく感じられた。

大船山の烏帽子岩、風土記の石神に比定される
ふきんからは古墳時代前期の祭祀用の土器がみつかっている

烏帽子岩周辺の山腹には大小多くの岩が見られ、
風土記の「道の傍に小さい石神が百余りある。」の記述を思わせる

『霧につつまれたハリネズミ』ユーチューブの視聴ページ ↓

http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=6wOvaq8RqQA


 

 

多久神社

 

島根県出雲市多久谷町274番地
Mapion

 『延喜式』神名帳 出雲国楯縫郡に登載のある小社に比定される
 祭神は風土記に登場した多伎都彦命と天御梶姫命で、猿田彦命と鈿女命を合祀する。後者は明治三十九年に合祀されるまで、ふきんに鎮座していた拝田神社で祀られていた。

 現・多久神社が式内・多久神社であったかどうかは明らかでない。
 『日本の神々』の藪信男は次のように書いている。
「多久神社は、江戸時代の諸書によって多久村の大慶寺境内の大船大明神に比定され、結局、この大船大明神が現在の多久神社のもととなる。大慶寺は現社地の南方一.七キロの山裾「寺谷」にある日蓮宗の巨刹で、寺伝によると、十六世紀中頃に有名な「鍋冠ナベカブリの日親」が創建したものという。江戸自体の比定が正しいか否かは確かめようがないが、風土記の伝承から多久神社が古代の神奈樋山とその巨石への信仰に結びつくものと推定され、しかも多久神社の有力な候補が他にない以上、「大船」の名を冠するこの神社を多久神社の後身としたのはあながち無理な考証とはいえまい。むしろ神仏習合という背景を考えるなら、この地方の名社であるゆえに新興の大寺院に鎮守として取りこまれた可能性は充分に考えられるであろう。」
 ・『日本の神々 7 山陰』p85

 この大船大明神については、現在もこの地に住む松本一族の祖先が天命六年に書き残した古文書に次のような伝承が書き記されているという。「当明神は近江国に出現され、その後近江国松本村からわれわれの祖先が船でお供をして当村に勧請した。その船は今、岩となって大船山に残っている。」

 近世までの当社は大慶寺が祭祀等の全てをとりしきっていたが、明治四年に社名を多久神社と改め郷社に列してからは、大慶寺境内から現社地に遷座し今に至っている。

 秋の例大祭では「簓ササラ神事(簓舞)」が奉納される。これは前記の松本氏一族の祖先が近江から伝えた田楽の一種で、世襲により一族の子孫によって舞われる。昭和四十九年、島根県より無形文化財指定。