★「名前の大胆すぎる式内社はとても巨岩好き(2)」のつづき
それはともかく、この高蔵山の山頂にあった神社には、何故かとても惹かれるものを感じる。この山に登って旧社地を尋ね当てたい、── が、高蔵山は現在、北半分が航空自衛隊の基地になっていて、山頂近くまでだいぶ地形が改変されている。このため、半ばは旧社地の探索を諦めていたのだが、2011年8月8日にMURY氏が主催する『岩石祭祀学提唱地』サイトの掲示板で、チェリー氏という方が「高蔵神社(その1)」「高蔵神社(その2)」という記事を書き込み、そこに旧社地へのルートが入った地図などを載せていたのである。そこには山頂にある磐座の画像までアップされており、これがかなり顕著な巨岩であることにも驚かされた。直ちに行きたいと思ったが、実際にはバタバタと業務が忙しく、また秋に行ったときは茸のシーズンで山頂ふきんは入山禁止にされていたりしたため、結局、翌年の春にやっと探訪できた。しかし期待に違わぬ見事な磐座に出会えたのである。
高蔵神社旧社地は山頂からやや西にさがった地点である(そこまでのルートの説明は、前述の掲示板にあるチェリー氏の記事にゆずる。)。
山とは言っても高蔵山の標高はわずか194mなので、五社大明神社の駐車場に車を駐めてから歩いたとしても、せいぜい3~40分くらいでこの旧社地にたどり着いてしまう。
社号標
旧社地の近くには黒い石でできた社号標があり、昭和3年11月の年紀がある。昭和年3年というと、もう高蔵神社は五社大明神社に合祀されていたはずだが、それにしてはずいぶん立派なものだ。合祀されてからも、この場所に対する信仰が根強く残っていたことを感じさせる。
高蔵神社の旧社地に残された小祠
やがて小祠の残された旧社地に到着。こんな山の上だが、社地のふきんは結構、綺麗にしてある。定期的に人の手が入って管理されているらしい。
同上
ふんいきあります
同上
立ち枯れした杉の肌が印象的
社殿の背後に磐座が見える
位置関係からいって、かつての神体であったことは間違いない
高蔵神社旧社地の磐座
堂々たる存在感
式内社クラスの古社が祀っていてもおかしくない磐座である
同上
同上
祭壇のようなフォルム
同上
山を登る途中、こんな不自然な岩の露頭は他になかった
人為的に搬入されたものではないか
同上
破壊された古墳の石室ではないかとも疑ったが
現状ではどう見てもそうは思えない
同上
同上
同上
この隙間が夏至とか冬至の日の出ラインと重なれば、
古代人による太陽の観測装置とか言い出す人、きっといるだろうな
すぐ裏手には自衛隊基地が迫っている
どきどきフェンスの向こうを自衛官を乗せたジープが通過していた
これほど顕著な磐座祭祀がみとめられる以上、高蔵神社が古社であったのは間違いない。
そのいっぽうで次のような興味深いことにもこの探訪で出会った。
高蔵神社旧社地への参道を登る途中、「御来迎の碑」というものがあり、その由来を説明した高蔵地区コミュニティ推進協議会の立てた看板に次のようにあった。すなわち、承平三年(933)、比叡山の僧侶であった智蔵は諸国巡回の旅の途中、山紫水明のこの地に仏法興隆の兆しありと観相し、ある日の夜半すぎ、高蔵山に踏み入って静かに座禅を組み、瞑想していた。やがて微かな光が浮き出てきて七色に光り輝き、東の空が瑠璃色に澄み渡ってみ仏が出現し、自分は薬師如来で人々を救うために再び現れると智蔵に告げたという。「僧正は禅定から覚め、東の空に向かって静かに合掌なされていると、山の背から赤々と朝日が昇ってきた。その日はちょうど春の彼岸のお中日のことでありました。今、薬師如来様は灯明山高蔵寺境内の薬師堂に祀られています。」(カッコ内原文)。
御来迎の碑
高蔵地区コミュニティ推進協議会の看板
高蔵神社の横にあった石仏
高蔵山に入って瞑想する智蔵の姿を彫ったもの?
この伝承は高蔵寺の開基伝承の姿を借りているが、この寺院の創立される前から高蔵山で春分の日に昇る太陽の祭祀が行われていたことを暗示しているのではないか(彼岸の中日は春分の日のこと)。その場合、そのような太陽の祭祀を行っていたのが、高蔵神社であった可能性は非常に高い。そういえば天照大神高座神社も、大和岩雄が『天照大神と前方後円墳の謎』で春・秋分の日の出ラインとの関係を論じていた(住吉大社のある場所から見るとこの神社のある辺りから春・秋分の太陽が昇るとか)。こうしてみると、天照大神高座神社が尾張国春日部郡から遷祀された神社で、高蔵神社はその元社だったという推測はかなり良い線を行っている感触がつかめる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます