神社の世紀

 神社空間のブログ

弓をひくヘラクレス

2010年10月18日 22時02分23秒 | 日置氏、日置神社


 北関東に住んでいた頃、『常陸国風土記』の伝説の舞台となった土地を訪ねて何度も茨城まで出かけて行った。そうして現地に着くと、風土記の説話を題材にとった彫刻が置かれているのに何度か出会った。

 
鴨の宮 

 同風土記の行方郡条には、倭武(ヤマトタケル)天皇(=ヤマトタケルノ尊)が巡行した時のエピソードが多くみられる。そしてその中に、「無梶カジナシ川から郡の辺境にお着きになったとき、鴨が空を飛び渡るのが見えた。天皇が弓で射つと、鴨が弦の鳴動に応じて落ちた。これによってその地を鴨野という。」という地名起源説話がある。この説話を題材にとった彫刻は、里人が天皇を祀った鴨の宮という小さな神社の境内に置いてあった。

  
ヤマトタケルの彫刻  

 

 なかなか結構な作品だが、この彫刻はロダンの弟子だったフランスの彫刻家、ブールデルの『弓をひくヘラクレス』の影響をものすごく受けている。へラクレスが怪鳥ステュムファリデスを射るために弓をひいている場面だ。これをパクリと言うのは簡単だが、「古代の英雄が飛ぶ鳥に向かって弓をひく姿」というと、ブールデルのこの作品でイメージが完成され尽くしてしまったので、後続の作家はその呪縛から逃れられなくなっているようにも感じる。 

 
『弓をひくヘラクレス』の彫刻は国立西洋美術館の前庭にも飾ってある。

 そういえばブールデルのこの彫刻は、水谷慶一の『知られざる古代―謎の北緯34度32分をゆく』(書籍のほう)にも確か写真が掲載されていた。この本は1980年にNHKで放送された同題のドキュメンタリー番組をまとめたもので、水谷はこの番組のプロデューサーだった。番組のほうにもブールデルの彫刻が登場したかどうかは分からないが、本のほうで写真が載っていたのは古代氏族の日置氏が、弓で太陽を射る方法で日輪祭祀を行ったというようなことが書いてある箇所だったとおもう。

 「太陽を弓で射る」というと射日神話が連想される。射日神話には色々なバリエーションがあるが、堯帝の時代に十個の太陽がいっせいに出て、草木は皆焼け焦げたので弓の名人のゲイがそのうちの九個を射おとし、九個の太陽にいた九羽のカラスの羽が落ちてきたという、『淮南子』の伝承がことに有名だ。こうしてみると、同書のなかに『弓をひくヘラクレス』の写真を掲載した水谷の意図はなかなか深いものがあった気がする。

 

 

愛知県新城市 石座神社の磐座

2010年10月12日 23時01分16秒 | 磐座紀行


 石座(いわくら)神社は愛知県新城市にある式内社で(『延喜式』では三河国宝飯郡に登載)、『日本文徳天皇実録』の仁寿元年(851)に神階記事がみられるという古社である。社名からして磐座信仰の社であることは明らかだが、その磐座の具体的な場所については、雁峯山の山中にあったという伝承を残して忘却されたものと思っていた。ところが最近、読んだ愛知磐座研究会の『愛知発巨石信仰』によれば、今でも石座神社では奥の院に巨石が祀られており、あまつさえ新城市の有形民俗文化財に指定されているとあって、これには驚いた。早速、出かけてみることにする。



石座神社の社頭

石座神社



石座神社の社殿



社頭から境内にかけて見事な杉が多い 

 まず、石座神社を参拝する。当社はもともと雁峯山々頂にあったというが、たびたび野火の被害に遭うため、中古、現在の場所に遷ってきたらしい。したがって今の鎮座地は創祀の頃からのものではないが、境内には太い杉が林立し、古社の風格がただよう。社殿もなかなか立派だ。

 ちなみに、現在、神社から約1.5㎞南に離れた国道151号線(旧伊那街道)沿いに当社の社標が立っている。その辺りはかつて門前と呼ばれていたが、往古はこの門前から現社地の約4㎞北方にそびえる雁峯山までが当社の神域だったという。想像するとゾクゾクする。当社の鎮座地の大字は「大宮」だが、まさしく大宮だったのだ



門前のあたり。右手に社標。
 

 現祭神は天御中主命、市木島比賣大神、大山祇神、素盞嗚尊、天稚彦命、伊弉册命、倉稻魂命だが、ほんらいの祭神は天稚彦命のみで、他は合祀された神社で祀られていた神々だ。
 なお、特筆すべきこととして、当社の祭祀には古代氏族の大伴氏が関係していたらしい。これは注目される。






 参拝を終えて磐座に向かう。ここでほんらいなら、磐座への道順を紹介するべきかもしれないが、あえて省略。この磐座は今でも信仰の対象となっており、スピリチュアル系の人などが訪れるのを地元の方々は歓迎しない気がするのだ。

 磐座は雁峯山の中腹にある。雁峯(がんぽう)山はもと「神峯山」と書いたと言い、山ぜんたいが神聖視されていたらしい。あるいは神体山だったかもしれない。ただし山容は各地でよく見かける「平たい円錐形をした里山」という神奈備型のそれとだいぶ異なる。  



雁峯山、前景の杜が石座神社
現在、建設中の新東名高速道路が完成すると、
こうした景観はそうとう変貌するだろう。
 

 雁峯山についてちょっと書く。
 林道から入って、磐座へと登る小径のかたわらに沢があり、案内の看板に「みそぎ場」とあった。沢を覗くと水流の下に無数の砂利が見える。雁峯山は花崗岩でできた山で、山中のいたるところでこの石を見かけるが、この砂利も花崗岩が風化したものだ。この山は全山がこうした花崗岩の真砂に覆われているそうだが、これは兵庫県の六甲山系とよく似た地質だという。こういう土地に降った雨は地中にしみ込む間に真砂に磨かれて、山麓の井戸で酌まれるとものすごくおいしくなっている。六甲山系などがミネラルウォーターの産地になるのはこのためだ。ちなみに雁峯山も、山麓の井戸が新幹線で販売されるミネラルウォーターの採水地になったことがある。
 それはともかく、この山の麓には地下水位の高い地点がかなりあり、かつては湧水点がそこかしこにあった。今ではそういう場所もだいぶ少なくなったらしいが、いずれにしても当社の信仰には、水源の山としての雁峯山に対するものがあったかもしれない。



「みそぎ場」の水 

 磐座は長径8mほどのもので、横にまわると2つに割れていた。注連縄がされ、正面には簡単な拝所が設けてある。大きな動物が伏せたような形をしており、上がやや平たい。各地の磐座でよく見かけるタイプだ。岩質は今、言った花崗岩。そばには他にもいくつか大きな岩があったが、「巨石累々」という程でもない。正直に言って私は、磐座じたいよりそれをつつむ周囲の空間にひかれた。



みそぎ場の処から、廻り込むような形で… 

 この磐座のある場所は小さな尾根に載っており、東側は谷になっていて、そこにさっきのみそぎ場の沢が流れている(ちなみに、みそぎ場の処から、廻り込むような形でこの尾根に登ってゆく道の感じが個人的に好きです。ワクワクさせられます。)。磐座の周りは緩やかな傾斜のスペースになっており、祭祀を行うのに都合が良さそうだ。ふきんはそれなりに手入れされた杉の用材林で、水と緑に恵まれた自然の中に、ポッコリと箱庭のようにこの古代祭祀遺跡が浮かんでいるのだ。神さびているという感じではないが、じつに清浄である。磐座の周囲は地元の人の手によって綺麗に清掃してあり、信仰を感じさせた。帰りの車を運転しながら、ああいう場所を大切に守っている地元の方々の気持ちは本当に良くわかる、という感慨がずっと後を引いた。




「石座石」を遠巻きに眺める。



同上



同上



「石座石」



同上
以下、「石座石」を左回りに廻りながら撮影






 

 


(11)伊勢津彦捜しは神社から【伊勢命神社(4/4)】

2010年10月02日 13時53分33秒 | 伊勢津彦


 それはともかく、『式内社調査報告』には「社家の記録」として、さらに興味深い伝承が載っている。

「當社最初の御鎮座地は久見港を距る約五町許り西南方に位する字假屋の地にして、この地を特に宮地と選定したるに付ては、古老傳説あり。則ち伊勢族移住の初に當りては神社の設けなかりし如し。然るに一夜神光 海上より輝き來りて假屋の地に止りしが、その降臨夜々出現止まざりしに、偶伊勢族の一人神託を蒙りしを以て、假に一小祠を建て伊勢明神を奉齊せしより、神火の出現甫めて止たりと云ふ。之實に伊勢族が祖神を勧請して冥護を祈りし神話を傳へたるものなり。(『式内社調査報告』第二十一巻p994)」

 大略はさっき引用した『神国島根』にあるものと同じだが、ここには新たに伊勢から来た「伊勢族」なるものが登場し、伊勢命神社は移住してきた彼らによって創祀されたことになっている。

 この伝承は社名の「伊勢」に附会して作られた後世のものかもしれない。しかし、伊勢命神社の鎮座する地域で、古代に伊勢と関係の深い集団が活動していたことは、次のようなことから確かめられるのである。すなわち、正倉院文書にある天平四年(732)の『隠岐国正税帳』には、当社の鎮座する役道部(隠地郡)郡の条に、「大領外従八位上大伴部大君、少領外従八位下勲十二等磯部直万得」とあり、ここからこの郡で大領に次ぐ地位にあった人物が磯部氏であったとわかるのだ。

 磯部氏がいたことが、どうして伊勢とつながりのある集団が古代のこの地域で活動していたことになるのか?

 磯部氏は『新撰姓氏録』河内国皇別に「磯部臣。仲哀天皇の皇子、誉屋別命の後なり。」とあり、磯部を統括する伴造氏族であった。『古事記』応神天皇段には山部、山守部、伊勢部を定めたという記事があり、「伊勢部」というのは磯部のことだとおもわれる。彼らは漁業に従事する海民の集団だった。また、誉屋別命は応神天皇の兄にあたり、磯部臣がこの人物を祖とするのも、磯部(伊勢部)の設置が応神朝だったという伝承と関係するのだろう。

 それはともかく、「伊勢部」と表記されたことからも暗示されるとおり、磯部氏は伊勢地方に多くいた。佐伯有清の『新撰姓氏録の研究』によれば、孝徳天皇の時代の人である磯部直をはじめ、『伊勢国風土記』『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』『続日本紀』等に登場する伊勢にいた磯部氏はじつに25名にも上っている。これは古文献で確認できる人数としては諸国の中でもっとも多い(二番目に多い美濃国は16名)。

 また彼らのうち、『続日本紀』和銅四年(711)三月六日条に登場する磯部祖父と磯部高志は、「度相ワタライ神主」の氏姓を賜ったとある。この賜姓は言うまでもなく、彼らが外宮の禰宜であったことによるもので、ここから彼らの子孫で代々、外宮の宜官を務めた度会氏も磯部氏であったことがわかる。また、『皇太神宮儀式帳』の奥付には「大内人宇治土公磯部小継」とあり、代々「玉串大内人職」として内宮に務めた宇治土公氏もまた磯部氏であったらしい。磯部氏は在地勢力として伊勢神宮の祭祀につよくコミットしていたのだ。

  伊勢神宮は古くは磯宮と呼ばれ、祭祀に使われる神饌はそのほとんどがふきんの海士・海女たちによって貢上される魚介類(とりわけアワビ)・海藻・塩に限られた。これは、かつて伊勢の海民たちを統括していた磯部氏が、神宮の祭祀に参加していたこと抜きには考えられないことだろう。 

 古文献から分かる磯部氏の分布は、移動性に富んだ海民の習性を反映してか、かなり拡散的である(伊勢のほかに、伊賀・尾張・遠江・駿河・相模・下総・美濃・上野・越前・隠岐・讃岐に磯部氏の人名がみられ、また、『和名抄』の越前と下総には磯部郷がある。さらに北陸道諸国や近江などには「○○磯部神社」という式内社が多い。)。しかし、彼らの本慣地が伊勢であったことは間違いない。その場合、天平の頃、この氏族出身の磯部直万得が伊勢命神社が鎮座する隠岐国隠地郡の少領の務めていたことから、当時のこの地域に伊勢とつながりのある集団がいたことが明らかになる。社家の記録にある「伊勢族」も、伊勢から来た漁民と、部民として彼らを管轄していた磯部氏のことであった可能性が高い。

 藤原宮跡から出土した木棺のなかに、隠岐国知夫利郡三田里の人として「磯部真佐支」という人名がみられる。知夫利郡は隠岐諸島のうちの知夫里島のことだが、ここから当時、この島にも磯部氏がいたことがわかる。

 ところで知夫利島には、天佐志比古命神社という式内社があるのだが、「磯部真佐支」の「佐支」は、当社の祭神、「天佐志比古命」の「佐志」と何か関係があるのではないか。その場合、当社もまた伊勢命神社と同じく磯部が祭祀に関係していた可能性がある。



天佐志比古命神社

同上



天佐志比古命神社の本殿
 

 伊勢命神社の鎮座している地域には、伊勢とつながりのある集団が古代に活動していたことはこれではっきりしたとおもう。が、この神社の祭神が伊勢津彦であったことまで明らかになったとは言えない。両者を同一神とするにはさらに、磯部氏と伊勢津彦の相関性を示す必要がある。そこで今度はそのことについてみてゆこう。



伊勢命神社の本殿

  『伊勢国風土記』逸文には伊勢津彦が伊賀国の「穴志社」に坐すとある。この穴志社は『延喜式』神名帳の伊賀国阿拝郡に登載ある穴石神社のことだが、当社には論社が2つあった。しかし『伊勢津彦捜しは神社から【都美恵神社】』でも述べたが、私は三重県伊賀市柘植町にある都美恵神社のほうが、ほんらいの式内社であったと考える。そして当社が鎮座する場所は古代の阿拝郡拓殖郷だった。
 さて、天平勝宝元年(749)十一月二十一日付『伊賀国阿拝郡拓殖郷長解』には阿拝郡拓殖郷の人として、石部万麻呂、石部石村、石部果安麻呂という人名が載っており、この3名は磯部氏である(「磯部」は「石部」にも作る。)。つまり、古い文献によって伊勢津彦が祀られていたことの確かめられる唯一の神社が鎮座していた土地に、磯部氏がいたことが確認できるのである。これは重要だ。というのも、磯部氏がいた以上、彼らによって統括される磯部たちもこの地に居住していたことになり、伊勢津彦の信仰が彼らによるものであったことが示唆されるからだ

 すでに紹介したとおり、『先代旧事本紀』国造本紀に、相模国造は武蔵国造の祖、伊勢津彦の三世の孫、弟武彦から出たとある。そのいっぽうで、『寧楽遺文』にある天平十年の「白布墨書銘」には余綾郡大座郷大磯里の人で磯部白髪という人物がみえており、相模にも磯部氏がいたことは見逃せない。

 松前健は、「伊勢津彦東海退去の物語は、海辺の祭儀の縁起譚に過ぎないもので、別に何等かの種族の移動や氏族の東遷の史実が背景となっているわけではないから、その東海の果の常世郷に消え去った神の行方を、史実的、地理的に探求しようとする試みは、およそ無益なユーヘメリズムに過ぎないのである。」と言っているが私はそうはおもわない。

  伊勢の磯部氏が部民として統括していた漁民たちは、大和の勢力が侵入する前から伊勢で活動していた。伊勢津彦の信仰もほんらいは彼らによるものだったろう。やがて王権の勢力下に入った彼らは、朝廷サイドに立つ磯部氏によって統括されるようになるが、その信仰は伊賀の穴石神社を中心に残った。

 伊勢命神社は、磯部氏が伊勢から引き連れてきた漁民たちによって祀られた神社である。伊勢津彦の信仰が彼らによるものであった以上、当社の祭神である伊勢命とは伊勢津彦のことであったようにおもわれる。






(10)伊勢津彦捜しは神社から【伊勢命神社(3/4)】

2010年10月02日 13時46分04秒 | 伊勢津彦


 だがなぜ、伊勢命神社なのか。

 伊勢命神社は『延喜式』神名帳の隠岐国穏地郡に登載ある古社である。『続日本後紀』嘉祥元年(846)条に「隠岐の国伊勢命神、明神の列に預かる、しばしば霊験あるによる也」とあり、これにより同神名帳では明神大社に列せられている。



伊勢命神社



昔ながらの船屋がある隠岐の風景


隠岐は素晴らしい。瑞々しいのと老成したような気分が
矛盾なく同居している土地で、そこで過ごした数日が、
いつまでも心に残りつづける。
こんな場所は滅多にない。

神社も良かった。
食い物もうまかった。
出会った人々も優しかった。
『玄松子の記憶』にある「
伊勢命神社」のページを開くと、
私の脳裏にそういう隠岐のことがありありと蘇る。






隠岐に流罪となった後鳥羽上皇の奥津城


 伊勢命神社があるのは島根県隠岐郡隠岐の島町久見である。隠岐は言うまでもなく島根県の沖合に浮かぶ離島であるが、わが国の歴史では佐渡などと並んでしばしば流罪先となったため、僻遠の地というイメージが強い。しかも久見はその隠岐諸島の中でも、本土からもっとも離れた島後の、さらに北端部に近い土地である。いったい、こんな場所にある神社に、伊勢の土着神である伊勢津彦が祀られているなどということがありえるのだろうか。

 当社は近世まで内宮と呼ばれていた。したがって、あるいは伊勢の内宮と混同されて天照大神を祀っていた時期があったかもしれない。しかし、神名帳にある社名から言って、ほんらいは伊勢命という神を祀る神社だったのだろう。社名は明治期になって伊勢命神社に改められ、祭神も伊勢命に戻った。しかし、では、伊勢命と伊勢津彦は同一神だったろうか。



伊勢命神社

  松前健の『国譲り神話と諏訪神』にある「建御名方と伊勢津彦」の章は、短いものだがこのことについて肯定的な調子で書かれている。

「『延喜式神名帳』の隠岐国隠地郡の条に、伊勢命神社の名が見える。後世には内宮とか伊勢神明とか呼び、天照大神を祭神としているらしいが、本来は風波に関係する伊勢津彦を祀ったものと考えられる。(『日本神話の形成』p447)」

 だが、『式内社調査報告』、『日本の神々』、ウィキの伊勢命神社の項をはじめ、管見では松前によるこのテキスト以外、当社の祭神が伊勢津彦であるなどと論じたものは見たためしがない。明らかに定説ではないのだ。
 松前はどうして当社の祭神を伊勢津彦と考えたのだろうか。たぶん、たんに「伊勢命」という神名が伊勢津彦をおもわせたからだろう。しかし両者を同一神とするためには、もう少し強い根拠が必要である。

 隠岐島にある式内社を名前で見てゆくと、伊勢命神社をはじめ、水若酢命神社、玉若酢命神社、宇受加命神社、由良比女神社のように、記紀神話には登場しないローカルな祭神名のついたものが多い。これらの祭神の性格はたいていの場合、よく分からないのだが、それでも伊勢命神社には祭神に関する伝承があり、それがある程度は手がかりになる。そこでとりあえず、『神国島根』から伊勢命神社の社伝を引用してみる。 
 



水若酢神社



同上



水若酢神社本殿



玉若酢命神社



同上

同上(右は八百杉の幹)



玉若酢命神社のシンボル、八百杉



玉若酢命神社の本殿
当社の社家は隠岐国造の後裔である。



宇受加命神社



由良比女神社



海中にある由良比女神社の鳥居



由良比女神社の石楠花
 

 「御祭神を伊勢命と申し、創立年代は不明なるも伝説によれば一夜神光海上より輝き来り字仮屋の地に止まり以来夜々出現止まず。偶々神託蒙る者あり、以って伊勢明神を奉斎せしより神火の出現はじめてやみたりと、この地は西北風強烈なるためまもなく現社地に移転せりと伝う。『続日本後記』に仁明天皇嘉祥元年名神の列に預りし趣、明記せられ延喜の制に於ては、名神大に列せられたる由明かなり。明治五年郷社に列せらる。」

 「一夜神光海上より輝き来り字仮屋の地に止まり以来夜々出現止まず。」の部分からは伊勢命が海上を明るく照らしながら寄りつく神であったことがわかる。『伊勢国風土記』逸文によれば伊勢津彦は夜間、大風を起こし、波を巻き上げ、海上を明るく照らしながら海彼へ逃れ去ったとあり、いちおう、海を明るく照らしながら移動するという点は両者に共通している。

 しかし、「祭神が最初、海上を明るく照らしながらやってきた」というのは、伊勢命神社に限らず、海の近くにある古社の社伝にはよくみられるもので、いたって類型的なものだ。伊勢命を伊勢津彦とする根拠としてはやはり弱すぎる。

 むしろ注目するなら、「この地は西北風強烈なるためまもなく田代川の対岸の浄地、現社地に移転せりと伝う。」のほうだとおもう。というのも伊勢津彦には風神という神格が感じられるからで、もしも当社が彼を祀る神社であったとすれば、風の強い土地である久見がとくに選ばれて鎮座したとも考えられるからである。ちなみに、私が訪れたときも久見は風が強く、車で海沿いにあるこの集落に入ると風が車体に当たってひゅうびゅう鳴り出したことをよく覚えている