神社の世紀

 神社空間のブログ

滋賀県長浜市 波久奴神社の磐座(4/4)

2010年12月13日 00時00分16秒 | 磐座紀行
波久奴神社の磐座(3/4)のつづき

 木幡の胎内くぐりのケースや、これから説明する雲貴高原の少数民族の信仰などを考え併せると、物部守屋の伝承が習合する前のこの岩屋には、祖先がそこから誕生し、自らも亡くなれば霊魂となってそこに帰還し、やがてそこから再びこの世に生を受けるというような古代人の信仰があったのではないか。また木幡の場合のように、かつてはここで成年式儀礼も行われていた可能性がある。

 地下他界を舞台とした成年式儀礼が古代のわが国でも行われていたことは、『古事記』のオオナムジ命条に、こうした儀礼を神話化したものが見られることによってよく分かる。

 すなわちそこでは、八十神たちに迫害されたオオナムジ神が地下にある根の国を訪れると、この国の統治者であるスサノオ命によって蛇の室、ムカデと蜂の室に入れられるという試練を課されるが、スセリ姫の助力によっていずれも難を逃れる。
 なかんずく、スサノオ命が射込んだ鏑矢を拾ってくるよう命じられたオオナムジ神が広い野原に入ると、スサノオ命がそこに火が放ったので炎に取り巻かれた時は、ネズミが現れて「内はホラホラ、外はスブスブ(内はうつろで広い、外はすぼまっている。)」と言ったため、地面に穴があることを知り、そこに隠れて火難から逃れた。洞窟のような場所に隠れることで、危機を逃れるのは頼朝のしとどの窟のエピソードと同じモチーフであり、地下他界を訪れる通過儀礼によって再生し、成年を迎える儀礼が神話化されたものである。

 このオオナムジ神の神話はネズミ浄土型と呼ばれる民話のタイプを連想させると共に、野原に火を付けるという所作により、このような地下世界を再生の場とする成年式儀礼が、焼畑耕作文化と深い関わりがあることを暗示している。

 中国の貴州省から雲南省にかけての高原地帯は、苗族をはじめとする少数民族が多く生活している地域だが、彼らの文化の多くは焼畑耕作によって特徴づけられるとともに、先祖が山岳にある岩窟から誕生し、自らが死んだ後も霊魂がそこに帰ってゆくというような信仰が実に多くみられるという。
 萩原秀三郎によれば、雲南の名所、石林に近いサニ族の村では、小石林と呼ばれる区域にある民族の女性英雄の岩の後方が、かつて祖霊たちが集まり棲む石洞であったとされる。トールン族の場合は死者を岩穴に埋葬し、彼らの魂はその穴に鎮まっているとされる。リス族は風葬だが、どこで死んだ者でも、その霊魂は民族の始源の場とされる、とある洞窟に集まってくるとされている。

 いっぽう、古い文献においても、『太平御覧』には、「巴蜀族は禀君の子孫であるが、禀君の先祖は武落鐘離山の赤穴中に出ずる。」とか、貴州の苗族は自らの祖先について「昔、山獄の爆裂したものがあり、その裂け目の中から男女2人が生まれ出て夫婦となり、九子を産む」云々と述べたという記事がある。
 『後漢書』にはヤオ族の始祖であった槃瓠バンコについて、「槃瓠女を得て負い去り南山に入り、石室の中に止まる。三年を経て生子十二人六男六女也」という記事がある。

 こういった山中の石窟から民族の始祖が誕生したとか、あるいはそうした洞窟の中に祖霊たちが鎮まり、民族の個々の成員も、死後は霊魂となってそこに帰ってゆくという信仰は、波久奴神社における本宮の岩屋のルーツを思わせるものがある。

 

 

 ところで、有名な神話学者の大林太良は、かつて、こうした中国の少数民族間にみられる洞窟への信仰について、流米洞伝説と呼ばれるタイプの伝説と関係づけるユニークな議論を展開したことがあった。

 中国の広東省から貴州省にかけての地域に流米洞伝説というタイプの伝承がみられる。寺院の境内にある岩穴から、いつも必要な分だけ米が出てきていたが、ある時、強欲な僧侶がもっと多く出るようにしようとこの穴を大きくしたので米は出なくなり、代わりに水が出るようになった、というような伝承である。

 こうした流米洞伝説は中国だけでなく、典型的なそれが朝鮮にも見られる。とくに北鮮の平安南道いったいに分布が濃密だというが、南北慶尚道にある次のような流米洞伝説も興味深い。

 慶州郡と蔚山郡の郡境に鵄述嶺という山がある。新羅十九世訥祗王のとき、朴堤上将軍が日本に遣わされる際、家に立ち寄らずそのまま出発した。妻は3人の娘を連れてこの山に登り、船を見送ったが悲しみのあまり石となった。これが望夫石である。その魂は鳥となってふきんにある隠乙庵という寺に飛んでゆき岩穴に入った。
 この穴からは一日一人の人が食べる分だけの米が出てきたが、ある時、例によって強欲な僧侶が穴を大きくしたので米は出なくなり、代わりに水が出るようになったという。

 以下、大林太良の『稲作の神話』にある議論にしたがう。

 流米洞伝説の舞台となる岩穴はほとんどの場合、寺院にあるので、このタイプの伝承は仏教文化と密接に関わっている感じがする。しかし世界のどこの地域でも新来の宗教は、古い土着文化の聖地の上に寺院や神殿を造るので、仏教が伝来する以前からその元となる土着の信仰がそこで行われていた可能性もある。

 たとえば『後漢書』東夷伝によれば、高句麗の東郊には神の岩屋があり、収穫が済んだ10月になると、この神を東郊の水のほとりに迎え、迎神渡御の神事を行ったという。

 『魏志』高句麗伝によると、この祭儀は東盟と呼ばれ、金銀をあしらった豪華な服で正装した貴族大官が多数、参会する。国都の東に大穴があって「隧穴」と名付けられており、毎年10月にこの隧穴の神を首都東郊の水辺に迎えて祭るのは『後漢書』の記事と同じだが、そここではミテグラとして木で穀穂を象ったようなものが神座の上に置かれたという。どうやら、この岩屋の神には穀物神的な性格があったらしい。
 また『三国史記』ではこの祭りについて、高句麗では10月に国母神を祀る祭祀が行われたとあるので、ここから岩屋にいた神が女神であったことが分かる。ちなみに、高句麗の祭祀を継承した王氏高麗でも、やはり国東でこの神を祀っていたが、その際は女神像を奉安していた。

 高句麗の始祖王であった朱蒙は、建国に赴くにあたって、母から五穀の種子を授けられており、この母は石室に閉じこめられたときに日光に感精して彼を身ごもった。したがって彼女には穀母神的な性格があるとともに、岩屋の中で神婚する女神であったことになる。このことは東盟祭で祭られていた岩屋の女神が、この朱蒙の母であったことを暗示する。
 いっぽう、中国においては、洞窟から民族の始祖が誕生したという伝説が残る地域と、流米洞伝説が残るそれが重複する。したがって、かつては洞窟から人だけではなく穀物も誕生したという伝承があり、流米洞伝説はそれが仏教説話化したものであった可能性がある。

 汎アジア的にみると波久奴神社の本宮の岩屋は、こうした貴州高原から朝鮮にかけての洞窟信仰に連なるものである。この神社を祭祀した集団は渡来系の秦氏で、神社の背後にある西池は彼らによって築造されたという説があることはすでにちょっと触れた。また、新羅十九世訥祗王のとき、朴堤上将軍が日本に遣わされる船を見送った妻が悲しみのあまり石となり、その魂は鳥となってふきんにある隠乙庵という寺の岩穴に入り、そこから米が出てきたという流米洞伝説があることもさっき紹介した。
 秦氏は新羅系の渡来人とされ、かつ、船出した朴堤上将軍は日本に遣わされたことになっているなど、たんなる偶然の一致に過ぎないかもしれないが興味深い。いずれにせよ、こうした波久奴神社における洞窟への信仰は古代、この地に入植した渡来人たちが持ち込んだものではないか。

 高句麗の収穫祭であった東盟祭の例をかんあんして、古代人によるこの岩窟への信仰を考えるに、ほんらいそれは次のようなものではなかったか。すなわち、渡来人たちは自分たちの先祖が波久奴神社の本宮の岩屋にいる女神の神婚によって誕生し、自らも死ぬと魂はこの岩屋へ帰還し、やがてそこから再生するというような信仰をもっていた。

 彼らは秋の収穫祭において西池にこの岩屋の女神を迎えて祀った(東盟祭において、国都の東にある水辺で隧穴神を迎える神事が行われたように)。女神には穀母神としての神格があり、かんばつに備えて築造された西池でこの女神を祀ることは、彼らの信仰にとって極めて重要な意義があった。現在の波久奴神社はこの西池が背後に来るような格好で鎮座しているが、これはこのような祭儀の場が常態化して神社となったものだ。やがて、こうした第一次的な信仰の上に、何等かの理由によって物部守屋の事績が習合し、現在、みられるような社伝が生じた。

 そんなようなことが考えられる。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿