神社の世紀

 神社空間のブログ

滋賀県長浜市 波久奴神社の磐座(3/4)

2010年12月12日 23時02分54秒 | 磐座紀行

波久奴神社の磐座(2/4)のつづき

 洞窟の入口にあった看板や社頭にあった石碑によると、この地に落ち延びた物部守屋は、蘇我氏の追求を逃れて一時期、この洞窟に潜伏したことがあったという。

 こういう、戦に敗れた有名な武将などが、追っ手から逃れるために身を隠したという洞窟のたぐいは各地にみられる。中でも有名なのは、石橋山の合戦で敗れた源頼朝が身を隠した「しとどの窟 」だろう。

 この岩屋には複数の伝承地があるようだが、いずれにしても『源平盛衰記』にある印象的なエピソードで知られている。以下、ウィキの「梶原景時」の項からコピペ。

「敗軍の頼朝は土肥実平、岡崎義実、安達盛長ら6騎としとどの岩屋の臥木の洞窟へ隠れた。大庭景親が捜索に来てこの臥木が怪しいと言うと、景時がこれに応じて洞窟の中に入り、頼朝と顔を合わせた。頼朝は今はこれまでと自害しようとするが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう。戦に勝ったときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出て蝙蝠ばかりで誰もいない、向こうの山が怪しいと叫んだ。大庭景親はなおも怪しみ自ら洞窟に入ろうとするが、景時は立ちふさがり「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄った。大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は九死に一生を得た。」。

切手になった前田青邨の『洞窟の頼朝』

  石橋山の戦いは平家方の三千騎に対し、頼朝方の僅か三百騎の軍勢でもって戦われ、圧倒的な兵力の差の前に後者は完敗した。その後、頼朝は山中に逃げ込んで死を免れるが、「しとどの窟」のエピソードは、頼朝の生涯においてもっとも危機的な状況にあった、この山中逃亡のクライマックスである。とにかく、辛うじて死地を脱した頼朝は、その後、安房に渡って再挙し、そこに東国武士が続々と参じて大軍に膨れ上がった結果、ついに平家を滅亡させ、鎌倉幕府を開くまでに至るのである。

 奈良県の吉野地方に伝わる国栖クズの翁という伝承では、「ミルメ(見る目)」「カクハナ(嗅ぐ鼻)」という賊に襲われた大海人皇子が、船に乗って現れた国栖の翁という者に助けを求めると、翁は船を陸に揚げて伏せて置き、その中に皇子を隠して窮地を救う。さらにそれから皇子をふきんにある和田の岩屋という場所に移して歓待したという。その後、吉野を出て壬申の乱に勝利した皇子は、即位して天武天皇となると、危機をすくった翁を浄見原宮に参内させて報償を賜ったという。ここにも「和田の岩屋」というものが出てくるし、翁が追っ手から皇子を隠したのが伏せた船の中だったというのも示唆的である。

 こうしてみると、全国各地に武将たちが追っ手から身を隠した岩屋が残る理由がなんとなく分かってくる。つまりこうした伝説は歴史上実在した人物のエピソードに仮託されているが、もともとは神話にありがちな再生譚の一種だったのだ。例えば頼朝の「しとどの岩屋」の場合をこうした神話として解釈すると、彼は一度「しとどの窟」で死するのだが、やがて英雄として復活し、一度は自分を死に追いやった敵を倒し、鎌倉幕府の始祖王となる。大海人皇子の場合も同断だろう。言うまでもなく、その場合、再生が行われる岩屋とか伏せた船といった中空の空間は子宮のメタファーである。

 アマテラスが岩屋に隠れて世界が暗黒になったという天岩屋戸の神話も、一年で最も太陽光線が弱まる冬至や、あるいは日蝕の際に行われた日神の再生を祈る儀礼と関係があるとされる。ここにも再生の装置としての岩屋が登場している。また『古事記』には、引きこもったアマテラスを岩屋からおびき出す際、アメノウズメが伏せた桶の上で踊ったとあるが、これは類感呪術の一種で、この伏せた桶は国栖の翁が大海人皇子を追っ手から隠した伏せた船と等価であるように思われる。

 

 

 

 波久奴神社の岩屋のことに話をもどす。

 以上のようなことを踏まえると、この岩屋に蘇我氏の追求を逃れた物部守屋が一時、隠れていたとか、あるいは亡くなってからその遺骸が葬られたとかいう伝承が伝わっているのは、そもそもこの場所が死と再生の儀礼に関わる場であるからではなかったか。

 この洞窟は入口ふきんがとても狭く、入るのに苦労することはすでに述べた。またそこを過ぎてからも、(大きな古墳の横穴式石室などに入ったことがある人は分かると思うが、)最初の段差を過ぎて光が射さない暗闇へ踏み込むときには独特の抵抗感があり、中に入ってからもコウモリの羽音が聞こえたりすると、ケイビング中の女性たちが得体の知れない地底生物に殺害される『ディセント』という恐怖映画のことを思い出したりした。

 とにかく、そんなこんなで洞窟から外に出たときは正直、ホッとした。そしてその時、私は福島県二本松市木幡に伝わる「胎内くぐり」という神事を連想したのである。

 胎内くぐりは当地に鎮座する隠津島神社の祭礼で、日本三大幡祭りの1つとも言われる「木幡の幡祭り」の一環として行われる。幡祭り全体の詳しい説明は『日本の神々』などを参照してもらうとして、この例祭ではゴンダチ(権立=「後立」の意味)と呼ばれる初めて祭りに参加する若年者たちが、太刀と呼ばれる模造男根を肩から下げ、当日、羽山神社という神社の下にある「胎内くぐり石」という巨岩の割れ目をくぐり抜ける。出口にいる先達がそれを見届けると、「おーい、うまっちゃ(生まれた)。」と呼ばわる。その後、ゴンダチたちは葉山神社の乳屋に行き、乳(という名の粥)を受けて「食い初め」をし、葉山神社に参拝する。この時、ゴンダチは後ろ拝みをし、翌年は横拝みをし、3年目に正面拝みをしてやっと一人前と見なされるようになるという。

 



福島県二本松市木幡の隠津島神社

残念ながら羽山神社と胎内くぐり石までは足を延ばさなかった。

木幡山々頂の磐座

 

 木幡の胎内くぐりは明らかに、母胎回帰とそこからの再生というイメージをまとった成年式儀礼である。そして波久奴神社の本宮の岩屋から外に出た私も思わず「おーい、生まっちゃ。」と叫びたくなった。というのもこの岩屋には明らかに、木幡の胎内くぐりと同じような象徴性が感じられるからだ。

 中野美代子は『中国の妖怪』の中で、山の観念は母胎のイメージであり、多くの妖怪が「嬰児のような声」をしていることや、山精が小児のような姿をしていることもこれと関係があると述べている(山の神がしばしば女神とされ、産育神や増殖神としての神格をもっていることも示唆的だ。)。また、仙境のような他界は、恐ろしい山を分け入って到達するトンネルや石室のあなたとされ、伝承においても山に入る者は成年となる男子で、入山の恐怖は性の試練であり、山中の隘路を通過することは性交の、あるいは母胎回帰のメタファーであるという。
 こうしたことを木幡の胎内くぐりに当てはめると、神事が行われる巨岩は山中にあるので山を母胎に見立てているのだろう。胎内くぐりの巨岩の割れ目は明らかに女陰であり、模造男根を下げたゴンダチは、そこくぐり抜けることで山の神と交わり、母胎に回帰し、そこから出る(=出産される)ことによって一人前の男として再生するのである。

 波久奴神社の本宮の岩屋の場合、母胎との類比はさらに著しい。入口の岩の裂け目はあからさまに女陰状であり、入り口付近は狭く通過しづらいが、何とかそこを抜けて闇の中に入ると天井が低く狭い通路があり(産道)、さらにそこを抜けるとそれなりに広いスペースがある(子宮)という空間構成は母胎そのものだ

 

波久奴神社の本宮の岩屋

 

波久奴神社の磐座(4/4)につづく

 

 

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