神社の世紀

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滋賀県長浜市 波久奴神社の磐座(1/4)

2010年11月27日 17時03分23秒 | 磐座紀行

 物部守屋は6c後半における物部本宗家の頭領であり、敏達朝では大連まで務めたが、仏教受容を巡る崇仏派との抗争に敗れ、蘇我馬子らによって滅ぼされた。

 この物部守屋が蘇我氏との戦を落ち延び、里人の教化などしながら静かな余生を送ったという伝承の残る神社がある。滋賀県長浜市高畑に鎮座する波久奴(はくぬ)神社である。

 当社は近江国浅井郡の式内社だが、相殿に物部守屋大連を祀っている。いちおう主神は高皇産霊命ということになっているが、これは明治34年にとくに根拠もなく祀られるようになったもので、それまでは守屋が主神だった。

 社伝によると守屋公は、用明天皇二年七月に馬子らと戦って敗れたが、その際、家臣であった漆部巨坂という者が彼に代わって激闘のうえ戦死し、守屋公は巨坂の弟の小坂を伴って領地である当地へ落ち延びた。そしてそこで草庵を結んで隠棲し、里人に読み書きや農業を教えて暮らした。彼の死後、土地の人々はその遺骸を小谷山東渓の岩窟に葬り、萩野大明神と称して崇敬するようになったが、これが当社のはじまりであるという。

 この社伝、たんなる貴種流離譚と言ってしまえばそれまでだが、それにしても物部守屋が主人公であるという点では非常にユニークである。どうしてこんな伝承が生まれたのだろうか。

 柳田国男は『人を神に祭る風習』で、さまざまな御霊信仰の事例を検討してから、人を神として祀るようになったのは、この世に恨みを抱いて亡くなった者の霊魂が怨霊となり、祟りをなさないようにするためであったとしている。守屋の場合もこの世に恨みを抱いて亡くなったのは確かなので、神として祀られる資格はあった。しかしじっさいには彼が御霊信仰の祭神として祀られたというような話はあまり聞かない。

 思うにこの世に恨みを抱いて亡くなった者が神として祀られる場合、たんにそれだけではなく、その者に何の罪もなく、それどころか家柄や人格や才能が卓越していて、その生涯が悲劇的であることがある程度、求められるのではないか。だからこれが例えば、守屋ではなく山背大兄王がこの社伝の主人公だったらまだ了解できるのである。というのも、彼は血筋や人望の点で当時もっとも皇位に近かった人物だが(言うまでもなく父は聖徳太子)、それにもかかわらず、蘇我氏によって2度も即位を阻まれ、なかんずく最期は入鹿に攻められて妻子と共に自害したという悲劇的な生涯を送ったからである。
 これに対し、同じ蘇我氏に滅ぼされたと言っても、守屋の生涯にはこういった悲愴味があまり感じられない。その上、この社伝では守屋が蘇我氏との戦いを生き延びたことになっているので、ますます彼が祭神として祀られている理由が分からなくなってくる。どうも考えれば考えるほど、この社伝は不思議なものに思えてくる。

 ただ、『式内社調査報告』によれば波久奴神社後方の山腹には巨大な磐座があり、春の初午の日に神職と宮総代がここに参詣してヒモロギに神を迎え、十二月のはじめには同じくヒモロギで神を送る神事を行っているという。この磐座は社伝にあった守屋の遺骸を葬ったという岩窟に当たるものだが、どうやら当社の祭祀と深く関わる場所らしい。ユニークな社伝のことも相まり、私は以前からこの磐座を訪れたいと思っていた。

 実は当社には前にも一度、訪れたのだが、その時は探す谷を間違えてこの磐座には行き着けなかった。しかし今回、湖北地方を訪れた折り、ついにこれを実見することができたので、3回にわたってそのレポートをお届けする。

波久奴神社社頭

 まず磐座を訪れる前に、波久奴神社を参拝。
 鳥居をくぐって落ち葉が敷き詰められた長い参道を進むと、樹々の間から差し込む西日を浴びた社殿が出迎える。さすが田根荘十五村の総鎮守だった神社だけのことはあって、なかなか荘厳な建築物である。以前、訪れたときもこれと同じような時間帯だったと思うが、その時もこの光景に心をうたれた

参道

同上

波久奴神社

波久奴神社社殿

同上

 

 参拝を終えた人は社殿裏手のケヤキ群も忘れずに見てゆこう。ここの森は年古びたケヤキが幾本もあり、湖北随一とも言われる

社殿裏手のケヤキ群

同上

同上

 ちなみに湖北地方(だけではないかもしれないが)では、ケヤキのことを「槻の木」と呼んでいる。「槻の木」の「つき」は、「狐憑き」などの「つき」と同じで、憑依することを指して呼ぶ「つく」に由来するのだろう。ようするに古くから湖北地方では、神霊が寄り付く聖なる樹木としてケヤキが信仰されていたらしい。当社のケヤキ群はこうした古い信仰の遺跡である。

 参拝を終えて、波久奴神社から磐座に向かう。途中、西池といういかにも古そうなため池がある。この池はちょうど波久奴神社の背後に控えており、まるで当社の神体のようにも見える。伝承によれば、かんばつに苦しむ里人のために、当社の祭神である守屋が築造したとも言われる。こうしたことは、この池が古代において波久奴神社の祭祀に関わった集団により築造されたことを示唆する

西池

西池と波久奴神社(池の向こうの森)
当社はこの池を背後に鎮座しており、まるで神体として祀っているように見える。

 西池は南東に開口する谷のいっぽうを堰き止めて造られており、地形や岩盤を巧みに利用して築堤されているという。こういう技術はどこからもたらされたのだろうか。

 波久奴神社を祭祀していた集団は渡来系の秦氏だったという説がある。鎮座地「高畑」の「はた」も秦氏の「はた」に因むものだとか、秦氏の得意分野だった機織りの「はた」に因むとか言われる。秦氏は古代近江に多くいたし、西池を築造した卓越した土木技術も彼らのキャラクターと合致するので、この説には無視できないものがある



西池のノガモたち

西池は2010年に農林水産省の「ため池100選」に選定された。
 冬季は、オオヒシクイやマガンをはじめとした冬鳥たち楽園となっている。野鳥の観察施設や駐車場、綺麗な公衆便所なども整備されており、同じ湖北の三島池ほどメジャーではないが、野鳥ファンの間ではそれなりに有名なスポットである。

 

 西池を通り過ぎると池奥の集落がある。以前の私は磐座を探して、この集落の奥のほうに踏み込んでいったのだが徒労に終わった。じつは磐座があるのはこの集落の西の谷である。この谷の農道を進むと、奥のほうで山林に入り、そのまま道なりに進むと磐座のある場所にたどりつく(ただし車で行けるのは山林の手前まで)。この道、迷いそうなところには下の画像のような看板が立っていて安心だが、熊のオヤツになりたくない人は、自己責任で熊鈴の準備などの対策をしておくように

磐座のある谷

道しるべ

 

波久奴神社の磐座(2/4)につづく 

 


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