神社の世紀

 神社空間のブログ

光線と洞窟(2/2)【黒崎神社(岩手県陸前高田市広田町)】

2011年07月31日 23時57分38秒 | 陸前の神がみ

★「光線と洞窟(1/2)」のつづき

 黒崎神社は嘉祥年間(848~851)の創建と伝えられ、祭神は神功皇后である。古来より広田半島に住む漁民の信仰を集め、かつては沖を通る船は必ず帆を下げて航海の安全と大漁を祈願したという。こうした「礼帆」の習俗は、沿岸部で漁労航海神を祀った神社には全国的に見られ、かなり普遍的なものと言える。しかしそのいっぽうで黒崎神社の古い信仰には、海中にある神秘的な洞窟へのそれもあったらしい。当社の本宮(創建当時の黒崎神社があった場所)近くには海に面して亀裂のような断崖があり、その根元には雌沼雄沼という岩穴があって、次のような伝説が伝わっている。

黒崎神社本宮ふきんの断崖
雌沼雄沼はこの下にあるらしい

 「黒崎仙峡は、陸中海岸国立公園の中で最も雄大な海蝕景観を誇っている。
 この黒崎仙峡の岬の天狗の投げ石の下に一つの岩穴がある。この岩穴はいつもは海の中にあって見えないが、旧暦の3月3日だけは潮が引いて、よくその穴を見ることができる。この日にはまたこの穴から神楽のような音楽が聞こえてくるという噂を聞きつけて多くの村人たちが見物に来るようになった。
 ある年のこと、この神楽のことを聞いた殿様が、なんとかして岩穴の秘密を知りたいと思い、調べに行くものはいないかと「お触れ」を出した。
 このとき、与八と佐十という兄弟が名乗り出た。彼らは常日ごろ、仲が悪くお互いに意地を張り合っていた。
 2人は準備をして岩穴探検にとりかかった。潮との長時間の戦いの後、狭い水路の所で、2人は船を捨てて海に飛び込んだ。
 岩穴の前は深い淵になっており、潮の流れが激しくうず巻いていた。何度も押し流されたが、泳ぎ達者の2人はとうとうここを泳ぎ切った。
 静かなよどみに出たとき、頭上から不思議ななんとも妙なる楽の音が聞こえてきた。与八と佐十はふと正面の岩壁の上を見上げた。突然2人の顔色が変った。岩の上に長い髪を腰まで伸ばして白衣の女が横たわっていたのである。音楽もやみ、ただならぬ妖気がただよってきた。
 恐怖におののく2人は無我夢中で逃げ帰った。殿様の前で岩穴の秘密を話し終えると、2人はそのまま手を取り合って死んでいった。」

 --- 「気仙の伝説」「陸中海岸の伝説」より」
 ・「黒崎仙峡温泉オフィシャルホームページ」からコピペさせていただきました。

 当社は黒崎の突端部に鎮座しているが、同じような立地の神社に海中洞窟への信仰が見られるケースはまだ他にもある。

 本州最南端の潮岬には、太陽信仰の磐座遺跡で名高い潮御崎神社が鎮座している。萩原法子の『熊野の太陽信仰と三本足の烏』によれば、当社のすぐ下には祭神である少彦名命を勧請した「静の窟」という洞窟があり、さらにその近くには「入陽のガバ」という洞窟があって、それは西向きで夕陽が射し込むという。

 伊豆白浜に突き出た小さな岬には、式内明神大社の伊古奈姫命神社(「姫」は「比●(口に羊)」)が鎮座している。その突端部に近い駿河湾に面した崖下には、「御釜」と呼ばれるすり鉢状をした深い岩のくぼみがあり、その底は海とつながり、常時、潮が入ってきている。

 「神職の原氏によれば、「御釜」のなかへは一年のうちでもごくわずかな機会、すなわち大潮の干潮時の、しかも砂が移動して歩ける状態のときのみ入ることができ、かつて先代の神職と土地の古老が入ったところ、その奥にさらに洞窟があり、本殿の真下に当たるかととおぼしき奥まった所に漆塗りの祠があって、つい数日前に塗られたばかりのように艶やかに光っていたという。(『日本の神々10東海』p293から引用)」

伊古奈姫命神社
伊豆国賀茂郡の式内明神大社

伊古奈姫命神社拝殿

御釜の外観(木の柵の向こう)

御釜の内部
海蝕洞を通じて入ってきた潮が白波を立てている
御釜は現在、近年の地震などで崩れ落ちた岩で埋まっており、
奥の洞窟へは進入できなくなっている

岬の突端にはいくつかの海蝕洞が口を開けている
御釜に入ってくる潮はここから流入しているものらしい

 伊古奈姫命神社の祭神、伊古奈姫は伊豆諸島を造った三嶋大神の后神で、両神ははじめ三宅島にあったが、やがて当社のある白浜に移り、さらにその後、大神だけが現在の三島の地に遷祀されたという。本殿の鎮座する岬の上からは古代の祭祀遺物が多数、発見されており、そこからは伊豆の島々を望むことができる。当社の祭祀の源流は伊豆造島の神を来臨させて祀る祭祀にあったのだ。御釜の奥深く通じる秘密の洞窟は、こうして伊豆の島々から呼び寄せた造島の神が籠もる場所だったのだろう

10月29日に行われる当社の大祭にあたって、
その前日に「火達ヒタチ祭」という神事が行われる
これは本殿の裏で焚き火をしながら伊豆諸島を遙拝するというもので、
かつては現社地に隣接する火達山で行われ、
そのいったいからは多くの祭祀遺物が出土している
文政十三年の縁起書によると神事の夜にかがり火を焚き、
これに呼応して島々でも焚き合わせたという
伊豆の島々から神を呼び寄せる神迎えの神事なのだろう
                                        
火達山は上の画像の左手に写っている小高く膨らんだ場所のことか

 

祭の翌日は「御弊オンベ流し」の神事が行われる
夕方になって拝殿裏の海岸に斎場を設け、
幣帛一本を立ててから神饌を供して伊豆諸島を遙拝し、
それから大明神岩という岩から島の数に相当する十本の幣帛と
供物を海中に投下する。この時はかならず西風が吹いて
幣帛を諸島へ送りと届けると信じられ、この風を「御弊オンベ西」と呼んだ
火達祭で呼び寄せた神々を伊豆の島々に送り返す神送りの儀式だろう

大明神岩は上の画像の右手にあるステージのような岩
伊豆諸島に向かって鳥居が立っている

 以前、このブログでも紹介した子友町の蛇ケ崎神社(『太平洋が池のよう』の下のほう)がある蛇ケ崎は、黒崎神社から北に3kmほどしか離れていないが、当社が鎮座する崖の下にも「魔の瀬洞」と呼ばれる海蝕洞があり、「平家の落ち武者がそこに逃げ、只出のサユリという娘が朝夕、小舟でその洞に行き武者を世話していたら、そのうち源氏に知れてしまい、その洞に源氏が行ったとたん大波が来て、源氏の人達は波にさらわれ死んでしまったと言われる。現在でもサユリ波と畏れられている。(『岩手県神社名鑑』p273)」という伝承が伝わっている

蛇ケ崎神社

魔の瀬洞がある辺りの海蝕崖

 これもまた伊古奈姫命神社と同じく、「海洋から来臨する神霊の籠もる洞窟」という基層信仰に、「外部からの来訪」という項を介して、後世になって平家の落ち武者伝説が上載されてできた伝承ではなかったか。

 伊古奈姫命神社は社名通り女神を祀っているが、蛇ケ崎神社も豊玉姫命を祀っており、黒崎神社の祭神である神功皇后も女神の一種と考えられる。こうしてみると海中洞窟への信仰が見られる神社には女神が祀られている傾向が感じられる。これは洞窟地形が母胎を連想させることと無関係ではないだろう。

 古代人にとって岬の突端は、海洋から神が来臨する聖なる場所であった。かつてはこのような場所にある洞窟に女神がいて、来訪した神と神婚し、威力ある新しい神霊が誕生するというような信仰があったのではないか。例えば岬の突端部にあり、古い信仰の見られる海蝕洞窟というと出雲にある加賀の潜戸が有名だが、『出雲国風土記』によれば、この洞窟は枳佐加比売命が佐太大神を生んだ場所とされているのである。

加賀の潜戸

 黒崎神社の崖下にある洞窟で、岩の上に横たわっているのを泳ぎ達者の兄弟に目撃された長い髪を腰まで伸ばして白衣の女や、同じく蛇ケ崎神社の崖下にある洞窟に隠れた平家の落ち武者を庇ってやったサユリという娘も、あるいはこうした女神の零落した姿だったかもしれない。

 

 


 

黒崎神社

岩手県陸前高田市広田町黒崎10番地
Mapion

 息気長帯姫命(神功皇后)を祀る旧村社で、風光明媚な景勝地、広田半島突端の黒崎に鎮座する。

 『平成祭りデータ』にある由緒は以下の通り。

「黒崎神社は、広田の東端岬黒崎に鎮座し、初め黒崎明神と称され、巨岩怪石風光絶佳の所白浪渦巻き侵蝕した雌沼雄沼なる岩窟を眼下にする、仙境清浄の地に嘉祥年間西暦848年創建したと宮城縣史に伝えられ、又承安2年西暦1172年山伏の源真が息氣長帯姫命を勧請したとの記録あり、本宮としてその地に現在小祠がある海洋の民広田の漁民が、古来より祭神として萬里大海原を渡り、三韓に船出した神功皇后をこの地に移霊し、海上安全の豊漁を得んと信仰が深く、往時この沖を航行する船舶は必ず帆を下げ、海上安全と大漁を祈願したと伝えられている。中世社地狭くなり、元徳2年に現在の境内地に遷宮したと思われ、確実な記録としては、現存する宝物懸佛の銘文に明應5年広田城主大丹那源綱継願主賢春の2人が100日間社殿に参篭し、郷民に代わりて一郷安穏の為天長地久を祈り、現世安穏後世善處を勤行祈願すとあり、その時誦読の経文品目と共に広田を・田郷と記してある。明和6年には肝入及別当連名で願出し、京都神祇管令卜部家より大明神号を授けられる。明治5年、古社名黒崎大明神を改めて村社黒崎神社となった。3年毎に神輿渡御の大祭典が行なわれ、氏子総出で之を祭り、山車手踊り虎舞等の奉納余興を催し、神人共に賑わう。この社地は、国立公園陸中海岸中白眉の勝地として造化の妙と神威を併せ持ち、四近、景勝多く岩頭に立てば眼前に数万の鴎群れ飛ぶ椿島青松島南方遥に金華山を眺め北西に五葉連峰を一望する詩情豊かに又浩然の気充ち心身共に清爽を覚ゆる仙境である。祭日は旧3月10日と9月10日である。」

 祭神の神功皇后について思いつきを一言。

 神功皇后は神社の祭神として珍しいものではないが、周知の通り、普通は八幡神として応神天皇とセットで祀られていることが多い。神功皇后が単独で祀られている場合もあるが、そういう神社は神功皇后伝説が多く残された地域に鎮座しているもので、当社のように皇后の渡航ルートから大きく外れた地域で単独に祀っている例は珍しいのではないか。ところで、『太平洋が池のよう』で紹介した子友町の八幡神社は、当社から北に3km程度しか離れていないが、この神社は八幡神社であるにも関わらず応神天皇しか祀られていない。あるいは当社と八幡神社には信仰面でつながりがあり、両社は母子神としてセットだった、ということはなかろうか。

 

 

 


光線と洞窟(1/2)【黒崎神社(岩手県陸前高田市広田町)】

2011年07月25日 23時00分00秒 | 陸前の神がみ

 三陸沿岸は大気の感じが意外とウェットではない。別に乾いているというのでもないのだが、湿度があまり感じられない。このため光線に余計な負荷がかからず、空や植物や水や岩の色にはどくとくの艶があり、油彩のような透明感がある。またそのいっぽうで緯度が高いので、海に出ても太陽がギラギラ照りつけてくるような感じにならない。陸海空のいずれも一定のキーに収まっている。あたかも色調や光量が人工的に設計されたハリウッド映画の画面を天然にやっているようなものだ。郷里の詩人、水上不二が気仙沼大島のことを「緑の真珠」と讃えたのも、たんに景色が美しいばかりではなく、こうした光線の効果を真珠に譬えたためだとおもう。いずれにせよ、もともと景勝地に恵まれた地域だが、こうした天恵によって三陸沿岸にはとくべつ鮮やかな印象を残す神社がいくつか鎮座している。黒崎神社もその一つだ。

黒崎神社

黒崎神社拝殿

本殿は覆屋の中

古い参道と鳥居

 黒崎神社は陸前高田市の南東部で海に突き出た広田半島に鎮座している。ふきんはリアス式海岸が発達し、このタイプの海岸とくゆうの奇岩が多く、黒崎仙峡と呼ばれる景勝地となっている。その印象は「清浄」の一言に尽きる。

黒崎仙峡

 現在の黒崎神社はやや内陸に入った場所にあるが、創祀の頃は黒崎の先端部に鎮座していた。現在でもそこには本宮と呼ばれる小祠が祀られている。

黒崎神社本宮

本宮まで行く途中の松林

 私が訪れた日には社地の傍らにロープで丸太を組んで、大きな梯子をカタパルトのように傾けて固定したものが設置されていた。4年に一回、行われる当社の例大祭で根岬梯子虎舞(ねさきはしごとらまい)を行うためのものだが、人がいないと何だか奇妙なオブジェのように見え、その異化作用のせいか社地全体が模型で作られたジオラマのように見えた。

カタパルトのような梯子

 

光線と洞窟(2/2)」につづく

 

 

 


日を置く山【天比比岐命神社(滋賀県長浜市高月町高野)】

2011年07月15日 00時02分01秒 | 日置氏、日置神社

 「日本の天子は外の国の呪王と同じく、天体の移り代りによって、農村の行事の指導をする、非常な威力をもっていられると思っていた。そして其力によって世の中を治められるものと思っていた。つまり治世の威力は、天体を観察する事によって生ずるものと考へていた。其を観察する事が出来るのは、天体によく仕へ、よく祭っているからだ、と考えられている。但、「ひ」と言ふからと言って、太陽崇拝と言う事に力点をおいては、あやまり易い。
 日置の「おく」とは、勘定すると言ふことで、勘定をする物質があって、其を纏めたり排列したりする事によって、数を数えた。つまり、日を勘定する事によって、天体の運行予告、天体の変化を示した、ごく簡単な暦である。」
 ・折口信夫『古代の氏族文学』

 日置部の職掌については諸説あるが、折口信夫はここで、「日置」というのは日数を配列したり、まとめあげて数えたりする操作のことで、そこから日置部は太陽観測による暦の制作に従事することで朝廷に仕えたと説いた。折口信夫の学説というと、事例収集に基づいてその上に仮説を立てるといった通常の学問の手続きをとらず、もっぱら直感に基づいて結論を出しているというようなことがよく言われる。実際、ここでの彼も日置部が太陽の観測を行って暦を定めていたことを示すような事例を何一つ挙げていないが、しかし彼がこのことを知っていたかどうかはともかく、日置部が山に登って暦を定めるために太陽観測を行ったという伝承のある神社は確かに近江にあるのだ。これはとても興味深い。

 

 

 近江国伊香郡に天比比岐命神社という式内社がある。当社の由緒を引用する。

「本社原起は古昔 日置部祖神 天太玉命の神霊を奉して此地に来り山獄に登り暦日を掌り給ふと云ふ、今も其の地を称して日波加里山と字す、然るに山地にして参拝の便ならざるにより神亀元年今の地へ遷座せしと云ふ、今猶古昔の神社のありし古蹟を存す 、社殿は原宏大なる建築なししも、天正の頃火害に罹りて今の一小社となりしと伝ふ、是往古の瓦礫等の散在せるを以て知らる。」

 すなわち、かつて日置部たちがその祖神、天太玉命を奉祭してこの地に至り、日波加里山という山に登って暦を定めたというのだ。奇妙な山名、「日波加里」も、おそらく「日計(ひばかり)」の意で、その山で太陽観測が行われたことを示しているのだろう。

 この由緒が載っている文書は、明治41年に地券改正時の社寺明細帳から当社が脱漏しているので追加してほしいと嘆願した時のもので、当時、折口はまだ11歳ぐらいだった。したがって、彼の学説からの影響がそこに働いている可能性はない。

 天比比岐命神社は現在、滋賀県長浜市高月町高野に鎮座し、高野神社という神社の末社となっている。現状では拝殿がなく、荒積みの石垣でできた小さな壇上にブロック塀の瑞垣で囲われた簡素な本殿が載っているだけの小さな神社だ。 

天比比岐命神社

 問題はかつての当社が鎮座し、日置部が暦を定めるために太陽の運行を計測したという日波加里山がどこにあるかだが、そのもっとも有力な候補として長浜市西浅井町北部にある日計山を挙げたい。この山は、当社から約12km西北に離れた福井県との県境近い場所にあり、現在の天比比岐命神社から見ると古代の郡界を跨ぐ格好になってしまうが(天比比岐命神社は伊香郡の式内社だが、日計山がある辺りは浅井郡だろう。)、しかしそれでも「ひばかり」などという奇妙な名の山がそんなにあるとは思えない。

 日計山は標高411mで、近江塩津駅のプラットフォームに立つとその西側にそびえている

日計山
Mapion

右のほうの高まりが日計山

古い神社が鎮座している山というと、
普通は大和の三輪山のように平たい円錐形の山容が思い浮かぶが、
これを見ても分かるとおり、日計山は各地に見られるそうした神体山とは異なり、
とくに秀麗なフォルムではない

東側から見た日計山々頂

 もう十年近くも前になるが、私はこの山に登った。登ったのは西側からだったが、ルートは結構、急峻だった。ところが登りきると山頂付近は疎らな灌木と熊笹が一面に生い繁る傾斜地が東に向かって緩やかに広がっており、わりと開けた印象である。ちなみに灌木はどれもこれも雪の重みで根元から地面に向かってS字型にひん曲がっており、『式内社調査報告』に紹介のある土地の古老の言、かつて日波加里山に鎮座していた天比比岐命神社は山地で登拝が難しく、また、冬期に雪に埋もれるため、神亀元年に現在の場所に遷座してきたというのが納得された。

 日計山が日波加里山であったとすれば、かつての天比比岐命神社は、この緩傾斜地のどこかにあったことになる。しかし、上に引用した由緒のいう「古昔の神社のありし古蹟」らしきものはついに見つからなかった。また、日置部がこの山で太陽の観測を行ったというので、山頂からの眺望に関心があったのだが、これも樹々に阻まれよく分からなかった。ちなみに山本武人の『近江湖北の山』には、「南側の眺望がよい。野坂の山々と東山山系が長い稜線を見せる。正面の高い山頂は乗鞍岳だ(P151)」とある。また同書には、「どうして日計山と呼んでいるのか、地元の人たちに聞いてみたが、昔から呼んでいると話すだけであった(P149)」ともある。とはいえ、日置部の職掌を考えるうえで、天比比岐命神社と日波加里山の伝承は興味深いものだろう。

 


【天比比岐命神社】

Mapion

 長浜市高月町高野字丸山に鎮座。「あめのひひきのみことの神社」

 『延喜式』神名帳 近江国伊香郡に登載ある小社。

社頭の様子

本殿

社号標

当社の社号標は神社とまるで関係ない場所に立っており、非常に紛らわしい
てっきり、「注意」とあるゲートの奥が社地かと勘違いしてしまうが、
じっさいは画像に写ってる道をずっと手前のほうに進むと鳥居のところに出る
 

 伝承によるとかつては日波加里山という山に鎮座していており、祖神である天太玉命を奉じた日置部が、この山に登って暦を定めたのが祭祀の起源という。しかし山上にあって参拝に不便であり、冬期には雪に埋もれるため、神亀元年に今の場所に遷座した。

 当社は現在、高野神社という神社の境内末社となっている。と言っても飛び地境内に鎮座しているので、社地は高野神社から北に1kmほど離れた場所だ。そこは丸山という小さな丘の上で、集落から離れているせいか、あまり人が来ている様子もなく、ちょっと寂しい感じになっている。

高野神社、大山咋命と大名草彦命を祀る
当社もまた近江国伊香郡の式内社

 上述の伝承のほかに当社と日置氏との関係で興味深いのは、毎年九月九日に行われる例大祭で、氏子が一人一人、手にローソクを持って当社に参拝するという風習である。日置氏は宮廷で使用する燃料の管理に携わっており、ここから彼らは、(一種の類感呪術として)火をともして太陽霊を迎える祭儀を行っていたとか、聖火の祭料製作や費用調達を職掌していたとも言われる。あるいは当社に残るこの風習も、そうした祭儀等と何か関わりがあるのかもしれない。

11月に私が参拝したとき、本殿の傍らにローソク立てがあり、
そこにローソクがいくつか残っていた。例大祭の時のものだろう

 なお、当社の現祭神は天太玉命で、上述の由緒でこの神は日置部の祖神ということになっている。

 天太玉命は忌部の祖親として有名だが、『新撰姓氏録』未定雑姓・和泉国には「日置部。天櫛玉命の男、天櫛耳命の後なり」とあり、『古史伝』はここに登場する「天櫛玉命」が天太玉命のことであるとしているため、当社の由緒もこれに従ったらしい。

 天太玉命は名古屋市中区の日置神社でも祀られているが、当社のほんらいの祭神は社名にある「天比比岐命」であったと考えるほうが率直だろう。もっとも「天比比岐命」が、「天太玉命」「天櫛玉命」、あるいは「天櫛耳命」の別名であったという解釈もできるが。ちなみに天櫛耳命は、滋賀県高島市今津町酒波にある日置神社の配祀神の中にもその名が見えているので、近江にもそれなりに縁のある祭神である。

高島市今津町酒波にある日置神社
近江国高島郡の式内社で、
配祀神の中に天櫛耳命の名が見える

 なお、まさかこのブログを読んで日計山に登りたいと考える人がいるとは思わないが、もし登るなら熊鈴の準備等、万全の熊対策が絶対に必要だ。

 

 

 


太陽神の城跡【龍仙山神籠石(2/2)】

2011年07月03日 22時57分18秒 | 磐座紀行

 ★「太陽神の城跡【龍仙山神籠石(1/2)】」のつづき 

 はじめて神籠石が目に飛び込んできた瞬間、私の最初の感想は「あ、これは猪垣ではないな。」だった。というのも龍仙山神籠石については祭祀遺跡説、猪垣説、城砦説などがあるからだ。
 ちなみに、かつて南紀の森の中から謎の石垣が見つかり、除福の遺跡ではないかなどと騒がれたこともあったが、結局、近世の猪垣だったと判明したことがあった。そんなことも頭にあったため、龍仙山の神籠石も実見するまでは猪垣ではないか、と疑っていたのである。

 だが、実見してわかったが、これが猪垣であった可能性はほとんどない。列石の高さはおおむね50~80㎝程度だし、石と石の間の隙間も広いので、これではとても猪を阻むことはできないだろう。ましてや城砦としての役割などとうてい果たせそうもない。

 となると龍仙山の神籠石はやはり、祭祀遺跡であった可能性が高くなる。そもそもこの列石が害獣や外敵を防ぐ目的で築造されたなら、石を横にして高く積んだほうが、施工が楽だし、安定したろう。しかし前述の通り、列石中には立石が多く見られるのであり、その外観は非常に磐境を思わせる。
 また、この山の山頂には大日如来の石仏が祀られ、また山頂から西側へやや下った平坦地にも、不動明王と役行者の石仏が祀られている。現在、神社や寺院は残っていないものの龍仙山は明らかに信仰の山である。こうしたことも祭祀遺跡説を支持する。

龍仙山々頂

山頂で祀られている大日如来

山頂から西側へやや下った箇所にある
不動明王と役行者が祀られた石窟

上の2ケ所に登る道が分岐する地点には鳥居が立っている

 筑紫申真の『神々のふるさと』によれば、この山の神籠石には、「昔、龍仙山の上にいた鬼族が、里人との境界をつくるため、里人を使役して築かせた。」という伝承があるという。確かに神籠石には結界をつくって聖と俗を限ろうとした意図が感じられる。同書によると、神籠石から奥の山地は鬼や天狗の住む「天ケ原(てんがはら)」として特別視されているというが、こうした異界の住民たちは、古代の神々が修験道の影響を受けて零落したものかもしれない。

 ちよっと気になったのは、筑紫の前掲書には、龍仙山の山頂に岩船と呼ばれる高さ5mの巨岩があり、ふきんには小さな池があって、池の主は片目の鯉であるとか、ボラであるとか言われる、そこに近づいて池の主を見てしまうと目が潰れるという禁忌があるため、岩船の近くには誰も近づかないとあったが、しかし山頂にそれらしいものは見あたらなかった。もっとも、山頂ではないどこか別の場所にあるのだとは思うが。

  興味深いのは、地元の人の間には正月一日の早朝、この山に登って山頂から太陽を礼拝する風習があるということである。同じ山頂に大日如来の像が祀られていることも含め、こうしたことは龍仙山が太陽信仰の山であったことを感じさす

龍仙山々頂には「ご来光を拝して」として、
「息白く人群立ちて 東の雲むらさきに 光さしそむ」東吉之助
   の句碑が立っている

山頂からの眺め、
眼下に広がるのは五ケ所湾
その向こうの海は紀州灘

 これと同じような太陽祭祀は鳥羽市石鏡町でも行われている(現在でも行われているかどうかわからないが)。元日の早朝、戸ごとに浜へ出て水垢離をし、昇る太陽を拝するというものだ。ちなみに石鏡(いじか)の名の起こりは、この漁村の東方海上に石鏡島という小島があり、その中央にある大きな洞窟に上る朝日が収まる様子がまるで鏡のようであったからという(現在、台風の被害でこの洞窟からはかつてのように日の出を望めなくなった)。これはまるで出雲にある加賀の潜戸のようだ。

加賀の潜戸
『出雲国風土記』に佐太大神がここで生まれた伝承があり、
その内容には日光感精説話を思わせるものがある
潜戸の向こうに写っているのは的島

潜戸内部

潜戸から見た的島の方向は夏至の太陽が昇るラインにあたるという

的島
穿たれた岩穴は風土記に登場する金の弓矢の威力を連想させる

 出雲と言えば、出雲の日御崎神社にも元旦の日に太陽を拝する神事が伝わっている。大晦日の晩に当社の宮司が裏山に登り、日本海に昇る太陽を拝するという。日御崎神社は天照大神を祀る式内社であるが、これなど龍仙山の太陽信仰のルーツを思わせる。

 もっと近場でこれに近い信仰としては、熊野那智大社のそれがあげられる。当社では宮司が元旦の夜明けに東方にある光ケ峯に登り、着ている特別の衣装で太平洋に昇る瞬間の日光を包み込み、一目散に神社に持ち帰るというのだ。宮司の談話によれば、これは那智大社でもっとも重要な神事という。
 那智大社というと、一般的には那智滝への信仰から始まった神社とされている。しかし、じつはこの滝は光ケ峯から昇る太陽をミアレさせる装置にすぎず、当社の基層信仰は古い日輪祭祀だったとも言われる。

 神伊勢志摩地方では皇祖神としてアマテラスが祀られるようになる以前から、土着の海民たちの間でプレ・アマテラスとでも言うべき日神祭祀が行われていたといわれる。あるいは元旦の日に山頂から日の出を拝する龍仙山の信仰は、そうした失われた信仰の残滓かもしれない。ここからは色々と想像がひろがる。

 蛇足ながら個人的には、『伊勢国風土記』逸文にある次のような記事がふと頭を過ぎる。

 「伊勢という国名は次の話に由来する。伊賀の穴志の社にいる神、出雲の神の御子である出雲建の子の命、別名、伊勢津彦、またの別名、天櫛玉命。この神がその昔、石で城を築いてその地にいた。そこへ阿倍志彦の神が来て奪おうとしたが、勝つことができず退却した。この石城から伊勢という名がきている。」

 『伊勢津彦捜しは神社から【都美恵神社】』でも触れたとおり、この穴志の社は現在、三重県伊賀市拓殖町にある都美恵神社のことで、伊勢津彦が立てこもった「石城」は旧社地、「アシダン」にあった。その場所は正保元年の水害で失われたため、現在では伊勢津彦のいた石城がどういうものであったかは分からないが、しかし「石城」とされる以上、たんなる磐座ではなく、岩石を使った何か城砦を思わせる構造物であったらしい。いっぽう、龍仙山の神籠石は城塞説があることからも分かるとおり、「石城」とよばれてもおかしくない外観がそなわっている。あるいは伊勢津彦とここの神籠石には何かつながりがあるかもしれない。

 そういえば、天日別命に破れた伊勢津彦は、夜間に周囲を真昼のように照らし出しながら伊勢を退去したのだった。ここには彼に太陽神としての神格があったことが暗示されている。伊勢津彦の故郷は洋上にあった。あるいは伊勢志摩にいた海洋民たちは、海彼から伊勢津彦を呼び込むランドマークとして龍仙山に神籠石を築いたのかもしれない。

 

 

 


太陽神の城跡【龍仙山神籠石(1/2)】

2011年07月02日 20時05分50秒 | 磐座紀行

 三重県度会郡南伊勢町の南部に龍仙山という山がそびえている。賢島から西へ10kmほど離れた五ケ所湾に面しており、標高は402mだが、付近の漁村からはよく目立ち、地元の人たちの愛着も深いという

龍仙山
Mapion

 この山は楯のような山塊が東西方向に延びた上に、土饅頭のような山頂部分が載った格好をしているが、この東西方向に広がる尾根上、なかんずく山頂部分より東側の、ドビロという場所を中心に、神籠石と呼ばれる人工的な列石がみられる。現地にある南勢テクテク会の看板によれば、列石の延長は5~600mというが、山頂から西側の部分にも列石の一部と見られるものがあり、東側と西側のそれが連続していたとすれば、現在は失われているものの、列石は山頂部分を半円形にとりまいていた可能性もある。その場合、総延長は2kmを超えたのではないか

  龍仙山までは伊勢道の玉城インターで下りてから、サニー・ロードを南下し、龍仙山トンネルを抜けた辺りで、左手に「薬草の里」の看板が出ているところから登山口まで通じる農道兼林道に入れる(8号目くらいまでは、この道をつかって車でゆける。)。詳細なルートについては、「龍仙山」で検索をかければ登山のブログなどに紹介があり、また現地に行くとテクテク会の看板や木にビニールテープを巻いた目印があるので省略。とにかくそれらをたよりに山の尾根をのぼってゆくと下のような看板があり、神籠石のはじまりを告げる

始まり、始まり~

 

顕著な巨岩 

 神籠石は、保存状態が良好な箇所では小型の万里の長城といった感じだが、崩れてしまっている箇所も多く、そういう場所では白骨化した大きな動物の遺骸のような感じだった。岩のサイズは1人で運べそうなものから、相当な巨岩までマチマチで、それが数百mに渡って尾根上に連続する。石は龍仙山で普通に見かける種類のもので(この山は岩石が多い)、別の場所から搬入されたものではないらしい。しかしそれにしても、標高400mの山の8~9合目ふきんにこれだけの列石を造るとなると、そうとうの労力が必要だったはずだ

まだまだ続く、神籠石

 列石は崩れている箇所が多いものの、石材じたいが抜き取られた感じはない。石垣の材料として手頃なのに持ち去られていないということは、ずっと神聖視されて手がつけられなかったことを感じさす。

 ざっと見、列石には立石タイプのものと積石タイプのものがあった。
 立石タイプのそれは高さ50~80cm程度の石を立てたものが多いが、中には1mを越えるものもある。このようなサイズが大きめの立石は単独ではなく、3つ前後、並んで登場することが多い。その印象は非常に顕著で、いかにも磐境を思わしめる

立石タイプの列石

磐境を思わせる

 積石タイプのものは石を横にして積んだもので、ほとんどが崩れてしまっているが、数少ない残っている箇所を観察すると、石と石の間は隙間だらけでスカスカである。例えば北部九州などに残る朝鮮式山城などの緻密な石積みと比較すると、著しく精度が劣る。築造当時の様子は想像するしかないが、積石タイプの列石部分は高さがおおむね50~80cm程度に揃えられていたようだ。そして、その中において立石部分と石積部分が交互に連続し、前者が後者の中から屹立するような外観だったのではないか

積石タイプの列石

スカスカ

ゆるゆる

【参考画像】対馬にある金田城の石垣
『日本書紀』天智天皇六年(667)に造営の記事がある

かつては積んであったが、崩れてしまったとみられる列石

 なお、山頂近くになると尾根上に巨岩が自然露頭している箇所があり、そういう場所はその巨岩が神籠石の列中にとりこまれていた

自然露頭の巨岩

 ふきんの植生はほとんどが灌木であるが、原始林なのか二次林なのかはわからない。あるいは築造当時、神籠石周辺の樹木は切り払われており、五ケ所湾に浮かんだ船からは太陽光を浴びた白い列石の煌めきが望めたのではないか、という考えが浮かんだ

列石は山頂近くほど大きなサイズになる

滑落防止のために基部に別の石を噛ませた形跡のある列石

 

 

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