★「ハズセカイ系とは何か(4)」のつづき
各地の島神の例を見てきたが、その中でも梶島が幡頭神社の旧社地だったと考える場合に参考となるのは、兵庫県赤穂市坂越に鎮座する大避(おおさけ)神社と生島のケースだと思う。
兵庫県西南部には沈降性海岸とくゆうの入江や湾が多く見られ、古くから天然の良港として利用されてきた。大避神社のある坂越(さこし)もその1つで、8Cの史料には「坂越津長、養鳥曾足」の名前が見えている。近世になっても瀬戸内海有数の廻船業の拠点として発展し、参勤交代の船も坂越に寄港した。
坂越湾全景、中央に浮かぶのは生島
画像はウィキペディア「坂越」のページから取得
大避神社はこの港町を見下ろす小高い場所に鎮座するが、社地へ登る石段から海を振り返ると、浜辺からさほど離れていない場所に生島が見える。生島は周囲2.7kmほどのヒョウタンを横にしたようなフォルムの島で、ちょうど坂越の港を抱きかかえるような格好で浮かんでいる。そのあまりに庇護的な印象は母性的な感じさえ抱かせるが、坂越が古代から港として栄えた理由の1つは、外海の荒波から人命や財産を守るこの島の存在が大きかったろう。
大避神社は式外社。社伝によると秦河勝の子孫、
赤穂大領秦造のとき河勝を氏神として祀り、天喜三年に正二位、
治暦四年に正一位となったという
なお、山城国葛野郡にはやはり秦氏と関係深い式内社の大酒神社がある
石段から振り返って眺めた生島
大避神々殿
同上
現祭神は天照皇大神・春日大神・大避大神の三柱
大避大神とは秦河勝のこととされる。旧祭神は秦河勝と秦酒公だった
『播磨鑑』(宝暦十二年)によれば、聖徳太子の寵臣として知られる秦河勝は皇極二年九月十二日に蘇我入鹿の乱を避け、難波から生島まで逃れてきた。彼を迎えた坂越の浦人は島に新殿を建てて奉仕し、河勝が没すると亡骸をこの島に葬って祀った。これが大避神社の創祀である。つまり生島は当社の旧社地だったことになる(生島から現在地に社殿が遷ってきた時期は不明)。
生島全景
天然記念物の原生林に覆われた生島は対岸から眺めると
いかにも神島らしいたたずまいをしている
ここの動植物はかつて厳重なタブーで守られ、これを破って島内の大木を
伐採した赤穂城主の浅野内匠頭は神の怒りに触れて乱心し、
そのために江戸城内で例の刃傷沙汰を起こしたという
ヒョウタンのように2つの丘があるフォルムは
ベックリンの『死の島』を思わすが、
実際にこの島には古墳があり、古代人は冥界として意識していた
『死の島』
生島の西端には大避神社の御旅所がある
毎年十月に行われる例祭の「船祭」では対岸からここまで
飾り立てた船が渡御する
左側の建物は屋根に鴟尾のようなものが
付いており、完全に仏堂風
鳥居がなければとても神社の施設とは思えない
神仏混淆時代の名残だろう
右側の大きな建物は船倉
この島を大避神社の社地から眺めた時、幡頭神社から眺めた梶島のことが思い出されてきた。まず、小高いところにある社地から眺めると前方の海に意味ありげに浮かんでいるという立地がそっくりだ。また、梶島の対岸には現在でも西三河漁港があるが、こうした港との位置関係も生島と坂越港のそれに似ている。しかも「かし島」とか「か島」という地名の近くには古い港のあるケースが多く、これもまた坂越の港が古代から栄えていた点と通ずるものがある。
生島には円墳があり秦河勝の墳墓として信仰されている円墳があり、築造年代は5C中頃~6C始めなので河勝とは年代が合わないが、当社の祭祀はそもそもこの古墳へのそれから始まったらしい。『赤穂市史』はその被葬者を地域の生産・交易を支配した津長クラスの人物に求めている。ちなみに後世になって河勝の名前が当社の祭祀と結びついたのは、大避神社のある播磨国赤穂郡に秦氏が多く居住していたことが関係していたと思われる。
それはともかく、幡頭神社の社伝も海で遭難した建稲種命の死体が幡頭神社のある岬に漂着し、里人はこれを手厚く葬ったが、後に霊夢によってそれを知った文武天皇が社殿を造営して祀ったというものだった。墓所への祭祀という点で両社は似ている。
ここでちょっと不思議に思うのは現在の幡頭神社に建稲種命の墳墓がないことだ。もちろんこの社伝はフィクションだろうが、しかし実際に彼が葬られているかどうかは別として、通常、このような場合では境内のどこかに建稲種命の墓所と伝承される塚のたぐいがあるものだ。それが見当たらないのは、あるいは生島のケースと同じように幡頭神社もかつては梶島に鎮座していて、祭神の奥津城もそこにあったからかもしれない。
「ハズセカイ系とは何か(6)」につづく