神社の世紀

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ハズセカイ系とは何か(5)【幡頭神社(愛知県西尾市吉良町宮崎)】

2012年05月23日 21時27分22秒 | 三尾勢海の神がみ

★「ハズセカイ系とは何か(4)」のつづき 

 各地の島神の例を見てきたが、その中でも梶島が幡頭神社の旧社地だったと考える場合に参考となるのは、兵庫県赤穂市坂越に鎮座する大避(おおさけ)神社と生島のケースだと思う。 

 兵庫県西南部には沈降性海岸とくゆうの入江や湾が多く見られ、古くから天然の良港として利用されてきた。大避神社のある坂越(さこし)もその1つで、8Cの史料には「坂越津長、養鳥曾足」の名前が見えている。近世になっても瀬戸内海有数の廻船業の拠点として発展し、参勤交代の船も坂越に寄港した

坂越湾全景、中央に浮かぶのは生島
画像はウィキペディア「坂越」のページから取得

 大避神社はこの港町を見下ろす小高い場所に鎮座するが、社地へ登る石段から海を振り返ると、浜辺からさほど離れていない場所に生島が見える。生島は周囲2.7kmほどのヒョウタンを横にしたようなフォルムの島で、ちょうど坂越の港を抱きかかえるような格好で浮かんでいる。そのあまりに庇護的な印象は母性的な感じさえ抱かせるが、坂越が古代から港として栄えた理由の1つは、外海の荒波から人命や財産を守るこの島の存在が大きかったろう

大避神社は式外社。社伝によると秦河勝の子孫、
赤穂大領秦造のとき河勝を氏神として祀り、天喜三年に正二位、
治暦四年に正一位となったという
なお、山城国葛野郡にはやはり秦氏と関係深い式内社の大酒神社がある
Mapion

石段から振り返って眺めた生島

大避神々殿

同上
現祭神は天照皇大神・春日大神・大避大神の三柱
大避大神とは秦河勝のこととされる。旧祭神は秦河勝と秦酒公だった

 『播磨鑑』(宝暦十二年)によれば、聖徳太子の寵臣として知られる秦河勝は皇極二年九月十二日に蘇我入鹿の乱を避け、難波から生島まで逃れてきた。彼を迎えた坂越の浦人は島に新殿を建てて奉仕し、河勝が没すると亡骸をこの島に葬って祀った。これが大避神社の創祀である。つまり生島は当社の旧社地だったことになる(生島から現在地に社殿が遷ってきた時期は不明)。

生島全景
天然記念物の原生林に覆われた生島は対岸から眺めると
いかにも神島らしいたたずまいをしている
ここの動植物はかつて厳重なタブーで守られ、これを破って島内の大木を
伐採した赤穂城主の浅野内匠頭は神の怒りに触れて乱心し、
そのために江戸城内で例の刃傷沙汰を起こしたという
ヒョウタンのように2つの丘があるフォルムは
ベックリンの『死の島』を思わすが、
実際にこの島には古墳があり、古代人は冥界として意識していた

『死の島』

生島の西端には大避神社の御旅所がある
毎年十月に行われる例祭の「船祭」では対岸からここまで
飾り立てた船が渡御する

左側の建物は屋根に鴟尾のようなものが
付いており、完全に仏堂風
鳥居がなければとても神社の施設とは思えない
神仏混淆時代の名残だろう
右側の大きな建物は船倉

 この島を大避神社の社地から眺めた時、幡頭神社から眺めた梶島のことが思い出されてきた。まず、小高いところにある社地から眺めると前方の海に意味ありげに浮かんでいるという立地がそっくりだ。また、梶島の対岸には現在でも西三河漁港があるが、こうした港との位置関係も生島と坂越港のそれに似ている。しかも「かし島」とか「か島」という地名の近くには古い港のあるケースが多く、これもまた坂越の港が古代から栄えていた点と通ずるものがある。

 生島には円墳があり秦河勝の墳墓として信仰されている円墳があり、築造年代は5C中頃~6C始めなので河勝とは年代が合わないが、当社の祭祀はそもそもこの古墳へのそれから始まったらしい。『赤穂市史』はその被葬者を地域の生産・交易を支配した津長クラスの人物に求めている。ちなみに後世になって河勝の名前が当社の祭祀と結びついたのは、大避神社のある播磨国赤穂郡に秦氏が多く居住していたことが関係していたと思われる。

 それはともかく、幡頭神社の社伝も海で遭難した建稲種命の死体が幡頭神社のある岬に漂着し、里人はこれを手厚く葬ったが、後に霊夢によってそれを知った文武天皇が社殿を造営して祀ったというものだった。墓所への祭祀という点で両社は似ている。 

 ここでちょっと不思議に思うのは現在の幡頭神社に建稲種命の墳墓がないことだ。もちろんこの社伝はフィクションだろうが、しかし実際に彼が葬られているかどうかは別として、通常、このような場合では境内のどこかに建稲種命の墓所と伝承される塚のたぐいがあるものだ。それが見当たらないのは、あるいは生島のケースと同じように幡頭神社もかつては梶島に鎮座していて、祭神の奥津城もそこにあったからかもしれない

 

 「ハズセカイ系とは何か(6)」につづく

 

 

 


ハズセカイ系とは何か(4)【幡頭神社(愛知県西尾市吉良町宮崎)】

2012年05月15日 22時03分17秒 | 三尾勢海の神がみ

★「ハズセカイ系とは何か(3)」のつづき

 ちょっと変わった島神としては琵琶湖の多景島の例も挙げられる。この島は彦根から6~7km沖合に浮かぶ周囲600mほどの孤島で、現在は日蓮宗見塔寺の境内となっている。

 昭和57年、遊覧船の桟橋を建設した際、この島の水底から土器が発見され、その後の調査でも土器類を主体とした大量の遺物が出土した。注目されるのは土器は平安期のものが多かったものの、少数ながら弥生期のものや古墳前期の布留式のものなども含まれていたことである。琵琶湖の舟運は古代において畿内から東海や北陸へ抜けるルートで重要な役割を果たしていたが、これらの遺物はその航海安全を祈願して島神に供献されたものだろう。 

 ところでこの多景(たけ)島の例をはじめ、全国各地には「たけ島」とか「たか島」という名のついた島が多い(高島、竹島、武島etc.)。注目されるのはそれらの島から祭祀遺物が見つかる例があることだ。岡山市南区宮ノ浦の高島で、山頂ふきんにある巨岩しゅうへんから祭祀遺物が見つかったことはすでに紹介した。 

 和歌山県有田郡湯浅町にある鷹島は、明恵の「われ去りてのちにしのばむ人なくは 飛びて帰りね鷹島の石」の歌で知られるが、古墳後期の製塩遺跡が発見されており、大量の製塩土器に混じって仿製内行花文の破片や、勾玉と管玉が入った状態の古式の土師器も見つかっている。これらは祭祀遺物と考えられている。  

鷹島遠景(中央)
手前は明恵が創建した施無畏寺。明恵は航海神と縁が深い

 「たけ島」とか「たか島」という名の島から祭祀遺物が見つかるのは、おそらくこれらがほんらい「嶽島」の意で、古代においては島神として信仰を受けていたからだろう。 

 総じて、各地の「たけ島」「たか島」は港から目立つ場所や、航海の要所にある場合が多い(領土問題が起きている竹島はいずれのケースにも該当しないが、あれは近世まで松島という名前だった。)。例えば唐津湾の高島は、唐津港を守護する島神として倭人伝の頃から信仰されていたと思う。岡山市の高島と並んで神武天皇の「高島宮」の候補地になっている岡山県笠岡市の高島は航海の要所にあり、やはりかつては島神だったろう。このほか、近年、元寇の沈没船が近くの海底で発見されて有名になった伊万里湾に浮かぶ長崎県松浦市の鷹島などがある。 

 愛知県蒲郡市にある竹島は日本七弁天の一つに数えられる八百富神社の境内となっているが、島の全域には国の天然記念物に指定されている貴重な暖帯林が見られる。こうした植生が手付かずで残されているのは、この島が古くから信仰の対象として大切にされていたためだろう。竹島はハズ世界の一員だ。 

 伊豆国は東日本において陸奥国の100社についで式内社の数が多く(88社)、それだけに祭祀遺跡も多い。中でも下田市須崎の恵比須島と下田市田午の遠国島のそれは島にある特異な立地で知られる。これらもふきんを航海する者たちが、海上の安全を願って祀った島神ではなかったか(もっとも、この二つの島は祭祀が行われていた頃は本土と地続きで、波による浸食を受けて切り離されたという説もあるが。)。

恵比寿島

遠国島

 関東の島神としては『常陸国風土記』信太郡条に登場する「浮島」の例が挙げられるだろう。 

「乗浜の里の東に、浮島の里あり。長さ二千歩、広さ四百歩なり。四面絶海にして、山と野交錯れり。戸は一十五烟、田は六七町余りなり。居める百姓、塩を火きて業と為す。而して九つの社在りて、言と行を謹慎めり。」 

 現在の霞ヶ浦はかつては海だったが、そこに浮島という島があり、十五戸ほどの人家があって、島民は塩を焼くのを生業としている。島内には九社の神社があるため、彼らは言葉と行動を慎んで謹厳な生活を守っているという。 

 浮島は現在の茨城県稲敷市にあるが、島内からは古墳時代の祭祀遺物が発見されている。また、近くにある広畑貝塚からは炭酸カルシウムが付着した縄文式土器が出土し、製塩に使用された土器としては最古級のものとされている。この島ではかなり古くから製塩が行われていたことになり、風土記の記事を裏付けるものである。塩焼きを生業にしながら神に仕える暮らしをしているというのは、先ほど紹介した製塩土器とともに祭祀遺物が出土した鷹島遺跡の例も思い出させる。また現在でも伊勢神宮では、神饌に使われる塩を古式の製法で作る「御塩づくり」が行われており、神道と塩には深いつながりがあるが、浮島の例はそれが始まったのがずいぶん古い時代であったことを感じさす

浮島全景
浮島は干拓により昭和四十年代前半に本土と地続きになった
現在は海の代わりに田んぼやレンコン畑が周囲に広がっている

 それはともかくこの島が位置しているのは東海道が下総国から常陸国へ入る古代交通の要衝であり、風土記の時代に人家が十五戸しかなかったにも関わらず神社が九社もあったのも、こうした立地からこの島が海上交通を守護する島神として信仰されていたからだろう。 

 東北の島神の例としては、宮城県石巻市の小金山神社が鎮座する金華山や、宮城県気仙沼市の「緑の真珠」大島などが挙げられる。また、福島県いわき市小名浜にある住吉神社は、陸奥国磐城郡の式内社だが、当社の鎮座する小丘はかつては海に浮かぶ島であったと言われている。実際に社殿の背後にある巨岩の磐座は、表面に波による浸食の跡が残っている。

住吉神社々殿

社殿背後の磐座には波による浸食の跡が残っている

 

ハズセカイ系とは何か(5)」につづく

 

 

 


ハズセカイ系とは何か(3)【幡頭神社(愛知県西尾市吉良町宮崎)】

2012年05月09日 00時40分27秒 | 三尾勢海の神がみ

★「ハズセカイ系とは何か(2)」のつづき 

 幡頭神社の祭祀と梶島の関係を考えると二つのことが気にかかる。 

 一つはかつての当社がこの島に鎮座していたのではなかったか、という疑問である。幡頭神社が遷座を経験したという伝承はないため、ほんらいそのことを疑う必要はないだろうが、そのいっぽうで梶島が当社の旧社地だったと考えられる材料もいくつか指摘できる。 

 例えば梶島には、幡頭神社のある宮崎に祭神である建稲種命の遺骸が漂着した際、彼が乗っていた船の舵が同時に流れ着いたのでこの名が付いたという伝承がある。これは梶島が当社の祭祀と何か関係があったことを感じさせる。 

 また、すでに紹介したように、島根県松江市にある出雲国嶋根郡の式内社、爾佐能加志能爲(にさかしのい)神社は洪水によって流される前は加志(かし)島という島に鎮座していた。式内社の旧社地が「かし島(「かじ島」と同じ語根だろう)」という名の島であったという事例が他にもあったことになり、ここからも梶島が幡頭神社の旧社地であった可能性を感じる。 

 さらに「かし島」とか「き島」という地名は、たんに古代においてふきんに港がある場所に残された地名というだけでなく、そうした港や航海の安全を守る神を祀った信仰に何か関係があるらしい。その場合、そうした信仰は幡頭神社のそれと通ずるものがある。 

 各地の祭祀事例も示唆的だ。 

 (何度も言うが)そもそも古代のハズ世界は伊勢湾と三河湾にまたがる海を舞台とし、そこでの海上交通を支配することで栄えていた。つまりその成立基盤は舟運にあった。ここから古代の幡頭神社では、航海の安全を守護する航海神が祀られていた可能性が高いと考えられる。その場合、わが国には古くから海上ルートの要所や港の近くにある島に航海神を祀る「島神」の信仰が多く見られたので、梶島もかつてはそのような信仰を受けていたのではないか、と類推されるのだ。 

 島神の事例を見てゆこう。 

 航海神を祀った島というと祭祀遺跡で有名な九州の沖ノ島の例がまず挙げられる。この島は玄界灘のまっただ中に浮かぶ孤島だが、宗像大社の別宮である沖津宮が鎮座しており、この宮のことは『古事記』にも「多紀理比売命は胸形の沖津宮に坐す」と見えている。社殿のしゅうへんには顕著な巨岩が多く見られ、そのいったいから古墳時代前期~平安期に渡る大量の祭祀遺物が発見されて、「海の正倉院」などとも呼ばれることはたいへんに名高い。これらの遺物は半島へ渡る航海の安全を祈願する祭祀に使用されたものだが、発見された遺物の質と量が、畿内の大王墓クラスの古墳から発見される副葬品に匹敵するほど充実していたため、その祭祀には大和にあった王権が直接、関わっていたと考えられている。

 ただし、島神の中でもこうしたケースは例外的なものである。全国各地の沿岸部には、地域の首長クラスが祭祀に関わっていたようなもっとローカルな島神の例がたくさん見つかる。 

 例えば安芸の厳島神社は創祀に関する伝承を欠くが、おそらくふきんに居住する海民たちが、神秘的な景観をした厳島を崇拝した自然信仰に起源が求められる。後世の当社は宗像信仰と習合して海上守護神としての信仰を集めるようになったが、立地からしてこうした信仰は創祀の頃からあったに違いない。 

 岡山県岡山市宮浦に浮かぶ高島は、神武天皇が東征の途次、行宮を営んだ「高島宮」の所在地にも比定されるが、山頂にある巨岩のしゅうへんから5~6世紀の祭祀遺物が発見されている。同じ島からは鉄製釣針や特殊な土錘なども発見されており、祭祀を行った者たちが海での活動を生業としていたことは間違いない。おそらくこれなども海上での安全を祈願する祭祀であったのだろう。瀬戸内海で同様の性格をもつ遺跡として、香川県香川郡直島町の荒神島の例も挙げられる。 

 福井県の若狭湾東部に常神半島という半島があり、若狭国三方郡の式内社、常神社が鎮座している。現在の当社は常神という漁村の手前1kmほどの山中にあるが、かつては常神半島突端の西方に浮かぶ御神島(おんがみじま)に鎮座していた。神社のふきんには『日本書紀』仲哀天皇二年条に神功皇后が熊襲征伐のため、「皇后、角鹿より発ちて行まして、渟田門に到りて、船上に食す。」と見える「渟田門(ぬたのみなと)」の比定地があるなど、敦賀と若狭を結ぶ海上ルートの要所であり、この神社はもともと当該ルートの守護神として祀られた島神であった(現祭神は神功皇后)

常神社

常神社々殿

当社の旧社地があったという御神島
Mapion

同上

 

ハズセカイ系とは何か(4)」につづく

 

 

 


ハズセカイ系とは何か(2)【幡頭神社(愛知県西尾市吉良町宮崎)】

2012年03月18日 23時05分09秒 | 三尾勢海の神がみ

 ★「ハズセカイ系とは何か(1)」のつづき   

幡頭神社々殿

 尾張氏のことはともかく、幡頭神社と海民の信仰の関わりについてもっと目を向けてみる。 

 社伝によるとかつての幡頭神社には釣り針を奉納して大漁を祈願する風習があり、漁民たちは神社から借りた釣り針で漁に出かけ、大漁に恵まれると倍にして返した。このため当社の社前にはこうして奉納された釣り針が山をなしていたという。現在ではこの風習は見られないようだが、こうした信仰は当社の祭祀に海民が深く関わっていたことを感じさせる。

 

社頭のふんいき

 そもそも古代の伊勢湾と三河湾を舞台に成立したハズ世界はもっぱら海上交通によって栄えていたのであり、その舟運を支えたのは海民であった。したがってハズ世界の信仰の一大中心である当社の祭祀と彼らのつながりはその頃からあったと考えて良いだろう。そしてそう考えると注目されるのが、当社のやや沖合に梶島という名の島が浮かんでいることなのである。

幡頭神社の境内から眺めた梶島

同上

 この島は幡頭神社の境内に立つと松の枝の間からその姿を覗かせるのだが、何となく意味ありげというか、いかにも当社に関係がありそうな感じのたたずまいである。ちなみに『玄松子の記憶』も幡頭神社のページで梶島に触れ、「眼前に浮かぶ島がちょっと気になる存在。」と述べているので、これはたんなる私の主観ではないようだ。伝承によればこの島は、海で遭難した建稲種命の遺骸が宮崎海岸に流れ着いた際、乗っていた船の舵は梶島に流れ着いたのでこの名がついたという。

梶島
Mapion

同上

 志田諄一は『風土記を読む』で、全国各地には「かし島」という名の島の分布が見られるが、それはいずれも古代に港があった場所だと論じている(以下の議論は拙サイトの「『築島』と爾佐能加志能爲神社」で述べたことをリメイクしたものです。)。

 「鹿島の語源は、船をつなぐ杭を打った「かし(「か」は「状」などの字のへんに羊、「し」は哥へんに戈、以下同様。)島」からきているようである。『肥前国風土記』杵島郡の条に、景行天皇が船をとめたとき、船かし(船つなぎの杭)から冷水が自然に湧き出た。または船が泊まったところが、ひとりでに一つの島となったので、天皇はこの郡をかし島の郡とよぶがよい、といった。いま杵島(きしま)の郡とよぶのはカシシマが訛ったのである、とみえる。この地は有明海に面し、杵島郡の南隣が藤津郡鹿島とよばれている。
 したがって、本来は船をつなぎとめる杭を打つ島(場所)を意味するカシシマが、一方はキシマ、他方はカシマに転訛したのである。」
 ・志田諄一『風土記を読む』p 131

 「鹿島という地名も、河口や海と関係が深い。鹿島の地名の分布をみると日本海側では石川県七尾市付近があげられる。『和名抄』には能登国能登郡加嶋郷とみえる。七尾湾と富山湾に面しており、『延喜式』主税には「加嶋津」とあり、敦賀津とともに日本海航路の拠点であった。
 太平洋岸では静岡県富士市付近が「賀島(かしま)」とよばれていた。この地は富士川と潤川河口地域にはさまれた駿河湾に面している(『吾妻鏡』治承四年十月二十日条)。静岡県天竜市付近も鹿島とよばれていた。天竜川と二俣川が合流する地で、河口港として栄えた。和歌山県日高郡南部町の浜にも、鹿島と呼ばれる小島がある(『万葉集』巻九)。九州の佐賀県鹿島市は古代には「鹿島牧」が置かれた地で、有明海に面した港である。このようにカシマの地名はいずれも海や河口に沿った港に関係のある地域に分布している。」
 ・前掲書p130

 おそらく幡頭神社の沖合に浮かぶ梶島も「かし島」や「か島」の一種なのだろう。梶島は現在、無人島だが、上陸した人のブログを見ると桟橋や古い井戸の跡などが残っているようなので、かつては小さな漁村か何かがあったらしい。ハズ世界が栄えた頃は海民たちの集団がこの島に居住し、浜辺には多くの船が並べられていたのではないか。

梶島と対岸の間はひっきりなしに漁船が通過する

 なお、梶島は『万葉集』にある藤原宇合(ふじわらのうまかい)の「暁の 夢に見えつつ 梶島の 磯越す波の しきてし思ほゆ(巻九1729)」に見える「梶島」の有力な候補地である。この比定が正しかった場合、宇合はこの望郷の歌を、蝦夷討伐で東国へ出征する途次に詠んだ可能性が高いが、その際、彼が海路をとったのであれば、宇合を乗せた船は梶島に停泊したことも考えられる。

 梶島、右手前に宇合の歌碑 

梶島は『万葉集』にある藤原宇合(ふじわらのうまかい)の
「暁の 夢に見えつつ 梶島の 磯越す波の しきてし思ほゆ(巻九1729)」
にある「梶島」の有力な候補定地の一つ 

宇合はこの望郷の歌を、蝦夷討伐で東国へ出征する途次に詠んだという
対岸の浜辺にはこの歌の立派な歌碑が建っている

宇合の歌碑

 

「ハズセカイ系とは何か(3)」につづく

 

 

 


ハズセカイ系とは何か(1)【幡頭神社(愛知県西尾市吉良町宮崎)】

2012年03月04日 14時22分48秒 | 三尾勢海の神がみ

 伊勢と三河には古くからつながりがあった。三河に伊勢神宮の御厨が多く分布していることなどもこうしたことの現れである。そしてそのようなつながりが、伊勢湾と三河湾を介した海上交通によるものであったのは言うまでもないだろう。さて、2つの湾しゅうへんの地図を広げ、古代の航海技術で伊勢と三河を結ぼうとすると、知多・渥美の両半島先端部と湾内に浮かぶ島々を飛び石にして渡るルートの存在が想像されてくる。以下の引用文は赤塚次郎の「海部郡と三河湾の考古学」のものだが、これを読むと実際に古代においてそのようなルートが存在し、就中、かつての三河国幡豆(はず)郡の領域がこれにあたっていたことが示唆される。

「知多半島の先端部およびその周辺(島々)は奈良の平城京から出した木簡により、古くは幡豆郡に含められていたことがわかっている。〈中略〉伊勢の海を渡る海上ルートは三重県の志摩地域から東に浮かぶ島々を通り、神島・伊良湖岬へ、そこから北上して三河湾を浮かぶ島々をわたり羽豆岬(知多半島最先端)あるいは矢作川河口部へ、というコースが古くから根づよく存在していた。古代の文書資料からも佐久島、日間賀島、篠島もかつて幡豆郡に所属し、また碧南市南部(大浜)、あるいは衣浦(衣ヶ浦)も含めて幡豆郡に含まれていた可能性が考えられている。つまり三河矢作川下流域はもとより、知多半島の三河湾沿岸部および半島先端部、さらに三河湾に浮かぶ島々と渥美半島先端はひとつの世界であった。」
 ・森浩一ほか編『海と列島文化(8)伊勢と熊野の海』所収
  赤塚次郎「海部郡と三河湾の考古学」p244~245

 今後ここで、このような世界をハズ世界と呼ぶことにしたい。

伊勢・三河両湾しゅうへんの古墳時代の領域
★赤塚次郎「海部郡と三河湾の考古学」から転載(前掲書p245)

この図版には筆者による以下のキャプションがついている
「伊勢湾をとりまく地域は大きく二つの領域にまとめることができる。島嶼
部・半島部・海岸部地域である伊勢湾入口にあたる「ハズ」の領域と、濃
尾平野北部の湿原・山麓側をまとめる「野」の領域である。」

 『延喜式』神名帳にはハズ世界の指標となる神社が二社見えている。ひとつは尾張国知多郡の羽豆神社で、これは知多半島の最先端に当たる羽豆岬に鎮座している。

羽豆岬

羽豆岬に鎮座する羽豆神社
Mapion

境内にはSKE48のファンが奉納した絵馬が多く見られた
「羽豆岬」という曲のMVに当社が一瞬、出てくることから
ファンの聖地になっているのかな

 もうひとつは、三河国幡豆郡の幡頭神社で、これは西尾市東部の小半島、宮崎の先端部に鎮座する。社地ふきんからは前方に佐久、日間賀、篠の三河三島をはじめ、渥美・知多両半島の先端部が、さらに大気の状態がよければその遠方に伊勢・志摩の山並みが望める。ハズ世界を一望できる絶景の地に、この神社は鎮座しているのだ。

三河国の幡頭神社

幡頭神々殿
Mapion

幡頭神社鎮座地ふきんの海に出てハズ世界を一望
やや霞んだ大気の向こうに篠島、日間賀島、知多半島が見える

 社地から北に2.5kmほど離れた場所には正法寺古墳という前方後円墳がある。4C後半~5C前半に築造されたもので、墳長規模約94mは西三河最大とされる。平成13・14年に行われた墳丘の発掘調査では三段築の墳丘に葺石が施され、円筒埴輪が巡らされている典型的な畿内型の古墳であることが確認された。

正法寺古墳遠景
Mapion

正法寺古墳墳丘
(前方部から後円部にかけて)

墳丘から流れ落ちて裾部に溜まった葺石

 正法寺古墳が立地しているのは舌状台地の端部である。築造された当時、この台地の下は海で、すぐ足許まで波が押し寄せていた。つまりその頃の正法寺古墳は三河湾に向かって突き出た岬の先端にあったのだ。明らかに伊勢と三河を結ぶ舟運からのランドマークになることを意識した立地であり、おそらくその被葬者はハズ世界の王であった人物で、そのような舟運を支配して力と富を蓄えるいっぽう、ヤマト王権が伊勢から東国へ進出する際には海上輸送によってそれを支えたのだろう。古代における幡頭神社の祭祀はこの古墳の被葬者と、彼が従えていた海民の集団に密接な関わりがあったに違いない。

 社伝によると、ヤマトタケル尊が東征した際、副将軍としてこれにしたがった建稲種命が駿河湾で逝去し、その遺体が当社の鎮座する宮崎に漂着、里人はこれを手厚く葬った。その後、大宝二年(702)に文武天皇が霊夢によってこの地に建稲種命の墳墓があることを告げられ、勅命によって社殿を造営し矛を納めて神体としたのが当社の創祀であるという。

 建稲種命(たけいなだねのみこと)は『古事記』に尾張連の祖とある「建伊那陀宿禰」と同一人物で、ヤマトタケル尊の妻だったミヤズ姫の兄である。鎌倉期の成立だが内容的には平安期のものとされる『尾張国熱田太神宮縁起』によると、彼は尾張氏の居館があった氷上邑の出身でヤマトタケル尊の東征に従軍したが、帰国にあたっては陸路を通る尊に対し海路をとった。しかし駿河の海で尊に献上するミサゴを捕らえようとした際、風波が強くなって船が沈没、自らも水死したという。幡頭神社の社伝はこの伝承の後日談という体裁をとっているらしい

名古屋市緑区大高町火上山にある尾張氏の居館の伝承地

尾張国愛智郡の式内社、氷上姉子神社の旧社地で
ヤマトタケル尊とミヤズ姫が出会ったとされるのもここである

氷上姉子神社
ミヤズ姫を祭神として祀る

 現在、建稲種命は三河と尾張の両ハズ神社の祭神であり、ここから両社と尾張氏とのつながりを説く論がある。しかしこれはあまりにも伝承を鵜呑みにする態度だろう。

 祭神の遺骸が流れ着き、それを葬ったのが神社の起源となったというタイプの社伝は他社にも見られる。就中、以前、このブログでも紹介した岩手県陸前高田市の尾崎神社の縁起などは建稲種命の伝承によく似ている。それによれば、閉伊郡の領主だった源頼基は没後に水葬されたが、後に棺が破れて遺骸が三分し、そのうちの頭部が流れ着いたのを里人が手厚く葬ったのが尾崎神社の起源であるというのだ(遺骸の他の部分も、それぞれの場所で里人によって手厚く葬られ、いずれも神社となっている。これらの神社はいずれも岬や半島の先端に鎮座していることが注目される。)。

 この陸前高田の尾崎神社は社伝だけではなく神体として剣を祀っていること、岬の先端部に鎮座してていること、ふきんの漁民から海上安全や大漁祈願の信仰を集めていること、日本武尊尊の東征と関係づけられていること等、幡頭神社の祭祀と共通する点が非常に多い。明らかに舟運を介して伝播した同種の信仰が、それぞれの社の基層にわだかまっていることを感じさせる。

尾崎神社の奥の院では神体として剣を祀っている

 かつて漁民の間では著名な「流れエビス」の信仰が行われていた。漂流死体を「えびす様」として喜び、それを手厚く葬れば豊漁がもたらされるという信仰である。おそらく幡頭神社や尾崎神社の社伝は、こうした信仰や、半島や岬の先端に航海神を祀るというこれまた全国各地に事例の多い海民のそれから生じたものだろう。そこに見られる建稲種命の名前は後世の附会と考える。

 総じて尾張と三河の両ハズ神社を信仰していたのはほんらい、正法寺古墳の被葬者をはじめ、古代ハズ世界を担った人たちであり、尾張氏はそこに関係していなかった。ちなみに尾張氏がアユチ潟(『万葉集』の「年魚市潟」)を見下ろす熱田台地に進出し、伊勢湾内奥部の一大勢力となった時期は、この台地に断夫山や白鳥といった大型の前方後円墳が築かれる6C前半代頃だろう。いっぽう、ハズ世界の勢力がもっとも伸張していたのは正法寺古墳が築かれた4C後半~5C前半頃だろうから、両者の間には時期的に約1世紀の開きがあったことになる。ハズ神社が尾張国と三河国に見られることからも暗示されるように、ハズ世界が栄えたのは尾張氏の勢力が興隆し、両国の範囲が固定化するよりも以前のことだった

 

断夫山古墳
全長151mの前方後円墳で東海地方最大の規模を誇る

継体天皇の后であった目子媛の父、
尾張連草香に被葬者を求める説がある 

 

 

ハズセカイ系とは何か(2)」につづく