宮城県岩沼市寺島の湊神社
阿武隈川左岸の河口に近い堤防下に、湊神社という神社が鎮座している。ポケットに入ってしまいそうな小さな神社だが、当社には興味深い信仰があり、それがその存在を非常に重要にしている。
『宮城県神社名鑑』から由緒を引用する。
「本社は阿武隈河口に近い堤防下に鎮座している。勧請年月は詳ではないが、伝云うところによれば往昔、田村将軍東夷平定凱旋するに当たり湊の神の恩頼に依り河口に安着せるを報賽せんとして神祠を建立してこの神を奉祀し、鏑矢を奉納したといわれ、里人古くより矢をば宝貴と称し、今に至るも宝貴明神と唱えている。宝貴・帚、国音相通ずるを以てであろうか、今なお、帚を広前に献じて海上安全を祈ると共に安産の守護神として小帚と小枕とを献じ祈請する風があり参詣者は常に絶えない。神社に於いては子供を抱えた神像を刻みこれを頒布する。」
・『宮城県神社名鑑』p149
湊神社本殿
当社には箒を奉納して海上安全や安産を祈願する信仰があるが、この由緒ではその起源を坂上田村麻呂が当社に鏑矢を奉納した故事により、里人が矢のことを「宝貴」と呼ぶようになったことに求めている。しかし、これはむしろ逆だろう。ほんらいは祈願のために箒を奉納する風習のほうが先にあって、それを説明するために準備されたのが、里人が矢のことを宝貴と呼ぶようになったという苦しい附会だったようにおもう。
そう考える根拠は『古語拾遺』に登場する有名な掃守連(かにもりのむらじ)の説話である。ヒコホホデミノ尊と結ばれたトヨタマ姫が、海浜に立てた産室で皇孫を出産するおり、掃守連の遠祖、天忍人命(あめのおしひとの命)がそこにはべり、箒で蟹をはらった。そしてこれが機縁となり、彼らの子孫は宮中の清掃・敷物等を職掌する掃守となった、というのである。
ここで注目されるのが湊神社で箒を奉納して祈願することがらが、海上安全であるとともに、安産祈願であるという点だ。
ときに「異端の民俗学者」などと呼ばれるが、発想それ自体はわりとオーソドックスな中山太郎に、『蟹守土俗考』という論考がある。たまたま入手した雑書の中に、『対馬国和多都美神社考証』の写本を見つけた彼は、その中で次の注目すべき一節に出会う。
「和多都美神社は、社伝によれば、祭神は、彦火々出見尊(ヒコホホデミノ尊)と同妃豊玉比売尊(トヨタマ姫)であって、昔時は、年に二十四度の祭典が執行された。里人が、この社に安産を祈請するに、まず箒一本を奉り、安産報賽の時に、また一本の箒を奉るを例とする。これ蟹守の故事によるのであろう。」
当時、掃守連の説話は、宮中の清掃等を行う「借守(かりもり)」の語源を説明するための附会だろうぐらいに考える人が多かった。しかし、ヒコホホデミノ尊とトヨタマ姫を祀る式内明神大社で、今でも箒を奉納して安産を祈願する習俗が行われているとなると、この説話の背景には何か古い信仰があった疑いが強くなる。
そこで中山は、昔の琉球では赤子に蟹を這わせる習俗があったこと、ヤップ島では妊婦が蟹を食すと障害のある子供が生まれるという禁忌があること、嬰児の皮膚に初めて生じる瘡を「かに」と呼ぶこと、またそのような瘡を治すには「かに草」を煎じた汁で洗うと良いと言われること、「かにとり草」を出産の祝儀に用いること、赤子には胎毒があるので「かに草」の紋の入った衣服を着せると良いと言われること、貴人の産着を「かにとり」ということ等々の事例をあげた上で、古代のわが国では赤子に蟹を這わせる習俗があったことを支証する。そうして、蟹が脱皮を繰り返して生命を更新する生物であることから、そのような習俗は「その子供の蟹の如く生命を復活して、何時までも、若く健康であれと、祝福した土俗であろう」と述べて、この論考を結んでいる。なかなか説得力のある議論である。
ただし『蟹守土俗考』は、対馬の和多都美神社に箒を奉納して安産を祈願する信仰があることをきっかけに開始されたにも関わらず、箒のことについては途中から全く触れられなくなる。したがって、掃守連の祖先は蟹を追い払うためではなく、逆に蟹が赤子の身体から離れないようにするために箒を使っていたのか、それとも、掃守の職掌が『古語拾遺』の当時、宮廷の清掃であったため、そこに箒を使って蟹を追い払ったという話が附会されたにすぎないのか、といった問題は置き去りにされている。
わが国には安産のために妊婦の枕元に箒を立てるとか、産気づいたときは妊婦の腹を箒で撫でるとか、妊婦は箒を跨いではいけないとかいった俗信があった。現在でも江戸期から続くような東京や京都にある老舗の箒屋が、安産のための箒をネットで販売している。こうした俗信がいったいどれくらい古いものなのかはわからないが、少なくとも江戸期以降には行われていたらしい。
したがって安産を祈願するために箒を奉納するという和多都美神社の信仰も、古代から続いていたものではなく、近世になってこうした俗信の影響から始まった可能性がある。博覧強記の中山はこうしたことを当然、知っていたろう。『蟹守土俗考』で彼が途中から議論をもっぱら蟹に集中させ、箒についてあまり触れなかったのは、こうしたことがあったためではないか、などと邪推したくもなる。
ただこの問題に関して私は、和多都美神社のように安産祈願のおり、箒を奉納する神社の数がとても少ないという点に注目する。中山は『蟹守土俗考』でそのような習俗が残る神社は、全国でも対馬の和多都美神社だけではないかとしているが、いちおう、そうした信仰の残る神社がまだ他にもある(言うまでもなく湊神社もその1つ)。しかし管見では、その数は非常に少ない。そしてこの「少ない」ということが、むしろそれらを深刻なものに感じさせるのだ。
例えば、奈良県葛木市加守に鎮座する式内大社の葛木倭文坐天羽雷命神社は、「蟹守」という名字の家が神職を務め、鎮座地の地名も加守(かもり)である。またじっさいに本殿には、天忍人命(掃守連の祖神)を祭神とする掃守神社が配祀されており、この古代氏族の本社ともされる。しかし、当社には産婆の祖神を祀るという信仰はあるものの、箒を奉納して安産を祈願するそれはない。
葛木倭文坐天羽雷命神社
また、島根県簸川郡斐川町大字神永に鎮座する加毛利(かもり)神社には、蟹守の後裔が宮崎から移り住んで、ヒコホホデミ尊とトヨタマ姫とウガヤフキアエズ尊の三柱を祀ったという由緒がある。だが、『神国島根』やネットで調べる限り、当社にもそのような信仰は無いようである。
もしも、九州のはるか沖合に浮かぶ対馬の和多都美神社の信仰が、上述の、安産のために妊婦の枕元に箒を立てるとか、産気づいたときは妊婦の腹を箒で撫でるといった俗信の影響を受け、近世になってから生じたものならば、同じ影響を受けて、今、言った掃守連と関わり深い神社などでも、箒を奉納して安産を祈願する習俗が生じて良さそうな気がする。また、安産祈願で箒を奉納する神社の数じたいが、全国にもっと多くて良いのではないか。
しかし私の知る限り、そのような神社は全国にたったの6社しかないのである。
そこでまずそれらの神社を紹介してみる。
蟹守土俗再考(2/4)につづく