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かむとけの木から(4)【大和以前の大和の祭祀】

2013年05月04日 07時01分12秒 | 船木氏

★「かむとけの木から(3)」のつづき

 『常陸国風土記』那賀郡の「くれふしの山(「くれふし」の漢字は「●(「日」へんに「甫」)時臥」)」では、ヌカ姫の許に誰とも知れない男が訪ねてきて妻問いし、懐妊した彼女が生んだのは小さな蛇であった。しかし、その蛇がだんだん大きくなると家では養いきれなくなくなり、やがて伯父のヌカ彦は父神のいるところへ行くよう言い渡して、追い出してしまう。そこでこの蛇もまた昇天しようとするのだが、驚いた母の投げたヒラカが当たって「くれふし山」に留まった。昇天しようとした時の彼は雷撃によって伯父を殺しているため、彼とその父も雷神格だったとおもわれる。

 
朝房山遠景(中央奥で山頂だけ頭を出している)

朝房山は茨城県水戸市・笠間市などの境にある標高201mの山で、
『常陸国風土記』那賀郡条の「くれふし山」に比定される

 


朝房山々頂


朝房山々頂の石碑
通常の表記と異なり朝房山ではなく「浅房山」と彫られている


同じく山頂にある小祠
ヌカ姫とその子の蛇を祀ったものだろうか

 「くれふし山」の、誰とも知れない男が女の元を訪ねてくるというのは典型的な三輪山型の神婚説話であるまた、『山城国風土記』逸文「可茂の社」は丹塗り矢型の神婚説話だが、『古事記』には、川で用便中のセヤタダラ姫のもとに三輪山の神が丹塗り矢となって流下し、やがてヒメタタライスケヨリ姫が生まれるという同型の伝承がみられる。総じて、これら類縁性のある神婚話群を介してつながるのは男神の雷神格なのだ。 

 ここから推して、『日本霊異記』の「雷の憙を得て、生ましめし強力在りし縁」で落ちてきた雷神が、農夫に楠の木で水槽を作らせて天に昇っていったというのも、もともとは雷神との神婚で生まれた子が父を探して天に昇るという筋が古い形態だったとおもう。また、今は失われた子小子部氏の始祖伝承でも、主人公のスガルが父を探して三輪山にゆくという説話があったのであり、それが皇室神話に取り入れられる過程で、雄略天皇の勅命でこの山の神を捕らえにゆく形に改変されたようにおもわれる。 

 したがい、小子部氏は三輪山の大物主神の子孫という由緒をもつ、大和のたいへん古い土着豪族だったことになる。小子部連は『新撰姓氏録』左京皇別に「多朝臣同祖。神八井耳命之後也。」とあり、和泉国皇別にも神八井耳命が彼らの祖とある。『古事記』神武記の、神八井耳命を祖とする同系氏族が列挙してある箇所の記事によってもこのことは確かめられる。 

 『古事記』によれば神八井耳命は神武天皇の兄だが、自ら政治に向かないと悟って弟に皇位を譲り、神祇の祭祀をもっぱらとするようになったという。ただし記紀は彼が奉祭した神の名を明らかにしていない。いっぽう、志田淳一は系譜関係に着目し、『古事記』『先代旧事本紀』で神八井耳命を生んだことになっているイスケヨリ姫が、三輪山の大物主神の娘であったことなどから彼が奉祭したのはこの神とした(志田『古代氏族の性格と伝承』)。 

 ちょっと話がはずれるが、神八井耳命を始祖とする代表的な氏族は多(=意富)氏である。そして彼らの氏神は大和国十市郡の式内明神大社、多神社であった。この神社は三輪山々頂の真西に鎮座し、本殿は南面するものの、一ノ鳥居は東面してこの山の方向を向いている。飛鳥川の自然堤防上に鎮座する当社境内は弥生時代の遺跡として知られ、祭祀遺物なども出土しているようだ。おそらく非常に古くからこの場所で三輪山を祀っていた祭祀が当社の淵源であり、皇室の先祖が大和盆地に進入する前から多氏がその祭祀に携わっていたのだろう。あるいは彼らもまた、三輪山の神との神婚で始祖が生まれる伝承をもっていたのではないか。 


多神社

大和国十市郡の式内明神大社


多神社々殿


多神社遠景


多神社の一ノ鳥居から遠望する三輪山
春・秋分の日にはここから眺めた山頂ふきんで
日の出が観測されるという

 ちなみに、上記の「くれふし山」の伝承が伝わる常陸国那賀郡は、かつては那賀国という独立した国であったが、「常道(=常陸)仲(=那賀)国造」は『古事記』神武記の、上述した神八井耳命を祖とする同系氏族が列挙してある箇所で意富(=多)臣や小子部連と並んで名前があがっている。

 『延喜式』神名帳には那賀郡内の筆頭に大井神社という神社の登載があり、その祭神は初代那賀国造とされる建借馬命である。が、「大井」の「大」は、多(意富)氏の「おふ」とされ、当社の祭祀には多氏が関わっていたらしい(というか、建借馬命じたいが神八井耳命の子孫ではないかと言われる)。
 大井神社は「くれふし山」の真西に鎮座するが、このことは大和の多神社が三輪山々頂の真西に鎮座していることを強く思い出させる。大和岩雄は、「三輪山と朝房山(くれふし山)に同じ神人婚姻譚があり、多氏の神社と意富と称する村がその山の真東と真西にあり、この伝承が甕にかかわることなどの共通性は、単なる偶然の一致とはいえない。(『日本の神々11関東』大井神社の項p378)」と述べ、「くれふし山」につたわる三輪山型の神婚説話は多氏系の那賀国造が大和から持ち込んだ可能性を示唆している。多氏は三輪山の神との神婚で始祖が生まれる伝承をもっていたのではないか、という疑いはこうしたことからも強まるのだ。 


大井神社
常陸国那賀郡の式内社
水戸市飯富町に鎮座


同上
近世には徳川光圀が崇敬し、石段の奉納もあったというが、
古社らしいたたずまいはわりと希薄

 そうしてまた、『古事記』神武記にある神八井耳命を祖とする氏族の一覧は、三輪山の神の血統につらなる古い氏族というカテゴリーを分母に作成されことが示唆される。

 

かむとけの木から(5)」につづく

 

 

 



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