神社の世紀

 神社空間のブログ

名前の大胆すぎる式内社はとても巨岩好き(3)【天照大神高座神社(大阪府八尾市教興寺)】

2013年02月08日 00時00分05秒 | 磐座紀行

★「名前の大胆すぎる式内社はとても巨岩好き(2)」のつづき

 それはともかく、この高蔵山の山頂にあった神社には、何故かとても惹かれるものを感じる。この山に登って旧社地を尋ね当てたい、── が、高蔵山は現在、北半分が航空自衛隊の基地になっていて、山頂近くまでだいぶ地形が改変されている。このため、半ばは旧社地の探索を諦めていたのだが、2011年8月8日にMURY氏が主催する『岩石祭祀学提唱地』サイトの掲示板で、チェリー氏という方が「高蔵神社(その1)」「高蔵神社(その2)」という記事を書き込み、そこに旧社地へのルートが入った地図などを載せていたのである。そこには山頂にある磐座の画像までアップされており、これがかなり顕著な巨岩であることにも驚かされた。直ちに行きたいと思ったが、実際にはバタバタと業務が忙しく、また秋に行ったときは茸のシーズンで山頂ふきんは入山禁止にされていたりしたため、結局、翌年の春にやっと探訪できた。しかし期待に違わぬ見事な磐座に出会えたのである。

 高蔵神社旧社地は山頂からやや西にさがった地点である(そこまでのルートの説明は、前述の掲示板にあるチェリー氏の記事にゆずる。)。  

だいたい、この辺り
Mapion

 山とは言っても高蔵山の標高はわずか194mなので、五社大明神社の駐車場に車を駐めてから歩いたとしても、せいぜい3~40分くらいでこの旧社地にたどり着いてしまう。 


社号標

 旧社地の近くには黒い石でできた社号標があり、昭和3年11月の年紀がある。昭和年3年というと、もう高蔵神社は五社大明神社に合祀されていたはずだが、それにしてはずいぶん立派なものだ。合祀されてからも、この場所に対する信仰が根強く残っていたことを感じさせる。 


高蔵神社の旧社地に残された小祠
 

 やがて小祠の残された旧社地に到着。こんな山の上だが、社地のふきんは結構、綺麗にしてある。定期的に人の手が入って管理されているらしい。 


同上

ふんいきあります
 


同上


立ち枯れした杉の肌が印象的


社殿の背後に磐座が見える

位置関係からいって、かつての神体であったことは間違いない
 


高蔵神社旧社地の磐座
堂々たる存在感

式内社クラスの古社が祀っていてもおかしくない磐座である
 


同上


同上
祭壇のようなフォルム


同上
山を登る途中、こんな不自然な岩の露頭は他になかった
人為的に搬入されたものではないか


同上
破壊された古墳の石室ではないかとも疑ったが
現状ではどう見てもそうは思えない


同上


同上


同上

この隙間が夏至とか冬至の日の出ラインと重なれば、
古代人による太陽の観測装置とか言い出す人、きっといるだろうな

すぐ裏手には自衛隊基地が迫っている
どきどきフェンスの向こうを自衛官を乗せたジープが通過していた

 これほど顕著な磐座祭祀がみとめられる以上、高蔵神社が古社であったのは間違いない。 

 そのいっぽうで次のような興味深いことにもこの探訪で出会った。

 高蔵神社旧社地への参道を登る途中、「御来迎の碑」というものがあり、その由来を説明した高蔵地区コミュニティ推進協議会の立てた看板に次のようにあった。すなわち、承平三年(933)、比叡山の僧侶であった智蔵は諸国巡回の旅の途中、山紫水明のこの地に仏法興隆の兆しありと観相し、ある日の夜半すぎ、高蔵山に踏み入って静かに座禅を組み、瞑想していた。やがて微かな光が浮き出てきて七色に光り輝き、東の空が瑠璃色に澄み渡ってみ仏が出現し、自分は薬師如来で人々を救うために再び現れると智蔵に告げたという。「僧正は禅定から覚め、東の空に向かって静かに合掌なされていると、山の背から赤々と朝日が昇ってきた。その日はちょうど春の彼岸のお中日のことでありました。今、薬師如来様は灯明山高蔵寺境内の薬師堂に祀られています。」(カッコ内原文)。  


御来迎の碑


高蔵地区コミュニティ推進協議会の看板


高蔵神社の横にあった石仏
高蔵山に入って瞑想する智蔵の姿を彫ったもの?
 

 この伝承は高蔵寺の開基伝承の姿を借りているが、この寺院の創立される前から高蔵山で春分の日に昇る太陽の祭祀が行われていたことを暗示しているのではないか(彼岸の中日は春分の日のこと)。その場合、そのような太陽の祭祀を行っていたのが、高蔵神社であった可能性は非常に高い。そういえば天照大神高座神社も、大和岩雄が『天照大神と前方後円墳の謎』で春・秋分の日の出ラインとの関係を論じていた(住吉大社のある場所から見るとこの神社のある辺りから春・秋分の太陽が昇るとか)。こうしてみると、天照大神高座神社が尾張国春日部郡から遷祀された神社で、高蔵神社はその元社だったという推測はかなり良い線を行っている感触がつかめる。  

 

 

 

 


天下春命の磐座(?)【小野原稲荷神社(埼玉県秩父市荒川小野原)】

2012年11月14日 22時30分29秒 | 磐座紀行

 秩父地方には岩を祀った形跡のある神社が多い。その中でも先日、訪れた小野原稲荷神社は印象的だった。

 当社は秩父市荒川小野原に鎮座している。秩父市街地から彩甲斐街道を山梨方面に向かうと道の駅を過ぎてから荒川にかかる橋がある。渡るとすぐに、街道に面して朱塗りの鳥居が立っているが、これが当社の一の鳥居だ。山間部にしては大きくて立派と言えるだろう。

 稲荷神社という神社は無数にあるが、創祀が中世以前にさかのぼるものはほとんどない。したがって普通なら稲荷という神社にはあまり興味をひかれないのだが、当社は付近の環境に「これは古社ではないか。」と感じさせるものがあった。就中、辺りにただよう清浄な空気感が紛れもなく古社のものである。思わずそれに惹かれて参詣した。


一の鳥居

 一の鳥居から眺めても、正面にまだ神社らしいものは見えない。分かるのはただ、奥のほうで道が山に取り付き、そこでカーブしながら上り坂がはじまる様子だけだ。こういう意外性ある奥行き感がまた古社っぽい。


社頭のふんいき

 社地は一ノ鳥居から300mほど入ったところにあるが、社頭から眺めた時の印象はかなり凡庸だ。山の斜面にあるため、境内がそれほど広くないことが察せられるし、何度か火災に遭ったせいかあまり古木が見えないせいもあるだろう。鉄筋コンクリート造りの社殿も、正直に言っていささか興ざめする。ただし、看板にある由緒を読むと、やはり古社だという直感の正しかったことが分かる。

 『参拝のしおり』にある由緒を引用する。

「今からおよそ千三百年ほど昔、孝徳天皇の大化四年という年は長い間、雨が降らなかったので、農作物が枯れそうになりました。そこで人々は高根山の中腹に集まり大きな岩を神座として雨乞いをしました。するとたちまち雨が降ってきたので人々は生き返ったような思いがしました。そして秋には豊年万作の喜びにわきました。

 そこで人々は神の恵みに感謝して社(やしろ)を建て、この地の鎮守の神として敬いました。後、文禄三年(四百年ほど昔)現社地に遷座しました。こうして宝暦七年(二百四十ほど昔)伏見稲荷神社から正一位稲荷大明神の称号を拝受しました。
 そして明治元年、稲荷神社と改称しました。昭和三十六年に火災のため旧社殿が焼失したので社殿を再建しましたが、昭和四十九年再び原因不詳の火災により全焼しました。現社殿は昭和五十年に造営したものです。」

 全体にこの由緒には妙に気を惹くものがある。秩父地方にある古い神社の社伝には日本武尊の登場するものが多いが、この由緒にはそれがないことや、大化四年(648)というのも秩父地方にとってとりたてて意味をなさない年号であることなど、あまり紋切り型ではないところがかえってリアルである。高根山の中腹に祀ったという巨岩のことも磐座祭祀を思わせるし、とにかくこれを読めば明らかに古社だと了解される。

 社頭からつづく石段は比較的緩やかだが、それが直角に折れると、南面する社殿の前まではかなり急になる。そして後者の途中、明神鳥居の向かって右側に、とても独特な曲面をもつ石垣がある。


反り返った石垣


同上


同上


同上


同上

 宮屋根の反りに似ていることから、この石垣の勾配を宮勾配(扇の勾配)と呼ぶそうだが、私はこれまで他の場所でこれに似たものに出合った記憶がない。どことなく古代ローマの遺跡のような存在感があって、すごいインパクトだ。享保18年に築造されたそうだが、この年は前年の虫害によりひどい飢饉に襲われた。そこで当社は米穀を施して棄民の救済にあたり、このため人々は神恩に感謝し、進んでこの仕事に就いたのでたちまち完成したという。


当社々殿

 上に引用した由緒にもあったとおり、当社は火災に遭っため、現在の社殿は昭和五十年に建築された鉄筋コンクリート製のまだ新しいものである。ちなみに、鉄筋コンクリート製の社殿がもっとも似合う神社は稲荷神社だと思う。


看板

 さて、当社の濫觴と伝わる「神座として雨乞いの行われた大きな岩」はどこだろう、と思っていると、上のような看板が見つかる。さっそく磐座を期待してこの奥社に向かう。社殿の左手から細い道を登って5分ほどのところだ。


奥社


奥社内部

 奥社があるのは社殿背後の尾根が突起状に高まったところで、一の鳥居の辺りから眺めるとちょっと神体山を思わすものがある。


鳥居と石標の間にある高まりが奥社のある地点

 しかし、この奥社のところに岩石らしきものは見当たらなかった。そこでこの宮の前を通り過ぎて、同じ道をもう少したどると、尾根に沿って横たわる枕状の大きな岩の露頭に出合う。大きすぎてとてもカメラには収まらなかったが、これがかつての磐座かもしれない。


磐座? とても気になる岩の露頭


同上


同上
 


同上
 

 岩の近くはたまたま用材林が伐採されていて見晴らしが利いた。武甲山がくっきりと眺められてハッとさせられる。あるいはこの岩は、この山を遙拝する祭祀と何か関係があったかもしれない。 


岩の近くから眺める武甲山
 


同上
 

 武甲山と言えば秩父神社の神体山だが、当社の祭神については諸説ある中で八意思金神の子、天下春命とするものがある(現在の公式の祭神は、八意思兼命と知知夫彦)。天下春命は武蔵国多摩郡や相模国愛甲郡の式内社の小野神社でも祀られているが、そうすると当社の鎮座地である小野原の「小野」も、こうしたことと関係があるかもしれない。  


秩父神社

 

【小野原稲荷神社データ】 

埼玉県秩父市荒川小野原327に鎮座31
Mapion
 

祭神は宇迦之御魂命、大宮比売命、神倭磐余彦命 

 由緒は上に引用した通りだが、当社は中世期にも栄えていたらしく、そのことが分かる「例大祭の由来」を『参拝のしおり』から引用する。 

「今からおよそ八百年ほど昔、源頼朝は畠山重忠に命じて建久三年正月二十八日当社に参詣させ、天下太平をお祈りさせました。じつはその数日前、一月二十一日に、平忠光が頼朝の暗殺を企てて捉えられる、という事件が起こったのです。それで頼朝は神のご加護を祈ったものと思われます。その祈りが神に通じたものか、頼朝はその年の七月十二日には征夷大将軍となって鎌倉に幕府を開くことができました。
 それから毎年家臣をつかわして当社に参詣させたということです。こうしたゆかりで正月二十八日を祭の日と定めたと言われます。〈中略〉昭和十六年頃から例大祭は三月二十八日と定められました。」

 

 

 


腰掛石とは何か【腰掛神社(神奈川県茅ヶ崎市芹沢)】

2012年06月01日 23時55分56秒 | 磐座紀行

 先日、神奈川県茅ヶ崎市芹沢の腰掛神社という神社に行ってきた。式内社ではないが、市の天然記念物になっている樹そうに覆われた社地がなかなか神さびていて、素晴らしいふんいきだった。

神奈川県茅ヶ崎市芹沢の腰掛神社
Mapion

★由緒等は一番下に掲載

社頭のふんいき

参道

社殿

同上 

本殿

拝殿横の古木

すり減った石畳

社地の北側に広がる樹そう

 社名の由来になっているのは、社殿の向かって左側にある高さ40cm、タテヨコ100cmほどの上が平たい石である。この石は「腰掛玉石」と呼ばれ、伝承によれば東征の途次、日本武尊(大庭大神という説もある)が腰掛けて休息したものという。

腰掛玉石

同上

同上

 総じて、これと同種の「腰掛石」は全国いたるところにあるので、見かけた人もいるだろう。『世界大百科事典』の「腰掛石」の解説には次のようにある。 

 「神や英雄,または歴史上著名な武将や高僧などが腰掛けたと伝えられる石。休み岩,御座石(ございし)ともいい,その多くは神社の境内にある。石に腰掛けた人物はさまざまであるが,いずれも遠来の貴人という一致点がある。これらの石は神聖な霊域での祭壇に使用されたものと考えられ,常人がむやみに腰掛けたり近づいたりするのは禁ぜられていた。もともと神の影向(ようごう)の由来が長い時を経過するうちに忘れられ,それが歴史上の人物に置き換えられるという合理的解釈がなされたのであろう。」
 ・コトバンクにあったテキストをコピペ 

 要するに「腰掛石」は岩石の上に神霊が影向するという古代信仰の遺物であるというのだ。たしかに「腰掛石」のほとんどが神社の境内にあることを見れば、これらの岩石が何らかの在来信仰に関係していたことは間違いあるまい。しかし、以前から不思議に思っていたのだが、そのわりに「腰掛石」は、かつて神社で神体として祀られた形跡があまりないのである。 

 例えば次のようなことが指摘できる。神社で神体として祀られていた岩石は一般的に磐座と呼ばれる。そして磐座は社殿の背後に位置することが多い。これは社殿建築がなかった頃から磐座を信仰していた神社が、後世になって社殿を設ける際、かつての神体を拝する位置にそれを建てるからである。ところがこれに対し管見では、「腰掛石」は社殿背後ではなく、その手前にあることが多い(拝殿前の隅のほうで、謂われを書いた看板と並べて置いてある、というのがよくあるパターン)。 

 また、腰掛神社の腰掛玉石は台座の上に載せられ、それを覆う屋根と木の柵もあったが、こういうケースはむしろ例外で、大部分の「腰掛石」は雨ざらしにされ、さほど大事にされている様子がない。一応はしめ縄がされていることもあるが、これは信仰の対象であるためというより、人が座るのを防ぐという実務的な目的のためにそうしている感じがする。少なくとも、「腰掛石」の中に古代から信仰を受けてきたという神さびた趣きのあるものはあまりない(と思う。)。 

 とにかく、こうしたことから私は、「腰掛石」は磐座ではなかったのではないかという疑いをいだいている。 

 しかし、磐座ではないとしたら「腰掛石」とは何なのか、また「腰掛石」と磐座の違いは何なのか。 

 「腰掛石」の特徴の一つとして、腰掛けたと伝承されているのが神ではなく、有名な天皇とか武将とか僧侶とかとされることが多い、ということが挙げられると思う。たまに人ではなく神が腰掛けたという例もあるにはあるが、圧倒的に多いのは人である。また、その形状も大部分の磐座と違っていかにも人間が腰掛けるのにちょうど良さそうな格好をしている。 

 いっぽう、磐座について書かれた本によれば、一般に磐座と呼ばれているものには、岩石じたいを神として祀った「石神」と、神霊が寄り憑くヨリシロとしての「磐座」の例があるそうだ。

 じっさいに全ての磐座を「石神」と「磐座」に二分できるかどうかはともかく、こうした分類じたいは首肯できるだろう。その場合、前者は物をそのまま神として信仰するのに対し、後者は物じたいではなく岩石に憑依した神霊が信仰の対象である点、「石神」から「磐座」へは神観念の進化が認められる。 

 さて、「物じたいを神」→「神霊を神」とくれば、次にくる発展段階は「人格神を神」だろう(少なくともわが国ではそうだったと思う。)。その場合、「腰掛石」は磐座と違い、この「人格神を神」の段階になってから信仰を受けるようになった岩石なのではないか。すなわち、もはや神が人格神としてしか想起されなくなった時代、人々の宗教生活においてほんらいなら岩石が信仰の対象となる余地は無くなっているはずなのだが、それでも神社ではそうした物神信仰の記憶が残響のように残っていたため、人が腰掛けるのに都合の良さそうな岩石があると「腰掛石」として一定の信仰を受けていたのである。 

 その場合、多くの「腰掛石」は生じさせたのは、またしても神社の記憶の力だったということになると思うのだが、どうだろうか。  


茅ケ崎市芹沢2169に鎮座、腰掛神社

祭神 《主》日本武尊、《合》大日霊貴命・金山彦命・白山彦命・宇迦之御魂命

平成祭りデータにある由緒は以下の通り

「創立年代不詳なるも、相模風土記稿に「芹澤村腰掛明神社村ノ鎮守ナリ。大庭ノ神腰ヲ掛シ旧跡ト言傳フ。想フニ旅所ノ跡ナドニヤ、小石一顆ヲ置神躰トス。本地大日、寛永12年8月19日勧請、爾来此日ヲ以テ例祭ヲ執行ス。」とあり。 

 再建 寛政元年11月、現在の本殿は大正7年の再建、拝殿は震災後再建なり。本社には別當修験職並びに社殿鍵取職なるもの代々附嘱して社務を取扱ひしを以て関係古書類を保存し来りしが、天保4年4月、鍵取職矢野新兵衞方の居宅火災に罹りしを以て、遂に之を焼失す。 

 景行天皇の朝皇子・日本武尊御東征の際、此の地を過ぎ給ふ時、石に腰を掛け暫時此處に御休息せられ、西の方大山を望み指示して大いに喜び給ふ。後、村民永く其の霊跡を存せんとして社を建て尊を祀りしと言伝ふ。今猶社前に一大石(凡 長さ2尺9寸 幅2尺5寸)あり 腰掛玉石と称す。祭神 日本武尊 明治六年、村社に列せられ、越えて明治42年、幣帛指定村社に列せらる。

 

 

 


穀霊白鳥(2)【杓子の森の磐座(滋賀県米原市上野)】

2012年02月04日 21時18分28秒 | 磐座紀行

★「穀霊白鳥(1)」つづき

 以後、伊吹山の神と戦ったヤマトタケル尊の神話には、湖北地方の古代人が信仰していた穀霊の伝承が混入しており、その伝承とは「湖北地方の(稲の)穀霊は秋になって収穫の時期になると伊吹山に登り山の神に殺害される。しかし、春になって田植えの時期になると、山麓にある居寝の清水で復活を遂げ、湖北地方に広がる田に戻ってゆく。」というものだった、また、『藤氏家伝』で地元の人が藤原武智麻呂に語ったヤマトタケル尊の最期は、記紀のそれよりも古い伝承だったと前提し、いちいちそのことを断らない。

 『藤氏家伝』にある伝承でもう一つ、興味深いのは原文に伊吹山に登ったヤマトタケル尊のことが「昔、ヤマトタケル皇子、東北の荒ぶる鬼神を調伏して帰りて、この峡に至ると。そしてすなわち登るなり。登りて半ばならんとほっす。」とあるので、伊吹山の神を討とうとしたヤマトタケル尊はどうやら山の中腹辺りを目指して登っていった、と伝承されていたことである。どうして尊は山頂ではなく、中腹を目指したのだろうか。

 穀霊は田に稲がある農繁期は、人々が生活する日常の圏内にいる。いっぽう猛烈な荒ぶる神である伊吹山の神はこれとは別の、神の領域におり、両者は厳密な住み分けがなされていたはずである。その場合、穀霊が伊吹山の神に殺害され穀霊白鳥となった現場は、この山を登った穀霊が神と遭遇する、神の領域と人間の領域の境界ふきんだったと思う。

 兼康保明は「伊吹山山頂出土の石鏃」の中で、伊吹山々頂からは石鏃のような縄文時代の遺物は出土するが、弥生時代のそれは出土例がないことについて次のように述べた。

「私は稲作以前と以後では、人間の山に対する思いが異なっていたのではないかと、密かに思っている。稲作以後の古代人にとって、生活空間としての山は、里から手が届く範囲の高さを指したのであろう。〈中略〉そしてそれよりも上は、平地からの比高差が五〇〇~六〇〇メートル以上もあれば、生活とは直接縁の無い、まさに神の住む領域であったのだろう。おそらく、峠越えなど特定の道を別にすれば、山には垂直分布による、人と神との住み分けがあったのではなかろうか。」
 ・森浩一・門脇禎二編『ヤマトタケル(第2回春日井シンポジウム)』収録の、兼康保明「伊吹山山頂出土の石鏃」、同書p160より引用

 伊吹山で垂直分布による神と人の住み分けがあったとすれば、両者の領域のボーダー・ラインはどこにあったろうか。伊吹山は3号目辺りより上は樹木が育たず、山頂まで草場だけとなる。この論考で兼康氏は、この森林限界がボーダー・ラインで、湖北の古代人とってそこより上は神の領域だったという考えを述べているが、だいたい妥当な意見ではないか。

 その場合、湖北の穀霊が伊吹山の神に殺害されるためにこの山を登る時も、山頂ではなくこの3号目ふきんを目指したに違いない。『藤氏家伝』にあるヤマトタケル尊の伝承で、伊吹山の神を討とうとしたヤマトタケル尊が山頂ではなく、この山の中腹をめざしたのもこうしたことによるのだろう。

 伊吹山3号目には杓子の森と呼ばれる場所があり、そこに鎮座する白山神社のかたわらに磐座がある。「杓子(しゃくし)」も、「石神(しゃぐじ)」の意ではなかったかと言われ、ふきんには白鳳年間の開基と伝えられる松尾寺という寺院もある。古代からつづく磐座祭祀の聖地を意識して創建されたものだろう。

 私はこの磐座が、湖北の穀霊が伊吹山の神に殺害される神話となにか関係のある祭祀が行われていた場所で、ヤマトタケル尊/穀霊が殺害された現場も、この磐座のある場所ではなかったか、と妄想している。

杓子の森は伊吹山スキー場のゲレンデとしてかなりの伐採を受けており、
現在、森が残っているのは白山神社とそこへ登る長い参道の周りのみとなっている
しかし、かつてはふきん全体に広大な原始林がひろがっていたのだろう

右手に写っている鳥居が参道入口
左手の遠景に少しだけ頭を除かしているのが冠雪している伊吹山々頂

ゲレンデの脇に添って延びる参道部分の杓子の森

杓子の森の南端、白山神社と磐座のある辺り

杓子の森の入口

鳥居を潜ってすぐの辺り
西側(右側)は谷になって落ち込んでいる

長い参道を抜けると白山神社の社殿と磐座のある場所にたどり着く

磐座と白山神社々殿

北側から写した磐座

東側から映した磐座全景

この磐座は一見、2つの岩から成っているように見えるが、、、

じつは鞍部のような部分で繋がっている

磐座の岩は石灰岩
伊吹山は石灰岩でできた山なので、山中いたるところでこの岩を見かける

デザイン・チェアーのようなフォルムだ

西側から写した磐座

磐座の西側にもいくつかの岩が散在

白山神社の由緒は未入手、松尾寺の鎮守だったのだろうか

社殿の石段に付いた流水紋の装飾が妙に印象的

白山神社はしばしば水神系であることを感じさせるが、
なにかそのことと関係があるのだろうか

あまり人が来そうな場所ではないが、
社地は定期的に清掃を受けている感じ

社殿の前面には石灰岩を並べて結界が造ってある

同上

社殿のすぐ上方には松尾寺がある

松尾寺

 看板によると松尾寺は役行者の高弟だった松尾童子が、
天武天皇の白鳳二年(673)に開基したもので、伊吹山五護国寺の一とされる
はじめは法相宗の寺院で、往時は五十余の山坊が寺域にならんでいたという

松尾寺の奥に杓子の森

杓子の森の森の辺りからゲレンデを通して竹生島のほうを眺める

山腹と湖面の間にある横に広がった小高い山脈は七尾山
この山の尾根上には顕著な古墳群があり
その被葬者を息長氏に求める説がある

竹生島

 

 

 


穀霊白鳥(1)【杓子の森の磐座(滋賀県米原市上野)】

2012年01月29日 21時47分14秒 | 磐座紀行

 『藤氏家伝』に近江国守だった頃の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ@不比等の長男)が伊吹山へ登ろうとしたところ、土地の人が次のような伝説を語ったという。すなわち、「昔、ヤマトタケル皇子がこの山を登ろうとしたが、中腹で伊吹山の神に害されて白鳥となり、そのまま飛んで行ってしまった。」というのだ。とても恐ろしい場所だから登るのは止したほうが良い、というのである(結局、武智麻呂は登った。)。

 記紀によれば、ヤマトタケル尊は伊吹山に登って山の神に害され、下山してから居寝の清水を浴びることで正気に返ったものの、結局、そのダメージからは立ち直れずに伊勢の能褒野(のぼの)で病没したことになっている。景行天皇は尊の御陵を能褒野に造ったが、尊の魂は白鳥になって河内まで飛んでいった。そのいっぽう、この武智麻呂を説得しようとした人物の言うことを見ると、地元では山の神に害された尊は下山しないで山中でそのまま白鳥になって飛んでいったというふうに伝承されていたことが分かる。これは大きな違いだ。

 この武智麻呂のエピソードは『藤氏家伝』の下巻に収められており、筆者は武智麻呂の孫の延慶である。血縁者が書き残したものである上、時代的にも近いので信憑性がある。武智麻呂が近江国守だったのは和銅五年(712)から霊亀二年(716)なので、『日本書紀』が成立した養老四年(720)よりも早く、この近江の人が語ったヤマトタケル尊の伝説は、記紀のそれより古い形を伝えている可能性が高い。

 『古事記』にはヤマトタケル尊を害した伊吹山の神は牛ほどの大きさをした猪だったとあり、「伊吹山の神は誰ですか」でも書いたが、わが国のオオオクニヌシ神やギリシア神話のアドーニスのように、ユーラシア大陸の両端にはこのように猪に殺害される青年神の系譜が見られる。これらの神にはいずれも「ダイイング・ゴッド」としての古い穀霊の面影が宿っており、ここから伊吹山の神との戦いに破れたヤマトタケル尊の伝承にも、古くからこの地域で信仰されていた穀霊の神話が混入している疑いがある。

 おそらく、その神話とは「湖北地方の(稲の)穀霊は秋になって収穫の時期になると伊吹山に登り山の神に殺害される。しかし、春になって田植えの時期になると、山麓にある居寝の清水で復活を遂げ、湖北地方に広がる田に戻ってゆく。」というようなものだったろう。田畑で育てられてから収穫のために刈り取られる穀物の霊は、それゆえ、他者によって殺害される宿命にある。しかし殺害された穀霊は農耕のサイクルに従って春になるとまた冥界から呼び出され復活するのだ。

 その場合、伊吹山の神に害されたヤマトタケル尊がそのままこの山で白鳥になって飛んでいったと言う伝承は深刻なものとなる。というのも、『豊後国風土記』速見郷の「田野」の記事などから分かるとおり、わが国の古代人の間には穀霊白鳥の信仰があったからである。

 「田野」の記事とは次のようなものだ ── 。
 かつて速見郷に田野と呼ばれる肥沃な野があり、ここを耕作していた農民たちは自分のところで食べきれないほどの収穫があった。このため、彼らは自分たちの富に思い上がり、刈った稲を畝に放置したりするようになった。その挙句、餅を弓の的にして遊んだところ、餅は白鳥となって飛び去った。農民たちはその年のあいだに死に絶え、それから田野の土地は水田に適しなくなった、という。

 餅を的にして遊んでいるとそれが白鳥になって飛び去ったというモチーフは、『山城国風土記』逸文の秦伊侶具の記事にも見られるが、この白鳥は餅に宿っていた稲の穀霊である。田野の記事は穀霊に見放されるとどんなに稔り豊かであった田も荒地となり、農民たちは死に絶えるしかない、という古代人の信仰をよく伝えている。ヤマトタケル尊の魂が白鳥になって飛んでいったという記紀神話も、一般的には死後の魂がそういう姿をとるという古代人の信仰を示すものだと解釈されているが、尊が白鳥になって飛んでいったのが伊吹山中であったとなると、殺害された穀霊が白鳥の姿になって飛んでいったという古い伝承がヤマトタケル尊のそれに混入した結果とも解釈できる。

伊吹山

 

穀霊白鳥(2)」つづく