★「都美恵神社(1/2)」の続き
都美恵神社
現在の都美恵神社は丘の上に社殿を持ち上げ、その前面に築かれた石垣が高いテラスのような外観をつくっている。下から見上げていた時はわからなかったが、石段を登って拝殿のところまで行くと、本殿は拝殿よりもさらに一段高い、奥まったスペースにあった。ところが地形上の制約からこの本殿の載っているスペースがたいそう狭く、そのため、そこに並んでいる社殿がいかにも窮屈そうなのである。しかも拝殿の立派な規模と比較すると、本殿のそれはいかにも小さすぎて、ほとんど気の毒にさえおもえる。これもまたスペースによる制約のせいだろう。このため参拝をしている間中ずっと、どうしてここまで無理して高いところに社殿を構えるのか不思議に感じていたのだが、参拝を終えて振り返ると、旧社地があった霊山の姿が目に飛び込んできて納得した。別の場所でも書いたが、あきらかにこの社殿は、旧社地が遠望できることを意図して高い場所にしつらえられているのである。
本殿は拝殿よりもさらに一段高い、奥まったスペースにあった。
拝殿の前から眺める霊山
この拝殿から眺める霊山の姿は胸をうつ。まるで都美恵神社は、霊山にあった旧社地の穴石谷が忘れられないで、遷座後もずっとそこを見守っているかのようだ。思わず「望郷」という言葉が浮かんできた(こんなことを書くと感傷的になっていると思われるかもしれないが、現地に立つと本当にそんな感じなのだ。)。
当社の旧社地があった穴石谷は霊山のどこにあったのだろうか。『日本の神々』は、「社蔵の由緒書きによれば、正保三年までは町の南々東三キロの霊山北麓」にあったと書くが、その具体的な場所までは触れていない。が、かつて穴石谷に鎮座していた都美恵神社は、洪水によって社地が決壊したために現社地に遷座してきたのだから、今でもその痕跡が地形上に残っているのではないか。そう考えて、霊山北麓で大規模な山崩れの痕跡がある谷がないか地形図に当たってみた。そうしたところ、ちょうどそんな谷が見つかったのである。
そこは、伊賀道の駅がある名阪国道のサービスエリアから約1kmほど南にある谷で、霊山の北麓にあたっている(くわしい場所は下のマピオンを参照)。
この谷は現在、少し入ったところに大きな砂防ダムがあって、そこから奥は入れなくなっている。いちおう、谷を三方から囲む急斜面の上には、それを取り巻くように林道が巡らせてあるが、そこからもこの砂防ダムの奥になっている部分に下りる道はついていない。つまり、この地点は現在、人が入れなくしてあるのだ。上の林道から眺めた感じでは、内部は原生林と化しつつあるようだった。
この地点は上から見ると谷のまわりが砲弾を逆さにしたような形に深く落ち込み、ちょうどナイアガラの滝(カナダ滝のほう)のような地形になっている。あきらかに過去に大規模な山崩れがあり、土砂が流れ出たことを示すものだ。そして、この谷じたいに名前があるのかどうかはわからないが、この谷を流れる川は「崩川」という。おそらく、こうした災害に由来する名前だろう。私が地形図等で探した範囲では、霊山北麓で大規模な土砂災害の記憶を留める地形はここにしかない。とすると、穴石谷はここにあったのではないか。
崩川ダムの近くで見かけた大きな石
一通り上の林道をまわってみてから、下の谷に下りて砂防ダムを近くから見上げられるところまでやってきた。ダムには、「崩川ダム」というネームプレートが貼ってあり、高さ14mとか幅123mとかのデータが書いてあったので、何かの資料になるかとおもって撮影してきた。ところが、うっかりして肝心のダムの全景画像を撮ってこなかった。これは悔やまれる。ダムを見上げながら私は、伊勢津彦が立て籠もった石城はこの奥にあったのではないか、今でも石城の残骸だった巨岩が中を探せば残っているのではないか、などといった妄想を膨らませていたのだ。今になってみると、谷底から見上げていたこのダムのイメージが、伊勢津彦が立て籠もって、阿倍志彦を敗退させたという石城のそれと妙にダブってしょうがない。
ダムのふきんでは高さ1~2mの大きな石がいくつかかたまっているのを見かけた。この石のある辺りは現在、用材林となっているが、昔は田だったようである。耕作に不便なので山林に転用されたのだろう。もしかすると、かつて同じような石はもっとあったが、耕作の支障となるので運び出されてしまった可能性もある。また上の林道を歩いているとき、その舗装されてない林道が雨が降った時に沢になるらしく、一部の路面が筋状にえぐれていた。そしてそんな場所はどこも水が流れた時に洗い出された大小の石がおびただしくむき出しになっていたのである。ふきんの地質が石を多く含むものであることを示すものだろう。したがって、穴石谷がこの谷にあったとすれば、穴石谷には浸食によって露頭してきた岩石のたくさん集まっている場所があり、伊勢津彦がたてこもった石城とはこのようなものではなかったか、とする私の推測とも合致しそうだ。
ただし、『日本の神々』がひく社蔵の由緒書きには「(柘植)町の南々東三キロの霊山北麓」とあるが、その場合、方位は合致するが距離はそれほど離れていないのが気になる。というのも、とりあえず柘植中学校のある辺りが柘植町の中心であるとして、そこから計るとこの地点はだいたい2km強しか離れていないからだ、── あるいは穴石谷は崩川のもっと上流にあるのか・・・。いずれにせよ私は、この川の流域で過去に土砂災害があった痕跡の残る場所を探せば、穴石谷が見つかるのではないかと考える。機会があればもっと踏査を続け、神職の方などにもお話をうかがってみたいとおもう。
私は昭和45年の地図を参考に調査を進めているのですが、座標で 34.819895, 136.259415 の位置が穴石谷付近だとされています。