神社の世紀

 神社空間のブログ

孤独な場所で(2)【入水する娘たち】

2012年09月28日 00時11分33秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(1)」のつづき

 まず、桂が重要である。

 中国の古典、『西陽雑俎』には月の中に桂の樹とガマガエルがいるとある。また、月面には巨大な桂があり、呉剛という仙人がそれを切り倒そうとする姿が見られるともある。 

 呉剛は仙術を学んだが、過失により月に流され、切っても切口がすぐにふさがって倒せないこの木を切り倒す永劫の罰を受けている。ここから転じて「月桂」は、眼には見えながらも、手には取ることのできないあこがれの譬えとなったが、そのいっぽうでこの切り倒せない桂の木は、月が不死の信仰と結びついていることを暗示している。  


桂の大木
 

ちなみに中国でいう「桂」は、わが国の木犀なのだそうだ

 それはともかく、月桂の故事はわが国にも早くから伝わっていたようで、『万葉集』巻四には湯原王の「目には見て手には取らえぬ月の内の 桂のごとき妹をいかにせむ」の歌がある。湯原王は光仁天皇の兄弟で、天平前期頃の人物である。 

 さらにまた京都市右京区にある桂は、桂離宮があることで有名だが、古くから月の名所であった。桂離宮じたいが月のことを非常に意識した建築として知られるが、この離宮の敷地にはもともと藤原道長の別業があり、そこで歌われた歌の中には月を愛でる内容のものが多い(この別業で行われた観月の宴の様子は『紫式部日記』にも出てくる。)。近くには月神を祀る式内明神大社の月読神社も鎮座し、『日本書紀』顕宗天皇3年(487年)条には当社が壱岐から勧請された由緒の記事もある。  


右京区の月読神社

 こうしてみると桂の木が月と関係深いという観念は、結構、古い時代からわが国にも伝わっていたことがわかる。  


桂離宮

 さて、海神宮を訪れたヒコホホデミノ尊は桂の木の上にいたことになっているが、これはこの木がヒモロギで、彼がそれに憑依したことを神話的に表現しているのである。 

 ただ、問題はそれが桂の木であることだ。どうしてヒコホホデミノ尊は月と関係が深いこの木に憑依したのだろうか。「海幸・山幸」の神話がほんらいは隼人たちのものであったこと、彼らには月神を祀る習俗があったことを考えると、大和岩雄も指摘するようにここでの彼には、隼人たちが祀った月神の要素が混入していたと考えられる。 

 ちなみに『山城国風土記』逸文とされるテキストに以下のようなものがある(本当は古風土記の逸文ではないらしいが)。 

「月読尊、天照大神の勅を受けて、豊葦原の中国に降りて、保食神の許に到りまし。時に、一つの湯津桂の樹あり。月読尊、乃ちその樹に寄りて立たしましき。その樹のある所、今、桂の里と号く。」 

 前述した京都市右京区の桂の地名起源説話であるが、ここに登場する月神の月読尊も高天原から下界に降り立った際に「湯津桂の樹」近くに寄り立っている。その行動は海神の宮殿を訪れたヒコホホデミノ命のそれときわめてよく似ており、後者に隼人たちが信仰していた月神格が混入していたという考えを支証するものである。  

 さて私は、海神の宮殿を訪れたヒコホホデミノ命の伝承のうち、「宮殿の前にある井泉の傍らにある桂の木に登っていたところを発見されて、トヨタマ姫と結ばれる。」という部分は、おそらく古代に行われた隼人の月神と、それに仕える巫女との神婚儀礼の記憶を伝えるものだと考えている。この儀礼を復元してみよう。まず、ヒコホホデミノ命が井戸の傍らにある桂の木に登った等が、この木に月神を憑依させたことの神話的表現であることはすでに述べた。 

 だが、どうして、その木は井戸の傍らになければならなかったのか? 

 古代の水辺は神婚の舞台で、そこには洋の東西を問わずしばしば「水の女」がいて神と結ばれる。「海幸・山幸」の場合はトヨタマ姫が「水の女」なのであり、ここにおける井戸は、「ヒコホホデミノ命=隼人たちの月神」が彼女と結ばれるための装置だったのだろう。 

 では、この井戸によってど両者がどのように結ばれたというのか? 

 神婚とその儀礼のことは、神話学や民俗学の書物などにしょっちゅう出てくる。しかし、実体のない神は、そのままでは巫女と交わることができない。したがって、神とその一夜妻との婚姻は、果たしてどのような儀礼によって行われたのかという素朴な疑問が生じるのだが、それを具体的に解説した書物というのは意外と少ない。神が憑依した生身の神主が巫女と交合したというような想像も可能だが、私は、神婚は神の憑依した聖樹の影を水面に映し、巫女がそこに飛び込むことで行われたと考えている。 

 だが、『日本書紀』一書(第二)のトヨタマ姫は、宮殿から出てきて水を汲もうとしたとき、水面に映るヒコホホデミノ尊の影で彼のことに気づいたが、だからといってそこに飛び込んだりはしていない。したがい「どうしてそんなことが分かるのか。」と言われそうだが、これは全国各地に次のような伝承や民話がたくさん残っていることからそう考えるのである。すなわち、山姥の追跡を受けた猟師が木に登って隠れると、その影が下の水面に映り、猟師が水の中に隠れたと誤解した山姥はそこに飛び込んで溺死したとか、恋に狂った娘の追跡を受けた若い山伏が木に登って隠れていると、やはりその影が水面に映り、山伏が入水したと勘違いした娘が後を追って身を投げてしまった、とかである。山姥は人里から離れた場所で神に仕える巫女たちの零落した姿だったと言われるので、こうした伝承もまた神の憑依した聖樹の影を水面に映し、そこへ巫女が飛び込むという神婚儀礼の記憶を伝えるものだったと思う。  


菅田神社の一夜松
 

奈良県大和郡山市に鎮座する菅田神社には、恋に狂った娘に追跡された山伏が、
境内にあった松に登って隠れると、その木は一夜にして大木となり、
男の姿が下の水面に映っているのを見た娘は、男が身投げしたものと勘違いして
後を追って入水したと伝わる

菅田神社は式内社だが、近くにはやはり式内社の菅田比売神社があり、
この伝承は両社の祭神間で行われた神婚の記憶に、
道明寺のモチーフなどが加わって成立したものだろう
 

現在、拝殿と本殿を結ぶ渡り廊下の中に古ぼけた木の残骸があるが、
伝承にある「一夜松」の2代目のものという

 この問題に関してもう少し書いておくと、概して日本各地には入水して果てた娘の伝承がやけに多い。悲恋の結果だの、落城した城から落ち延びたお姫様が追っ手の追跡から逃れられなくなって入水しただの、理由は様々だが、こうした「入水した娘」タイプの伝承は、「機織り姫」タイプのそれと同じく、かつて神に仕えていた一夜妻の記憶を反映したものが多いのではないか。 

 また、各地の古い神社の境内にしばしばみられる「鏡池」「鏡ヶ池」「鏡の池」などといった名前の池も、祭神の女神が姿を映して化粧をしただの、神宝の鏡がそこに沈めているだのといった伝承が伝わっていることが多いが、上代にこうした神婚儀礼が行われていたケースもあるのではないか(出羽三山神社の「鏡の池」のように実際に池中から大量の鏡が見つかっているケースもあるが)。  


出羽三山神社本殿と鏡池
 

一面水草に覆われていて分かりづらいが、
この池中からこれまで平安~鎌倉期の古鏡が
500面近く見つかっている
 


八重垣神社の鏡の池

島根県松江市の八重垣神社には「鏡の池」という池があり、
祭神の稲田姫命が姿を映したという伝承がある

この池は縁結びのスポットとして有名で、遠近から多くの女性参拝客が集まるが
こうした信仰は古代にここで行われていた神婚儀礼の名残ではないか

孤独な場所で(3)」につづく

 

 

 


孤独な場所で(1)【猿沢池の采女】

2012年09月27日 22時00分43秒 | 隼人たちと月神

 前回のボランティア・ツアーに参加した記事でもちょっと書いたが、宮城県七ヶ浜町に鎮座する鼻節神社は思い出深い神社だ。思えば、この神社を参詣したのは、奈良の猿沢池に身を投げた采女の伝説に興味をもったことがきっかけだった。私はその頃、本館の『神社空間』で「水面に映った月影」というシリーズを執筆していたのだが、その中で水面に映った月影と遣唐使の関係について述べたいと考えていて、その中でこの采女の伝承に触れる予定だったのである。その後、ずっと書かないままになっていたが、最近になって久々に東北に行ったことがきっかけとなり、当時、考えていたことが脳裏に蘇ってきた。ついてはそれをここにアップする。ただし、すでに本館に掲載した「水面に映った月影」シリーズと重複する部分もかなり多い。これは、前後の脈絡を説明するために、いちいちリンクをはって「水面に映った月影」を参照してもらう煩わしさを避け、独立したものとして読めるようにしたためだ。


鼻節神社

 

 奈良の猿沢池の畔に、采女神社という神社がある。平城京があった頃、天皇の寵愛が薄れたことを嘆いてこの池に身を投げた采女がおり、当社は彼女のことを祀ったものという(現祭神は事代主命と采女)。


采女神社

最初は采女が入水した池のほうを向いていたが、それはしのびないと、
一夜のうちに背を向けたと伝わる
画像は池側から写したもの(つまり背面)

池に背を向けていることより、
こうして背面に鳥居があることのほうが不思議な気がする

采女神社の周囲には柵がしてあって、ふだんは周囲に近づけない
私にとってはこれも結構、謎である
(画像は柵の間から手を入れて撮っている)


猿沢池を挟んで写した采女神社の遠景

天平ホテルの右下に当社のオレンジ色が小さく写っている

 毎年、中秋の名月の晩、この池で行われる采女祭は当社の例祭であり、采女の霊を慰めるために行われる。日が落ちて月が昇る頃、神前に花扇を捧げ、やがて竜頭・鷁首に乗って猿沢池を廻りながらそれを池中に投げ入れる神事だ。


采女祭

2012年の開催日は9月30日

 猿沢の池に身を投げた采女のことは『大和物語』や『枕草子』にも見えており、なかなか古い伝承らしい。だが、采女はどうして人から発見されやすい明るい満月の晩などに身を投げたのだろうか。あるいは、満月が精神に及ぼす異常な作用の所為だろうか(サンフランシスコの金門橋で発生する投身自殺の件数は、満月の日に多くなるという統計もある)。私は一時期、この問題に非常に興味をもっていた。というのも、もしかするとこれは隼人たちの間で行われていた月神との神婚儀礼の記憶を伝えるものではないか、と思われたからである。

 南九州には十五夜満月の下で綱引きをしたり、相撲をとったりする習俗が見られる。こうした行事は月との関係を強く感じさせるが、その分布圏は隼人たちの墓制とされる地下式横穴墓等のそれと重なる。


隼人の老人

大分県宇佐市にある百体社の境内にあったもの

 ここで注意をひくのは、古代において隼人たちの大集団がいたことが分かっている京都府京田辺市の大住郷に、月読神社、樺井月神社等といった月神を祀る古社が集中することである。こうしたことから、彼らには月神を祀る習俗があったのではないかという説が唱えられるようになった。


京田辺市の月読神社

 いっぽう、記紀神話には「海幸・山幸」の物語がある。周知のストーリーだが、いちおう概略を述べておくと、漁師である兄のホノスセリノ命と、猟師である弟のヒコホホデミノ尊がある日、弟の気まぐれから、互いの生活道具である釣り針と弓矢を交換し、普段とは逆に兄は山へ、弟は海へと行く。だが、全く成果があがらなかったばかりか、ヒコホホデミノ尊は海で兄の釣り針を紛失してしまう。謝罪しても兄が許さないために途方に暮れていると、シオツチノオジの導きがあり、彼は釣り針の行方を追って海中にある海神の宮殿を訪れる。そこでなくした釣り針を見つけだすとともに、海神の娘のトヨタマ姫と結ばれる。 

 やがて陸上に帰還したヒコホホデミノ尊は、海神から授けられた潮満玉と潮涸玉を使って海水を溢れさせ、ホノスセリ命を溺れさす。ホノスセリノ命は降参して子孫ともども、尊とその子孫に仕えることを誓う。尊は神武天皇の祖父であり、ホノスセリノ命は隼人たちの祖神である。毎年、宮廷で隼人たちが服属儀礼として朝廷で演じる隼人舞は、大潮に溺れるホノスセリ命の所作を模したものである、── 。 

 南九州を舞台としたこの神話はほんらい、隼人たちの間に語り継がれていたものと考えられている。それが皇室神話に取り入れられ、現在、見られるような形になったのだ。 

 ところで『古事記』によると神の宮殿を訪れたヒコホホデミノ尊は、宮殿の前にある井戸の傍らにあった神聖な桂の木に登って、中から誰かが出てくるのを待っていた。やがて、水を汲もうとしてトヨタマ姫の侍女が宮殿から出てくると、光がさすので振り仰ぎ、樹上の彼を発見する。


「わだつみのいろこの宮」

青木繁の晩年の名作 

海神の宮殿を訪れたヒコホホデミノ尊が
トヨタマ姫から発見される場面が描かれている

 『日本書紀』一書(第二)でも、やはり宮殿の前にある井戸の傍らに桂の木があったことになっており、ヒコホホデミノ尊が跳び上がってその上に立っていると、宮殿の中からトヨタマ姫が水を汲もうと出てきて、水面に映る影から彼を発見している。このほか、『日本書紀』本文と一書(第一)にも宮殿の前には井戸の傍らに神聖な桂の樹(湯津桂の樹)があったことになっており、ヒコホホデミノ尊はいずれもこの桂の木ふきんで発見されている。 

 実はここに見られる、「井戸の傍らにある桂の木ふきんにいた男神が、女神から発見されて結ばれる」というモチーフを突き詰めてゆくと、猿沢池に身を投げた采女の伝承につながってゆくのである。順を追って、一つ一つ説明してゆこう。

孤独な場所で(2)」につづく

 

 

 

 


東北復興支援ボランティア・ツアー

2012年09月23日 23時06分40秒 | その他

 先日、東北復興支援ボランティア・ツアーに参加してきた。もちろん私はこうしたボランティアに参加するのは始めて。行程は二泊三日で、初日の夜に新宿を発って東北自動車道を北上するバスの中で車中泊、翌日の朝に最初の作業現場がある南三陸町の志津川に着いた。


作業現場

 志津川は志津川湾に面した漁港であったが、3月11日の地震の直後は津波に襲われ、港ふきんはもちろん、内奥部にひろがる集落までが壊滅的な打撃を受けた。現在では大きなガレキの撤去は終わっているが、私たちは港ふきんにある家屋の布基礎しゅうへんで人力で運べるガレキの撤去・集積にあたった。

ひん曲がった鉄筋が津波の猛威を伝える

 天気予報によるとこの日の志津川の最高気温は34.7度。しかし強烈な照り返しの所為で、実際の作業現場は40度近くになったと思う。この暑さと慣れない肉体労働のおかげで、昼食でバスの中に戻った時は皆グッタリして口をきく元気のある者はほとんどいなかった。熱射病の症状がでた者も2~3人いたようだ。私は二日分のつもりで用意していた5リットル近い飲料水を、この日一日で完全に飲み尽くした。

中央奥に見えるのが南三陸町の旧・防災対策庁舎の鉄骨
津波に襲われる直前まで防災無線で避難を呼びかけていた遠藤未希氏をはじめ、
多くの南三陸町職員がここで殉職された
心からご冥福をお祈ります

 私たちが作業にあたった場所にかつて建っていたのは人家だったらしく、地面を掘っていると子どものおもちゃや五月人形の鎧兜、ラジオ体操の皆勤賞のバッジなどがときどき見つかる。これらの持ち主たちは無事だったのか。 

 午後4頃になって私たちが撤収する頃、潮が満ちてきて作業現場の大部分は水没してしまった。地震による地盤沈下の所為である。これらの土地はこのままでは使うあてがないだろう。地元の方々のこれからの生活再建がいかに多難であることか。

 その夜は松島にある温泉旅館に泊まって、三日目は七ヶ浜町にある畑で、地中から石やアスファルトの破片などを除去する作業にあたる。しかし畑とは言っても一度は津波で潮をかぶっているので、表面はカチカチに固まっている。それを三本鍬やツルハシを使って掘り起こし、中から石などを取りだしてゆくのである。幸いこの日は前日ほど気温が上がらなかったが、作業じたいはこちらの方がキツい。ツアー参加者も鍬など生まれて初めて手にするような人がほとんどで、慣れない作業に当惑している。ふだんは事務仕事しかしていない私も、手にできたマメがつぶれて難渋した


私たちが作業した畑

 この畑はかつて何を作っていたかは聞かなかったが、今後、耕作を再開しても当面の何作かは綿しか作れないらしい。綿には地中の塩分を抜く作用があるのでそうなるという。気の長い話だ。

出てきた石・アスファルト等を分別して袋詰めしたもの

 それにしても、七ヶ浜町でのボランティア作業が農地でのそれだったのは、宅地のほうの復興がかなり進んで一段落ついたためだと思う。何とか農地まで手が回るようになったということだろう。じっさい、地元の方々の表情も前日に出会った方々より心なしか明るい。また首都圏から近いせいか、ボランティアに参加する人たちの数もずっと多かった。 

 この七ヶ浜町は東北の神社巡りで私が最初に訪れた町の一つである。特にこの町に鎮座する花節神社は思い出深い神社だ。そういうこともあってこれにはややほっとした。しかし南三陸町のように宮城県でも北のほうにある町や、さらにその北にある岩手県の三陸沿岸の町々などはまだここほど復興が進んでいないのではないか。かつて私が参詣した沿岸部に鎮座するいくつかの神社の運命も気になる。いずれにせよ東北地方の復興はまだ端緒についたばかりだ

一緒にボランティアに参加した人たち、お疲れ様でした

 

 


神社とは何か(7)

2012年09月02日 19時36分54秒 | 神社一般

★「神社とは何か(6)」のつづき 

 地縁集団的な「場所」としての神社について掘り下げてみる。 

 宮本常一の有名な『忘れられた日本人』の冒頭には、対馬にある伊奈の集落で、神社にある建物の中に村中の主立った者たちが集まって泊まり込みをしながら寄り合いをし、村内の重要な決定をしてゆく様子が描かれている。

 「伊奈の村は対馬も北端に近い海岸にあって、古くはクジラのとれたところである。私はその村に三日いた。二日目の朝早くホラ貝の鳴る音で目がさめた。村の寄り合いがあるのだという。朝出がけにお宮のそばを通ると、森の中に大ぜい人があつまっていた。〈中略〉いってみると会場の中には板間に二十人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話し合っている。雑談をしているようにみえたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得がいくまで何日でも話し合う。はじめには一同があつまって区長から話をきくと、それぞれの地域組でいろいろにはなしあって区長のところにその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとって夜も昼もない。ゆうべも暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。」
 ・宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫p11~14 

 宮本は伊奈の区有文書を貸してもらえるよう、その寄り合いにかけたのだが、朝、最初にそのことが議題にあがると、「重要なことだから、よく話し合おう。」ということになって協議は別の事柄に移ってしまった。その後、区有文書のことに話が戻ると誰かがこれと関係がありそうな話をし、そうすると別の者がまたその話から連想された別の世間話をひとしきりする。そしてまた別の話の話題に移って、また戻る。そんなことを繰り返して議論はゆっくりと展開し、最後にやっと宮本を案内してくれた老人が、「どうだろう、せっかくだから貸してあげたら…。」と言い出し、他の者もそれに賛成したので貸してもらえたという。 

 伊奈ではこうした寄り合いが昔から行われており、かつては「夜になって話がきれないとその場に寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論が出るまでそれがつづいたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得いくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。(前掲書p16~17)」という。


伊奈久比神社


同上


同上
 

伊奈には現在、主要な神社として上県郡の式内社、伊奈久比神社と
能理刀(のりと)神社の2社が鎮座している
後者はかつて熊野権現と称し、『対州神社誌』には卜部の祀る官社であったとある
式内社の行相神社に比定する説もあるが、現在はやや荒廃しているようだ 

宮本が寄り合いに同席したのは、この二社のどちらかだったのではないか


能理刀神社
 

 こういう話し合いは、会社でやったらダメ会議だが、昔の村落共同体で行われるぶんには極めて有効であったことがよく分かる。 

 伊奈の寄り合いは神社で行われているが、おそらく対馬の他の村落でもこうした例が多かったのではないか。私が対馬を旅行したとき、当地の神社では拝殿のなかに囲炉裏がきってあって、内部がまるで山小屋のような感じになっているものが多かった。おそらく、伊奈と同じような寄り合いの場所として使われるので、そうした設えがあったことだと思う。そう考えながらそれを眺めると、冬になって村人たちが囲炉裏端に寄って話し合っている情景が目に浮かぶようだった。

対馬によくある囲炉裏がきってある拝殿内部の例
(上郡町志多留の五王神社で撮影)
 

 神社の敷地内に公民館が建っているのは全国どこでもよく見かけるが(寺院の敷地内にそれがあるパターンは少ない感じがする。)、これも対馬に限らず古くから神社でこうした寄り合いが行われた伝統の名残だろう。神社の由緒だの伝承だのも、こうした寄り合いの席上で口承されたものが多かったのではないか。
 神社に隣接してゲートボール場(グラウンドゴルフ場?)があるのもおなじみの光景だが、実際に老人たちが競技をしている様子を見ていると、自分が玉を打つ順番でない時はずっと駄弁っている。ああいうのも神社が寄り合いの場であったふんいきを伝えるものかもしれない。いずれにせよ、神社はそれが鎮座する村落において、市役所や公会堂のように公的な空間として機能していた。 

 もっとも市役所や公会堂というものは言うまでもなく、古くから日本にあったものではない。明治になってからヨーロッパ諸国の先例を輸入したものである。ところがわが国が開国した頃、ヨーロッパにおいてはもうすでに都市文化の上に育った市民社会が成熟しており、市役所などの公的空間もこうした社会・文化の産物であった。いっぽうわが国では、京都や大阪の堺のような少数の例外を除くとまだ市民社会が成熟しておらず、これは基本的に現在でもそうだと思う。したがって日本における公的空間としての市役所等はヨーロッパの市民社会の産物を形だけ借りて、まだ中身がそこに追いついていない状況なのである。そしてそれを考えるとこうして村落共同体が寄り合いなどを行う場として機能していた神社は、極めてローカルではあるものの、わが国の真性にして伝統的な公的空間なのである。 

 だが、神社がたんに村落共同体の公的空間にすぎなかったら、神社とはそうした集団の成員いがいの者に対してもっと閉鎖的で、ほんらい余所者の参拝など歓迎されなかったに違いない。ところが、私は全国各地のさまざまな神社を参拝してきたが、その際に土地の人から閉鎖的な印象をうけた経験があまりないのである。 

 例えば朝、田舎に鎮座する神社を参拝していると、境内を清掃していた土地の人が向こうから先に挨拶をしてきたり、他府県から来たことが分かると礼を言われたり、といった経験は神社巡りが好きな人なら誰でもしたことがあると思う。また、その神社の由緒について土地の人に聞く場合もほとんど抵抗を感じない。むしろ、仕事の手を休めてでも熱心に教えてくれたり、あるいは知らない場合は申し訳なさそうな顔をして、「もっと詳しい人がいるから」などと土地の古老の名前と家を教えられたりするのである。 

 考えてみるとこれは結構、不思議なことだ。言葉のイントネーションからしていかにも余所者という感じの者がやってきて、古くからその村落の信仰生活の中心であった施設について伝承やら旧社地やら祭神について根掘り葉掘り聞くのである。普通だったら、これとは真逆の反応が返ってきてもおかしくないだろう。ところが(繰り返しになるけれども)これまで私は全国いたる所でそうしたことをやってきたが、それで不愉快な反応が返ってきたという経験はまだほとんどしたことがないのだ。これはたまたま運が良かった所為なのか。 

 思うに、神社が公的空間であるというのは二面性があり、比較的閉じられたローカルな地縁集団のそれという面とともに、もっと広くその神社が鎮座している地域に限定されない不特定多数の人びとに開かれたそれという面もあるのではないか。後者はその神社の神聖なふんいきに対し、ある程度、自分を謹んで感謝の気持ちを抱くような者なら万人に開かれているという意味である。

 ちなみに、寺院と違って神社は観光地になっているような有名なものでも拝観料を取っているケースがほとんどない。これなども色々な理由が考えられるだろうが、その一つとして今、言ったように神社は万人に開かれた公的空間だから、拝観料など取ってはいけないという意識があるのではないか。 

 もともと神社にはあまり人を疎外しないようなところがある。例えば神社の境内ではよく子どもの姿を目にするし、シーソーやジャングルジムなどが設置してある神社もよく見かける。これは神社の境内が子どもが遊ぶのに手頃な空間を提供するからだろうが、それとともに、子どもが神社で遊んでいてもあまり注意されないからではないか。これに対し、寺院で子供が遊んでいると、どこか別の場所で遊ぶように大人から叱られる確率が高いように思う。これもやはり神社は「万人に開かれた公的空間」であるという意識がみとめられる例の一つと言って良いのではないか

神社の境内では子どもの姿をよく見かける
(大和国添上郡の式内社、和爾坐赤坂彦命神社で撮影)

 『日本書紀』には即位前の履中天皇や阿閉臣事代(雄略紀)が時の権力者からの追求を逃れて、石上神宮に隠れるエピソードがある。聖域としての神社にはこうしたアジールとして側面があった。
 正安元年(1299)に成立した絵巻物の『一遍上人絵伝』などを見ると、町にある神社には乞食が多く集まっていた様子が描かれている。神社は人が集まる場所なので物乞いをしに彼らが集まったのだろうが、そのいっぽうで、こうしたアジールとしての伝統から神社は乞食が居ても追い立てを食らう確率が少なかったのではないか。これもまた、神社が「万人に開かれた公的空間」であった事例の一つである。

  

「神社とは何か(8)」につづく