神社の世紀

 神社空間のブログ

湖西再訪

2010年12月27日 01時00分01秒 | 徒然

 湖北の行きたいところはだいたい廻ってしまったので、最近は湖西の高島市いったいを再訪している(今回の画像は11月28日と12月5日に撮影したものです。)。

 湖西へは木之本インターを下りてから、8号線→303号線→161号線と奥琵琶湖を迂回して北から入る。その場合、湖西に入ってまず最初に出会う重要な神社は海津天神社だ

海津天神社

 澄明な大気の中に、荘重なたたずまいの社殿が並んでいる。この地域の原風景に触れる想いがする。

荘重だけど、親しみやすい。

境内社には式内社の論社が数社ある。

社殿背後の森の美しさも特筆される。

 

 

 波爾布(はにう)神社は近江国高島郡の式内社。

 神社へは小さな川を石橋で渡ってから石段を登る。  

 



秋の終わりを感じさせる社頭の光景

  境内は山の中の少し開けたスペースにあり、非常な聖地感がある。現在の祭神はハニヤマ姫命とミツハノメ命の二柱だが、はじめは後者だけが祀られていたらしい。境内からはこの女神に捧げたものと見られる奈良期の土馬も出土しており、古代からつづく水神祭祀の遺跡であったことがわかる(土馬は殺馬儀礼の代替品として水神に供献された)。

境内の西側には湧水があり、清泉信仰を感じさせる。

 社殿の左手に杉の大木が2本そびえている。巨杉の間からのぞく社殿の光景は、一度でも当社へ来たら忘れられなくなるものだ

根本の辺りの苔むし具合も良い。

 当社の本殿は三間社流造りで、どっしりとボリューム感があり、サイズも大きい。そうじて、これと同じような三間社流造り本殿の作例が、湖西地方にはよく見られる

どっしりとした重量感の波爾布神社本殿

  じつは最初の頃、こうした湖西地方の流造りは好きになれなかった。堂々とはしているものの、ややバランスが悪く、写真を撮った時の構図への収まりもあまり良くない。また、総じて流造りというのは、屋根の曲面の美しさで全体をまとめ上げるものだが、湖西地方に見られるこのタイプのそれは、屋根より壁面のほうが強調されるので、流造りというデザインの基調にある流麗さが減殺されてしまっている。

 しかしだんだんに分かってきたのだが、この建物は水や緑が豊かな環境に置かれると果然、映えるのである。

 まぁ流造りに限らず、そもそも神社建築とはそのような環境で映えるデザインなのだが、しかし、例えば神明造りの場合、幽邃な自然のなかにあると厳めしすぎて近寄りがたい感じに襲われることがある。これに対し、こうした湖西地方とくゆうのどっしりとした流造りの社殿の場合、そうした自然の中に置かれると、社殿の内部で神々が憩っているという、一種どくとくの快適感がこちらに伝わってくる。神さびていて、しかもくつろげる感じ

 

 

 驚いたのは安曇川町上古賀の熊野神社。ここの本殿も波爾布と同タイプのどっしりとした三間社流造りで、それがかつては渓流の流れる神域に、樹々に囲まれて美しく鎮座していた。ところが今回、訪れてみると、そうした樹木がなくなっている。とくに社殿背後の樹木が、伐採によって完全に失われてしまったのは無惨としか言いようがない。しかも何故か本殿は新しくなっている。以前、訪れたときは建て替えが必要なほど傷んでいるようには見えなかったが、、、

熊野神社社頭

樹々が伐採されてすっかり明るくなった神域

社殿背後の杜は切り株を残して完全に失われた。

 あるいは台風による倒木の直撃などによって、運悪く昔の社殿が全壊してしまい、その再建に必要な部材と費用を捻出するために社有林を伐ってしまったものかもしれない。いずれにせよ、かつての当社の植生を取り戻すには何百年もかかるだろう。新たに建てられた本殿は、昔のそれと同サイズで建て替えられているらしいが、丸ボウズになった境内の中にそれが建っている光景の場違いな印象は、このタイプの建物は豊かな樹々の中にないと映えないことを改めて痛感させる

新築されていた熊野神社本殿

★以前の当社の様子は玄松子さんのサイトで

 『玄松子の記憶』 熊野神社(滋賀県高島市安曇川町)

 

 

 大荒比古神社の社頭は鮮やかな赤のマフラーをしていた。まさかこんなに紅葉が残っているとは思わなんだ


 

 もう散りかけで、石段の上に赤と黄の葉がたくさん散らばっている。色の取り合わせが榮太楼の梅干し飴を連想させた 

 

 

 高島市鵜川に鎮座する白髭神社。猿田彦命を祀り、式内社ではないが全国の白髭神社の総本社として名高い。

白髭神社

 この神社は琵琶湖につきだした山の尾根の先端に鎮座し、社前を通過する161号線を渡ればすぐに湖水が広がっているという立地だ

国道を渡ればその向こうは琵琶湖

 背後の山は神体山で、山頂には巨岩による磐座があるという

背後の山は神体山

 白髭神社に来ると、いつも空中庭園のテラスにいるような感覚に襲われる。こうした浮遊感は、湖面で照り返された光線が大気と入り交じり、空と湖水の境界を曖昧にすることから生じる。

 交通量の多い国道をわたって湖岸に出、琵琶湖の中に立つ明神鳥居を撮影する。鳥居が空中に浮かんでいるようなイメージで撮りたかったのだが、上手くいかなかった

 

 

 


滋賀県長浜市 波久奴神社の磐座(4/4)

2010年12月13日 00時00分16秒 | 磐座紀行
波久奴神社の磐座(3/4)のつづき

 木幡の胎内くぐりのケースや、これから説明する雲貴高原の少数民族の信仰などを考え併せると、物部守屋の伝承が習合する前のこの岩屋には、祖先がそこから誕生し、自らも亡くなれば霊魂となってそこに帰還し、やがてそこから再びこの世に生を受けるというような古代人の信仰があったのではないか。また木幡の場合のように、かつてはここで成年式儀礼も行われていた可能性がある。

 地下他界を舞台とした成年式儀礼が古代のわが国でも行われていたことは、『古事記』のオオナムジ命条に、こうした儀礼を神話化したものが見られることによってよく分かる。

 すなわちそこでは、八十神たちに迫害されたオオナムジ神が地下にある根の国を訪れると、この国の統治者であるスサノオ命によって蛇の室、ムカデと蜂の室に入れられるという試練を課されるが、スセリ姫の助力によっていずれも難を逃れる。
 なかんずく、スサノオ命が射込んだ鏑矢を拾ってくるよう命じられたオオナムジ神が広い野原に入ると、スサノオ命がそこに火が放ったので炎に取り巻かれた時は、ネズミが現れて「内はホラホラ、外はスブスブ(内はうつろで広い、外はすぼまっている。)」と言ったため、地面に穴があることを知り、そこに隠れて火難から逃れた。洞窟のような場所に隠れることで、危機を逃れるのは頼朝のしとどの窟のエピソードと同じモチーフであり、地下他界を訪れる通過儀礼によって再生し、成年を迎える儀礼が神話化されたものである。

 このオオナムジ神の神話はネズミ浄土型と呼ばれる民話のタイプを連想させると共に、野原に火を付けるという所作により、このような地下世界を再生の場とする成年式儀礼が、焼畑耕作文化と深い関わりがあることを暗示している。

 中国の貴州省から雲南省にかけての高原地帯は、苗族をはじめとする少数民族が多く生活している地域だが、彼らの文化の多くは焼畑耕作によって特徴づけられるとともに、先祖が山岳にある岩窟から誕生し、自らが死んだ後も霊魂がそこに帰ってゆくというような信仰が実に多くみられるという。
 萩原秀三郎によれば、雲南の名所、石林に近いサニ族の村では、小石林と呼ばれる区域にある民族の女性英雄の岩の後方が、かつて祖霊たちが集まり棲む石洞であったとされる。トールン族の場合は死者を岩穴に埋葬し、彼らの魂はその穴に鎮まっているとされる。リス族は風葬だが、どこで死んだ者でも、その霊魂は民族の始源の場とされる、とある洞窟に集まってくるとされている。

 いっぽう、古い文献においても、『太平御覧』には、「巴蜀族は禀君の子孫であるが、禀君の先祖は武落鐘離山の赤穴中に出ずる。」とか、貴州の苗族は自らの祖先について「昔、山獄の爆裂したものがあり、その裂け目の中から男女2人が生まれ出て夫婦となり、九子を産む」云々と述べたという記事がある。
 『後漢書』にはヤオ族の始祖であった槃瓠バンコについて、「槃瓠女を得て負い去り南山に入り、石室の中に止まる。三年を経て生子十二人六男六女也」という記事がある。

 こういった山中の石窟から民族の始祖が誕生したとか、あるいはそうした洞窟の中に祖霊たちが鎮まり、民族の個々の成員も、死後は霊魂となってそこに帰ってゆくという信仰は、波久奴神社における本宮の岩屋のルーツを思わせるものがある。

 

 

 ところで、有名な神話学者の大林太良は、かつて、こうした中国の少数民族間にみられる洞窟への信仰について、流米洞伝説と呼ばれるタイプの伝説と関係づけるユニークな議論を展開したことがあった。

 中国の広東省から貴州省にかけての地域に流米洞伝説というタイプの伝承がみられる。寺院の境内にある岩穴から、いつも必要な分だけ米が出てきていたが、ある時、強欲な僧侶がもっと多く出るようにしようとこの穴を大きくしたので米は出なくなり、代わりに水が出るようになった、というような伝承である。

 こうした流米洞伝説は中国だけでなく、典型的なそれが朝鮮にも見られる。とくに北鮮の平安南道いったいに分布が濃密だというが、南北慶尚道にある次のような流米洞伝説も興味深い。

 慶州郡と蔚山郡の郡境に鵄述嶺という山がある。新羅十九世訥祗王のとき、朴堤上将軍が日本に遣わされる際、家に立ち寄らずそのまま出発した。妻は3人の娘を連れてこの山に登り、船を見送ったが悲しみのあまり石となった。これが望夫石である。その魂は鳥となってふきんにある隠乙庵という寺に飛んでゆき岩穴に入った。
 この穴からは一日一人の人が食べる分だけの米が出てきたが、ある時、例によって強欲な僧侶が穴を大きくしたので米は出なくなり、代わりに水が出るようになったという。

 以下、大林太良の『稲作の神話』にある議論にしたがう。

 流米洞伝説の舞台となる岩穴はほとんどの場合、寺院にあるので、このタイプの伝承は仏教文化と密接に関わっている感じがする。しかし世界のどこの地域でも新来の宗教は、古い土着文化の聖地の上に寺院や神殿を造るので、仏教が伝来する以前からその元となる土着の信仰がそこで行われていた可能性もある。

 たとえば『後漢書』東夷伝によれば、高句麗の東郊には神の岩屋があり、収穫が済んだ10月になると、この神を東郊の水のほとりに迎え、迎神渡御の神事を行ったという。

 『魏志』高句麗伝によると、この祭儀は東盟と呼ばれ、金銀をあしらった豪華な服で正装した貴族大官が多数、参会する。国都の東に大穴があって「隧穴」と名付けられており、毎年10月にこの隧穴の神を首都東郊の水辺に迎えて祭るのは『後漢書』の記事と同じだが、そここではミテグラとして木で穀穂を象ったようなものが神座の上に置かれたという。どうやら、この岩屋の神には穀物神的な性格があったらしい。
 また『三国史記』ではこの祭りについて、高句麗では10月に国母神を祀る祭祀が行われたとあるので、ここから岩屋にいた神が女神であったことが分かる。ちなみに、高句麗の祭祀を継承した王氏高麗でも、やはり国東でこの神を祀っていたが、その際は女神像を奉安していた。

 高句麗の始祖王であった朱蒙は、建国に赴くにあたって、母から五穀の種子を授けられており、この母は石室に閉じこめられたときに日光に感精して彼を身ごもった。したがって彼女には穀母神的な性格があるとともに、岩屋の中で神婚する女神であったことになる。このことは東盟祭で祭られていた岩屋の女神が、この朱蒙の母であったことを暗示する。
 いっぽう、中国においては、洞窟から民族の始祖が誕生したという伝説が残る地域と、流米洞伝説が残るそれが重複する。したがって、かつては洞窟から人だけではなく穀物も誕生したという伝承があり、流米洞伝説はそれが仏教説話化したものであった可能性がある。

 汎アジア的にみると波久奴神社の本宮の岩屋は、こうした貴州高原から朝鮮にかけての洞窟信仰に連なるものである。この神社を祭祀した集団は渡来系の秦氏で、神社の背後にある西池は彼らによって築造されたという説があることはすでにちょっと触れた。また、新羅十九世訥祗王のとき、朴堤上将軍が日本に遣わされる船を見送った妻が悲しみのあまり石となり、その魂は鳥となってふきんにある隠乙庵という寺の岩穴に入り、そこから米が出てきたという流米洞伝説があることもさっき紹介した。
 秦氏は新羅系の渡来人とされ、かつ、船出した朴堤上将軍は日本に遣わされたことになっているなど、たんなる偶然の一致に過ぎないかもしれないが興味深い。いずれにせよ、こうした波久奴神社における洞窟への信仰は古代、この地に入植した渡来人たちが持ち込んだものではないか。

 高句麗の収穫祭であった東盟祭の例をかんあんして、古代人によるこの岩窟への信仰を考えるに、ほんらいそれは次のようなものではなかったか。すなわち、渡来人たちは自分たちの先祖が波久奴神社の本宮の岩屋にいる女神の神婚によって誕生し、自らも死ぬと魂はこの岩屋へ帰還し、やがてそこから再生するというような信仰をもっていた。

 彼らは秋の収穫祭において西池にこの岩屋の女神を迎えて祀った(東盟祭において、国都の東にある水辺で隧穴神を迎える神事が行われたように)。女神には穀母神としての神格があり、かんばつに備えて築造された西池でこの女神を祀ることは、彼らの信仰にとって極めて重要な意義があった。現在の波久奴神社はこの西池が背後に来るような格好で鎮座しているが、これはこのような祭儀の場が常態化して神社となったものだ。やがて、こうした第一次的な信仰の上に、何等かの理由によって物部守屋の事績が習合し、現在、みられるような社伝が生じた。

 そんなようなことが考えられる。

 

 


滋賀県長浜市 波久奴神社の磐座(3/4)

2010年12月12日 23時02分54秒 | 磐座紀行

波久奴神社の磐座(2/4)のつづき

 洞窟の入口にあった看板や社頭にあった石碑によると、この地に落ち延びた物部守屋は、蘇我氏の追求を逃れて一時期、この洞窟に潜伏したことがあったという。

 こういう、戦に敗れた有名な武将などが、追っ手から逃れるために身を隠したという洞窟のたぐいは各地にみられる。中でも有名なのは、石橋山の合戦で敗れた源頼朝が身を隠した「しとどの窟 」だろう。

 この岩屋には複数の伝承地があるようだが、いずれにしても『源平盛衰記』にある印象的なエピソードで知られている。以下、ウィキの「梶原景時」の項からコピペ。

「敗軍の頼朝は土肥実平、岡崎義実、安達盛長ら6騎としとどの岩屋の臥木の洞窟へ隠れた。大庭景親が捜索に来てこの臥木が怪しいと言うと、景時がこれに応じて洞窟の中に入り、頼朝と顔を合わせた。頼朝は今はこれまでと自害しようとするが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう。戦に勝ったときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出て蝙蝠ばかりで誰もいない、向こうの山が怪しいと叫んだ。大庭景親はなおも怪しみ自ら洞窟に入ろうとするが、景時は立ちふさがり「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄った。大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は九死に一生を得た。」。

切手になった前田青邨の『洞窟の頼朝』

  石橋山の戦いは平家方の三千騎に対し、頼朝方の僅か三百騎の軍勢でもって戦われ、圧倒的な兵力の差の前に後者は完敗した。その後、頼朝は山中に逃げ込んで死を免れるが、「しとどの窟」のエピソードは、頼朝の生涯においてもっとも危機的な状況にあった、この山中逃亡のクライマックスである。とにかく、辛うじて死地を脱した頼朝は、その後、安房に渡って再挙し、そこに東国武士が続々と参じて大軍に膨れ上がった結果、ついに平家を滅亡させ、鎌倉幕府を開くまでに至るのである。

 奈良県の吉野地方に伝わる国栖クズの翁という伝承では、「ミルメ(見る目)」「カクハナ(嗅ぐ鼻)」という賊に襲われた大海人皇子が、船に乗って現れた国栖の翁という者に助けを求めると、翁は船を陸に揚げて伏せて置き、その中に皇子を隠して窮地を救う。さらにそれから皇子をふきんにある和田の岩屋という場所に移して歓待したという。その後、吉野を出て壬申の乱に勝利した皇子は、即位して天武天皇となると、危機をすくった翁を浄見原宮に参内させて報償を賜ったという。ここにも「和田の岩屋」というものが出てくるし、翁が追っ手から皇子を隠したのが伏せた船の中だったというのも示唆的である。

 こうしてみると、全国各地に武将たちが追っ手から身を隠した岩屋が残る理由がなんとなく分かってくる。つまりこうした伝説は歴史上実在した人物のエピソードに仮託されているが、もともとは神話にありがちな再生譚の一種だったのだ。例えば頼朝の「しとどの岩屋」の場合をこうした神話として解釈すると、彼は一度「しとどの窟」で死するのだが、やがて英雄として復活し、一度は自分を死に追いやった敵を倒し、鎌倉幕府の始祖王となる。大海人皇子の場合も同断だろう。言うまでもなく、その場合、再生が行われる岩屋とか伏せた船といった中空の空間は子宮のメタファーである。

 アマテラスが岩屋に隠れて世界が暗黒になったという天岩屋戸の神話も、一年で最も太陽光線が弱まる冬至や、あるいは日蝕の際に行われた日神の再生を祈る儀礼と関係があるとされる。ここにも再生の装置としての岩屋が登場している。また『古事記』には、引きこもったアマテラスを岩屋からおびき出す際、アメノウズメが伏せた桶の上で踊ったとあるが、これは類感呪術の一種で、この伏せた桶は国栖の翁が大海人皇子を追っ手から隠した伏せた船と等価であるように思われる。

 

 

 

 波久奴神社の岩屋のことに話をもどす。

 以上のようなことを踏まえると、この岩屋に蘇我氏の追求を逃れた物部守屋が一時、隠れていたとか、あるいは亡くなってからその遺骸が葬られたとかいう伝承が伝わっているのは、そもそもこの場所が死と再生の儀礼に関わる場であるからではなかったか。

 この洞窟は入口ふきんがとても狭く、入るのに苦労することはすでに述べた。またそこを過ぎてからも、(大きな古墳の横穴式石室などに入ったことがある人は分かると思うが、)最初の段差を過ぎて光が射さない暗闇へ踏み込むときには独特の抵抗感があり、中に入ってからもコウモリの羽音が聞こえたりすると、ケイビング中の女性たちが得体の知れない地底生物に殺害される『ディセント』という恐怖映画のことを思い出したりした。

 とにかく、そんなこんなで洞窟から外に出たときは正直、ホッとした。そしてその時、私は福島県二本松市木幡に伝わる「胎内くぐり」という神事を連想したのである。

 胎内くぐりは当地に鎮座する隠津島神社の祭礼で、日本三大幡祭りの1つとも言われる「木幡の幡祭り」の一環として行われる。幡祭り全体の詳しい説明は『日本の神々』などを参照してもらうとして、この例祭ではゴンダチ(権立=「後立」の意味)と呼ばれる初めて祭りに参加する若年者たちが、太刀と呼ばれる模造男根を肩から下げ、当日、羽山神社という神社の下にある「胎内くぐり石」という巨岩の割れ目をくぐり抜ける。出口にいる先達がそれを見届けると、「おーい、うまっちゃ(生まれた)。」と呼ばわる。その後、ゴンダチたちは葉山神社の乳屋に行き、乳(という名の粥)を受けて「食い初め」をし、葉山神社に参拝する。この時、ゴンダチは後ろ拝みをし、翌年は横拝みをし、3年目に正面拝みをしてやっと一人前と見なされるようになるという。

 



福島県二本松市木幡の隠津島神社

残念ながら羽山神社と胎内くぐり石までは足を延ばさなかった。

木幡山々頂の磐座

 

 木幡の胎内くぐりは明らかに、母胎回帰とそこからの再生というイメージをまとった成年式儀礼である。そして波久奴神社の本宮の岩屋から外に出た私も思わず「おーい、生まっちゃ。」と叫びたくなった。というのもこの岩屋には明らかに、木幡の胎内くぐりと同じような象徴性が感じられるからだ。

 中野美代子は『中国の妖怪』の中で、山の観念は母胎のイメージであり、多くの妖怪が「嬰児のような声」をしていることや、山精が小児のような姿をしていることもこれと関係があると述べている(山の神がしばしば女神とされ、産育神や増殖神としての神格をもっていることも示唆的だ。)。また、仙境のような他界は、恐ろしい山を分け入って到達するトンネルや石室のあなたとされ、伝承においても山に入る者は成年となる男子で、入山の恐怖は性の試練であり、山中の隘路を通過することは性交の、あるいは母胎回帰のメタファーであるという。
 こうしたことを木幡の胎内くぐりに当てはめると、神事が行われる巨岩は山中にあるので山を母胎に見立てているのだろう。胎内くぐりの巨岩の割れ目は明らかに女陰であり、模造男根を下げたゴンダチは、そこくぐり抜けることで山の神と交わり、母胎に回帰し、そこから出る(=出産される)ことによって一人前の男として再生するのである。

 波久奴神社の本宮の岩屋の場合、母胎との類比はさらに著しい。入口の岩の裂け目はあからさまに女陰状であり、入り口付近は狭く通過しづらいが、何とかそこを抜けて闇の中に入ると天井が低く狭い通路があり(産道)、さらにそこを抜けるとそれなりに広いスペースがある(子宮)という空間構成は母胎そのものだ

 

波久奴神社の本宮の岩屋

 

波久奴神社の磐座(4/4)につづく