神社の世紀

 神社空間のブログ

滋賀県長浜市 波久奴神社の磐座(2/4)

2010年11月27日 18時04分05秒 | 磐座紀行

波久奴神社の磐座(1/4)のつづき

 山道に入ってから磐座にたどり着くまでは15分程度だったと思う。磐座の周囲の斜面はけっこう急峻で、しかも風化した岩石が積もるガラ山状態になっていたので滑りやすかった。リードのためのロープが木に結んであったが、それなりにハードである。ストックのある人は持っていったほうが良い。

磐座ふきんの山の斜面

 たどりついた磐座は高さ20m以上ありそうな巨大な岸壁であった。

磐座の岸壁

同上

同上

 ただし、ここで信仰の対象となっているのはこの岩壁というより、むしろその脇にある洞窟である。このことは訪れてみてはじめて分かった。まあ社伝にも「小谷山東渓の岩窟」という表現がみられたので、現地に行くと岩窟があることはわかっていたが、それにしてもそれがこれほど深い洞窟とは思っていなかった。とにかく洞窟を祀っているという意味で、当社の「磐座」は岩石じたいを神体とする通常の磐座ではない。
 なお、湖北地方で他に洞窟を祀る信仰としては、長浜市余呉町中之郷大水ケ谷にある夜叉神の例や、竹生島の東岸にある洞窟の例がある。前者は近江国伊香郡の式内社、太水別神社の有力な論社だ。

 洞窟は上画像の右手に写っている看板近くに開口しており、入り口には注連縄がしてあった

洞窟の入口

 入り口だけ見ると、洞窟と言うよりも岩の裂け目という感じだが、中をのぞくとずっと奥まで続いている。入り口ふきんでは私が近づくまで、一匹のコウモリがずっとホバリングしており、奥が深いことを伺わせた。看板を読むと中の様子が書かれており、一番、奥にミテグラ(御幣)があってそこが拝所になっているらしい。特に危険はなさそうなので入ってみることにした

看板

 ところが、中に入ろうとした私は、この洞窟が人を選ぶ場所であることを悟った、、、もとい、人の体型を選ぶ場所であることを悟った。というのも、入ってから3mくらいの箇所がかなり狭く、ここを抜けるのが大変だからである(笑)。看板にあったアドバイスに従い、左手を前にしながら横ばいになって身体をねじ込んでゆくのだが、ちょうど下腹がくる辺りが特に狭く、恥ずかしながら一瞬、そこに挟まってしまった。今年の夏は暑さのせいで結構ビールを飲んだからなぁ(-_-;)、などとちょっと反省。しかし、私の体型もさほど太めという訳ではないので、ウェストがやや大きめの人は本当にここから奥へは進めないかもしれない。
 なお、よく見ると、ここの部分は岩肌が滑らかになっており、かなり古い時代から、多くの人がこうしてここを通ってきたことを感じさせた

洞窟の入口ふきん

 

本文「やや回り込むようにしてだんだん下り坂になってゆく。」の辺り

 この場所をすぎるとやや回り込むようにして洞窟はだんだん下り坂になってゆく。そして急にガクンと落ち込む。その奥は光が射していないので、両腕で身体を吊りながらソロソロと足を下ろして下の岩に着地する。1mくらいの段差があった。そこから先は前方が完全に真っ暗で、目が慣れてからも何も見えない。懐中電灯は持ってこなかったし、携帯画面の光では光量が足りないので辺りを照らす役には立たない。仕方がないので、フラッシュを焚いてデジカメで撮影した画像をモニターしながら進む。降りた場所は天井が低く立つことが出来ないので、足を前に身体を横にし、手も使って蜘蛛のような格好で這っていった。時々、コウモリの羽音が聞こえる。
 ちなみに、ここは下の岩が襞のようになっていて、物など落とすと手が届かないような隙間もあった。身体を横にした時、ポケットの中身がこぼれ落ちないよう注意されたい。携帯や車のキーなど落としたら大変だ。

天井が低いので這っていった箇所

同上

左上の暗くなっているところに本文にある1mくらいの段差がある。

 この天井が低い部分は4mくらい続くが、そこを抜けるとまた1mくらいの段差がある。そこを降りれば後は平坦で、天井の高さも3mくらいあり、後は楽に立って歩けた。5mくらい進むと突き当たりにミテグラが立てかけてある。ここが拝所で、洞窟への信仰の中心となっているようだ。古代から続く祭祀の場所なのだろう。天井ふきんには小さな洞窟がまだ続いているようだが、人間はとても通れないので、洞窟はそこで行き止まりである。結局、入り口からこのミテグラところまで、20m弱くらいだったと思う。

天井の低い箇所を抜けたところにある段差
奥の方に飛行中のコウモリが写っている。

同上

段差を降りると後は平坦で、天井の高さも3mくらいあり、楽に立って歩ける。

同上

地面の様子

ミテグラが見えてきた。

ミテグラ

ミテグラの天井部分

先ほど、降りてきた段差部分を振り返って撮影

同上

動物の体内を連想させる造形

 ここで、ミテグラの前でしばし佇むと、この場所を信仰した古代人たちの息遣いが間近に感じられるような気がしてならなかった、などと書きたいところだが、実際にはふきんの様子はデジカメのモニターを通して確認するだけで、暗闇しか目に入らないから、感慨にふけれるような状況ではなかった。車の中には懐中電灯があったのに、持ってこなかったことが悔やまれる。外の日は暮れかかっていたし、あまり長居したい場所でもないので、ミテグラに礼拝してから早々に立ち去ることにした。入り口から光が洩れてくるので、出るときは難なく外に出られた。 

 

波久奴神社の磐座(3/4)につづく

 

 


滋賀県長浜市 波久奴神社の磐座(1/4)

2010年11月27日 17時03分23秒 | 磐座紀行

 物部守屋は6c後半における物部本宗家の頭領であり、敏達朝では大連まで務めたが、仏教受容を巡る崇仏派との抗争に敗れ、蘇我馬子らによって滅ぼされた。

 この物部守屋が蘇我氏との戦を落ち延び、里人の教化などしながら静かな余生を送ったという伝承の残る神社がある。滋賀県長浜市高畑に鎮座する波久奴(はくぬ)神社である。

 当社は近江国浅井郡の式内社だが、相殿に物部守屋大連を祀っている。いちおう主神は高皇産霊命ということになっているが、これは明治34年にとくに根拠もなく祀られるようになったもので、それまでは守屋が主神だった。

 社伝によると守屋公は、用明天皇二年七月に馬子らと戦って敗れたが、その際、家臣であった漆部巨坂という者が彼に代わって激闘のうえ戦死し、守屋公は巨坂の弟の小坂を伴って領地である当地へ落ち延びた。そしてそこで草庵を結んで隠棲し、里人に読み書きや農業を教えて暮らした。彼の死後、土地の人々はその遺骸を小谷山東渓の岩窟に葬り、萩野大明神と称して崇敬するようになったが、これが当社のはじまりであるという。

 この社伝、たんなる貴種流離譚と言ってしまえばそれまでだが、それにしても物部守屋が主人公であるという点では非常にユニークである。どうしてこんな伝承が生まれたのだろうか。

 柳田国男は『人を神に祭る風習』で、さまざまな御霊信仰の事例を検討してから、人を神として祀るようになったのは、この世に恨みを抱いて亡くなった者の霊魂が怨霊となり、祟りをなさないようにするためであったとしている。守屋の場合もこの世に恨みを抱いて亡くなったのは確かなので、神として祀られる資格はあった。しかしじっさいには彼が御霊信仰の祭神として祀られたというような話はあまり聞かない。

 思うにこの世に恨みを抱いて亡くなった者が神として祀られる場合、たんにそれだけではなく、その者に何の罪もなく、それどころか家柄や人格や才能が卓越していて、その生涯が悲劇的であることがある程度、求められるのではないか。だからこれが例えば、守屋ではなく山背大兄王がこの社伝の主人公だったらまだ了解できるのである。というのも、彼は血筋や人望の点で当時もっとも皇位に近かった人物だが(言うまでもなく父は聖徳太子)、それにもかかわらず、蘇我氏によって2度も即位を阻まれ、なかんずく最期は入鹿に攻められて妻子と共に自害したという悲劇的な生涯を送ったからである。
 これに対し、同じ蘇我氏に滅ぼされたと言っても、守屋の生涯にはこういった悲愴味があまり感じられない。その上、この社伝では守屋が蘇我氏との戦いを生き延びたことになっているので、ますます彼が祭神として祀られている理由が分からなくなってくる。どうも考えれば考えるほど、この社伝は不思議なものに思えてくる。

 ただ、『式内社調査報告』によれば波久奴神社後方の山腹には巨大な磐座があり、春の初午の日に神職と宮総代がここに参詣してヒモロギに神を迎え、十二月のはじめには同じくヒモロギで神を送る神事を行っているという。この磐座は社伝にあった守屋の遺骸を葬ったという岩窟に当たるものだが、どうやら当社の祭祀と深く関わる場所らしい。ユニークな社伝のことも相まり、私は以前からこの磐座を訪れたいと思っていた。

 実は当社には前にも一度、訪れたのだが、その時は探す谷を間違えてこの磐座には行き着けなかった。しかし今回、湖北地方を訪れた折り、ついにこれを実見することができたので、3回にわたってそのレポートをお届けする。

波久奴神社社頭

 まず磐座を訪れる前に、波久奴神社を参拝。
 鳥居をくぐって落ち葉が敷き詰められた長い参道を進むと、樹々の間から差し込む西日を浴びた社殿が出迎える。さすが田根荘十五村の総鎮守だった神社だけのことはあって、なかなか荘厳な建築物である。以前、訪れたときもこれと同じような時間帯だったと思うが、その時もこの光景に心をうたれた

参道

同上

波久奴神社

波久奴神社社殿

同上

 

 参拝を終えた人は社殿裏手のケヤキ群も忘れずに見てゆこう。ここの森は年古びたケヤキが幾本もあり、湖北随一とも言われる

社殿裏手のケヤキ群

同上

同上

 ちなみに湖北地方(だけではないかもしれないが)では、ケヤキのことを「槻の木」と呼んでいる。「槻の木」の「つき」は、「狐憑き」などの「つき」と同じで、憑依することを指して呼ぶ「つく」に由来するのだろう。ようするに古くから湖北地方では、神霊が寄り付く聖なる樹木としてケヤキが信仰されていたらしい。当社のケヤキ群はこうした古い信仰の遺跡である。

 参拝を終えて、波久奴神社から磐座に向かう。途中、西池といういかにも古そうなため池がある。この池はちょうど波久奴神社の背後に控えており、まるで当社の神体のようにも見える。伝承によれば、かんばつに苦しむ里人のために、当社の祭神である守屋が築造したとも言われる。こうしたことは、この池が古代において波久奴神社の祭祀に関わった集団により築造されたことを示唆する

西池

西池と波久奴神社(池の向こうの森)
当社はこの池を背後に鎮座しており、まるで神体として祀っているように見える。

 西池は南東に開口する谷のいっぽうを堰き止めて造られており、地形や岩盤を巧みに利用して築堤されているという。こういう技術はどこからもたらされたのだろうか。

 波久奴神社を祭祀していた集団は渡来系の秦氏だったという説がある。鎮座地「高畑」の「はた」も秦氏の「はた」に因むものだとか、秦氏の得意分野だった機織りの「はた」に因むとか言われる。秦氏は古代近江に多くいたし、西池を築造した卓越した土木技術も彼らのキャラクターと合致するので、この説には無視できないものがある



西池のノガモたち

西池は2010年に農林水産省の「ため池100選」に選定された。
 冬季は、オオヒシクイやマガンをはじめとした冬鳥たち楽園となっている。野鳥の観察施設や駐車場、綺麗な公衆便所なども整備されており、同じ湖北の三島池ほどメジャーではないが、野鳥ファンの間ではそれなりに有名なスポットである。

 

 西池を通り過ぎると池奥の集落がある。以前の私は磐座を探して、この集落の奥のほうに踏み込んでいったのだが徒労に終わった。じつは磐座があるのはこの集落の西の谷である。この谷の農道を進むと、奥のほうで山林に入り、そのまま道なりに進むと磐座のある場所にたどりつく(ただし車で行けるのは山林の手前まで)。この道、迷いそうなところには下の画像のような看板が立っていて安心だが、熊のオヤツになりたくない人は、自己責任で熊鈴の準備などの対策をしておくように

磐座のある谷

道しるべ

 

波久奴神社の磐座(2/4)につづく 

 


湖北再々訪

2010年11月23日 21時00分00秒 | 徒然

  先週は天気に恵まれなかったので、湖北の神社めぐりリベンジ。

 長浜市高月町雨森の天川命神社で、黄色の巨人と久しぶりに再会。相変わらず壮観ですな

 足許から頭のてっぺんまで真っ黄色。スゲェ

 


 

 天川命(あまがわのみこと)神社は近江国伊香郡の式内社。現在は武速産霊命外57柱の祭神を祀っているが、ほんらいは天川命という地方神を祀る神社だったのだろう。この神はどういう神格だったのか。何か心惹かれる神名である。 

天川命神社の社殿

 

 

  こちらは長浜市高月町井口の日吉神社の近くにある池。長方形をしたこの池には大小2つの島があり、古代式庭園の遺構ではないかともされる。毎年、池辺にある紅葉が真っ赤に紅葉し、それが池に映るとまるで水面が燃えているようになるのだが、何と今年は整備工事中で池に水がなかった。残念。というか、ここはあまり綺麗に整備しない方がいいと思うよ

大小2つの島



池に水がある画像は2004年に撮ったものです。

 

 

 前回も紹介した長浜市高月町柏原の佐味神社もイチョウが見頃

  この神社、敷地はかなり狭いし、拝殿はなく小さな本殿があるだけのほとんどポケットパークみたいな神社なのだが、それでも目通り2mはありそうな杉が3本も屹立していて、古社であることを感じさせる



佐味神社の社頭

佐味神社の社殿

杉の巨木

同上

 ここは社地の中を小川が流れているのだが、のぞき込むとまだコンクリートで護岸されてなくて、それが妙に床しい。ずっとこのままでいいよ。

社地を流れる小川

同上

 

 

 長浜市湖北町山本にある朝日山神社の紅葉も見頃。

 

 

 湖北の晩秋でした

 

 


(14)伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(2/2)酒見神社(その弐)】

2010年11月18日 01時00分02秒 | 伊勢津彦

 ★「伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(2/2)】酒見神社(その壱)」の続き

 上の1~3を総合すると、伊勢とつながりが強い酒見神社いったいの地域は、「裳咋モクイ臣」を介して、阿閉アエ氏の本貫地のあった伊賀国阿拝アエ郡と通底することになる。

 阿拝郡には穴石神社という式内社があった。とうがい式内社については有力な論社が2つあり、1つは三重県伊賀市石川にある穴石神社で、もう一つは同市柘植町にある都美恵神社だが、私は後者のほうがほんらいの式内社であると考えていることはすでに述べた(「伊勢津彦捜しは神社から【都美恵神社】」参照)。


 三重県伊賀市柘植町の都美恵神社は、式内・穴石神社の後裔社だろう。

伊賀市石川の穴石神社

 

石川の穴石神社は式内社ではないとおもうが、
その風致にはひかれるものがある。

 現在の都美恵神社があるのは伊賀市柘植町であり、『和名抄』の「柘植郷」はこのふきんにあったと考えられる。伊勢津彦捜しは神社から【伊勢命神社(4/4)】」でも述べたように、天平勝宝元年(749)の『伊賀国阿拝郡拓殖郷長解』には、拓殖郷の人として石部万麻呂、石部石村、石部果安麻呂という3名の磯部氏が載っている(「磯部」は「石部」にも作る。)。『姓氏家系事典』によれば、この3名も裳咋氏と同じ敢磯部であるという。

 ここでおもい出してほしいのは、『伊勢国風土記』逸文で穴志アナシの社にいた伊勢津彦が石で城を築いて立てこもっていたところ、そこに阿倍志比古アベシヒコが来て奪おうとしたが、勝つことができなかったという伝承である。


三重県伊賀市一宮の敢国アエクニ神社

同上
敢国神社は、伊賀国阿拝郡に登載のある式内大社で、伊賀国一宮。
現在の祭神は大彦命だが、ほんらいは阿倍志比古を祀っていたという説もある。

 

 式内・穴石神社はこの伝承に登場する「穴志の社」のことで、阿倍志比古は阿閉アエ氏(=敢アエ臣)の祖神だ。柘植郷は機内から東海方面に出る際の交通の要衝で、鈴鹿越えをする際の関門にあたっている。この伝承は機内勢力の先駆けであった阿閉氏の祖先が、伊賀を通って東海方面に進出しようとした際、柘植郷にいた土着勢力から強い抵抗を受けた記憶を伝えるものだろう。この伝承で阿倍志比古は、伊勢津彦に敗れたことになっているが、実際のヤマト王権は、雄略朝の頃にはとっくに関東まで勢力を広げていたのであり、柘植郷にいた土着民たちも、その頃には機内勢力に屈し、阿閉氏の支配下に入っていたはずである。

 磯部たちの先祖は古くから伊勢地方に土着していた海民であったが、漁労航海の技術に習熟していたため、王権の支配下に入ってからは「磯部」として統括されるようになった。古文献には磯部氏の名前がかなり多く残っており、彼らが海部や山部に匹敵する大集団だったことをうかがわす。
 磯部たちは近江、隠岐、讃岐、美作、佐渡などにもいたが、とくに東日本方面への分布が顕著であり、尾張、遠江、駿河、伊豆、相模、下総、常陸、美濃、信濃、上野などに磯部氏の人名や、磯部郷の存在がみとめられる。『姓氏家系事典』はこのことについて、「磯部はけだし海部と東西相対せしが如し。すなわち海部漁民は安曇氏これを率い、本邦西部に多く、これ(=磯部)は専ら東部に活動せり。しかしてその本拠は伊勢にして、伊勢に最も多きが故にまた伊勢部と呼ばれしものと考えらる。」と述べている。

 伊勢は畿内から東進してきた勢力が初めて海に出会う土地で、海路で東日本に進出する際にはその発進港となる。伊勢にいた磯部たちはその航海技術を買われて、ヤマト王権が海路で東国を目指す際の足になる機会が多かったろう。彼らが東日本に多く分布している理由はこれで説明できるとおもう。

 いっぽう、伊勢津彦の伝承も東日本に多い。しかも彼の伝承が残る国には磯部氏の存在がみとめられるケースが多いのである。伊勢津彦の本拠地であった伊勢が、磯部たちの本拠地でもあったことや、伊勢津彦を祀る穴石神社の所在地、伊賀国阿拝アエ郡柘植郷に磯部氏がいたことは上述のとおりだが、他にも次のような例がある。

 信濃は『伊勢国風土記』逸文の割註で、天日別命に敗れた伊勢津彦が逃れ去ったとされる土地だが、更級郡には『和名抄』の磯部郷があった。また、『姓氏家系事典』によれば後世、信濃には磯部姓の者が多かったという。ちなみに信濃は海が全くない土地だが、上代に海人族が多く活動していたことが特記される。

 相模国造は『旧事本紀』に、武蔵国造の祖である伊勢都彦命の三世の孫、弟武彦から出たとされている。相模には『寧楽遺文』に収められた天平十年の文書の中に「磯部白髪」の名があり、また、箱根神社の古鐘にある永仁四年の銘には「磯部安弘」の名がある。
 武蔵には『新編武蔵国風土記』の幸手宿村条に「磯部氏代々名主役を務む ── 」とあり、また、武蔵国一宮である氷川神社の社人には磯部氏がいたことがわかっている
。氷川神社といえば、古代において武蔵国造が奉斎した神社として知られる。

埼玉県大宮市高鼻町の氷川神社

氷川神社は武蔵国足立郡に登載のある式内明神大社であり、武蔵国一宮。
武蔵国造が奉斎した神社であり、
鎮座地は国造の居館があった場所と言われる。

氷川神社の神池

 

  こうしてみると巨視的にみれば、伊勢津彦の伝承の分布と、磯部氏のそれはよく重なるようにみえる。そして私はこうした状況証拠から、「伊勢津彦の信仰はもともと、古くから伊勢地方にいた海民たちのものであり、彼らが「磯部」として王権から統括されるようになってからも、こうした民間信仰は彼らの間に残りつづけた。磯部たちはヤマト王権が東国方面に勢力を拡大しようとした際、その海上輸送を担ったので、王権勢力の膨張とともに彼らの中で東国に居住する者たちが増えていった。これに伴い、伊勢津彦の信仰も東国方面に伝播した。信濃や相模などに残る伊勢津彦の伝承はこうして生じたものである。」というような見通しを立てている。


 ちなみに奈良期以降のわが国は、官道としてもっぱら陸路を重視するようになったため、海路の役割は後退していったが、律令制の衰退とともに再び海上交通は盛んとなる。こうした動きの中で中世期になると、伊勢神宮の祇官の活躍により、伊勢信仰は海上ルートを通じて諸国に伝播するようになったが、御厨ミクリヤの分布からいって、その伝播先は西日本よりも東日本のほうが圧倒的に多かった。伊勢津彦の信仰も、古代においてある程度これと似たような動きをみせていたのではないか。


★「伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(2/2)酒見神社(その参)】」に続く。 

 


湖北再訪

2010年11月14日 18時58分22秒 | 徒然

 

 湖北地方の神社を久しぶりに訪れてみた。

 ここは紅葉が見事なので、毎年、この時期になると行ってみたくなる。今年は秋になって急に冷え込んだし、台風もあまり来なかったので、紅葉が綺麗になる条件が整っている。ということで、満を持して行ってみた。

 来てみると期待通り、木之本しゅうへんではカエデやイチョウがよく色づいていた。ちょっと残念だったのは、天気予報ではまる一日、お天気マークがついていたのに、実際には朝から少しづつ雲が増えてきて、午後になると完全に曇ってしまったことだ。しかし午前中はまだ断続的に日が差し込んできたので、朝の光線が充満する神社の境内で、紅葉を眺めることができたのは幸運だった。

 画像は式内社の意冨布良(おほふら)神社。滋賀県長浜市木之本町大字木之本にある。木之本は北国街道の宿場町であり、当社は街道沿いの古い家並みがつづく処からちょっと引っ込んだところに鎮座している。土曜日だったので木之本の駅から地蔵院の辺りにかけては観光客をみかけたが、ここはほとんど無人の状態だった。しかし、私なりに湖北の紅葉スポットを選べば(その場合はもっぱら神社だけになってしまうが)、はずすことのできない場所である。  

意冨布良神社

同上

意冨布良神社の社殿

ライオン・キングみたいな狛犬

 紅葉の名所というと渓谷とか山岳寺院の境内とかが多く、そういう場所はたいてい全山が赤や黄に染まるような土地である。これに対し湖北の紅葉はもっとスケールが小さく、神社や寺院の境内の中に赤や黄が点描的に配置してあるようなのがむしろ美しい。しかし、色づき方が非常に鮮やかなので、ヒョロっとしたカエデが1本あるだけでも、ものすごくアクセントになったりする。

 

 境内社の豊栄神社。じっさいは銅製の外灯の緑青が妖しいほどにもっと映えていたのだが、この画像ではそれが伝わってこない。こういう時、デジ眼が欲しくなるな。

 

 

 滋賀県長浜市高月町柏原にある式内社の佐味神社。国宝十一面観音像で有名な渡岸寺の近くに鎮座している。ここのイチョウの紅葉も好きなのだが、まだちょっと早かったようだ。あと一週間もすれば見事な黄色に染まるだろう。