神社の世紀

 神社空間のブログ

かむとけの木から(1)【河辺臣と霹靂の木】

2013年03月30日 16時02分25秒 | 船木氏

 『住吉大社神代記』をよむと、住吉神は各地に船材をとるための杣山をもっていて、船木氏がその管理にあたっていたことがうかがえる。安芸国の高田郡と沼田郡には『和名類聚抄』にそれぞれ「舩木郷」がみえるが、そこにも船木氏がいてこうした御杣山を守っていたのだろう。このうち、沼田郡の舩木郷は現在の広島県三原市本郷町船木の辺りとされるが、そこに菅霹靂神社という神社がある。当社は『日本書紀』推古天皇二十六年条に見える次の記事にちなんだ由緒をもつ。


広島県三原市本郷町船木に鎮座、菅霹靂(すがへきれき)神社
Mapion
祭神は軻遇突智神、久久能智神、天之水分神
  

 「この年、河辺臣を安芸国に遣わして船を造らせた。山にはいって船の材キを探した。たいへん良い材があったので伐ろうとした。そのときある人が、「霹靂の木(雷神の宿る木)です。伐ってはなりません。」といった。河辺臣は、「雷神とはいってもどうして天皇の命に抗することができようか。」といって、多くの幣帛を捧げて、人夫を使って伐らせた。すると御大雨となり落雷した。河辺臣は剣の柄を握って、「雷神よ、帝の民を犯してはならぬ。かえって自分の身をそこなうぞ。」といって天を仰ぎ、しばらく待った。十あまり雷鳴が轟いたが、河辺臣を犯すことはなかった。小さな魚となって雷神は木の股にはさまれていた。その魚をとって焼いた。ついに目的の船を造った。」
 ・講談社学術文庫『日本書紀(下)』p109 宇治谷孟現代語訳

 菅霹靂の由緒を刻んだ石碑には、上の記事の後を次のようにつづけている。

 「霹靂(かんとけ)の木は周囲十周、高さ百二十丈もある大木で、高天原より神が降臨される神木として崇められ、雷は雷鳴と共に雨をもたらし、耕作の豊穣と結びつけ農業の神として信仰があった。
 雷神のたたりを畏れた村人が神々を勧請し、社号を船材敏(ふなきと)神社とし、船木郷の産土神としてまつられたといわれている。
 船木郷で造られた船は遣唐使船として活躍し、唐(中国)の文化を導入し、我が国、文化の水準を高め、国内改革の促進に貢献したと言われている。 

 明治四十五年六月二十五日、政府の神社合併布令により、中ノ谷の香久山太神宮(かくやまたじんぐう)と合祀し、社号を霹靂神社(へきれきじんじゃ)と改めた。しかし由緒ある船材敏神社を霹靂神社に合祀することを惜しむ声があり、改めて分祀し、社号を菅霹靂神社とし、今日にいたっている。」


境内の様子
一度、廃社になったせいだろうが、全体に古社のふんいきが希薄

 総じて記紀などが漠然と「○○国の出来事」としただけの記事の場合にも、その舞台となったことを主張する場所がどこかしら残っているものだが、その多くはさして根拠がない。が、当社の由緒にかぎっては例外的にそうとも言えないのではないか。というのも船木氏とこの推古天皇二十六年の記事にはつながりが感じられるからだ。例えば河辺臣の出身氏族、河辺氏の本拠地は河内国石川郡川辺野(大阪市平野区長吉町ふきん)である。そこは住吉大社から東に8km程度しか離れておらず、こうした地縁関係から河辺臣と船木氏に関係があったとしてもおかしくないのだ。


菅霹靂神社の手水石
神社の由緒にちなんで船をかたどっている


拝殿の中にあった舵輪


遣唐使船(?)の模型
当社の拝殿には航海の安全を願って奉納された品々がいくつかあった
現在も船舶関係者から信仰を集めているのだろう

 また、由緒書きでは河辺臣が切り倒した霹靂の木は遣唐(随)使船の材料としてつかわれたことになっているが、実際のところどうだったのか。河辺臣は闕名だが、たぶん推古天皇三十一年条で新羅征討に加わった副将軍の河辺臣禰受と同一人物だろう。してみると、霹靂の木はこの時の軍船に使用された可能性が高い。総じて、神功皇后の伝承に登場するエピソードをはじめとして、航海神である住吉神は古くから新羅出兵との関係が深かった。したがい、ここにも住吉神が管轄する杣山の管理をしていた船木氏と、推古天皇二十六年の記事のつながりが感じられる。


住吉大社

 ちなみに当時は新羅との関係で対外情勢が非常に緊迫した時期であった。したがい、国内ではナショナリズムの気運が高まっていたとおもわれるが、勅命を押し立てることで在来の神の権威さえ否定してしまう河辺臣の苛烈な行動の原動力もそこにもとめられるだろう。ある意味で当時の社会情勢は、現在のわが国と通じる一面がある。

  話をもどす。
 こうしたことから河辺臣と霹靂の木の記事の舞台となったことを主張する菅霹靂神社の由緒には、それなりの信憑性が感じられる。その場合、霹靂の木を伐ろうとした河辺臣を止めようとした人物は船木氏の者であったと考えられる。  


菅霹靂本殿
平凡社の「広島県の地名」によれば、当社には河辺臣を祀る
河辺神社という境内末社があるとあったが見つからなかった

かむとけの木から(2)」につづく

 


あまてるみたま考(4)【政治の季節】

2013年03月11日 23時58分15秒 | あまてるみたま紀行

★「あまてるみたま考(3)」のつづき 

 ところで『國學院雑誌』に『天照御魂神考』が発表されたのは1961年であるが、当時の時代背景について考えてみたい。


1960年の安保闘争で国会を取り巻くデモ隊

  1961年の直前にあたる1959~60年と言えば、安保闘争の嵐が吹き荒れていた頃である。この政治闘争はほんらい、日米安全保障条約の締結に反対するためのものであったが、条約の締結が強行採決されるとますますエスカレートするようになり、国会の周囲を大デモ隊が取り巻くなど、空前の政治の季節が到来した。こうした中で当初の条約締結に反対するという目的は後退し、それに代わって反米的な思潮が浮上してくる。そしてこれとパラレルに、思想界ではわが国の土着的な文化を見直す気運が高まった。たとえば『定本柳田國男集』の刊行がはじまったのがこの時期だったことなど、その現れの1つである

 ただし、それだけなら今日のグローカリズム(グローバリゼーションに対する反動として、ローカルな価値観が噴出してくること)と似たような現象だが、安保闘争は左派系が指導したためか、こうした土着文化の見直しは反天皇制的な色合いを強くもっていたのである。このため、「天皇=稲作=弥生」を突き抜けて再評価の対象となった土着文化とは「縄文」だった。縄文文化の本格的な見直しが進んだのはこの時期だったのである。最近、縄文というキーワードは(しばしば「共生」というそれと組み合わさって)きわめて広く流通しているが、こうした文化状況のえん源は安保闘争に求められるのだ。

 ちなみに近年の再評価が著しい岡本太郎は、1952年に『縄文土器論』を発表し、縄文土器を美術品として鑑賞することに先鞭をつけたとされるが、その中で彼は縄文を弥生に対置し、前者をより高く評価している。彼にあってこのスタンスは終生、変わらなかったが、1978年に行われた『縄文文化の謎を解く』という対談には、それがよく現れた次のような発言がみられる。

 ── 縄文土器の形式美についてですが、先ほど岡本先生は空間感覚だと言われましたが、他にどんな特徴がみられましょうか。

「たとえば隆線紋ね。はげしく縦横に躍動している。ときに追いかぶさり、ときに重なりあったりして下降し、旋回し、一条の線が永遠にくぐり抜けている。つまり定着していない。つねに流動しているんです。そういう感じは弥生式以降まったくなくなって、何か全部が定着したという感じなのに、縄文中期の隆線紋は永遠にくぐり抜け、無限に旋回している。その線自体がその時代の運命を象徴しているともいえますね。
 弥生式土器の紋様が動きを止め、ぴたっとおさまってしまっているのは、水田耕作が発達してからの農耕民の生活感覚がそのまま造形に出てきている、と考えるほか仕方がない。」 

「だからぼくは腹が立つんだけれども、縄文時代にあれだけ世界に類いのない個性を貫きながら、ある時代以降このくらい個性を失った民族もないくらい独自性を失っている。」 

「つまり日本人の中には、一方に形式主義的な定着した弥生の美意識があり、他方に永遠に流動して止まない縄文から始まる美意識とがあって、弥生の美意識は貴族とかインテリ社会では評価されるけれども、あの無条件に流動し旋回する縄文土器や浮世絵につながる美意識は、むしろ一般市井の庶民の中にあるんではないかと思う。」
  ・『岡本太郎著作集9太郎対論』p143~144

 岡本のこうした縄文再評価は容易に「弥生=天皇制」に対抗する「縄文イデオロギー」と解釈できるため、デモ隊に加わった側の人たちから歓迎された。 

 もっとも岡本という人はたんじゅんに右だ左だという枠組みに収まらないスケールをもっていたとおもう。それはこうした縄文文化再評価の気運に乗って、単なる芸術家以上の存在になっていたとはいえ、やがて彼が一大国家プロジェクトであった大阪万博会場を飾るモニュメントの製作を国から依嘱されたことによく現れている。たいした政治力だ。怪物だったのだ。


太陽の塔

 話を元に戻す。こうしてみると、天皇家の氏神であるアマテラスの前身として火明命=天照御魂神を再発見しようとした『天照御魂神考』が、天皇制以前の土着文化として縄文を再評価しようとするこうした思潮と軌を一にして執筆されたことがわかる。この論文には明らかに時代の産物としての一面があるのだ。また、岡本は松前より11歳年長だったが、両者とも戦時中は従軍して死線をさまよう経験をしたことも無視できない。 

 いずれにせよ、こうして再評価された縄文文化が現在では普遍的な価値を認められているのとどうよう、『天照御魂神考』で松前が発明した「隠された神」というタイプの言説もまた、古代史に興味をもつ人たちの間でこれからも再生産がつづくだろう(私もそのうちやるつもり)。

 

「あまてるみたま考(5)」につづく