調べてみたら、梛神社のネットによる本格的な紹介はまだのようだ(「元祇園」の異名をもつ京都市中京区壬生の梛神社のほうはよく紹介されているが)。となると、前々回、前回と、当社のことを取り上げておきながら、その祭神や所在地などについてほとんど触れてこなかったことが後悔される。そこで、伊勢津彦のことからはやや外れるが、補遺として梛神社の紹介をしておきたい。
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ちなみに私は(今のところ)、先行するサイトで社名・祭神・住所・由緒等が紹介されている神社については、自分のところで取り上げることがあっても情報の上書きはしない方針である。また、そういう神社を取り上げるのは、既存のサイトにない情報を追加したり、新しい切り口を試みたい時だけにしたいとおもっている。
梛(なぎ)神社は姫路市の西北部に当たる同市林田町下伊勢字上ノ段492-1に鎮座する旧村社である。式内社ではない。
鎮座地周辺は大津茂川の開析した狭い谷間で、田畑が広がる牧歌的な雰囲気をまだのこしている。大津茂川は当社ふきんでは伊勢川とも呼ばれ、中流域では太田川と名前を変えていた時期もあったが、現在では大津茂川という名称に統合された。なお、伊勢川の呼称は『播磨国風土記』にも登場し、「神に因りて名と為す。」、すなわち伊勢都比古命にちなんで川の名としたとある。
この谷間には因幡街道が通っており、社前のごく近くを通過している。因幡街道は名前の通りの播磨と山陰を結ぶ往還で、当地が交通の要衝であったことをうかがわせる。このことは出雲系の神であったとの伝承がある『伊勢国風土記』逸文の伊勢津彦と当社の関係を考える際、重要ではないか。
梛神社
梛神社は現在、祭神として天照大神を祀るが、古くは伊勢明神を祀っていたという。
『日本の神々』梛神社の項で筆者の糸田恒雄氏は、当社の祭神が伊勢明神から天照大神になったことについて「社殿が西向きで、東の山頂に向かって遙拝するかたちになることは、太陽神崇拝との関係をも考えさせる。当社がもともと日神祭祀の性格をもっていたとすれば、それが伊勢という地名と相俟って天照大神と結びつくのは容易なことである。(p67)」と述べている。
しかし、当社の社殿が西向きなのはたんに地形上の理由からだとおもうし、また社殿背後に山頂がくるような格好になっていないことは【梛神社(2/2)】の画像で示しておいた。祭神の天照大神は「伊勢明神」という神名に附会されたもので、当社が日神祭祀の性格をもっていたとする根拠は何もないとおもう。
梛神社の社殿は西向き
『平成祭データ』には由緒として下のようなテキストがあった(『揖保郡誌』にあるものと内容は同じ)。
「人皇第十一代垂仁天皇の御宇26年、村の西南、七五三獄より東北、隅窟山に至り、十二旒の幡、天より降りし時、今の社地に梛の大木ありて8町四方に繁茂せしが、其一族の幡、此樹の枝にかかり、天照大神、顯れ給ひ、則ち縣主、葺原飯、此事を天皇に奉聞し、十二幡の降りし各地へ碑を立て、之を表せしが、十八世の後胤、飯粒に至り、良田四拾町を安閑天皇に献じ勅を奉じて右立碑の地に就て、十二字を構へ、天神七代、地祇五代の十二神を奉崇梛の大木を斬り、其跡に天照大神を祭る。是今の梛神社の事なり云々。」
すなわち、垂仁天皇の二十六年、村の西南にある七五三シメ獄より、東北にある隅窟山にかけて12本の幡が空から降り、その1本が現社殿しゅうへんの八町四方に繁茂していた梛ナギの木にかかり、天照大神が顕れた。県主だった葦原飯照は幡の降った地に碑を建て、のち、その十八世の子孫、飯粒イイボは良田40町を安閑天皇に献上し、碑の地に天神七代・地神五代を祀り、梛の木の伐り跡に天照大神を祀った。これが梛神社の創祀であるという。
当社の鎮座する下伊勢や上伊勢は、『播磨国風土記』に記事のある伊勢野の遺称地である。このため、当社はとうがい記事との関係で語られることが多い。なかんずく、この記事には先住勢力が祀る荒ぶる神であったらしい伊勢都比古命と伊勢都比売命が「山の峰に在イマす」とあるのに対し、絹縫キヌヌイの猪手イテ・漢人刀良アヤヒトトラらの祖にあたる人が「社を山本に立てて」祀ったとあり、この「山本に立て」たという社を当社に比定する考えがある。
ただしここで注意されるのは、上記由緒には『播磨国風土記』のことが何も触れられていないことである。つまりこの由緒をみるかぎり、梛神社じたいは風土記にある「山本に立てて」とある社の後裔とは主張していないのである。が、実際には多くの書物が当社はこの伝承と関係深いものとみており、私もこれにしたがっている。
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ちなみに、『古代播磨の地名は語る』には「この(★梛神社の祭神である)天照大神は梛の大木が繁茂する現在地に天から降ってきたひと流れの布が木の枝にかかった時現れた神との伝承があり(伊勢校区連合自治会)、このことは百済から渡ってきた開拓者、絹縫キヌヌイの猪手イテ・漢人刀良アヤヒトトラの祖が、先住者である伊勢都比古命と伊勢都比売命を山の峰に祀り、この地に静安な里をもたらしたことがらにもとづいた縁起と受け取ることができる。(p110)」とあって、梛の木の枝にかかったというひと流れの布に、渡来系の紡績技術者であった絹縫キヌヌイの猪手イテらの活動の記憶をみているようだ。ちなみに絹縫は『新撰姓氏録』に「百済国神霊命の後なり」とある。
境内にある梛のご神木
『播磨国風土記』伊勢野の記事で興味深いのは、さっきも言ったとおり、伊勢都比古命と伊勢都比売命が「山の峰に在イマす」とあるのに対し、絹縫の猪手・漢人刀良らの祖にあたる人が「社を山本に立てて」祀ったとあり、山上と山麓という位置関係がやけにはっきりと対比されていることだ。率直に解釈すると、山上にいる伊勢都比古命・伊勢都比売命を山麓の社で祀ったということになりそうだが、『龍野市史』はこのような対比にはもっと深い意味があると考え、渡来系の絹縫キヌヌイの猪手イテ・漢人刀良アヤヒトトラらの祖にあたる人は新しく自分たちの神を山麓に祀り、先住勢力の祀る神であった伊勢都比古命らは山上に追い上げた、としている。
私は『龍野市史』を直接、読んでいないが(その内容は『日本の神々』にある紹介によって知った。)、この解釈によれば、先住勢力と渡来系勢力との間にはかなり顕著な対立があったことになるとおもう。
これに対し私は、伊勢都比古命とは梛神社背後の尾根上に屹立している巨岩のことで、この石神を絹縫キヌヌイの猪手イテらの祖に当たる人が、山麓で祀ったのが当社のえん源であると考えている。現在の梛神社が「社を山本に立てて」とある神社の後裔だったとすれば、石神は「山の峰に在イマす」ことになり、現地の状況が『播磨国風土記』の記事とよく符合するからである。
伊勢都比古命を祀っていた先住勢力と、後から伊勢野に進入してきた絹縫キヌヌイの猪手イテらの間には、初期の頃、ある程度の葛藤や摩擦はあったろう。しかし、武力的な衝突があったというより、半島からもたらされた先進技術をもつ後者が、文化度のギャップにより次第に前者を無血のまま圧倒していったというようなことではなかったか。そうして彼らは(秦氏の場合にみられるように)先住勢力の祀っていた土着神(=伊勢都比古命の石神)を崇敬することでうまく共存していったか、あるいは部民として取り込んでいったかしたのだとおもう。
梛神社の社殿
当社の裏山が峰相ミネアイ山という名前であることはすでに紹介したが、この山にはかつて鶏足ケイソク寺という寺院があった。中世期に書かれた『峰相記』によれば、当寺は神功皇后が三韓征伐から戻ったときに連れてきた百済の王子が草庵を開いたのがはじまりだったという。百済は絹縫キヌヌイの猪手イテらの故国であり、当寺の創建には彼らが関係していたのではないか。また、興味深いことに、この寺院の跡は梛神社と峰相山の尾根を隔ててほぼ反対側にあり、両者はほぼ東西ライン上に載ってくる。この尾根には私が伊勢都比古命だと考える石神の巨岩があるのだが、あるいは鶏足寺もこの巨岩を意識した場所に建立されたのかもしれない。その場合、当寺には梛神社の神宮寺的な性格があった可能性もある。
なお、鶏足寺は秀吉の中国攻めに抵抗したため全山焼き討ちに遭い廃寺となった。
峰相山については『播磨国風土記』揖保郡条に登場する稲種山に比定する説が有力である。その記事によると、オオナムチ神とスクナヒコナ神が神前郡の堲岡ハニオカの里、生野の峰にいて、この山を遠望しながら「あの山には稲種を置くべきである。」と言った。そこで稲種を託し送って、その山頂に積み上げた。山の形もこれまた稲を積み上げたものに似ている。だから稲種山と言われるようになったという。総じて、稲を積み上げたものであるとの伝承のある山や、「稲積山」という名前の山は各地にあるが(ここでは「稲種山」という名前になっているが)、山麓に古社がありその神体山となっていることが多い。
『播磨国風土記』には神前郡に堲岡の里の記事もあり、やはりオオナムチ神とスクナヒコナ神が堲ハニの荷を担いで行くのと、糞をしないで行くのとどちらが長く我慢できるか競い合い、結局、堲の荷を担いでいたスクナヒコナ神のほうが勝って、担いでいた堲を投げつけた岡が堲岡という名になったという、地名起源説話が載っている。他に、応神天皇が巡行した際、宮殿をこの岡に造って、「この土は堲としてしか役に立たない。」と言ったから堲岡になったという伝承も載せる。
堲ハニとは粘土のことだが、伊勢野にある稲種山の記事に、遠く離れた神前郡の堲岡の名が登場するのは、あるいは伊勢野いったいにいた渡来系の陶工たちの活動と関係があるのかもしれない。