神社の世紀

 神社空間のブログ

(7)伊勢津彦捜しは神社から【梛神社(補遺)】

2010年08月27日 00時01分00秒 | 伊勢津彦

 調べてみたら、梛神社のネットによる本格的な紹介はまだのようだ(「元祇園」の異名をもつ京都市中京区壬生の梛神社のほうはよく紹介されているが)。となると、前々回、前回と、当社のことを取り上げておきながら、その祭神や所在地などについてほとんど触れてこなかったことが後悔される。そこで、伊勢津彦のことからはやや外れるが、補遺として梛神社の紹介をしておきたい。

  •  ちなみに私は(今のところ)、先行するサイトで社名・祭神・住所・由緒等が紹介されている神社については、自分のところで取り上げることがあっても情報の上書きはしない方針である。また、そういう神社を取り上げるのは、既存のサイトにない情報を追加したり、新しい切り口を試みたい時だけにしたいとおもっている。

  梛(なぎ)神社は姫路市の西北部に当たる同市林田町下伊勢字上ノ段492-1に鎮座する旧村社である。式内社ではない。

 鎮座地周辺は大津茂川の開析した狭い谷間で、田畑が広がる牧歌的な雰囲気をまだのこしている。大津茂川は当社ふきんでは伊勢川とも呼ばれ、中流域では太田川と名前を変えていた時期もあったが、現在では大津茂川という名称に統合された。なお、伊勢川の呼称は『播磨国風土記』にも登場し、「神に因りて名と為す。」、すなわち伊勢都比古命にちなんで川の名としたとある。
 この谷間には因幡街道が通っており、社前のごく近くを通過している。因幡街道は名前の通りの播磨と山陰を結ぶ往還で、当地が交通の要衝であったことをうかがわせる。このことは出雲系の神であったとの伝承がある『伊勢国風土記』逸文の伊勢津彦と当社の関係を考える際、重要ではないか。
 



梛神社


 

 梛神社は現在、祭神として天照大神を祀るが、古くは伊勢明神を祀っていたという。

 『日本の神々』梛神社の項で筆者の糸田恒雄氏は、当社の祭神が伊勢明神から天照大神になったことについて「社殿が西向きで、東の山頂に向かって遙拝するかたちになることは、太陽神崇拝との関係をも考えさせる。当社がもともと日神祭祀の性格をもっていたとすれば、それが伊勢という地名と相俟って天照大神と結びつくのは容易なことである。(p67)」と述べている。

 しかし、当社の社殿が西向きなのはたんに地形上の理由からだとおもうし、また社殿背後に山頂がくるような格好になっていないことは【梛神社(2/2)】の画像で示しておいた。祭神の天照大神は「伊勢明神」という神名に附会されたもので、当社が日神祭祀の性格をもっていたとする根拠は何もないとおもう。 


 



梛神社の社殿は西向き


 

 『平成祭データ』には由緒として下のようなテキストがあった(『揖保郡誌』にあるものと内容は同じ)。


 「人皇第十一代垂仁天皇の御宇26年、村の西南、七五三獄より東北、隅窟山に至り、十二旒の幡、天より降りし時、今の社地に梛の大木ありて8町四方に繁茂せしが、其一族の幡、此樹の枝にかかり、天照大神、顯れ給ひ、則ち縣主、葺原飯、此事を天皇に奉聞し、十二幡の降りし各地へ碑を立て、之を表せしが、十八世の後胤、飯粒に至り、良田四拾町を安閑天皇に献じ勅を奉じて右立碑の地に就て、十二字を構へ、天神七代、地祇五代の十二神を奉崇梛の大木を斬り、其跡に天照大神を祭る。是今の梛神社の事なり云々。」 


  すなわち、垂仁天皇の二十六年、村の西南にある七五三シメ獄より、東北にある隅窟山にかけて12本の幡が空から降り、その1本が現社殿しゅうへんの八町四方に繁茂していた梛ナギの木にかかり、天照大神が顕れた。県主だった葦原飯照は幡の降った地に碑を建て、のち、その十八世の子孫、飯粒イイボは良田40町を安閑天皇に献上し、碑の地に天神七代・地神五代を祀り、梛の木の伐り跡に天照大神を祀った。これが梛神社の創祀であるという。

 当社の鎮座する下伊勢や上伊勢は、『播磨国風土記』に記事のある伊勢野の遺称地である。このため、当社はとうがい記事との関係で語られることが多い。なかんずく、この記事には先住勢力が祀る荒ぶる神であったらしい伊勢都比古命と伊勢都比売命が「山の峰に在イマす」とあるのに対し、絹縫キヌヌイの猪手イテ・漢人刀良アヤヒトトラらの祖にあたる人が「社を山本に立てて」祀ったとあり、この「山本に立て」たという社を当社に比定する考えがある。

 ただしここで注意されるのは、上記由緒には『播磨国風土記』のことが何も触れられていないことである。つまりこの由緒をみるかぎり、梛神社じたいは風土記にある「山本に立てて」とある社の後裔とは主張していないのである。が、実際には多くの書物が当社はこの伝承と関係深いものとみており、私もこれにしたがっている。

  •  ちなみに、『古代播磨の地名は語る』には「この(★梛神社の祭神である)天照大神は梛の大木が繁茂する現在地に天から降ってきたひと流れの布が木の枝にかかった時現れた神との伝承があり(伊勢校区連合自治会)、このことは百済から渡ってきた開拓者、絹縫キヌヌイの猪手イテ・漢人刀良アヤヒトトラの祖が、先住者である伊勢都比古命と伊勢都比売命を山の峰に祀り、この地に静安な里をもたらしたことがらにもとづいた縁起と受け取ることができる。(p110)」とあって、梛の木の枝にかかったというひと流れの布に、渡来系の紡績技術者であった絹縫キヌヌイの猪手イテらの活動の記憶をみているようだ。ちなみに絹縫は『新撰姓氏録』に「百済国神霊命の後なり」とある



境内にある梛のご神木


 

 『播磨国風土記』伊勢野の記事で興味深いのは、さっきも言ったとおり、伊勢都比古命と伊勢都比売命が「山の峰に在イマす」とあるのに対し、絹縫の猪手・漢人刀良らの祖にあたる人が「社を山本に立てて」祀ったとあり、山上と山麓という位置関係がやけにはっきりと対比されていることだ。率直に解釈すると、山上にいる伊勢都比古命・伊勢都比売命を山麓の社で祀ったということになりそうだが、『龍野市史』はこのような対比にはもっと深い意味があると考え、渡来系の絹縫キヌヌイの猪手イテ・漢人刀良アヤヒトトラらの祖にあたる人は新しく自分たちの神を山麓に祀り、先住勢力の祀る神であった伊勢都比古命らは山上に追い上げた、としている。
 私は『龍野市史』を直接、読んでいないが(その内容は『日本の神々』にある紹介によって知った。)、この解釈によれば、先住勢力と渡来系勢力との間にはかなり顕著な対立があったことになるとおもう。

 これに対し私は、伊勢都比古命とは梛神社背後の尾根上に屹立している巨岩のことで、この石神を絹縫キヌヌイの猪手イテらの祖に当たる人が、山麓で祀ったのが当社のえん源であると考えている。現在の梛神社が「社を山本に立てて」とある神社の後裔だったとすれば、石神は「山の峰に在イマす」ことになり、現地の状況が『播磨国風土記』の記事とよく符合するからである。

 伊勢都比古命を祀っていた先住勢力と、後から伊勢野に進入してきた絹縫キヌヌイの猪手イテらの間には、初期の頃、ある程度の葛藤や摩擦はあったろう。しかし、武力的な衝突があったというより、半島からもたらされた先進技術をもつ後者が、文化度のギャップにより次第に前者を無血のまま圧倒していったというようなことではなかったか。そうして彼らは(秦氏の場合にみられるように)先住勢力の祀っていた土着神(=伊勢都比古命の石神)を崇敬することでうまく共存していったか、あるいは部民として取り込んでいったかしたのだとおもう。



梛神社の社殿


 

 当社の裏山が峰相ミネアイ山という名前であることはすでに紹介したが、この山にはかつて鶏足ケイソク寺という寺院があった。中世期に書かれた『峰相記』によれば、当寺は神功皇后が三韓征伐から戻ったときに連れてきた百済の王子が草庵を開いたのがはじまりだったという。百済は絹縫キヌヌイの猪手イテらの故国であり、当寺の創建には彼らが関係していたのではないか。また、興味深いことに、この寺院の跡は梛神社と峰相山の尾根を隔ててほぼ反対側にあり、両者はほぼ東西ライン上に載ってくる。この尾根には私が伊勢都比古命だと考える石神の巨岩があるのだが、あるいは鶏足寺もこの巨岩を意識した場所に建立されたのかもしれない。その場合、当寺には梛神社の神宮寺的な性格があった可能性もある。
 なお、鶏足寺は秀吉の中国攻めに抵抗したため全山焼き討ちに遭い廃寺となった。

 峰相山については『播磨国風土記』揖保郡条に登場する稲種山に比定する説が有力である。その記事によると、オオナムチ神とスクナヒコナ神が神前郡の堲岡ハニオカの里、生野の峰にいて、この山を遠望しながら「あの山には稲種を置くべきである。」と言った。そこで稲種を託し送って、その山頂に積み上げた。山の形もこれまた稲を積み上げたものに似ている。だから稲種山と言われるようになったという。総じて、稲を積み上げたものであるとの伝承のある山や、「稲積山」という名前の山は各地にあるが(ここでは「稲種山」という名前になっているが)、山麓に古社がありその神体山となっていることが多い。

 『播磨国風土記』には神前郡に堲岡の里の記事もあり、やはりオオナムチ神とスクナヒコナ神が堲ハニの荷を担いで行くのと、糞をしないで行くのとどちらが長く我慢できるか競い合い、結局、堲の荷を担いでいたスクナヒコナ神のほうが勝って、担いでいた堲を投げつけた岡が堲岡という名になったという、地名起源説話が載っている。他に、応神天皇が巡行した際、宮殿をこの岡に造って、「この土は堲としてしか役に立たない。」と言ったから堲岡になったという伝承も載せる。
 堲ハニとは粘土のことだが、伊勢野にある稲種山の記事に、遠く離れた神前郡の堲岡の名が登場するのは、あるいは伊勢野いったいにいた渡来系の陶工たちの活動と関係があるのかもしれない。


(6)伊勢津彦捜しは神社から【梛神社(2/2)】

2010年08月18日 23時00分34秒 | 伊勢津彦
 急な猛暑が襲ってきた今夏のとある週末、私は梛(なぎ)神社をおとずれた。『播磨国風土記』にある伊勢都比古命の記事との関係で語られることの多い神社である。




梛神社(社頭)

 

 当社のことは『日本の神々』に紹介されており、そこに背後の山が神体山であるようなことが書かれている。このことは『播磨国風土記』にある記事との関係で重要である。参拝を終えた私は早速、社前近くを通る因幡街道を渡って、社地とその背後の山が遠望できるところからその景色を観察した




梛神社(境内)
緑が多い境内だが「森厳な」というより、むしろ「爽やか系」の緑

 

 最初に気付いたのは、『日本の神々』の写真には写っていないコンビニが神社の前にできていて、景観がかなり損なわれている、ということだった。どうしようもないことだが、これにはガッカリした。

 次の気付いたのは、神体山といっても梛神社の背後の山は、各地でよく見かける笠を伏せたような平たい円錐形をしたものと違い、下の画像にあるように全く対照形をなしていない、ということだった。もちろん、神体山にも色々あり、いちがいなことは言えないのだが、それにしてもあまりにもまとまりを欠いたフォルムである。「三輪山のような標準的な神奈備山とずいぶん違うな。」というのが、正直な感想だった  

 



峰相山の全景。
神体山にしては対照形ではなく、フォルムにまとまりが感じられない。

 

 さらに気付くのは、社地と神体山にあまりつながりが感じられない、ということだった。
 これはどういうことかと言うと、普通、神体山を祀る神社は、山の主峰を背後に控えるような特権的な位置に社殿をかまえたり、あるいはその山から延びているもっとも立派な尾根の先端に社殿を構えたり、あるいはその山に降った雨が山麓で湧き出している清らかな感じの泉のかたわらに社殿を構えたり、等々することで、社地と神体山につながりを持たせるケースが多いのである。

 ところが、当社の場合にはこういったことが全くみとめられないのである。梛神社の背後の山は峰相山(みねあいさん)といい、山名と関係がありそうな2つの峰があるが、神体山としてこの山を祀るなら、とうぜん、この峰が背後に来るような地点に社地をかまえてしかるべきである。ところが梛神社が鎮座しているのは2つの峰からだいぶ外れた地点であり、背後の山を祀っているようにはまったく見えないのだ(下画像参照)



梛神社と峰相山(左手の森が社地)

 

 ここで、もう一度、『播磨国風土記』の伊勢野の記事を振り返っておく。
 この地に人家が建つといつも平穏に住むことができなかった。そこで絹縫キヌヌイの猪手イテ・漢人刀良アヤヒトトラらの祖にあたる人がここに住もうとして神社を建て、社の上の山の峰にいる伊勢都比古命と伊勢都比売命を祀ったところ、伊勢野の民家の人々は皆、安らかに住むことができるようになったので、ついに村里となることができた、という。

 伊勢都比古命と伊勢都比売命はこの地の先住勢力が祀る地主神だったのだろう。いっぽう、絹縫キヌヌイの猪手イテ・漢人刀良アヤヒトトラらというのは半島から渡来した技術者集団で、おそらく後から伊勢野に入って住みつこうとしたのだ。この伝承には、そんな彼らが先住勢力との間に摩擦をおこした記憶が反映しているようにおもう。
 もっとも、『播磨国風土記』には他にも、新羅国の王子、アメノヒボコがやってきて、地主神の葦原志許乎アシハラノシコヲや伊和大神と国占め争いをしたという伝承が多く残されているが、伊勢野の伝承の場合、渡来系の人たちはより和解的で、先住勢力の荒ぶる神を祀って最終的にはうまく共生したような印象を受ける。

 ちなみに梛神社のある伊勢や、そこと隣接する打越や石倉の山麓いったいからは多くの古代窯址が見つかっているが、これらは絹縫キヌヌイの猪手イテ・漢人刀良アヤヒトトラらの渡来系の集団が残したものらしい。
 記紀神話には、崇神天皇の時代に三輪山のオオモノヌシ神が祟ったので、国内で疫病が流行し人民が死に絶えそうになったが、この神の裔であったオオタタネコを神主にして祀らせたところ、祟りが治まったという伝承がみえる。紀によれば、彼がいたのは河内国の陶村ということになっており、陶村の「陶スエ」は当時、その地域いったいで行われていた須恵器生産と関係があるとされる。須恵器生産は当時の最先端技術で、もっぱら渡来系の人たちによって行われていた。したがって、オオタタネコも渡来系陶工たちの血をひく人だったらしいが、絹縫の猪手・漢人刀良らが伊勢野に残した窯址はこの伝承を連想させる。

 それはともかく、『播磨国風土記』によれば伊勢都比古命と伊勢都比売命は「山の峰に在イマす」とあり、これに対し絹縫の猪手・漢人刀良らの祖にあたる人は「社を山本に立てて」祀ったとある。ここで感じるのは、山上にいる伊勢都比古命・伊勢都比売命と、山麓にある神社の位置関係がやけにはっきり対比されている、ということだ。
 私たちは、古代人が神々がふだんは里から離れた山上にいると考え、祭礼の時だけ山麓に呼び下ろしてこれを祀っていた、というような民俗学上の知見を諸書においてよく目にするものだから、あるいはこの記事もそういう祭祀のあり方を言っているのかと思い込んでしまうかもしれない(私も最初はそう思った。)。しかし現地に来て、さっき説明したような各地の神体山とだいぶ勝手が違う梛神社とその裏山の様子を見ているうちに、これとは違う考えが浮かんできた。

 梛神社が背後の山を神体山として祀っているように見えないことはさっきも述べたが、そのかわり背後の尾根にはダルマのような形をした巨岩が屹立しているのが遠望できた。社地との位置関係から言って、当社はこの岩を祀ったものではないか(下画像参照)。その場合、この巨岩こそが伊勢都比古命であり、『播磨国風土記』はこの石神のことを「山の峰に在す」と言っていたのではなかったか。その場合、麓でそれを祀っていた梛神社を「社を山本に立てて」と表現していたことになり、風土記の記述は現在の状況と極めてよく符合するようにおもわれる



山本の社地と「山の峰に在す」伊勢都比古命の石神




伊勢都比古命の石神のアップ

 

 ちなみに『日本の神々』には梛神社の裏山にある巨岩群について次のような記事がある。「神社の裏山は峰相山の一峰でトンガリ山といい、その山頂近くに亀岩という大岩がある。岩に穴があり水を湛え、崇神天皇のとき四本の稲が生え、この稲を種として諸国へ稲作を広めたと伝える。他に大黒岩、神座の窟という奇勝があって、麓からも望見できる。(『日本の神々2山陽・四国』梛神社 p66)」

 あるいはここに見える大黒岩というものが、私が伊勢都比古命の石神だというダルマ型の巨岩のことなのかもしれない。また、山頂近くにあって穴に水を湛えているという亀岩は陰石で、これと対になって祀られていた女神の伊勢都比売命だった可能性もある。
 なお、崇神天皇の時にこの穴に四本の稲が生えうんぬんの伝承は、同じ『播磨国風土記』にある稲種山のそれと関係があるのだろう。

 よだんだが、梛神社の裏山はトンガリ山と呼ばれているらしいが、神社のあるあたりから眺めている時は、山の形が全く尖っていないのでこの名前が不思議だった。ところが南麓に当たる石倉の集落のほうから眺めると、下の画像のように山容が尖っていたので得心がいった



石倉の辺りから眺めたトンガリ山(火の見櫓の右隣)
前景を流れる川は、『播磨国風土記』にも名前が登場する伊勢川


トンガリ山々頂近くのアップ。
多数の岩石が露頭しているのが分かる。亀岩という岩はこの中のどれかなのだろうか。

 

 


伊勢津彦捜しは神社から【神社の記憶の力によって】

2010年08月11日 23時08分15秒 | 伊勢津彦

 ここで唐突だが、「伊勢津彦捜しは神社から」というシリーズの意図について触れておく(良い機会だとおもうから)。

 伊勢津彦についてはこれまで、その興味は天日別命に敗れた伊勢津彦が、伊勢を去って信濃に入ったという伝承に向けられることがあまりに多かった(こうした傾向は「伊勢津彦」というキーワードで検索をかけた結果からも感じられる。)。そしてそれは、この伝承がタケミカヅチ神との争闘に敗れたタケミナカタ神が信濃の諏訪地方に逃げ込んだという伝承とよく似ているからで、いきおい伊勢津彦への興味の中心も、彼とタケミナカタ神が同一神かどうか、という点に向けられることが多かった。ちなみに両神を同一神とする説は本居宣長によって唱えられたもので、国学が発生して以来の伝統的なものである。

 現在では、伊勢津彦とタケミナカタ神は同一神ではないということでほとんど決着がついている。そして、それかあらぬか伊勢津彦をめぐる議論もそれほど活発ではなくなってきているとおもう(1997年に出版された大和書房の『日本神話事典』には、風土記の伝承を比較的よく取り上げているにもかかわらず、伊勢津彦のことは全く出てこない。)。だが私は、このシリーズで神社とその伝承という面から新しいやり方で伊勢津彦に取り組みたいと考えている。「伊勢津彦捜しは神社から」という奇妙なタイトルの意図もそこにある。

 すでに触れたとおり、伊勢津彦には、伊勢を去った彼が信濃へ行ったとか、相模や武蔵の国造の祖になったという伝承があった。ようするに彼の行先は伊勢より東とされるケースが多かったのである。が、けっこうひねくれ者の私はむしろ、伊勢津彦の行き先として西を提案したい(東を否定する訳ではないが)、── 神社の記憶の力を使って。

 新しく想定される伊勢津彦の退去先は伊勢より西にあるだけではなく、距離的にも信濃などよりずっと伊勢から離れた場所である。しかし、これもまた神社の記憶の力を使って、2つの地域に神社空間を架構しようとおもう。その際、論を拡大するためにふたたび都美恵神社について触れることになるだろう。阿波の神社にも触れる。

 なお、『播磨国風土記』に登場する伊勢都比古命は興味深いが、この神が『伊勢国風土記』逸文に登場する伊勢津彦と同神なのか同名異神なのかはちょっと判断し難いので、最初はこのシリーズで取り上げないつもりだった。しかし結局、取り上げることにしたのは、先月、梛神社を参拝したところ、自然信仰的な雰囲気を残す興味深い神社だったため、このブログで紹介したくなったからである。



梛神社の山の上の峰にいる伊勢都比古命 by『播磨国風土記』

 


(5)伊勢津彦捜しは神社から【梛神社(1/2)】

2010年08月08日 11時04分51秒 | 伊勢津彦
 伊勢津彦は伊勢の土着神であった。神名に「伊勢」という地名がついていることが、そのことを紛れもなくしている。
  •  もっとも『伊勢国風土記』逸文では、彼の名にちなんで神武天皇が国の名を伊勢としたことになっている。が、これは風土記によくある無理な地名起源説話だろう。 

 ところで、風土記には記紀には見られない神々がたくさん登場する。彼らのほとんどは風土記の中でも登場するのは一回きりで、その存在は極めてローカルである。さて、伊勢津彦もそうした神の一例なのだが、そのいっぽうで彼はその信仰圏がローカルに留まらない広がりを感じさせるという点で、極めて例外的な存在である。

 『先代旧事本紀』国造本紀によると、相模国造は武蔵国造の祖、伊勢津彦の三世の孫、弟武彦から出たとされている。同じく国造本紀によれば武蔵国造は出雲臣の一族で、兄多毛比命を祖とすることになっている。『伊勢国風土記』逸文によれば伊勢津彦は出雲の神の子で、別名を出雲建子命とも言ったというのだから、相模と武蔵の国造は出雲氏の一族であると共に、伊勢津彦の裔であったと解釈できる。

 なお、『武蔵国造系図』には、アメノホヒ神の子、アメノミナトリ命に二子があり、一人は伊佐我命で、出雲国造・土師氏らの祖であるが、もう一人が出雲建子命で、一名伊勢津彦と言い、はじめ伊勢国度会郡に住んでいたが、神武天皇の御世に東国に来て、武蔵国造の祖になったという記事がある。すなわち、天日別命に敗れて伊勢を去った伊勢津彦は、その後、東国に定着してそこの豪族となっていたことになる。

 これらの伝承はとても興味深いが、そこには何らかの史実が反映しているのだろうか。それともたんなる後世の作為なのだろうか。
 以前も紹介した松前健の『国譲り神話と諏訪神』は、「建御名方と伊勢津彦」の章でこれを後世の作為としている。

「伊勢津彦東海退去の物語は、海辺の祭儀の縁起譚に過ぎないもので、別に何等かの種族の移動や氏族の東遷の史実が背景となっているわけではないから、その東海の果の常世郷に消え去った神の行方を、史実的、地理的に探求しようとする試みは、およそ無益なユーヘメリズムに過ぎないのである。しかし、日本人は、古来しばしばそうした神の行方を、現実のどこかの地に比定しがちであったし、また地方の有力豪族などでも己れの家系に箔をつけるため、その氏族の先祖を、そうした有名な神(それも多くは行方不明を伝えられた神)と同一視しがちであった。(『日本神話の形成』所収p457)」

 しかし、たとえ伝承の中とはいえ、伊勢津彦は神武天皇によって派遣された天日別命の軍勢に逆らっており、このため、私は自家の血統に箔をつけるため、相模と武蔵の国造家が彼を祖神として採用したという説に疑問を感じる。むしろ、これらの伝承には何らかの史実が反映していると考えるほうが自然ではないか。

 相模国造に伊勢津彦を祖神とする伝承があったことについては後でまた触れるが、いずれにせよ、伊勢津彦はその信仰圏に広がりがあり、伊勢ローカルな存在ではなかったのである。

 さて、『播磨国風土記』にも「イセツヒコ」という名前の神が登場する。同風土記の揖保郡条によれば、伊勢野という土地の地名起源説話として、この野に民家が建つといつも平穏に住むことができなかった。そこで、衣縫の猪手、・漢人刀良らの祖にあたる人が、ここに住もうとして山麓に神社を建て、山上の峰にいる伊和大神の御子である伊勢都比古の命と伊勢都比売とを祀った。その後、伊勢野の民家は安泰に暮らせるようになり、ついに村里となって伊勢野と名付けられた、とある。

 この『播磨国風土記』に出てくる「伊勢都比古命」は、『伊勢国風土記』逸文の伊勢津彦と同じ神だろうか?このことについては同神説と同名異神説があり、いずれも定説とはなっていない。

 同神だったとすると、まず疑問に思えてくるのは、伊勢の土着神である伊勢津彦が、どうして距離的にも離れていて、人文歴史地理的に言ってもあまりつながりが感じられない播磨にいたのかということである。しかし、すでに言ったとおり、伊勢津彦の伝承は相模や武蔵や信濃にもあるのであって、その信仰圏は伊勢ローカルに留まらないものであった。したがって、伊勢津彦が播磨にもいた可能性は否定できないのである。

 『伊勢国風土記』逸文に登場する伊勢津彦には女神の記事がなく、彼は独身者だっという印象を与える。ところが、ここに登場する「伊勢都比古命」には伊勢都比売という伴侶がいて、ペアで祀られていたらしい。この差異はどうか。
 天平三年(731)撰という奥書のある『住吉大社神代記』には、舟木の遠祖で太田田命の子である神田田命の孫に、伊瀬川比古乃命という者があり、伊瀬玉移比古命の娘を妻にして伊勢国舟木にいるという記事がある。「伊瀬川比古乃命(いせつひこのみこと)」というのは伊勢津彦のことらしいが、してみると彼には妻がいたことになる。したがって『播磨国風土記』の記事との矛盾はない。

 また、「伊勢都比古命」は伊和大神の御子であったとあるが、伊和大神は播磨国一宮、伊和神社で祀られていた神で、その伝承は揖保川流域を中心に多数、『播磨国風土記』のなかに登場する。大和朝廷が進出する以前に、このいったいで勢力を伸ばしていた伊和君一族の奉斎する神だった。そのような神が、はたして伊勢津彦の父神であったなどということがありえるのか。

 伊和神社は『延喜式』神名帳には「伊和坐大名持御魂神社」という名前で載っている。「大名持御魂」、すなわち出雲系のオオナムチ神の神霊を祀る神社である(実際に現祭神は大己貴命となっている。)。おそらく伊和大神があまりにも古い神格なので、『延喜式』が編集されていた頃には本来の由来が忘れられ、オオナムチ神と混同されるようになっていたらしい。いっぽう、さっきも言ったが『伊勢国風土記』逸文によれば伊勢津彦は出雲の神の子で、別名を出雲建子命とも言ったという。したがって出雲系の神であることを介して、伊勢津彦が伊和大神の御子であったという伝承が生じた可能性は否定できない



播磨国一宮の伊和神社。

 5ha以上ある社地はうっそうとした社そうに覆われており、昭和44年の調査では目通り3mを越す巨杉が84本確認されたという。ふきんからは銅鐸も見つかっており、えん源の深さを感じさせる。社殿が北面していることでも有名。

 当社は播磨と山陰地方を結ぶ要路上に鎮座し、現祭神として大己貴命を祀っている。このため、社殿北面の理由は祭神の故地であった出雲方面に向かせたため、という説もある。が、しかし社名からいってほんらいは『播磨国風土記』に頻出する伊和大神を祀るものだったはずである。伊和大神は大己貴命と別の神で、それが後世になって混同されるようになったのだろう。

 


 こうしてみると、『播磨国風土記』の「伊勢都比古命」が伊勢津彦であったかどうかは、なかなか簡単には決着の付く問題ではないことがわかってくる。だが、伊勢津彦が播磨という、伊勢から西の、海路で行くなら紀伊半島をグルッと迂回しなければならない土地にもいた可能性があるということを、私は非常に興味深くおもうのである