神社の世紀

 神社空間のブログ

ホウ木大明神【宝喜神社】

2011年04月27日 22時51分27秒 | 三尾勢海の神がみ

 神社めぐりの情熱は、ときとして蒐集熱の色合いを帯びる。

 例えば、「日置神社」「倭文神社」「丹生神社」等々の式内社は全国に複数あるが、たまたま何社かを参詣しているうちに、全部、行きたくなってくる心理は、コレクションを完璧にしようとする蒐集家のそれに似ている。また、参詣する神社を決めるとき、まだネット上に情報がアップされていないような珍しい神社を選ぼうとする心理は、そのまま珍しいコインや切手を集めたがる蒐集家のそれである。もしかすると、神社マニアが山頂や離島などにある貴重な神社の画像をブログにアップする満足感は、蝶のコレクターが珍しい蝶の標本を作るときに味わうそれに比すべきかもしれない。

 かく言う私も、あらゆる蒐集癖からは無縁なつもりであるが、しかし、「ワニが関係する神社」「ケタ神社」「安産祈願のために箒を奉納する神社」の3っだけは、たとえどんなに行くのに苦労する場所にあろうとも、参詣リストを完全にする労を惜しまないつもりである。

 ただ、このうち「安産祈願のために箒を奉納する神社」の数は非常に少ない。「蟹守土俗再考」でも触れたとおり、管見で全国にたったの6社しかない。そして、そういうなかで先日、愛知県蒲郡市一色町に鎮座する宝喜神社に参詣してきた。

 当社は事代主命を祀る神社で、『三河国神名帳』宝飯郡に登載のある「原木天神」ともされる。あるいは「宝喜(ほうき)」という社名に附会されて、安産祈願で箒を奉納する信仰が見られないかと期待して行ったのだが、完全にアテが外れた。もしも、そういう信仰があれば、境内に看板でもあって紹介されていそうだし、奉納された箒も目に付きそうだが、そういうものはなかった。ぬう、残念。

 それだけのネタさ。

 


 

宝喜神社
祭神は事代主命

愛知県蒲郡市一色町中屋敷21番地に鎮座
Mapion

宝喜神社々殿

 『愛知縣神社名鑑』にある由緒は次のとおり

 「創建は明らかではないが、「集説」に従五位上原木天神、宝飯郡に坐すと記す。一色村のホウ木大明神はこの社か「和名抄」越後国原木(阿良木)と、一色の隣村に荒木という地あり。今宝喜神社という。明和五年(一七六八)九月の棟札に奉建立氏神拝殿とあり。天保十三年(一八四二)の物には奉再建御社とあるのみ。黒印二石を有した。明治九年、村社に列格し、昭和三年六月二日、告示第四四号以て供進社に指定された。」
 ・『愛知縣神社名鑑』p805

 

 

 


蟹守土俗再考(4/4)【湊神社(宮城県岩沼市)】

2011年04月25日 19時00分10秒 | 陸前の神がみ

蟹守土俗再考(3/4)のつづき

 『古語拾遺』の掃守連の説話では、蟹と箒が出産に結びつけられている。 

 このうち、蟹と出産の結びつきは、中山が『蟹守土俗考』で説いたように、蟹が脱皮を繰り返して生命を更新する生物であることから、生まれてくる子供もまた、蟹のように再生を繰り返し、いつまでも若く健康であれと祝福した土俗に由来するように思われる。

 では、箒と出産の結びつきは? これもまた、古代人の間で行われていた箒を使用する何らかの出産儀礼の記憶が、この説話に反映したものなのだろうか。

 中山の『蟹守土俗考』は、対馬の和多都美神社に、箒を奉納して安産を祈願する信仰があることをきっかけに開始されたにもかかわらず、箒のことが話題となるのはこの最初の部分だけで、以後はもっぱら古代人にとって蟹が神聖な生き物で、彼らの出産儀礼には蟹が立ち会わされたことだけが説かれている。箒と出産のつながりはほとんど論じられていない。

 では、トヨタマ姫が出産するおり、掃守連の先祖が箒をつかって蟹を追い払ったという説話は、何か箒を使うような出産儀礼が古代人によって行われていたということではなく、彼らの職務が宮廷の清掃であったことに由来する、ただの附会の説なのだろうか。

 この説話は、海神の娘トヨタマ姫が南九州の浜辺にある産屋で出産するおりのエピソードである。ギラギラ照りつける海辺の陽光と、うち寄せる波の音と、強烈な潮の香がそこには感知される。産屋の習俗も主として黒潮に沿った海岸地方に多く見られるため、南洋系の海洋民族がもたらしたと言われるものだ。となると、この伝承の元となった習俗は、古代海人族のそれではなかったか。

産屋
京都府福知山市三和町大原のもの

 その場合、和多都美神社が安産祈願のために箒を奉納する信仰のある数少ない神社の1つであるとともに、式内明神大社で海神ワダツミを祀る代表的な古社であることは意味深い。それは古代海人の間で箒を使う何らかの出産儀礼が行われていたのではないか、という疑い強めさせるのに十分な事がらである。

 もっとも、すでに述べたように、わが国には安産のために妊婦の枕元に箒を立てるとか、産気づいたときは妊婦の腹を箒で撫でるとか、妊婦は箒を跨いではいけないとかいった俗信があった。また、東北地方では山の神に安産を祈願し、無事、出産できた場合にはそのお礼として箒をあげるという民間信仰もあった。

 こうした俗信は近世以降に盛んになるので、和多都美神社に見られる箒を奉納して安産を祈願する信仰も古代から続くものではなく、近世のこうした俗信が神社の信仰に取り入れられて生じた可能性がある。私としては逆に、まず箒を使用する古代人の出産儀礼が先にあって、そこからの影響でこうした俗信がはじまったと信じたいが、どちらが原因でどちらが結果かというそれは、えてして「ニワトリが先か、卵が先か」に陥るので、あまり手を出したくない議論である。中山が『蟹守土俗考』で箒のことにあまり触れなかったのも、おそらくこのためだろう。

 しかし、もし箒を奉納して安産を祈願する和多都美神社の信仰が、近世になってからこうした俗信を取り入れて生じたものとすれば、私は同じような信仰が見られる神社が全国にもっと多く見られても良いのではないかと思う。だが管見では、このタイプの信仰が見られる神社はこれまで紹介してきた6社だけなのである。私が見落としている神社が他にある可能性を考慮しても、この数は少ないと思う。しかも対馬に2社あるのを除くと、これらの神社は非常に孤立している。すなわち、愛媛県に1社、神戸に1社、大阪府に1社、宮城県に1社という具合なのだ。

 また、もしも神社の信仰にこうした俗信が影響を与えることがあるとすれば、すでに述べたように、大和の葛木倭文坐天羽雷命神社や出雲の加毛利神社は掃守連と関係が深い古社なので、まずこういった神社こそが、箒を奉納して安産を祈願する信仰が見られてもおかしくないと思う。が、両社には安産の信仰はあるものの、箒を奉納するというそれはないのだ。

 といったようなことで、和多都美神社などに見られるこのタイプの信仰は、近世の俗信の影響によって生じたものなどではなく、古代海人たちが行っていた、箒を使用する何らかの出産儀礼を伝えている可能性があると思う。上代の箒は、単なる掃除道具ではなくケガレを祓う呪具としての機能があった。あるいはこのため、産婦と新生児を悪霊の害から護る魔よけの品として、産屋に箒が携行されたのかもしれない。

 それはともかく、その場合、感動的なのは宮城県岩沼市の湊神社である。最初に紹介したように当社には箒を奉納して安産を祈願する信仰があり、阿武隈川河口部の堤防下にある鎮座地は、対馬でこのタイプの信仰が残る和多都美神社や志々伎神社と立地条件がとても良く似ている。

 また、和多都美神社が鎮座するのは仁位浦奥部の静かな入江で、半島と北九州を結ぶ交易にあけくれた海人たちが船を休めるのにいかにも適した場所である。ちなみにこの浦は島内でも沿岸部から『魏志倭人伝』時代の遺物が多く出土することで際だっており、同書に登場する大官「卑狗」も、このふきんに王都を構えていた可能性が高い。また志々伎神社は現在も社前を流れる河川をやや下ったところが船だまりとなっており、ふきんに海人たちのコロニーがあったことを思わせる。

 いっぽう、社伝によれば湊神社も「往昔、田村将軍東夷平定凱旋するに当たり湊の神の恩頼に依り河口に安着せるを報賽せんとして神祠を建立し」たとあり、ここから古い時代には当社の近くに港があったことが分かる。こうしたことも、湊神社と対馬の上記2社を近しいものに感じさせ、古代において当社を奉斎した集団が海人族であったことを伺わす。その場合、距離は離れていても、このように古代海人の活動を介して通ずる点が多い宮城と対馬の神社に、全国的に見ても例が少ない箒を奉納して安産を祈願する信仰が残されているのはまことに意味ぶかいことである。

 唐突だが、ここで今回の地震のことに話を移す。

 3月11日以来、「日本は一体」という同胞意識を強く抱くようになり、それに動かされて、全国レベルで広がる支援の輪に加わろうとした人は少なくないと思う。こういった一体感は未曾有の危機的状況の中で高まったナショナリズムに由来するものだろうか。

 今回の震災は国家的なレベルの問題であると共に、主として東北と北関東の太平洋岸いったいというローカルなレベルの問題でもある。政府の無策により被災地の救援がじゅうぶんに行き届かない今、物質的にも精神的にも、他地域からのはげましや民間活動を生活の支えにしている被災者の方々は少なくないとおもう。その場合、国家ではなく、地域と地域の繋がりによって担保されているという点で、こうした一体感はたんなるナショナリズムとは異なるものだ。

 対馬の和多都美神社と宮城の湊神社はずいぶん離れた場所に鎮座しているが、神戸の箒の宮は、両社のあいだに横たわる空白を埋めるものだろう。
 ところで、この神社は阪神淡路大震災で被災したが、今回の地震で被災地救援のためにもっとも早く立ち上がった団体は、かつて阪神淡路大震災で救援活動を行った経験のある神戸のグループだったと記憶している。したがって箒の宮の信仰は、こうした神戸から東北という人的交流が、じつはにわかにできたものではなく、海人族の活動を介して古代においてもすでにあったことを示唆するのである。

 こうした普段は意識しない他地域とのつながりが、文化の古層に潜ると、しばしば突然、見いだされるというのは、この国の文化構造の強みだろう。記憶装置としての神社がそうした構造を支えるのだ。

 


 

湊神社プロフィール

 

湊神社々殿

宮城県岩沼市寺島字瀬山寺76に鎮座
Mapion
海上安全とともに安産の信仰がある
祭神は「表筒男命」
俗称は「ほうき明神」

社頭の様子

岩沼商工会議所のホームページによれば
当社の境内の大木があって根本に椿の木が宿っており、
その大木を抱くと子が授かるという信仰のことが載っていた
どうやら、これがその大木と椿らしい

社地ふきんの堤防に上って撮影した阿武隈川と対岸の景色

堤防から見下ろした社地全景
境内にあった石標によると、
当社の社殿は平成元年の堤防改修工事の際、
東に10m程度遷座したという

 

 

 


蟹守土俗再考(3/4)【湊神社(宮城県岩沼市)】

2011年04月14日 01時41分41秒 | 陸前の神がみ

蟹守土俗再考(2/4)のつづき

 四国にも安産祈願で箒を奉納する神社がある。愛媛県伊予郡松前町大字徳丸に鎮座する高忍日賣神社である。

高忍日賣神社
Mapion

境内の大クス

高忍日賣神社々殿

 当社は伊豫国伊予郡に登載ある同名の式内社に比定されているが、境内にあった看板には以下のようにあり、厄よけと共に安産祈願を目的として箒を奉納する信仰があるらしい。

「神武天皇の父君、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命がお生まれになる時海から沢山の蟹がはいあがって産屋に入り、(★このため、産婦のトヨタマ姫は)大変な難産になったが「高忍日売大神」と一心に唱えると大神様は神のお使いとして天忍人命と天忍男命には箒で蟹を掃き清めさせ、天忍日女命には産婆の役をさせたので、たちまち蟹は姿を消し、海から潮が満ち寄せて無事に安産したといわれる。
 婦人は箒を大切にせよということはお産の時に箒の神様に守っていただくためであり、当社に箒を奉納する風習も邪気をはらい新しい生き方を祈願するためである。」

 高忍日賣神社の祭神は高忍日売神を主神に、天忍日女命、天忍男命、天忍人命の三柱を配祀するものだが、このうち、「天忍人命」は『古語拾遺』で出産するトヨタマ姫の産屋から箒で蟹を掃きだした神である。箒を奉納して安産を祈願する当社の信仰もこの祭神にちなむものだろう。ところが、享保九年(1724)の当社の社記にはこの祭神名が見えておらず、配祀神の三柱が固定したのは江戸末期頃なのである。それも「高忍日賣」という社名に附会されたにすぎないらしい。ということで、箒を奉納して安産を祈願する当社の信仰も、それほど古いものではない可能性が高い。

 

「産婆・乳母の祖神」とある

境内でみかけた竹箒
もっとも、これは境内の清掃に使うただの道具だろう

神門の裏にあった熊手は3本づつ丁寧に束ねてあった
もしかするとこれは奉納品なのかもしれない

 とはいえ、いちおう和多都美神社や久田の志々伎神社のように海や河口との関係を見ておくと、高忍日賣神社から約8km西に行くと海が広がっている。また、北に1.5km程離れたところを重信川が流れている。こうした位置関係やふきんの地形等をかんあんすれば、海岸線の埋立や沖積の進行、河川の流路の変更が起きる前の当社は、伊豫灘に面した重信川河口に鎮座していた可能性がある。

 

  


 

 

 神戸市灘区大和町の徳井神社の境内社になっている八幡神社は、かつて徳井地区に祀られていた八幡三社のうちの中宮にあたり、それが明治四十四年、上宮の境内に遷座され今に至ったものである。神功皇后を祭神とするこの神社は「箒の宮」と呼ばれ、「当社には古来、産婦の陣痛がはじまると、社より荒神箒を借り受け、その箒にて腹を撫で、安産を祈願するという伝えがあり、現在も安産祈願には小箒を授けます。全国的にも希有なこの神事は、地元民のみでなく全国的にも知られ、信仰を集めております。(境内看板)」という。安産祈願で箒を奉納するというのとはちょっと違うが、同種の信仰とみて良かろう。ちなみに無事、出産できた産婦は、箒を2本にして返すという。

徳井神社
Mapion

徳井神社々殿
当社の社殿は阪神淡路大震災で被災し、本殿以外のほとんどの建物は立て直された

箒の宮(八幡神社)

当社の安産祈願のお札
クロスした箒の図案が印刷されている

境内で見かけた竹箒
これも奉納品ではなく、
境内の清掃に使うただの道具だろう

 箒の宮は一度、遷座を経験している。旧社地の正確な場所はわからないが、現社地と同じ徳井地区内にあったという。ふきんは市街化が著しく、かつての状況はうかがえないが、海に近かったことは確かだ。

 

 


 


 大阪府八尾市神宮寺の常世岐姫神社には古い宮座の制度が残っており、4軒の旧家が座家を務めている。以下、『日本の神々』からの引用。

「座家の人が境内を清めた箒で妊婦の腹を撫でると安産だという信仰がある。最近では、地元の区長が穂先二〇センチぐらいの稲わらを二十本束ねた箒を用意し、妊婦の家ではそれを貰って神棚に供えておき、産気づくとその箒で蒲団を掃き、妊婦の腹を撫でるという形になっている。近辺ではあまり見られない風習である。(『日本の神々3』p258)」

 ということで、当社にも神戸の箒の宮とよく似た信仰がある。

八尾市郊外、宅地化がそうとう進行した農家集落の一画に小さな神社がある

それが常世岐姫神社
Mapion

当社は「常世岐姫神社」の社名で宗教法人登録されているものの、
通称は「八王子神社」で、石標や看板など全てこの名になっている

拝殿の中をのぞくと、妊婦に授けるためのものと思われる箒があった

こっちは腹帯なのかな

この袋の中身はわからない

 古代に赤染部という染色技術者集団がおり、ルーツをたどれば6~7世紀に南鮮から渡来した人たちだった。『続日本紀』光仁天皇 宝亀八年(777)四月条によれば、彼らの子孫だった河内国大県郡の赤染人足ら13人が、「常世連」姓に賜ったという。当社はこの常世連が氏神を祀った神社とされ、河内国大県郡に登載ある同名の式内社に比定されている。現祭神は常世岐姫。

 この常世岐姫という祭神は、女神であったということ以外、ほとんどのことが分からない。したがい、当社における箒と結びついた安産信仰もこの祭神の性質と結びついたものかどうか不明である。

 また、常世岐姫神社はこれまで見てきた神社と違って海の近くに鎮座していない。私の知る限り、安産祈願と箒が結びついた信仰のある神社で、内陸部にあるのは当社だけである。このことにはちょっと引っかかる。あるいは「常世」から、海中他界である海神の宮殿が連想され、そこにトヨタマ姫のことが附会されたとか、まさか、赤染人足が賜姓したのが宝亀八年なので、年号「宝亀」に「箒」が附会された、などということはないだろうな、等々と考えてしまう。 

 

常世岐姫神社々殿

当社はとくだん地形的な理由なく北面する珍しい神社 

 それはともかく、管見では安産祈願と箒が結びついた信仰のある神社は、全国で以上の6社だけである。他に、奈良県五條市黒駒町の御霊神社には、箒を神体として祀っているという伝承があるが(じっさいの神体は神像らしい)、これなども五條市内の御霊信仰が井上内親王と他戸親王という母子神を祀るものなので、何かしら出産儀礼と連絡があるのかもしれない。ほかに、熊本のほうに安産祈願で箒を奉納する寺院がある。これ以外にも安産祈願と箒が結びついた信仰のある神社の情報を知っている人がいたら連絡して下さい。 

蟹守土俗再考(4/4)につづく

 


蟹守土俗再考(2/4)【湊神社(宮城県岩沼市)】

2011年04月09日 03時56分44秒 | 陸前の神がみ

蟹守土俗再考(1/4)のつづき

 安産祈願で箒を奉納する神社としてまず最初にあげたいのは、中山が『蟹守土俗考』で取り上げた、長崎県対馬市豊玉町仁位の和多都美神社である。

和多都美神社
Mapion
 

仁位浦は対馬中央部にある深い入江で、
沿岸には弥生時代の遺跡が多く分布する。
和多都美神社はこの入江の奥部に鎮座し、
しゅうへんは広大な原生林につつまれている。
 

神話的なふんいきが横溢した当社の社地にいると、
「海幸・山幸」の舞台がここであってもおかしくはないという気にさせられる。

和多都美神社社殿

 当社は『延喜式』神名帳、対馬島上県郡に登載ある同名の明神大社の有力な論社とされ(同郡の式内明神大社、和多都美御子神社とする説もある。)、古代海人族がワダツミを祀った格式高い古社である(現祭神はヒコホホデミ尊とトヨタマ姫)。  

海中に連なる鳥居は当社のシンボル

この光景が見たくて対馬に行ったようなもの

 里人が当社で安産を祈請する際、まず箒一本を奉納し、無事出産が済めば、また一本を奉納する習俗があることはすで紹介した。また、神主の長岡家には、「トヨタマ姫がお産の時、蟹が這ってきたので、箒で掃き出した。産がある家に蟹が出るのを嫌うのも、女は箒をまたぐものではない、というのもそのためだ。」との伝承があるという。


社地で見かけた蟹

 社伝によれば、かつてこの地には海神が造営した壮大な宮殿があり、記紀の名高い「海幸・山幸」の舞台 ── 紛失した兄の釣り針を捜して海神の宮殿を訪れたヒコホホデミ尊が、海神の娘のトヨタマ姫と出会って結ばれるという周知のストーリー ── もここであったという。やがて後世、宮殿の跡地に尊と姫を祀るために創建されたのが当社であった。

 ふきんには尊と姫が最初に出会った井戸とか、姫の山陵と呼ばれるものがある。

和多都美神社ふきんの海浜にある「玉の井」。
もともとは海神の宮殿の門の所にあった井戸で、
ここを訪れたヒコホホデミ尊がトヨタマ姫と出会った場所であるとか、
海神の御子が出生したおり、産湯を汲んだ井戸であるとか伝承されている。

和多都美神社背後の森の中にある「トヨタマ姫の山陵」

注連縄のしてある石標の載った石積みが
古来、トヨタマ姫の奥津城とされてきたもの。
背後には巨岩が露頭しており、本来はこれが
当社の磐座として信仰されていたのだろう。

 社地の傍らは、それほど大きくはないものの河川が流れている。河口部に鎮座するという特徴的な立地において、以下に紹介する久田の志々伎神社や、宮城県岩沼市の湊神社と共通していることが注意をひく。

社地の傍らを流れる小河川

 

 


 

 対馬にはもう一社、箒を奉納して安産祈願をする神社がある。長崎県対馬市厳原町久田の志々伎神社である。永留久恵の『対馬の文化財』によれば、「久田の志々岐神社は、安産の神として信仰されているが、これには安産を祈願する妊婦が、箒を奉納することで有名である。以前は手作りの箒を献上したものであるが、今では市販の箒が上げられている。」とある。

志々伎神社
Mapion

 祭神は豊玉姫命、天忍人命、十城別命の三柱。天忍人命は掃守連の祖神であり、十城別命は日本武尊の弟で、肥前国松浦郡の式内社、志々伎神社の祭神である。この肥前の志々伎神社と当社の関係はよくわからないが、いずれかの時代に勧請されたものだろう。

志々伎神社社殿

 当社を訪れたおり、拝殿の床下にプラスチック製の柄がついた箒が何本も突っ込んであるのを見つけた。家庭で玄関を掃く時などに使われるもので、神社の境内を掃くには小さすぎる。柄にマジックで「奉納」とし、その下に奉納者の氏名が書いてあるものがいくつかあったが、全て女性の名だった。どうやら安産祈願で奉納さられたものらしい。こうした目的が確実にわかる箒を神社で見たのは、今のところ当社だけである。

安産祈願で奉納されたらしい箒

どこの神社でも見かける竹箒。これも安産祈願で奉納されたものかどうかは不明。

 この神社も河口に面して鎮座している。

社地の前を流れる河川の状況
橋の向こうの船だまりは、もう海 

 

 

蟹守土俗再考(3/4)につづく