北関東に住んでいた頃、『常陸国風土記』の伝説の舞台となった土地を訪ねて何度も茨城まで出かけて行った。そうして現地に着くと、風土記の説話を題材にとった彫刻が置かれているのに何度か出会った。
鴨の宮
同風土記の行方郡条には、倭武(ヤマトタケル)天皇(=ヤマトタケルノ尊)が巡行した時のエピソードが多くみられる。そしてその中に、「無梶カジナシ川から郡の辺境にお着きになったとき、鴨が空を飛び渡るのが見えた。天皇が弓で射つと、鴨が弦の鳴動に応じて落ちた。これによってその地を鴨野という。」という地名起源説話がある。この説話を題材にとった彫刻は、里人が天皇を祀った鴨の宮という小さな神社の境内に置いてあった。
ヤマトタケルの彫刻
なかなか結構な作品だが、この彫刻はロダンの弟子だったフランスの彫刻家、ブールデルの『弓をひくヘラクレス』の影響をものすごく受けている。へラクレスが怪鳥ステュムファリデスを射るために弓をひいている場面だ。これをパクリと言うのは簡単だが、「古代の英雄が飛ぶ鳥に向かって弓をひく姿」というと、ブールデルのこの作品でイメージが完成され尽くしてしまったので、後続の作家はその呪縛から逃れられなくなっているようにも感じる。
『弓をひくヘラクレス』の彫刻は国立西洋美術館の前庭にも飾ってある。
そういえばブールデルのこの彫刻は、水谷慶一の『知られざる古代―謎の北緯34度32分をゆく』(書籍のほう)にも確か写真が掲載されていた。この本は1980年にNHKで放送された同題のドキュメンタリー番組をまとめたもので、水谷はこの番組のプロデューサーだった。番組のほうにもブールデルの彫刻が登場したかどうかは分からないが、本のほうで写真が載っていたのは古代氏族の日置氏が、弓で太陽を射る方法で日輪祭祀を行ったというようなことが書いてある箇所だったとおもう。
「太陽を弓で射る」というと射日神話が連想される。射日神話には色々なバリエーションがあるが、堯帝の時代に十個の太陽がいっせいに出て、草木は皆焼け焦げたので弓の名人のゲイがそのうちの九個を射おとし、九個の太陽にいた九羽のカラスの羽が落ちてきたという、『淮南子』の伝承がことに有名だ。こうしてみると、同書のなかに『弓をひくヘラクレス』の写真を掲載した水谷の意図はなかなか深いものがあった気がする。
この彫刻はすばらしいですね。
で、これと比べると「ヤマトタケルの彫刻」、弓手はベタで弓を握っちゃってるし、馬手は下がりすぎてるし、実際に弓が引ける人間に弓を引いてもらって、それをモデルにというのでは絶対ありませんね。
弓の盛んな三河ですが、暴れん坊将軍の松平健(豊橋市出身)なんか、握り革じゃなくて、その上の矢摺籐を握っちゃってるし、そもそも徒歩弓で正面打起こしっていうのも、本多利實(1836~1917)が始めたんだから、吉宗の時代にはあり得ないんだけど、大河ドラマとかでも、戦国時代の戦闘の場面なんかでも斜面なんてほとんど見かけないし、一昨年だかの平清盛も小笠原流(礼法の小笠原流と同一の家元)が指導にあたったみたいだけど、松山ケンイチとかいう俳優、でたらめだったし……
乗馬や抜刀の稽古をしている俳優さんはいるようですが、きれいに弓が引ける俳優さんって本当にいませんね。ましてや日置流の斜面となると
なるほど、彫刻家や役者はよほど勉強家でないと、その道に明るい人を説得させるのは難しいのでしょうね。もっともこのことは多かれ少なかれ画家や作家等にも当てはまるのでしょうけれど。
靴に左右ができるっていうのも20世紀の初頭なんですよね。
それまでは下駄や草履と同様に右左はありません。
30数年先取りしていたってことになりますね(笑)
時代考証というのはいろいろな記録が残っている近世以降のほうがボロが出やすくて大変かもしれないですね。その意味では維新が舞台のそれより、古代が舞台のドラマのほうが演出家は自由にやれるのでしょう。
アメリカで左右の靴の別ができたのは、南北戦争以降ですが、それ以前にも左右別の靴を売り出す試みはあったらしいです。ところが、その度に左右別の靴はたんに売れないだけではなく、とても嫌がられたらしい。そのことについて文化人類学者とかフロイト主義者がいろいろなことを言っているようです。
一般に靴の左右を作ったっていわれているのは、1873年、ノーサンプトンで創業したチャーチですよね。
http://www.fukudb.jp/node/6491
一般には19世紀の終りから20世紀っていわれてますね。
http://www15.plala.or.jp/miagolare/column05.html
アメリカでって言うのは初めて聞きました。
南北戦争云々は『エロチックな足』という本に書いてありました(筑摩書房から出ている真面目な本です。念のため)。
それによると、南北戦争の時に左右別の軍靴が作られ、戦後、退役した軍人が普段履きとしてそれを求めはじめるようになったそうです。しかし、どこの靴屋でも売られるほど需要が増えるには、さらに一世代ほど待たねばならなかったとのこと。ちなみに、1822年にフィラデルフィアの靴メーカーが左右別の靴を初めて登場させた時、大衆は全くなんの反応も示さず、「役立たず靴」として笑いものにしたそうです。