神社の世紀

 神社空間のブログ

光線と洞窟(2/2)【黒崎神社(岩手県陸前高田市広田町)】

2011年07月31日 23時57分38秒 | 陸前の神がみ

★「光線と洞窟(1/2)」のつづき

 黒崎神社は嘉祥年間(848~851)の創建と伝えられ、祭神は神功皇后である。古来より広田半島に住む漁民の信仰を集め、かつては沖を通る船は必ず帆を下げて航海の安全と大漁を祈願したという。こうした「礼帆」の習俗は、沿岸部で漁労航海神を祀った神社には全国的に見られ、かなり普遍的なものと言える。しかしそのいっぽうで黒崎神社の古い信仰には、海中にある神秘的な洞窟へのそれもあったらしい。当社の本宮(創建当時の黒崎神社があった場所)近くには海に面して亀裂のような断崖があり、その根元には雌沼雄沼という岩穴があって、次のような伝説が伝わっている。

黒崎神社本宮ふきんの断崖
雌沼雄沼はこの下にあるらしい

 「黒崎仙峡は、陸中海岸国立公園の中で最も雄大な海蝕景観を誇っている。
 この黒崎仙峡の岬の天狗の投げ石の下に一つの岩穴がある。この岩穴はいつもは海の中にあって見えないが、旧暦の3月3日だけは潮が引いて、よくその穴を見ることができる。この日にはまたこの穴から神楽のような音楽が聞こえてくるという噂を聞きつけて多くの村人たちが見物に来るようになった。
 ある年のこと、この神楽のことを聞いた殿様が、なんとかして岩穴の秘密を知りたいと思い、調べに行くものはいないかと「お触れ」を出した。
 このとき、与八と佐十という兄弟が名乗り出た。彼らは常日ごろ、仲が悪くお互いに意地を張り合っていた。
 2人は準備をして岩穴探検にとりかかった。潮との長時間の戦いの後、狭い水路の所で、2人は船を捨てて海に飛び込んだ。
 岩穴の前は深い淵になっており、潮の流れが激しくうず巻いていた。何度も押し流されたが、泳ぎ達者の2人はとうとうここを泳ぎ切った。
 静かなよどみに出たとき、頭上から不思議ななんとも妙なる楽の音が聞こえてきた。与八と佐十はふと正面の岩壁の上を見上げた。突然2人の顔色が変った。岩の上に長い髪を腰まで伸ばして白衣の女が横たわっていたのである。音楽もやみ、ただならぬ妖気がただよってきた。
 恐怖におののく2人は無我夢中で逃げ帰った。殿様の前で岩穴の秘密を話し終えると、2人はそのまま手を取り合って死んでいった。」

 --- 「気仙の伝説」「陸中海岸の伝説」より」
 ・「黒崎仙峡温泉オフィシャルホームページ」からコピペさせていただきました。

 当社は黒崎の突端部に鎮座しているが、同じような立地の神社に海中洞窟への信仰が見られるケースはまだ他にもある。

 本州最南端の潮岬には、太陽信仰の磐座遺跡で名高い潮御崎神社が鎮座している。萩原法子の『熊野の太陽信仰と三本足の烏』によれば、当社のすぐ下には祭神である少彦名命を勧請した「静の窟」という洞窟があり、さらにその近くには「入陽のガバ」という洞窟があって、それは西向きで夕陽が射し込むという。

 伊豆白浜に突き出た小さな岬には、式内明神大社の伊古奈姫命神社(「姫」は「比●(口に羊)」)が鎮座している。その突端部に近い駿河湾に面した崖下には、「御釜」と呼ばれるすり鉢状をした深い岩のくぼみがあり、その底は海とつながり、常時、潮が入ってきている。

 「神職の原氏によれば、「御釜」のなかへは一年のうちでもごくわずかな機会、すなわち大潮の干潮時の、しかも砂が移動して歩ける状態のときのみ入ることができ、かつて先代の神職と土地の古老が入ったところ、その奥にさらに洞窟があり、本殿の真下に当たるかととおぼしき奥まった所に漆塗りの祠があって、つい数日前に塗られたばかりのように艶やかに光っていたという。(『日本の神々10東海』p293から引用)」

伊古奈姫命神社
伊豆国賀茂郡の式内明神大社

伊古奈姫命神社拝殿

御釜の外観(木の柵の向こう)

御釜の内部
海蝕洞を通じて入ってきた潮が白波を立てている
御釜は現在、近年の地震などで崩れ落ちた岩で埋まっており、
奥の洞窟へは進入できなくなっている

岬の突端にはいくつかの海蝕洞が口を開けている
御釜に入ってくる潮はここから流入しているものらしい

 伊古奈姫命神社の祭神、伊古奈姫は伊豆諸島を造った三嶋大神の后神で、両神ははじめ三宅島にあったが、やがて当社のある白浜に移り、さらにその後、大神だけが現在の三島の地に遷祀されたという。本殿の鎮座する岬の上からは古代の祭祀遺物が多数、発見されており、そこからは伊豆の島々を望むことができる。当社の祭祀の源流は伊豆造島の神を来臨させて祀る祭祀にあったのだ。御釜の奥深く通じる秘密の洞窟は、こうして伊豆の島々から呼び寄せた造島の神が籠もる場所だったのだろう

10月29日に行われる当社の大祭にあたって、
その前日に「火達ヒタチ祭」という神事が行われる
これは本殿の裏で焚き火をしながら伊豆諸島を遙拝するというもので、
かつては現社地に隣接する火達山で行われ、
そのいったいからは多くの祭祀遺物が出土している
文政十三年の縁起書によると神事の夜にかがり火を焚き、
これに呼応して島々でも焚き合わせたという
伊豆の島々から神を呼び寄せる神迎えの神事なのだろう
                                        
火達山は上の画像の左手に写っている小高く膨らんだ場所のことか

 

祭の翌日は「御弊オンベ流し」の神事が行われる
夕方になって拝殿裏の海岸に斎場を設け、
幣帛一本を立ててから神饌を供して伊豆諸島を遙拝し、
それから大明神岩という岩から島の数に相当する十本の幣帛と
供物を海中に投下する。この時はかならず西風が吹いて
幣帛を諸島へ送りと届けると信じられ、この風を「御弊オンベ西」と呼んだ
火達祭で呼び寄せた神々を伊豆の島々に送り返す神送りの儀式だろう

大明神岩は上の画像の右手にあるステージのような岩
伊豆諸島に向かって鳥居が立っている

 以前、このブログでも紹介した子友町の蛇ケ崎神社(『太平洋が池のよう』の下のほう)がある蛇ケ崎は、黒崎神社から北に3kmほどしか離れていないが、当社が鎮座する崖の下にも「魔の瀬洞」と呼ばれる海蝕洞があり、「平家の落ち武者がそこに逃げ、只出のサユリという娘が朝夕、小舟でその洞に行き武者を世話していたら、そのうち源氏に知れてしまい、その洞に源氏が行ったとたん大波が来て、源氏の人達は波にさらわれ死んでしまったと言われる。現在でもサユリ波と畏れられている。(『岩手県神社名鑑』p273)」という伝承が伝わっている

蛇ケ崎神社

魔の瀬洞がある辺りの海蝕崖

 これもまた伊古奈姫命神社と同じく、「海洋から来臨する神霊の籠もる洞窟」という基層信仰に、「外部からの来訪」という項を介して、後世になって平家の落ち武者伝説が上載されてできた伝承ではなかったか。

 伊古奈姫命神社は社名通り女神を祀っているが、蛇ケ崎神社も豊玉姫命を祀っており、黒崎神社の祭神である神功皇后も女神の一種と考えられる。こうしてみると海中洞窟への信仰が見られる神社には女神が祀られている傾向が感じられる。これは洞窟地形が母胎を連想させることと無関係ではないだろう。

 古代人にとって岬の突端は、海洋から神が来臨する聖なる場所であった。かつてはこのような場所にある洞窟に女神がいて、来訪した神と神婚し、威力ある新しい神霊が誕生するというような信仰があったのではないか。例えば岬の突端部にあり、古い信仰の見られる海蝕洞窟というと出雲にある加賀の潜戸が有名だが、『出雲国風土記』によれば、この洞窟は枳佐加比売命が佐太大神を生んだ場所とされているのである。

加賀の潜戸

 黒崎神社の崖下にある洞窟で、岩の上に横たわっているのを泳ぎ達者の兄弟に目撃された長い髪を腰まで伸ばして白衣の女や、同じく蛇ケ崎神社の崖下にある洞窟に隠れた平家の落ち武者を庇ってやったサユリという娘も、あるいはこうした女神の零落した姿だったかもしれない。

 

 


 

黒崎神社

岩手県陸前高田市広田町黒崎10番地
Mapion

 息気長帯姫命(神功皇后)を祀る旧村社で、風光明媚な景勝地、広田半島突端の黒崎に鎮座する。

 『平成祭りデータ』にある由緒は以下の通り。

「黒崎神社は、広田の東端岬黒崎に鎮座し、初め黒崎明神と称され、巨岩怪石風光絶佳の所白浪渦巻き侵蝕した雌沼雄沼なる岩窟を眼下にする、仙境清浄の地に嘉祥年間西暦848年創建したと宮城縣史に伝えられ、又承安2年西暦1172年山伏の源真が息氣長帯姫命を勧請したとの記録あり、本宮としてその地に現在小祠がある海洋の民広田の漁民が、古来より祭神として萬里大海原を渡り、三韓に船出した神功皇后をこの地に移霊し、海上安全の豊漁を得んと信仰が深く、往時この沖を航行する船舶は必ず帆を下げ、海上安全と大漁を祈願したと伝えられている。中世社地狭くなり、元徳2年に現在の境内地に遷宮したと思われ、確実な記録としては、現存する宝物懸佛の銘文に明應5年広田城主大丹那源綱継願主賢春の2人が100日間社殿に参篭し、郷民に代わりて一郷安穏の為天長地久を祈り、現世安穏後世善處を勤行祈願すとあり、その時誦読の経文品目と共に広田を・田郷と記してある。明和6年には肝入及別当連名で願出し、京都神祇管令卜部家より大明神号を授けられる。明治5年、古社名黒崎大明神を改めて村社黒崎神社となった。3年毎に神輿渡御の大祭典が行なわれ、氏子総出で之を祭り、山車手踊り虎舞等の奉納余興を催し、神人共に賑わう。この社地は、国立公園陸中海岸中白眉の勝地として造化の妙と神威を併せ持ち、四近、景勝多く岩頭に立てば眼前に数万の鴎群れ飛ぶ椿島青松島南方遥に金華山を眺め北西に五葉連峰を一望する詩情豊かに又浩然の気充ち心身共に清爽を覚ゆる仙境である。祭日は旧3月10日と9月10日である。」

 祭神の神功皇后について思いつきを一言。

 神功皇后は神社の祭神として珍しいものではないが、周知の通り、普通は八幡神として応神天皇とセットで祀られていることが多い。神功皇后が単独で祀られている場合もあるが、そういう神社は神功皇后伝説が多く残された地域に鎮座しているもので、当社のように皇后の渡航ルートから大きく外れた地域で単独に祀っている例は珍しいのではないか。ところで、『太平洋が池のよう』で紹介した子友町の八幡神社は、当社から北に3km程度しか離れていないが、この神社は八幡神社であるにも関わらず応神天皇しか祀られていない。あるいは当社と八幡神社には信仰面でつながりがあり、両社は母子神としてセットだった、ということはなかろうか。

 

 

 


光線と洞窟(1/2)【黒崎神社(岩手県陸前高田市広田町)】

2011年07月25日 23時00分00秒 | 陸前の神がみ

 三陸沿岸は大気の感じが意外とウェットではない。別に乾いているというのでもないのだが、湿度があまり感じられない。このため光線に余計な負荷がかからず、空や植物や水や岩の色にはどくとくの艶があり、油彩のような透明感がある。またそのいっぽうで緯度が高いので、海に出ても太陽がギラギラ照りつけてくるような感じにならない。陸海空のいずれも一定のキーに収まっている。あたかも色調や光量が人工的に設計されたハリウッド映画の画面を天然にやっているようなものだ。郷里の詩人、水上不二が気仙沼大島のことを「緑の真珠」と讃えたのも、たんに景色が美しいばかりではなく、こうした光線の効果を真珠に譬えたためだとおもう。いずれにせよ、もともと景勝地に恵まれた地域だが、こうした天恵によって三陸沿岸にはとくべつ鮮やかな印象を残す神社がいくつか鎮座している。黒崎神社もその一つだ。

黒崎神社

黒崎神社拝殿

本殿は覆屋の中

古い参道と鳥居

 黒崎神社は陸前高田市の南東部で海に突き出た広田半島に鎮座している。ふきんはリアス式海岸が発達し、このタイプの海岸とくゆうの奇岩が多く、黒崎仙峡と呼ばれる景勝地となっている。その印象は「清浄」の一言に尽きる。

黒崎仙峡

 現在の黒崎神社はやや内陸に入った場所にあるが、創祀の頃は黒崎の先端部に鎮座していた。現在でもそこには本宮と呼ばれる小祠が祀られている。

黒崎神社本宮

本宮まで行く途中の松林

 私が訪れた日には社地の傍らにロープで丸太を組んで、大きな梯子をカタパルトのように傾けて固定したものが設置されていた。4年に一回、行われる当社の例大祭で根岬梯子虎舞(ねさきはしごとらまい)を行うためのものだが、人がいないと何だか奇妙なオブジェのように見え、その異化作用のせいか社地全体が模型で作られたジオラマのように見えた。

カタパルトのような梯子

 

光線と洞窟(2/2)」につづく

 

 

 


緑の真珠【大島神社(宮城県気仙沼市)】

2011年05月04日 01時31分15秒 | 陸前の神がみ

 「緑の真珠」は地元出身の詩人、水上不二が気仙沼湾に浮かぶ大島のことを、「大島よ 永遠に緑の真珠であれ」と讃えた詩の一節で、この島の代名詞となっている。

 数年前の九月、この島に渡ったのは、陸奥国桃尾郡の式内明神大社「計仙麻大嶋神社」の有力な論社となっている大島神社という神社に参詣するためだった。しかし訪れてみると大島神社はあまり大きな神社ではなく、式内明神大社にしては風致もいささか乏しかった。むしろ、神社より船から眺めた大島の景色や、山頂からの眺望のほうがずっと印象に残っている。

大島と亀山

 

亀山々頂からの眺め(北東のほう)

同上(南のほう)

 大島へは大島汽船の旅客船で渡らなければならない。船が出港し、最初は近くを伴走するカモメの大群に気を取られていたのだが、やがて大島が近づいてくると、その景色の美しさにシビレた。カキやホタテの生け簀がそこら中に仕掛けてある群青色の海に、緑滴る美しい島が浮かんでいる。しかもその色彩は油彩のように透明で輝かしい。まさに緑の真珠である。

本土から大島へ渡るまで間、船の横をずっとカモメの大群が伴走する

がおーっ

生け簀

 しかし、その大島も今回の地震による津波で大きな被害を受け、さらには大規模な火災が発生したり、全島で3500人近い住民のうち、一時は実に2000人もの人々が孤立したりと、痛ましい出来事が重なった。アメリカ海軍航空隊による空輸と、アメリカ海兵隊による支援活動がなかったら、島民の苦しみはさらに増していたことだろう。

 そういった中で、大島汽船の船も流され、島民の方々の足はどうなっているのか案じていたところ、4月28日付けの気仙沼大島観光協会のブログに次のような記事が載っていた。

「本日より広島県江田島市より無償貸与して頂いたカーフェリー「ドリームのうみ」が気仙沼~大島に就航しました。これで物流の道がひらけ大島の復旧・復興が前進すると思います。全国の皆様、江田島市の皆様に心から感謝申し上げます。」

「大島汽船の最新の時刻表です。
明日から大型連休。いつもなら家族連れなどで賑やかな大島!!
今年は復旧・復興に向けた連休になります。
がんばろう!!!!!!!!」

 大島の方々、がんばって下さい。江田島市の方々、私からも感謝を捧げます。

 

 


 

 

【大島神社プロフィール】

社頭の様子

島神社は大島北部に聳える亀山(標高235m)の8号目くらいに鎮座している。
住所は宮城県気仙沼湾亀山1
Mapion
リフトで行ける亀山々頂には観光客が多く集まるが、
大島神社まで足をのばす人はあまりいないようだ

大島神社々殿

俗称は「御田神様(おたのかみさま)」
海上安全とともに田の神の信仰がある
祭神は倉稲魂神

 

 当社は陸奥国桃生郡の式内社、「計仙麻大嶋神社」の論社である。とうがい式内社の記録上の初見は、『三代実録』貞観元年(859)に陸奥国の志波彦、拝幣志、零洋崎、志波姫などの諸社とともに昇叙した記事が見えることで(従五位下→従五位上)、『延喜式』神名帳では明神大社として登載されている。渡會延經の『神名帳考證』や伴信友の『神名帳考證』をはじめ、『封内名蹟志』、『新撰陸奥風土記』のような近世の代表的な地誌なども当該式内社をこの神社に比定していており、最も有力な論社と言えるだろう。

 ちなみに、陸奥国には式内社が100社、登載されているが、そのうち明神大社は15社である。
 陸奥国にある式内社というと、何となく大和朝廷が中央から持ち込んだ機内系の神がみが多そうな感じがするが、『日本の神々』にある新野直吉の「東北に伝来した神々」によれば、陸奥100座、出羽9座の式内社のうち、外来神は24座のみで、残りは在来神82座、不詳3座という。しかもこのうち、明神大社となっているのは明らかに地主神ばかりで、大島神社もまた、機内勢力がこの地に及ぶ前から在地の人達によって祀られていた地主の神だったように思われる。

 当社の神体は一枚岩の巨岩だが、社殿の中に格納されている。拝殿の中に上がらせてもらうと、奥のほうにタテ2m×ヨコ4mほどの赤黒い岩が祀られていた。楯を横にしたような外観で、上部には注連縄がしてある。同じような色合いの岩をこの島の海岸にある岩場で見かけたため、大島の骨格を形作る岩石の一部が露頭したものらしい。この島の地霊を祀るに相応しい磐座だ。神体の画像のアップは遠慮しておくが、本殿背後に同じ種類と思われる岩があったので、代わりにその画像を下に掲載しておく。

本殿の背後にあった岩
社殿の中で祀られているものと同じ種類の岩であるように見えた

海岸の岩場

 気仙沼の語源ともなった、「計仙麻大嶋」の「計仙麻(けせま)」は、アイヌ語による複数の解釈が提出されている。あるいは、当社を最初に祀った古代人も、現在のアイヌ人の先祖に当たる人たちであったかもしれない。

 『日本の神々』の三崎一夫は、当社の性格について次のように論考している。

「大島は、気仙沼湾の中央にある周囲二二キロに及ぶ大きな島であり、昭和三十年までは大島村として一村をなしていた。その北部にある亀山の山頂からは、陸中海岸国立公園に指定されている四囲の景観の眺望をほしいままにすることができる。当社の鎮座するこの亀山は海上航行の目標にされており、手漕ぎ漁時代は、沖合の船から見てこの山が水平線より没する海域を「亀山つぶし」と呼んでいた。
 このような山が漁民によって聖地とされることは、牡鹿郡の金華山にその顕著な例をみることができる。現在当社は祭神を倉稲魂としているが、往事この神は太田神と呼称されていた。『封内風土記』も田ノ神または「島明神」と記しており、お田の神と考えられ生産神として崇められていたことを知ることができる。しかし祭置された当初は海の神、すなわち航行の安全と大漁を祈る神であったと推察される。」
 ・『日本の神々 12 東北・北海道』p99~100

 気仙沼湾はこの島が外海からの楯となってくれるので、あまり荒れることはないという。また、この島の最高峰、亀山は漁労に従事する者にとって、洋上から船の位置を見定める「山アテ」に使われる。そのような島が漁民達たちからの信仰を集め、亀山の高所にある岩石を神体に、その地霊が祀られるようになったのは自然なことだろう。

 いっぽう、三崎も触れているとおり、近世の当社は太田神(御田神の転訛だろう)、御田神、田ノ神ノ社などと呼ばれ、現在でも通称は「御田神様(おたのかみさま)」である。祭神が倉稲魂神で、田の神としても信仰を集めている。このことについて、『平成祭りデータ』にある由緒から、関係する部分を引用しておく。

「大島神社は別名『御田の神様』と言われ、御祭神は『倉稲魂神』という。なぜ、此の四方を海で囲まれた大島の神社が『御田の神様』なのか。大島神社の伝承の一つに、神霊として奉る巨大な石の上にお田植の季節になると『たにし』が上り、毎夜青い光を放っていたと言う。昔の人々がこう言う異変事を神事として祭ったことから、お田の神様と言う名がつけられた。地理的には農耕の神としてよりも海上安全、大漁満足を祈願する海の人々の参拝が多いが、家内安全、交通安全、商売繁盛祈願の人々の参拝も絶えない。」

 タニシが田の神であるとか、田の神の使いであるという信仰は各地に見られるが、当社のふきんには湧水などがみられないため、これはちょっと不思議な伝承である。。

亀山

 

 

 


蟹守土俗再考(4/4)【湊神社(宮城県岩沼市)】

2011年04月25日 19時00分10秒 | 陸前の神がみ

蟹守土俗再考(3/4)のつづき

 『古語拾遺』の掃守連の説話では、蟹と箒が出産に結びつけられている。 

 このうち、蟹と出産の結びつきは、中山が『蟹守土俗考』で説いたように、蟹が脱皮を繰り返して生命を更新する生物であることから、生まれてくる子供もまた、蟹のように再生を繰り返し、いつまでも若く健康であれと祝福した土俗に由来するように思われる。

 では、箒と出産の結びつきは? これもまた、古代人の間で行われていた箒を使用する何らかの出産儀礼の記憶が、この説話に反映したものなのだろうか。

 中山の『蟹守土俗考』は、対馬の和多都美神社に、箒を奉納して安産を祈願する信仰があることをきっかけに開始されたにもかかわらず、箒のことが話題となるのはこの最初の部分だけで、以後はもっぱら古代人にとって蟹が神聖な生き物で、彼らの出産儀礼には蟹が立ち会わされたことだけが説かれている。箒と出産のつながりはほとんど論じられていない。

 では、トヨタマ姫が出産するおり、掃守連の先祖が箒をつかって蟹を追い払ったという説話は、何か箒を使うような出産儀礼が古代人によって行われていたということではなく、彼らの職務が宮廷の清掃であったことに由来する、ただの附会の説なのだろうか。

 この説話は、海神の娘トヨタマ姫が南九州の浜辺にある産屋で出産するおりのエピソードである。ギラギラ照りつける海辺の陽光と、うち寄せる波の音と、強烈な潮の香がそこには感知される。産屋の習俗も主として黒潮に沿った海岸地方に多く見られるため、南洋系の海洋民族がもたらしたと言われるものだ。となると、この伝承の元となった習俗は、古代海人族のそれではなかったか。

産屋
京都府福知山市三和町大原のもの

 その場合、和多都美神社が安産祈願のために箒を奉納する信仰のある数少ない神社の1つであるとともに、式内明神大社で海神ワダツミを祀る代表的な古社であることは意味深い。それは古代海人の間で箒を使う何らかの出産儀礼が行われていたのではないか、という疑い強めさせるのに十分な事がらである。

 もっとも、すでに述べたように、わが国には安産のために妊婦の枕元に箒を立てるとか、産気づいたときは妊婦の腹を箒で撫でるとか、妊婦は箒を跨いではいけないとかいった俗信があった。また、東北地方では山の神に安産を祈願し、無事、出産できた場合にはそのお礼として箒をあげるという民間信仰もあった。

 こうした俗信は近世以降に盛んになるので、和多都美神社に見られる箒を奉納して安産を祈願する信仰も古代から続くものではなく、近世のこうした俗信が神社の信仰に取り入れられて生じた可能性がある。私としては逆に、まず箒を使用する古代人の出産儀礼が先にあって、そこからの影響でこうした俗信がはじまったと信じたいが、どちらが原因でどちらが結果かというそれは、えてして「ニワトリが先か、卵が先か」に陥るので、あまり手を出したくない議論である。中山が『蟹守土俗考』で箒のことにあまり触れなかったのも、おそらくこのためだろう。

 しかし、もし箒を奉納して安産を祈願する和多都美神社の信仰が、近世になってからこうした俗信を取り入れて生じたものとすれば、私は同じような信仰が見られる神社が全国にもっと多く見られても良いのではないかと思う。だが管見では、このタイプの信仰が見られる神社はこれまで紹介してきた6社だけなのである。私が見落としている神社が他にある可能性を考慮しても、この数は少ないと思う。しかも対馬に2社あるのを除くと、これらの神社は非常に孤立している。すなわち、愛媛県に1社、神戸に1社、大阪府に1社、宮城県に1社という具合なのだ。

 また、もしも神社の信仰にこうした俗信が影響を与えることがあるとすれば、すでに述べたように、大和の葛木倭文坐天羽雷命神社や出雲の加毛利神社は掃守連と関係が深い古社なので、まずこういった神社こそが、箒を奉納して安産を祈願する信仰が見られてもおかしくないと思う。が、両社には安産の信仰はあるものの、箒を奉納するというそれはないのだ。

 といったようなことで、和多都美神社などに見られるこのタイプの信仰は、近世の俗信の影響によって生じたものなどではなく、古代海人たちが行っていた、箒を使用する何らかの出産儀礼を伝えている可能性があると思う。上代の箒は、単なる掃除道具ではなくケガレを祓う呪具としての機能があった。あるいはこのため、産婦と新生児を悪霊の害から護る魔よけの品として、産屋に箒が携行されたのかもしれない。

 それはともかく、その場合、感動的なのは宮城県岩沼市の湊神社である。最初に紹介したように当社には箒を奉納して安産を祈願する信仰があり、阿武隈川河口部の堤防下にある鎮座地は、対馬でこのタイプの信仰が残る和多都美神社や志々伎神社と立地条件がとても良く似ている。

 また、和多都美神社が鎮座するのは仁位浦奥部の静かな入江で、半島と北九州を結ぶ交易にあけくれた海人たちが船を休めるのにいかにも適した場所である。ちなみにこの浦は島内でも沿岸部から『魏志倭人伝』時代の遺物が多く出土することで際だっており、同書に登場する大官「卑狗」も、このふきんに王都を構えていた可能性が高い。また志々伎神社は現在も社前を流れる河川をやや下ったところが船だまりとなっており、ふきんに海人たちのコロニーがあったことを思わせる。

 いっぽう、社伝によれば湊神社も「往昔、田村将軍東夷平定凱旋するに当たり湊の神の恩頼に依り河口に安着せるを報賽せんとして神祠を建立し」たとあり、ここから古い時代には当社の近くに港があったことが分かる。こうしたことも、湊神社と対馬の上記2社を近しいものに感じさせ、古代において当社を奉斎した集団が海人族であったことを伺わす。その場合、距離は離れていても、このように古代海人の活動を介して通ずる点が多い宮城と対馬の神社に、全国的に見ても例が少ない箒を奉納して安産を祈願する信仰が残されているのはまことに意味ぶかいことである。

 唐突だが、ここで今回の地震のことに話を移す。

 3月11日以来、「日本は一体」という同胞意識を強く抱くようになり、それに動かされて、全国レベルで広がる支援の輪に加わろうとした人は少なくないと思う。こういった一体感は未曾有の危機的状況の中で高まったナショナリズムに由来するものだろうか。

 今回の震災は国家的なレベルの問題であると共に、主として東北と北関東の太平洋岸いったいというローカルなレベルの問題でもある。政府の無策により被災地の救援がじゅうぶんに行き届かない今、物質的にも精神的にも、他地域からのはげましや民間活動を生活の支えにしている被災者の方々は少なくないとおもう。その場合、国家ではなく、地域と地域の繋がりによって担保されているという点で、こうした一体感はたんなるナショナリズムとは異なるものだ。

 対馬の和多都美神社と宮城の湊神社はずいぶん離れた場所に鎮座しているが、神戸の箒の宮は、両社のあいだに横たわる空白を埋めるものだろう。
 ところで、この神社は阪神淡路大震災で被災したが、今回の地震で被災地救援のためにもっとも早く立ち上がった団体は、かつて阪神淡路大震災で救援活動を行った経験のある神戸のグループだったと記憶している。したがって箒の宮の信仰は、こうした神戸から東北という人的交流が、じつはにわかにできたものではなく、海人族の活動を介して古代においてもすでにあったことを示唆するのである。

 こうした普段は意識しない他地域とのつながりが、文化の古層に潜ると、しばしば突然、見いだされるというのは、この国の文化構造の強みだろう。記憶装置としての神社がそうした構造を支えるのだ。

 


 

湊神社プロフィール

 

湊神社々殿

宮城県岩沼市寺島字瀬山寺76に鎮座
Mapion
海上安全とともに安産の信仰がある
祭神は「表筒男命」
俗称は「ほうき明神」

社頭の様子

岩沼商工会議所のホームページによれば
当社の境内の大木があって根本に椿の木が宿っており、
その大木を抱くと子が授かるという信仰のことが載っていた
どうやら、これがその大木と椿らしい

社地ふきんの堤防に上って撮影した阿武隈川と対岸の景色

堤防から見下ろした社地全景
境内にあった石標によると、
当社の社殿は平成元年の堤防改修工事の際、
東に10m程度遷座したという

 

 

 


蟹守土俗再考(3/4)【湊神社(宮城県岩沼市)】

2011年04月14日 01時41分41秒 | 陸前の神がみ

蟹守土俗再考(2/4)のつづき

 四国にも安産祈願で箒を奉納する神社がある。愛媛県伊予郡松前町大字徳丸に鎮座する高忍日賣神社である。

高忍日賣神社
Mapion

境内の大クス

高忍日賣神社々殿

 当社は伊豫国伊予郡に登載ある同名の式内社に比定されているが、境内にあった看板には以下のようにあり、厄よけと共に安産祈願を目的として箒を奉納する信仰があるらしい。

「神武天皇の父君、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命がお生まれになる時海から沢山の蟹がはいあがって産屋に入り、(★このため、産婦のトヨタマ姫は)大変な難産になったが「高忍日売大神」と一心に唱えると大神様は神のお使いとして天忍人命と天忍男命には箒で蟹を掃き清めさせ、天忍日女命には産婆の役をさせたので、たちまち蟹は姿を消し、海から潮が満ち寄せて無事に安産したといわれる。
 婦人は箒を大切にせよということはお産の時に箒の神様に守っていただくためであり、当社に箒を奉納する風習も邪気をはらい新しい生き方を祈願するためである。」

 高忍日賣神社の祭神は高忍日売神を主神に、天忍日女命、天忍男命、天忍人命の三柱を配祀するものだが、このうち、「天忍人命」は『古語拾遺』で出産するトヨタマ姫の産屋から箒で蟹を掃きだした神である。箒を奉納して安産を祈願する当社の信仰もこの祭神にちなむものだろう。ところが、享保九年(1724)の当社の社記にはこの祭神名が見えておらず、配祀神の三柱が固定したのは江戸末期頃なのである。それも「高忍日賣」という社名に附会されたにすぎないらしい。ということで、箒を奉納して安産を祈願する当社の信仰も、それほど古いものではない可能性が高い。

 

「産婆・乳母の祖神」とある

境内でみかけた竹箒
もっとも、これは境内の清掃に使うただの道具だろう

神門の裏にあった熊手は3本づつ丁寧に束ねてあった
もしかするとこれは奉納品なのかもしれない

 とはいえ、いちおう和多都美神社や久田の志々伎神社のように海や河口との関係を見ておくと、高忍日賣神社から約8km西に行くと海が広がっている。また、北に1.5km程離れたところを重信川が流れている。こうした位置関係やふきんの地形等をかんあんすれば、海岸線の埋立や沖積の進行、河川の流路の変更が起きる前の当社は、伊豫灘に面した重信川河口に鎮座していた可能性がある。

 

  


 

 

 神戸市灘区大和町の徳井神社の境内社になっている八幡神社は、かつて徳井地区に祀られていた八幡三社のうちの中宮にあたり、それが明治四十四年、上宮の境内に遷座され今に至ったものである。神功皇后を祭神とするこの神社は「箒の宮」と呼ばれ、「当社には古来、産婦の陣痛がはじまると、社より荒神箒を借り受け、その箒にて腹を撫で、安産を祈願するという伝えがあり、現在も安産祈願には小箒を授けます。全国的にも希有なこの神事は、地元民のみでなく全国的にも知られ、信仰を集めております。(境内看板)」という。安産祈願で箒を奉納するというのとはちょっと違うが、同種の信仰とみて良かろう。ちなみに無事、出産できた産婦は、箒を2本にして返すという。

徳井神社
Mapion

徳井神社々殿
当社の社殿は阪神淡路大震災で被災し、本殿以外のほとんどの建物は立て直された

箒の宮(八幡神社)

当社の安産祈願のお札
クロスした箒の図案が印刷されている

境内で見かけた竹箒
これも奉納品ではなく、
境内の清掃に使うただの道具だろう

 箒の宮は一度、遷座を経験している。旧社地の正確な場所はわからないが、現社地と同じ徳井地区内にあったという。ふきんは市街化が著しく、かつての状況はうかがえないが、海に近かったことは確かだ。

 

 


 


 大阪府八尾市神宮寺の常世岐姫神社には古い宮座の制度が残っており、4軒の旧家が座家を務めている。以下、『日本の神々』からの引用。

「座家の人が境内を清めた箒で妊婦の腹を撫でると安産だという信仰がある。最近では、地元の区長が穂先二〇センチぐらいの稲わらを二十本束ねた箒を用意し、妊婦の家ではそれを貰って神棚に供えておき、産気づくとその箒で蒲団を掃き、妊婦の腹を撫でるという形になっている。近辺ではあまり見られない風習である。(『日本の神々3』p258)」

 ということで、当社にも神戸の箒の宮とよく似た信仰がある。

八尾市郊外、宅地化がそうとう進行した農家集落の一画に小さな神社がある

それが常世岐姫神社
Mapion

当社は「常世岐姫神社」の社名で宗教法人登録されているものの、
通称は「八王子神社」で、石標や看板など全てこの名になっている

拝殿の中をのぞくと、妊婦に授けるためのものと思われる箒があった

こっちは腹帯なのかな

この袋の中身はわからない

 古代に赤染部という染色技術者集団がおり、ルーツをたどれば6~7世紀に南鮮から渡来した人たちだった。『続日本紀』光仁天皇 宝亀八年(777)四月条によれば、彼らの子孫だった河内国大県郡の赤染人足ら13人が、「常世連」姓に賜ったという。当社はこの常世連が氏神を祀った神社とされ、河内国大県郡に登載ある同名の式内社に比定されている。現祭神は常世岐姫。

 この常世岐姫という祭神は、女神であったということ以外、ほとんどのことが分からない。したがい、当社における箒と結びついた安産信仰もこの祭神の性質と結びついたものかどうか不明である。

 また、常世岐姫神社はこれまで見てきた神社と違って海の近くに鎮座していない。私の知る限り、安産祈願と箒が結びついた信仰のある神社で、内陸部にあるのは当社だけである。このことにはちょっと引っかかる。あるいは「常世」から、海中他界である海神の宮殿が連想され、そこにトヨタマ姫のことが附会されたとか、まさか、赤染人足が賜姓したのが宝亀八年なので、年号「宝亀」に「箒」が附会された、などということはないだろうな、等々と考えてしまう。 

 

常世岐姫神社々殿

当社はとくだん地形的な理由なく北面する珍しい神社 

 それはともかく、管見では安産祈願と箒が結びついた信仰のある神社は、全国で以上の6社だけである。他に、奈良県五條市黒駒町の御霊神社には、箒を神体として祀っているという伝承があるが(じっさいの神体は神像らしい)、これなども五條市内の御霊信仰が井上内親王と他戸親王という母子神を祀るものなので、何かしら出産儀礼と連絡があるのかもしれない。ほかに、熊本のほうに安産祈願で箒を奉納する寺院がある。これ以外にも安産祈願と箒が結びついた信仰のある神社の情報を知っている人がいたら連絡して下さい。 

蟹守土俗再考(4/4)につづく