最近、怪獣たちの絵を
絵画展に出品することをやめた。
それは何度か出品するうちに
審査の功罪を感じることがあったのと
子どもの絵を
その審査に基準を合わせて
「描かせる」ことに
非常に嫌悪感を感じてきたからだ。
不肖な母の
最初の狙いは
「きちんと指導されれば、怪獣だってきちんと描くこともできるんだよ…」
という部分を担任に見せつけたい一心だったのだ。
(普段の生活が、片づけられないだらしない子どもの典型という評価だったことも大いにある。)
このブログを長くご覧になってくださっている方も
多いので
今更何言ってんだか・・・と
感じている方も少なくないとは思いますが
怪獣兄弟は
正直、集中できる時間が少なく
決して器用でもない。(それは、認める…)
でも、時折びっくりするほど
細やかに観察して描くことがあるのだ。
それは、
四つ切画用紙すべてをその集中力で
埋め尽くせるほどのものではない。
ただ、怪獣たちの絵は
「ここに、すごくこだわったんだなあ…」というのが
伝わるのだ。
その思いっていうのは
同時に30人を指導している先生には
気づかない。
会話を重ねて
初めてそのこだわりの価値がわかるだろうから。
同じ経験をして
初めてそのこだわりの価値がわかるから。
母としては
そんな息子のことを担任に理解してもらえないこと
そういったものの見方ができることを
評価する大切さにも気づいてほしいというはがゆい思いをいつも抱いていたわけだ。
それで、絵画展。
とりあえず基本的にだらしなさが災いして
図工がてんでダメな評価を受けている怪獣。
怪獣も残念ながら
自分の表現に自信がない。
(表現そのものの問題ではなく、道具の扱い方、適切な使い方がわからない様子。
たとえば筆の水分量は狙っていないのにたっぷり過ぎたり、絵具でねっとりだったり…本人にとっては道具の扱いに未熟なことが不本意なのであって、絵そのものに対する不満はないのだ。だって、思い切り好きな部分にはこだわるから。)
私が実は非常に気になってたのは
自宅の猫の絵を
描いた絵が教室に飾られていたのを見たとき…の絵のことだ。
怪獣兄の絵にはなぜか
背景の色がなかった。
猫の目がなかった。(寝てたからね。)
でも、でもね、
びっくりするほど、猫(今は亡きグレコ)の毛なみが
やわらかなタッチで描かれ、しかも
微妙な色合いまでこだわっていたのだ。
決して、構図的にも、バランス的にも
美しいものではない
なんせ、
画用紙の空白部分にはたくさんの
絵具のうっかり汚れ・・・
(筆を落としたのか、パレットおいちゃったのか、手が汚れていたのか…)が
ついている。
授業参観の授業そっちのけで
自分はその絵を食い入るように見ていた。
まあ、我が子可愛さってのがないわけではないけれど
バックに色を入れなかったのは
猫の毛並みがバックに彩色することで
汚されるから(イメージと変わる)…に他ならない
怪獣兄の思いが伝わったからだ。
迷った末、バックに色を入れられなかったのだ。
(当然だ。はじめから猫を描くつもりでいるのだから、その猫の居る空間としての背景ならともかく、ただ、単色をうっすら塗りたくることに価値を感じなかった。)
そして
たぶん、集中力が切れたのと
猫に集中しすぎて他がどうでもよくなっちゃったことで
空白部分を汚してしまった・・・という状況が感じられた。
で、
不肖な母の陥ったのが
じゃあ、この怪獣のこだわり部分をピックアップして
背景の描き方や画面が汚れないようにしてやれば
この怪獣兄の絵の良さ(感性)が学校の人たちにも伝わるんじゃないか???と。
これ、
大失敗だと、今は思う。
3年くらい連続絵画展の賞は頂いたが
画用紙の端っこが汚れても平気なほど
モチーフにこだわれなかったし、集中もできなかった。
あっちも、こっちも
もっとこう描けばいいかもね…と母に誘導された空しい作品…
賞をもらったことで
怪獣は
自信を回復していった。なにせ、クラスのお友達や先生は
不思議でならない。
そうして、あの不器用な怪獣兄の作品が???
なんで、こんな絵が描けるんだ??
そのギャップが嬉しかったようだ。
そういう意味では
怪獣兄にとってのチャレンジは成功だったともいえる。
でも
大きな問題
受賞した作品と同じような表現をした作品を
再び描くことはなかった
描くというのは自己決定の連続で成り立つ世界。
怪獣兄にとって自己決定することなく
事前に用意された技法で
単に作業をしていた絵にこだわりは?
もう一度今度はこんな風にやってみたい・・・という高まりは
あるわけもなく・・・
(本当に自分の欲していた技法であれば、したたかに次の作品に生かせばいいのだ。)
ある人は
「子どもが絵を描く」ということと「子どもが絵を描かさせられる」では意味が違う。
という。
まったくその通りである。
世の中には
○○式という
絵の「描かせ方」の指導法が
ずいぶん出回っている。
その一枚は
時間をじっくりかけ
失敗のないように
細かな手順でチェックされ
絶対に間違いのないように
小さな大人が描いた子どもの絵として
評価される。
大人が大人から見ていい絵と、
子どもが子どもとして描きたい絵、満足な絵。
違うにきまってる。
最初に○○をして
次に○○を△△から
それから○○に何色と何色を合わせた色で
色をつくり
○○なふうにぬりなさい。
タッチは○○でも○○でもいいですが
○○ではいけません。
丁寧に完璧に教えた先生
そしてそれにまじめに、素直に応えた子ども
そして
その瞬間だけ訪れる
子どもの思いはどーでもいい、
大人たちからの高い評価。
その後、その絵が力作として
家庭に飾られるかもしれないが
その技法を利用して
再び完璧に次の絵に挑む子を
私は見たことがない。
先生や親がその場しのぎで
一瞬いい絵(かどうかは、本人がわかるはずだが。。。)と思うものを
描かせているように思えるのだ。
みんな確かにかけた でもその後が大切。
次の作品で思いを各自表現させてこそこの学習が生きると思う。
美大を受験するような
絵を大人に見せるみたいなテクニック的なことは
教えられなくもないと思っている。
でも
必要か??それ。その子にとって・・・
と、考えることにしている。
どうしても
直方体を4面で描いてしまい
どうしておかしいのか、わからない・・・でも、なんか変なので
気に入らない・・・
っていう子には
「3面しかみえていないかもよ??」
って、言うかもしれない。
困っているならね。
絵を私に見せるときに
「これ、いいでしょう!!」って持って来る姿と
「これでいいですか?」って持って来る姿
どっちが嬉しいか決まってる。
これもやりすぎて
クラスの子みんなが
美大受験するみたいな絵を描いてたら
それはそれで
ちょっと怖い気もするよね。(苦笑)
つまり
子どもが今欲していない技法は
身に付かないし
その場しのぎで身に付いたように見えて満足する大人はいるが
子どもはどこ吹く風・・・
そして
先生は何かを教えなきゃ・・・と焦るばかりに
子どもの欲していない技法を伝えたがる。
まあ、この世界の先生方はどういうかわからんが
ワタクシ個人としては
子どもの欲している技法は
教えてやるべきだとは思う。
大人の絵のように背伸びしたい子もいれば
自分の世界に没頭したい子もいるし
一つの表現に執着していく子もいていい。
大人が「丁寧に描けているね。」とか「色がきれいだね。」とだけ言ったら
それは子どもの描いた思いとは違う評価で、
見当はずれかも。
子どもが胸を張って自慢したいところを的確に見抜き
その感性や個性をはぐくむ為には
やっぱり、たくさんその絵をもとに
話さなくっちゃ・・・そして
絵を非常に狭く見る観念を植え付けることにならぬよう、
大人はもっと注意深く
絵の前でふるまうべきなのかもしれませんな。
怪獣たちが
再び
のびのびと描くことを
描くことを
楽しめるように
願って
ここに記すことにしました。
たまにまじめにね…
絵画展に出品することをやめた。
それは何度か出品するうちに
審査の功罪を感じることがあったのと
子どもの絵を
その審査に基準を合わせて
「描かせる」ことに
非常に嫌悪感を感じてきたからだ。
不肖な母の
最初の狙いは
「きちんと指導されれば、怪獣だってきちんと描くこともできるんだよ…」
という部分を担任に見せつけたい一心だったのだ。
(普段の生活が、片づけられないだらしない子どもの典型という評価だったことも大いにある。)
このブログを長くご覧になってくださっている方も
多いので
今更何言ってんだか・・・と
感じている方も少なくないとは思いますが
怪獣兄弟は
正直、集中できる時間が少なく
決して器用でもない。(それは、認める…)
でも、時折びっくりするほど
細やかに観察して描くことがあるのだ。
それは、
四つ切画用紙すべてをその集中力で
埋め尽くせるほどのものではない。
ただ、怪獣たちの絵は
「ここに、すごくこだわったんだなあ…」というのが
伝わるのだ。
その思いっていうのは
同時に30人を指導している先生には
気づかない。
会話を重ねて
初めてそのこだわりの価値がわかるだろうから。
同じ経験をして
初めてそのこだわりの価値がわかるから。
母としては
そんな息子のことを担任に理解してもらえないこと
そういったものの見方ができることを
評価する大切さにも気づいてほしいというはがゆい思いをいつも抱いていたわけだ。
それで、絵画展。
とりあえず基本的にだらしなさが災いして
図工がてんでダメな評価を受けている怪獣。
怪獣も残念ながら
自分の表現に自信がない。
(表現そのものの問題ではなく、道具の扱い方、適切な使い方がわからない様子。
たとえば筆の水分量は狙っていないのにたっぷり過ぎたり、絵具でねっとりだったり…本人にとっては道具の扱いに未熟なことが不本意なのであって、絵そのものに対する不満はないのだ。だって、思い切り好きな部分にはこだわるから。)
私が実は非常に気になってたのは
自宅の猫の絵を
描いた絵が教室に飾られていたのを見たとき…の絵のことだ。
怪獣兄の絵にはなぜか
背景の色がなかった。
猫の目がなかった。(寝てたからね。)
でも、でもね、
びっくりするほど、猫(今は亡きグレコ)の毛なみが
やわらかなタッチで描かれ、しかも
微妙な色合いまでこだわっていたのだ。
決して、構図的にも、バランス的にも
美しいものではない
なんせ、
画用紙の空白部分にはたくさんの
絵具のうっかり汚れ・・・
(筆を落としたのか、パレットおいちゃったのか、手が汚れていたのか…)が
ついている。
授業参観の授業そっちのけで
自分はその絵を食い入るように見ていた。
まあ、我が子可愛さってのがないわけではないけれど
バックに色を入れなかったのは
猫の毛並みがバックに彩色することで
汚されるから(イメージと変わる)…に他ならない
怪獣兄の思いが伝わったからだ。
迷った末、バックに色を入れられなかったのだ。
(当然だ。はじめから猫を描くつもりでいるのだから、その猫の居る空間としての背景ならともかく、ただ、単色をうっすら塗りたくることに価値を感じなかった。)
そして
たぶん、集中力が切れたのと
猫に集中しすぎて他がどうでもよくなっちゃったことで
空白部分を汚してしまった・・・という状況が感じられた。
で、
不肖な母の陥ったのが
じゃあ、この怪獣のこだわり部分をピックアップして
背景の描き方や画面が汚れないようにしてやれば
この怪獣兄の絵の良さ(感性)が学校の人たちにも伝わるんじゃないか???と。
これ、
大失敗だと、今は思う。
3年くらい連続絵画展の賞は頂いたが
画用紙の端っこが汚れても平気なほど
モチーフにこだわれなかったし、集中もできなかった。
あっちも、こっちも
もっとこう描けばいいかもね…と母に誘導された空しい作品…
賞をもらったことで
怪獣は
自信を回復していった。なにせ、クラスのお友達や先生は
不思議でならない。
そうして、あの不器用な怪獣兄の作品が???
なんで、こんな絵が描けるんだ??
そのギャップが嬉しかったようだ。
そういう意味では
怪獣兄にとってのチャレンジは成功だったともいえる。
でも
大きな問題
受賞した作品と同じような表現をした作品を
再び描くことはなかった
描くというのは自己決定の連続で成り立つ世界。
怪獣兄にとって自己決定することなく
事前に用意された技法で
単に作業をしていた絵にこだわりは?
もう一度今度はこんな風にやってみたい・・・という高まりは
あるわけもなく・・・
(本当に自分の欲していた技法であれば、したたかに次の作品に生かせばいいのだ。)
ある人は
「子どもが絵を描く」ということと「子どもが絵を描かさせられる」では意味が違う。
という。
まったくその通りである。
世の中には
○○式という
絵の「描かせ方」の指導法が
ずいぶん出回っている。
その一枚は
時間をじっくりかけ
失敗のないように
細かな手順でチェックされ
絶対に間違いのないように
小さな大人が描いた子どもの絵として
評価される。
大人が大人から見ていい絵と、
子どもが子どもとして描きたい絵、満足な絵。
違うにきまってる。
最初に○○をして
次に○○を△△から
それから○○に何色と何色を合わせた色で
色をつくり
○○なふうにぬりなさい。
タッチは○○でも○○でもいいですが
○○ではいけません。
丁寧に完璧に教えた先生
そしてそれにまじめに、素直に応えた子ども
そして
その瞬間だけ訪れる
子どもの思いはどーでもいい、
大人たちからの高い評価。
その後、その絵が力作として
家庭に飾られるかもしれないが
その技法を利用して
再び完璧に次の絵に挑む子を
私は見たことがない。
先生や親がその場しのぎで
一瞬いい絵(かどうかは、本人がわかるはずだが。。。)と思うものを
描かせているように思えるのだ。
みんな確かにかけた でもその後が大切。
次の作品で思いを各自表現させてこそこの学習が生きると思う。
美大を受験するような
絵を大人に見せるみたいなテクニック的なことは
教えられなくもないと思っている。
でも
必要か??それ。その子にとって・・・
と、考えることにしている。
どうしても
直方体を4面で描いてしまい
どうしておかしいのか、わからない・・・でも、なんか変なので
気に入らない・・・
っていう子には
「3面しかみえていないかもよ??」
って、言うかもしれない。
困っているならね。
絵を私に見せるときに
「これ、いいでしょう!!」って持って来る姿と
「これでいいですか?」って持って来る姿
どっちが嬉しいか決まってる。
これもやりすぎて
クラスの子みんなが
美大受験するみたいな絵を描いてたら
それはそれで
ちょっと怖い気もするよね。(苦笑)
つまり
子どもが今欲していない技法は
身に付かないし
その場しのぎで身に付いたように見えて満足する大人はいるが
子どもはどこ吹く風・・・
そして
先生は何かを教えなきゃ・・・と焦るばかりに
子どもの欲していない技法を伝えたがる。
まあ、この世界の先生方はどういうかわからんが
ワタクシ個人としては
子どもの欲している技法は
教えてやるべきだとは思う。
大人の絵のように背伸びしたい子もいれば
自分の世界に没頭したい子もいるし
一つの表現に執着していく子もいていい。
大人が「丁寧に描けているね。」とか「色がきれいだね。」とだけ言ったら
それは子どもの描いた思いとは違う評価で、
見当はずれかも。
子どもが胸を張って自慢したいところを的確に見抜き
その感性や個性をはぐくむ為には
やっぱり、たくさんその絵をもとに
話さなくっちゃ・・・そして
絵を非常に狭く見る観念を植え付けることにならぬよう、
大人はもっと注意深く
絵の前でふるまうべきなのかもしれませんな。
怪獣たちが
再び
のびのびと描くことを
描くことを
楽しめるように
願って
ここに記すことにしました。
たまにまじめにね…