南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆早一年

2012-12-16 23:00:19 | 考え

 1431 母親が大往生して間もなく一年が過ぎる。一周忌というのでしょうか、今回帰国した一番の目的がこのイベントのためでした。私は、まったく、準備に関係していないが、浅間神社の西、静岡養護園の幼稚部の理事長をしている妹がすべてを整えてくれた。彼女が母親と一緒に暮らしていた。一応、私が施主ということになっているので、形としては協力したことになっている。何の意味があるのか釈然としないが、一つの区切りである。

 

完全に私の兄弟とその子供、孫たちだけの集まりで、全員で10人ちょっと、本当に内々という感じでした。しかし、それでよかったと思う。

 

今日の出席者の中では一番に、この墓に入るのは、私である。もうそれほど遠い先の話ではないことを感じる。親父が亡くなったとき、私が作ったものだ。当然、私は入る権利はあるが、入ったかどうかは確認できない。そんなことを思った。“我思う故に我あり”デカルトですか。ずっと、何かを思っていたいが、何も思わなくなる時が必ず来る、その時、私は無になる。

 

皆さんで食事をしたときに出てきた料理の一つ、桜エビのかき揚げ、蒲原という町の料亭だったが、その町の西隣の町、由比は桜エビ漁で有名な街、絶品である。子供のころから、黒はんぺんとともに、おやつ代わりに食べていたが、こちらは、生のまま食べてもおいしい。

 

静岡の北部を走るバイパス、中央道が笹子トンネル事故以来、通り抜けできなくなっているので、東名、新東名、そして、一号線とそのバイパスの交通量が増えていることは確かなようだ。私が住む丸子(鞠子)という町は、静岡でも西の端に近い、そこで、清水や富士など東に向かうときには、バイパスを使うのが一番便利、渋滞がなければ、東名高速の静岡インターまで行く時間で、清水インターの近くまで行ってしまう。

供養 功徳 色即是空

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(^_-)-☆覚悟が必要

2012-12-15 22:22:03 | 生活

 1430 何年かぶりに日本の歯医者へ行ってきた。家の近くの行きつけ?の歯科医。といっても、多分、数年前が最後だったと思う。歯医者にはハラパン クルアルガに三年ほど前に通って、刺し歯や入れ歯をしてもらっている。歯医者というのは、どこの国でも嫌いである。

どうしようもなくなったと判断したとき、あるいは痛くて痛くて我慢が出来なくなったときに、差し迫ってゆく、今回は、痛くはないが、歯垢がかなり溜まっているらしいことと、一本、虫歯でかけ始めてしまっていたため、そして、二週間ほど、医者に通う余裕があるからだった。覚悟を決めて、行ってみた。その医者、日本で多くの歯医者に行っているわけではないから、比較はできないが、乱暴のような気がする、口のきき方もドリルの扱いも乱暴のような気がする。歯垢について今日言われたことは、ひどいの一言、歯の磨き方が悪い、血が出てもいいから、歯を磨くより歯肉を磨くつもりで磨いてください、と、注意された。この注意は今回が初めてではない、何年も前に言われている。そのつもりで磨いているが、医者にとっては、磨いていないという判断なのでしょう。

 

ギリギリ、ガリガリ歯の根元に届くのではないかと思われるほど、歯肉と歯の間にどんどん、ドリルを差し込む、血が飛び散っているのがわかる。助手の奥さんでもバキュームで吸い取りきれない、口をゆすいだ時に、真っ赤な血が噴き出しているのがわかる。5分ほどガリガリやったあと、ヨウドチンキでしょうか、歯の根元の周りにたっぷり塗りこんだ、これがまた、きつい苦味とにおいと痛みが口の中に沁みわたる。そのまま、5分ほどじっとしていたあと、口を濯いで終わりでした。「今日は、下でした、次ぐは、上ですね」「はい、ありがとうございます」試練だが仕方がない。

これで、4,500円、インドネシアで保険を使えないで治療した時と同じ値段である。

それでも、年内に数回はお世話にならなければならない。

 

連日の寒さ

痛 非情 耐え

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(^_-)-☆生き方

2012-12-14 20:04:27 | 生活

 1429 私は経営者ではなく技術者だと思っている。金の計算もできるし、従業員に楽しく仕事をしてもらえる会社の雰囲気を作ることもできるし、経営も普通の人よりできると思うし、利益が出る会社にすることもできる、が、技術者としてなら、もっとはるかに、かなり、並以上にできると思うし、経営をしていても面白くないと思うが、技術的仕事をしているときには面白いと思う、楽しいと思う。

小学校の低学年のころから、義務教育が終わるまで、ずっと、学級委員長や学級委員をやらされていた。ないかと、仕切ったり、まとめたりする仕事をしなければ習い状態にされていた。「静かにしてください」とほとんど毎日のように言っていたような気がする。休みの日でも、子供会の会長やリーダーをやらされていたので、町内の子供のまとめ役、祭りのときにも林間学校などの行事の時にも、まとめ役、修学旅行や遠足の時に小旗を持たされて、集合場所に一番早く行って、みんな待っていた。点呼を取るなどは当たり前にやっていた。

それらが、自分に向いて入りとは思わなかった、全然楽しくなし、やりがいがあるなどと一度も思ったことがない。いやでいやでしかたがなかったが、やらされていた。それは、卒業して何十年たっても、日本にいなくても、同級会を仕切ることもしなければならない立場だった。他にやってくれる人がいないから、仕方なくやらざるを得なかった。

 だから、こうこりごり、だった。経営もうまくいっていた。従業員を全員、30人以上いたが、毎年、海外旅行に連れて行った。旅費はすべて会社持ち、プラス土産代も支給した。儲かっていた、新聞にも高額納税ということで毎年、紹介されていたし、日本の悪しき習慣、手形を切る、ということは、一切しなかった。成功はしていた、しかし、全然、楽しくなかった。いつの間にか、技術的な仕事から離れてしまったからだ。儲かるので金の心配はいらないが、以前開発した仕事を継続してやるばかりで、その、生産や納期の管理、人材の心配などが主な仕事になってしまっていた。それが、子供のころの私の姿と重なってきて、脱出したくなったのです。

 スパイラルチューブやコイリングチューブ、エッジングやグロメット、エンドレス自在ブッシュをつくりあげたころの自己満足感、快感は、忘れることができなかった、そこで、簡単にいえば、“包丁一本さらしにまいて”ではないが、押出成型技術一本だけひっさげて、日本から飛び出たのです。

 この期間の節目に機能お会いした北川会長が関わっていたのでした。しかし、北川会長とは生き方は違う。そのことを昨日も話をした。

 

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page232.html

全然、関係ないが、思いつきで、パンガンダランのヤマアラシの親子の様子です。

 

スポンジボブがお気に入り、私のラップトップをお気に入りの上の子。

 

静岡のちょっと高いところならどこからでも眺められる富士さんです。

向き 不向き 得意

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(^_-)-☆ほっとした

2012-12-13 23:36:45 | 喜び

 1428 121212の日 久しぶりにお元気そうなお顔を拝見してホッとしました。凛とした腹の底から響くような声も衰えていなかった。愛知県の稲沢へ行ってきた。ある、私にとっては重要の方にお会いするためでした。何年ぶりでしょうか、多分、6年ぶりくらいだと思う。私が若い時、26歳の時、社長がまだ40歳前でした。初めてのご対面でした。それから、40何年以上のお付き合いです。現在は息子さんに社長と代表権を譲ったとはいえ、まだまだ、会長として、毎日、会社に出て来客の対応をしながら、社長をサポートしている。82歳である。とにかく、一代で今の会社の状態を作り上げ、社会的貢献を尽くしている。その基礎的、初期的時期に大きなお手伝いが出来たという誇りを持たせていただいた。

 

私が押出の技術者として生きてゆくと決心する機会を与えてくれた人、私が独立してから、間もなく、私に注文を出してくれた人、私が社長を止めて、海外で技術指導をしたいと、多くの関係者に話をしていた時に、インドネシアに押出工場を作ってみないか、と、声をかけていただき、今もインドネシアで技術指導したり、輸入製品のインドネシア国内からの調達のお手伝いをしている、その機会を作ってくれた人。私の人生の転機で深く係わり、頼りにした人です。常に目を掛けてくれたと思っている人です。

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0201.html

会長にとっては、私は多くの人達の中の一人に過ぎないかもしれないが、私にとっては

常に意識をする方でした。今でも、そうです。

 だから、今回、ぜひ、お会いして、私の気持ちを伝えようと社長にお願いして設定をしていただいたのでした。本当にお会いできてよかったと思う。前日、日本で感激すること、うれしいことは殆どないと書いたが、今日という121212の日は、久しぶりにお元気な姿を拝見し、一時間以上に渡って、御話しできたことは、感激の一言です。稲沢へ行って良かった。一年後には元の本社に新本社ビルが完成するそうです。その頃に、また、来てくれよ、と、言われた、必ず、御伺いしますと約束した。

 

 13時のアポだった。12時ごろ会社の周辺に到着していた、食事をして時間の長以西をした。5分前に会社の玄関に到着した。13時丁度に、応接に通された、会長は既にその応接室で私が到着するのを待っていてくれたのです。その姿を横から見ながら、部屋に入りながら、遅れて、待たせることに、ならなくて良かったと思っていた。「太田君、時間ぴったりだね」と言われた。流石だなと、思った。

 

 別れ際にご一緒に写真を取ってもらった。その他大勢との記念写真のようなものは、何度も機会はあったが、二人だけで、写真に収まるのは初めてだった。これも、良かったと思う。

 

 帰りの東名で運転をしながら、インドネシアから何度も電話が入った。パーキングエリアに駐車して、それらの電話に返事をした。今も、こうして、インドネシアの多くの人が私を頼ってくれる、一応元気に生きて行けているのは、会長のおかげだという事を意識しながら。

 今日は一日、素晴らしい日だった。本当にお会いして良かったと思う。

 感謝 恩人 尊敬

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(^_-)-☆便利って?

2012-12-12 22:10:23 | 環境

 1427 日本の方が便利という事はあまりない、日本にいてあまり感激することはないが、少しはある。その一つがネット接続でローディングが早いこと、色々な動作を連続して出来る、休憩してそのローディングが終わるのを待つ必要がない、逆に待つ必要がない、インドネシアではそういう事はまれで、何かを食べながら、飲みながら、動作が出来るというより、何もしないで、ただじっと画面を眺めて待つのはつらいことが多い。会社内のワイアレスランでもケーブルランでも、なぜか、雨が降りだしたり、雷が鳴り出したりすると、なお、状態は悪くなる。時には切断してしまい、ローディングが止まってしまい、せっかくに作業が台無しになってしまい、やり直さなければならにこともある。日本ではそんなことはないでしょうね。

その他に日本でやることはあまりないので、嬉しかったり、感激したりすることは?今のところ思いつかない。

例えば、日本での車の運転、渋滞が少ないことと曲がりたいところで曲がれるいことでしょうか、信号が多すぎると思うが、信号が変わる時に規則性があるために、信号が邪魔になることはほとんどない、インドネシアのように、直ぐそこに目的地があるのに、遥か向こうまで行って、Uターンして戻って来なければならないという事がないのは喜びの一種か。ただし、車のオートマは逆に良いとは思えない。というより、マニュアルでもオートマでも、どちらも変わりがない。ナニュアル車に慣れている私は、家にある私の車は、時々、戸惑う。

HPは日本でもインドネシアで使っているソニーエリクソンとノキアの安い3Gの方が使いやすい。日本のHPを使おうとは思わないが、AUの折りたたみ式の只のHPを使っている。SMSを打ち込むのに日本語は出来ない、変換が面倒くさい。アルファベットのモードに固定していて、ローマ字風に書きこんでいる。電話先登録もアルファベットでやっている。だから、日本語で書くより、英語やインドネシア語の方が便利である。

 

お爺ちゃんと寝たいといっていた下の子、20:00頃に私の蒲団に入ったら直ぐに眠ってしまった。

 

寒いはずです、今朝の庭一面の霜柱、30mmくらいの高さになっていた。明け方は零度以下だったという証拠でしょう。

感激 それほどでも マニュアル車

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(^_-)-☆寒い~~

2012-12-11 22:37:09 | 行動

 1426 機内のガラ空きは私にとって、いつものように都合が良かった。32が一番の後部座席、31に席を取った。窓際が皆さん好きなようで、二人並んで座っている人が多い、私には理解できない。真夜中のフライトでは外の景色は無いし、良くわからない。そういう人が多いから、私はゆっくり眠っていられる。

 

 11:30頃には、家に着いたが、待っていたのは、孫の幼稚園への迎え、そのすぐ後、その子をピアノ教室へ送り、家に一旦、帰った時の上の子が、学校から帰ってきて、自転車の空気が抜けてしまったから、直しに行ってほしいというので、近所の自転車屋へ持って行って、修理をしてもらった。空気が少ない状態で、使っていると、ゴムチューブの一番弱い部分がすり減って薄くなり、亀裂が出来てしまうからタイヤがへこんできたら、空気を足さなければだめだと言われてしまった。

 

 彼女が直った自転車で家に帰るのに走って付いて帰って、つぎはまた、下の子をピアノ教室へ迎えに行った。

それで終わりでは無い、妻の染物趣味がこうじて、その生地を使った和服を呉服屋に作って貰ったとか、その呉服屋へ最終チェックに行きたいから、送ってくれとか、土曜日の学校の何とか教室で使う、教材の仕入れに付き合ってほしいとか、18:00過ぎまで付き合わされた。

その間をぬって、自分の買い物、日本の冬での必需品、メンソレータムと目薬を仕入れた。メンソレータムはインドネシアのオバット カユ プティーに匂いがそっくり、それはどうでもいいが、両足の湿疹の防止にこれが無ければならない。目薬は、インドネシアにいても年のせいか目の乾きが気になるが、日本の乾燥時期には、目が痛くなるほどだ、どうしても目の潤いを薬で補わなければならない。

挙句に、上の子の宿題の手伝いや風呂に一緒に入ることまでやらされた。たっぷり21:00まで掛ってやっと終わり、寝かせたのが、21:20。

 

 外出も多かったが、走り回ることも多かった。疲れよりも寒さが答える。家の寒暖計は4度だった、名古屋、米原などは、積雪を記録したとか。

 

 とにかく、日本での生活が始まった。

 

 静岡市の北部に向かう時の安倍川橋を東に向かう、その向こうに雪冠を頂いた富士山がくっきり見えていた。日本だ。

 昨日の花は火炎樹の花です。直径は5Cmくらい、こういう花が、桜の花のように一杯なっていて、木全体が真っ赤になっているのです。

 寒! きつ! 耐え!

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(^_-)-☆日本へ出発

2012-12-10 22:26:17 | 状況

 1425 インドネシア最終日、昨日と今日、ゴルフ。暑い場所でのゴルフは一カ月ほどお預けである。間もなく待合室の入る、23;30発ガルーダインドネシアである。19:00にBIISの会社からタクシーで出発、日曜日の夜なので、渋滞はなく、1時間半以下で空港に着いた。かなりの余裕である。

四月からフリーになって、インドネシアに大体、一カ月ギリギリの滞在を三回繰り返した。その間、インドネシアのまだ行ったことがない場所を主に数カ所、旅をした。住んでいる場所が、チカランだし、短期滞在がギリギリだったこともあって、出国時のイミグレで、多少、怪しまれたようだが、旅の話をし、日本人にその場所を紹介している、という話をすると、納得してくれた。事実、仕事は全くといって良いほど、していなかった。確実のインドネシアをエンジョイしていた。

その間に、会社に申請中だった製造業の認可が下りた。私のワーキングビザの申請もして、三回目短期滞在期限が切れる寸前にシンガポールでビザを収得してきた。なお、日本からの押出機や引取機の入荷が遅れていたので、会社から給料をもらわずに、旅を続けていた。9月になって装置が肺いてきてから出社して、装置が使えるように準備を始めた。9月末頃から真面目に7時ごろ出勤するようになった。それが、今の場所での仕事の始まりでした。

インドネシアでの仕事始めは、分かっているが、順調に進むことはない。それに、できるだけ節約しなければならないので、自分たちで装置をセッティングする必要があって、思ったほどの結果が出なかったり、条件が合わなかったりで、手直しや追加があって、物作りの前の条件出しに時間がかかってしまった。例えば、引取機の速度範囲が原過ぎて、低速にするとばらつきが出ていまい、一定速度で引っ張れない、スプロケットのサイズを交換し、最低速度を遅くすることもした。

という事で、私がインドネシアにいる間にPOを受け取るまでには行かなかった。ただ、私がいなくても年内にPOを受け取ることが出来る可能性が大きくなった。

 

間もなく、日本へ出発である。

 

朝、通るチカランバラット出口の高架道から東の空を望む、昨日と今日である。

 

この花は何の花?

無事 希望 エンジョイ

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(^_-)-☆アシスト

2012-12-09 20:42:41 | 喜び

 1424 私がいなくなるぎりぎりまで、試作を続けて、二種類の製品を完成させた。ジャバベカのS社とEJIPのT社である。両方とも、客先には二カ月の納期を貰っていたが、私の都合で、一月半で仕上げた。いずれも何社かでトライをしたが出来なかった物です。一応、ほっとした。私がいない時のことはHENI君に任せる旨、関係者に伝えた。修正が必要なら出来るし、原料や資材の手配も彼が一手に引き受ける。その他に二種類のPSエラストマーのプルファイルの見積もりをMM2100のM社に提出してある。金型手配のPOが入れば、その手配も出来る。一カ月のご無沙汰です。

 

完成した試作品、色に着いても変色はしない。

 

EJIP東芝の新しい洗濯機の設計にあたった若者の一人、H君と食事をした。私のサポーターである。10年ほど前から、私を手伝っている。K社時代に私の直接の部下では無かったが、図面書きは彼に頼んでいた。彼はK社を止めてその後、二社で勤務し、今は、設計者が大勢必要になった東芝に引き抜かれたかたちで、勤務をしている。私が何社かを移動している間も、必要なら彼と外で会った図面書きを頼んでいた。N社の日本本社に勤務中、新製品を作る時には彼に図面を書いてもらっていた。今回もある新規製品の金型の構想が纏まったので、彼を呼び出して、その装置の図面を依頼した。彼に取ってはサイドビジネスです。持ちつ持たれつの関係が続いている。彼に考えてもらう事も多い。

設計図面書きばかりではなく、色々な専門職を見に付けている人は、給料の高い会社があればいつでも移ろうとする傾向がある。今頃、多くの外国企業がインドネシアに進出しようとしているし、インドネシア国内向けの新商品を売り出そうとしている。その物を作るのは進出してきた会社の外国人だが、その補佐をするスタッフが必要だ、今やそういう人達は最近の最低賃金の40%アップなどという事は全く別の世界で、移動する度にそのくらいのアップにはなっているので、どんどん、移動する。

お互いに同じ会社に落ち着いていないが、渡り歩いている会社にいる図面書きよりもずっと押出に関する図面書きを手伝ってくれている彼を貴重な存在として付き合っている。

 

昨日のバナナを買った、通りがかりの)果物専門店。目立った店です。

応援 相互 専門

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(^_-)-☆9万回

2012-12-08 22:23:39 | 知識

 1423 2007年5月からですから、ウェブサイト、5年6か月、1日平均45回になる。それにしても、この間、私としては、大きな障害も無く。旅や仕事に関して、内容を増やし続けることが出来たことと、無事にグログを書き続けることが出来たことを、ラッキーだと思っている。そして、毎日、何人かの人がアクセスしてくれていたことも、私に励みになっていたし、少しは皆さんの時間つぶしに役立っているのかなと思う。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

http://otaenplaext.net/newpage0.html

インドネシアでの今年の仕事は終わった。仕事に関しては不完全燃焼だった。インドネシアに4月辺りから来ていたが、係わってくれた人々のお役に立てなかった。理由は色々あったが、全て、私の動きが適切でなかった、というより、打つ手が後手だったことが多かった。若いころと比べると、読み違いが多くなったし探究力が浅くなっていることを感じる。昔から、いい加減に、これでいいやとやっていて、それでも辺りが多かったが、この頃ははずれが多くなったような気がする。

今回の原料も色サンプルを渡して、これと同じ色の原料を作ってほしいと2種類、頼んだ。届いた時に直ぐ、中身を確かめればよかったが、色に着いて信じていたので、確認せずに受け取った。それから1週間ほどして試作をしようと袋を開けたら、全然違う色だった。その色については、そううるさくないので、サンプルを作って提出するだけなら問題はなかった。もう一つの色については、どうしても、色がほとんど同じものを提出しなければならなかったので、どうしようもなく、納期が遅れてしまった。

再び、教訓、信じてはいけない、必ず、直ぐに確認すること、分かっていたが、しなかった。以前の私なら確認していた。それにしても、色サンプルを渡してあるに違った色のものを持ってきて~~。担当者も確認していないのか、これでいいやと思ったのか、インドネシアらしいと言えば、その通りだと思う。

とにかく、今年のインドネシアでの仕事は終わったのだから、私がいない間はヘニー君に任せて、大丈夫の筈である。アプはヘニー君にと、頼んだ。ヘニー君では困ったことがあれば、私に連絡するように言っておいた。私がいない間に、今までの試作品が量産になれば良いなと思う。

ど寒い、日本へ行くのは覚悟が必要。年を取ると、寒いの、暑いの、耐えがたくなる。インドネシアの気温は年寄りにとっては年中快適である。

 

立派なバナナ、いくらだと思いますか。これで、120円くらいです。

 

交通警察に呼びとめられて免許証と車検証のチェックをされようとしているところ、免許証は20万Rpくらい払えば買えるが、罰金は一回、5万Rpです。捕まるのは運が悪いと考え、免許を買わないでいる人の方が多い。一説によると、バイクの台数の半分の数しか免許証を発行されていないそうです。

師走 帰国 寒さ

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(^_-)-☆遠回り

2012-12-07 22:32:57 | 情報

 1422 始めてインドネシアへ来た時に、感じたことだが、目的地のすぐ前まで来ているのに、眺めながら通り過ぎ、運転手にどこまで行くの?と聞いた、もう少し先のUターン場所まで、という、なかなか、Uターン場所が見えない、2kmほど行ったところでやっとUターン出来た。この無駄な走りは、燃料の無駄使いは、国家的に見れば膨大な損失になると思った。それが、もっとひどくなっている。

インドネシアの街中は信号が非常に少ない、交差点も非常に少ない、そして、中央分離帯があって右折やUターンは決まったところでしかできない。ある日突然、今まで右折できたりUターン出来たりした場所が閉じられて出来なくなる。そうなると、もっと遠くの場所まで行かなければならない、その場所もまた閉じられると、もっともっと遠回りをしなければならなくなる。

気の毒なのは店や食堂である。 開店当初は店の前に、中央分離帯が切られた場所があって、そこで、反対車線からも客が来ることが出来たし、帰る客も反対車線に出ることが出来て便利で繁盛していても、その場所が閉じられて、客は遠回りして入らなければならないし、帰る客も遠回りしなければならない、その遠回り場所も閉じられて、もっと、遠回りしなければならなくなり、ついに客がいなくなる。ショッピングモールは悲惨である。チカランのカルフールやCTC(チカラン トレーディング センター)は、まだ頑張っているが、閉じるのは時間の問題だ。客がいない。

とにかくリッポチカランのイジップとモールが分かれる交差点から、チカランバラットの高速道路入り口まで右折、Uターンを出来る場所がない。もっとひどいのは、リッポモールの方からはそのリッポチカランのイジップとモールが分かれる交差点も右折できずにイジップに入って暫く行ってUターンし、その交差点に戻ってきて、初めて高速の一口に向かう事が出来る。

典型的な場所がジャバベカ2にもある。コタ チカランやジャバベカ1方面からから南下してチカランバラットインターに向かう時、ジャバベカ2に入る三差路は最初は直進できたが今はジャバベカ2の方へ右折します。直ぐにロータリーがあってそこでUターンするように、三差路に戻れた、それもできなくなり、ロータリーを三分の二回ったところで右折しなければならなくなった。次にほてるズリを過ぎたところでUターン場所がって、そこでUターンできた、そこも、今は、バイクだけしかUターン出来なくなった、今はそこから、また、500くらい行ったところ、マテルの手前まで行ってやっとUターン出来る、そこから、来た道の反対車線を通って、先ほどの三差路へ戻って、右折し、インター方位に向かう事が出来る。やっと、振り出しに戻ったという感じ。相当な遠回りをさせられる。始めてに人は、どんどん、目的地から遠くに行かされるので、不安が多くなるでしょう。もう、もとのところへ戻れないのではないかと思うでしょう。近い将来、もっと遠くのマテルの前を通り過ぎて、ハラパン クルアルガ病院の四差路まで行かないとUターン出来なくなるのではないかと予想する。

とにかく、どんどん、年々、遠回りが遠くなる。“お家が、段々遠くなる~~~”である。

よっぽど、そこにしかないというものを売らなければ、店は持たない。閉店してしまった店が沢山あるし、ルコも空き家が多い。

 

同じ日の同じ場所、チカランバラットインター入口付近。放水車と装甲車など警察の車がデモ隊の侵入を阻止するための警戒をしていた。午前中と夕方、スコールに因る、急性洪水現象である。私は高速道路に入るのではなく、右側からUターンして反対車線に入って、戻る方向へ行きます。イジップからここまで来ないとUターン出来ない。

 損失 Uターン 遠くなる

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(^_-)-☆開発道路

2012-12-06 22:25:58 | 環境

 1421 MM2100からの帰り、チカランバラット出口の渋滞があまりにもひどいので、デルタマスまで行って戻るか、カリマランを使うか迷いながらデルタマスまで行ってみた。久しぶりだったので、この変貌ぶりは知らなかった。

チカランプサット(チカラン中央)という名前のデルタマスのインターが、チカランティムールに変わった。多分もうすぐ使えるようになるインターチェンジの名前をチカランプサットにするのだと思う。そのデルタマスを出て直ぐの信号を右に曲がると、以前は突き当たりになっていて右へしか曲がれなかった、それを道なりに行くと高速の陸橋を超えてカリマラン道にでて西に行けばジャバベカ東に行けばカラワン方面である。それはそれで今もある。

ところが、今は、以前付き当たりだった所から真っすぐ(暫く行くと曲がりくねるが)西に向かう広~い道が貫通していて、その道はデルタシリコン5に繋がっている。という事は、高速道路を使う必要が無くなっているのです。逆にイジップやヒュンダイから東に向かうにはその道を通ってデルタマスで高速に乗ればいいのです。

 

また、間もなく開通する新しいインターチェンジはその道の途中からアクセスしているのだから、色々な道の選び方が出来るようになる。また、新しいインターのすぐ横に高速道路を超えてジャバベカ2の工業団地やチカランバルと言われている進行住宅や商業エリアに繋がる。その新しい高速道路でジャバベカ方面に出れば、ジャバベカゴルフ方向へ真っすぐ広い道路を造成中だ。私たちチカランンへ住んでいる者もジャカルタ方面に住んでいる者もゴルフ場へ向かう道を選択することが出来るようになる。

チカランバラットをジャカルタ方面から出る時には、高速道路上まで三キロメートル以上続く渋滞は、それも、ずっと、競り合いをしなければならない。もう、うんざりである。運よく、その渋滞が無い時の喜びは知らない人にはわからないし、自分で運転しない人にはわからないほどだ。新しいインターが来年早々には使えるようになるでしょう。そうなれば、チカランバラットを使わなくなる車が増えて、利用しやすくなるでしょう。

 

どうするのでしょうか、今の道の状態では、デルタマスの工業団地だけが取り残されてしまう感じがする。勿論、誘致するにはそれなりの対策が計画されていることを説明するでしょうが、ここ数年の間にアクセス道路が新しくできるとか、今のインターの拡張をするなどとい話は聞いていない。

 

 金型を新規に作らされた硬質PVCのパイプの試作が終わった。しかし、この製品も客先がパイプをはめ込むインジェクション部品をよこさない上に、寸法をチェックしてあるのか、と聞いても、図面道理に出来ているというだけで、チェックしようとしない。こういうお客さんを相手にすると疲れが増す。何とか、言う事を聞いてよという感じになる。

 

 開発 便利 丘陵地帯

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(^_-)-☆追い込み 

2012-12-05 22:43:29 | 押出成形

1420 インドネシアの今年は残り6日になった。今週の日曜日の夜のフライトで日本に戻る。ところがまだ、試作品が完全な姿になっていない。もう少し、あと一歩というところだが、金型の修正がまだ続いている。

 

この製品については、何年越しでしょうか、一旦作ったものいが、二回に渡って、あきらめてしまった、曰くつきの製品です。名前はウウェートバー、巻き上げ式のブラインドの巻き上げる芯の役目と垂れ下がった時の重りの役目をする。一回目も二回目も製品の形状は完全に出来上がっていたが、色の問題であきらめてしまった。二回目は押出機がPVCに適さないので、少し継続して流していると焼けてきて黄色みがかってしまう。それを解決するには、スクリュータイプを替える必要があったが、そこまで会社はしなかった。

一回目は原料をABSで押したことも重さでも色でも納得してもらえなかった、というより、日本のサプライアー(今も作っている会社)との担当者の関係で、切ることが出来なかった。値段より義理的、政治的な力が働いてインドネシア現地調達を見送るように指令が来たという理由が正しいと思う。

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0221.html

ここ、二三年前から、は、そんなことを言っていられない価格状況になってきていて、現地調達を進めようという方針に変わったようだ。

私が今回、再び装置を整える時にこのことを考慮して押出機を選んだので、焼けの心配は無くなっていたので、形状の完全化を目指すだけだった。今度こそという意識で取り組んでいる。私にしか分からない意識である。

 

もう一つデザインが大幅に変わった製品の金型が出来あがってきた。引取機の速度範囲を替えるための解体とセッティングもしなければならない。

 

インフルエンザに掛っている人が周囲に多くなっている。ほとんど全員がのどの痛みを訴えている。声が超ハシキーになったり、ガラガラ声になったりしている。それも、一週間以上長引いている人がいる。季節の変わり目?乾季から雨季に変わる時には風っぴきが多くなる、インドネシア人はほとんどの人がそういう。日本人からすれば気温の差はほとんど感じないが、風を引く人が多くなるのが面白い、体は気温の変化に着いていかないのに気がつかないでいるからだと思いう。私は移されないように気を引き締めている、帰国前に風を引いたのでは間が抜けているとういうものでしょう。

 今度は 背水 難しい

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(^_-)-☆有望株

2012-12-04 23:35:56 | 行きすぎ

 1419 ヘニー君、私の後を付きまとってきている青年である。K社、A社、ではその他大勢の中の一人として、他にも、インドネシアの初期からの私に弟子のような子はいなので、その中では、後から入ってきた人間なので、弟子の弟子という感じだった。N社の時に三交代へ入らずに昼間の仕事で、遊撃隊のような仕事をしていた。休んだ人がいたら、その補充として、また、急に忙しい仕事があったらその手伝いに、という、いわば、何にも真面目に快く手伝ってくれる存在だった。偶々、私が或る会社の製品のトライをしていた時に、呼んでいないのに、私の手伝いに来ていた。他に仕事が無かったのでしょう。彼に仕事を与えるのは私の管轄外だった。

難しい仕事で、何度も何度も修正したが、なかなか、うまくできなかった。毎日、頭を抱えながら仕事をしている時に、他の場所での仕事が一段落したのかどうか、私の傍に来ていて何かと手伝いたがっていた。その内に次第に私が試作をする時には助手のような存在になっている。幾つかの新しい仕事を彼と一緒に完成させるようになっていた。

 

マクタという会社にいなかったので、N社には正規社員としてではなく、暫く遅れて契約社員として働いていたが、契約期間が終了しようとしていた時に、私は何とか正社員にと進言したが、会社の方針が契約社員は増やさない、という事にあってしまって、本採用にはなれなかった。彼は、落胆して、一旦、東ジャワの田舎に帰ってしまった。

ところが、私が、別にお場所で仕事をすることを聞きつけた彼は、再びチビトゥンにやってきて、私が始めるのを待っていた。

 

N社の私の弟子たち社員には、今度は絶対止めて私のところへ来ては駄目だ。もし、止めてしまっても私は採用しないと言い渡しておいた。だから、誰も止めてしまうものはいない。ただし、そのヘニー君は正社員では無かったし、首になったようなものだし、私が始める前に田舎へ帰ってしまった人物いだから、私を頼ってくることは自然だし、私も一緒に仕事をしても楽ことに何らの後ろめたさも無い。むしろ、ぜひ、若に後継者として育てたいと思って、来てもらった。

 

現在、二つの新規アイテムに関して試作をしているが、彼が一人でやっている。私が指導をしているが、実際に修正するには彼である。私の仕事は、それぞれの慣性でするのだから、私がこうした方がいいよといっても、彼は承知せずに自分の考えでやることが多くなった。私の望み通りになってきた。N社時代から2年間くらい私に付きまとっていたが、ここへきて、任せられるようになってきた。将来、この会社の押出し部門を仕切ることに慣れでしょう。

 

笹子トンネル崩落のニュースはこちらのテレビでも報道されていた。地震ではなく、老朽が原因だと断言していた。そりゃそうだ、日本のトンネル技術も永久を保証できないことを証明したのでしょうか。

 

花と動物 名前や種類は私には、分からない。

近い 任せる 自主的

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(^_-)-☆どうですか

2012-12-03 21:50:09 | 喜び

 1418 PT.PARAMOUNT BEDの来年のカレンダーが出来てきた。十何年も前から、卓上タイプでデザインは全く変化はない。デジカメで写真を取り出してからだから10年ほど前から、当時の坂本社長にその年の写真を提供してきた。私と同じ年生まれでゴルフも一緒に回る機会も多かったし、何よりも、サイドバンパーという難しいPP炭酸カルシウム30%のプロファイルの現地調達の相談を受け、何とか以来の答えることが出来てほっとしたころでした。そういう間柄でしたから、完全無償、ただ、出来上がったら、私に希望の部数を分けれ貰うという口約束だけでした。そこで、毎年、15~20部貰う事にしている。2013年のカレンダーは15部いただいた。私の写真が9カ月で使われていた。2012年は10カ月でした。

写真は私が気に入っている物と採用審査を社内の日本人数人で選んだものがほとんど一致しているので、私の美意識感覚は、良いとこ、いっているなと思う。

 

来年の写真の中で11月、私に誕生付きにルンバープトゥリから見下ろして撮ったパンガンダランの半島(チャガールアラム)と東海岸一帯の写真が使われている。この風景は何度も取っているので同じ写真ではないが、私のウェブサイトの表紙使っているほど私が気に入っている写真、風景です。こんな景色はインドネシア広し、といえどもここだけである。始めて一緒に行く人は必ずパンガンダランへ入る前にここへ立ち寄って全貌を眺めてもらう事にしている。“あそこのジャングルに中にブンガ バンカイガ(BUNGA BANGKAI)が咲いていると。

二月にはバリのタナロットが使われている。新しいウェブサイトの表紙に使っています。

http://otaenplaext.net/newpage0.html

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage036.html

ところで、何といっても私が一番、魅力を案じているブンガ バンカイ(ラフレシ パトマ)の写真を百枚以上提供しているが使ってもらえない。当然です。このカレンダーのほとんどは、インドネシア国内の病院や介護施設に起きる物です。施設長や病院長のデスクに置かれるのですから、その中に“動物の死骸の花”の写真は流石にまずいでしょう。

ということで、非常に貴重な世界中にパンガンダランにしかない花(ボゴール植物園などに咲き花は移植したものです)と言えども、使ってくださいとお願いするわけにいかない。

   ですから、このカレンダーはインドネシアにある病院や介護施設に贈るのが目的で作られていますから、日本人が手に入れることが出来るのはごく限られた関係者だけです。日本のパラマウントベッド関係者も手に入れることはできません。祭日はインドネシアの物になっているし、日本の祭日は乗せられていません。私は日本に住むインドネシア人に贈ります。大変喜ばれる。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page238.html

http://otaenplaext.net/newpage33.html

 

テビーベアーぬいぐるみその他の縫いぐるみの製造会社、ジャバベカのマテルが撤退するという噂がある。マンモス会社である、もし、撤退という事になれば、各方面への悪い影響は多大である。

また、日本食スーパー、カモメが閉じた、二三か月前から、そういう、噂があった。売る商品が極端に少なくなっていたらしい、もう一か所、一番老舗のコスモも品が少なくなっていることから、閉じるのではないかという噂が消えていない。回想するために仕入れを控えているらしいという人もいるが定かではない、ただ、普通の状態では無いことは、確かのようだ、日本からの輸入の手続きが色々な意味で難しくなっているとも言われている。これは、一般の会社も同じことで、以前のようにスムーズにはいかなくなっている。

フォトPHOTO写真 グラティスGratis只 プアスpuas満足

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(^_-)-☆やってください

2012-12-02 22:23:08 | インドネシア

 1417 大統領、副大統領、大統領の息子、三人そろって、緑を保護しましょう、増やしましょうと、テレブキャンペーンを流している。全てのテレビ局で見ることが出来る。高速道路沿いにも大きな看板で緑化運動の宣伝をしている。木を植えましょう、増やしましょう。そうすれば、空気がきれいになりますと。

 

 そうじゃなくて、インドネシアはゴミを無くす方が先でしょ。ゴミを視界から無くす運動を代々の大統領、一人としてやったという記憶いはない。緑を増やすには木や花を植えればいい、それが、枯れないように保護をすればいい、法律で伐採禁止の森を増やせばいい、レンジャーの取り締まりを強化すればいい。法律で縛ればある程度の効果は上がる、それもできるとは思えないが。

前にも書いたが、ジャカルタやスラバヤのような大都市ではどうにもならないでしょうから、どこかの人口二三万人の小規模都市で実験的にゴミがゼロになるように、モデル都市に指定し、ゴミを無くすにはどうしたらいいか実験したらいいと思う。ゴミの集積所を作ったり、収集車を増やしたり、焼却場の規模を大きくしたり、監視員を増やしたり、その後はリサイクル施設を作ったり、場合によってはISO9000を習得できるように指導を受けたらいいと思う。結局は市民のモラル、意識の問題だから、イスラム教会主導で模範を示したらいい。宣教師自身がゴミを捨てまくっているような社会ではどうしようもないでしょ。マスジッドから“サンパー コソン キャンペーン”をしたらいいと思うが、出来ないでしょうね。

 

セントラ グロシール チカラン(通称SGC、エスゲーセー)コタ チカランの中心的存在。ジャカルタから東に向かう国道沿いの都市です。リッポリカランが開ける前はチカランと言えばこちらでしたが、今では、ここまで来る外国人は非常に少ない。私は偶にジャラン トールを使わないで、チカラン、ジャバデカを通ってリッポチカランに戻ることがある。

 

 コタ チカランまでの道沿いでバイクの違反取り締まりに向かう白バイ。

 的外れ ゴミ キャンペーン

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