南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆何故インドネシア

2012-08-24 22:24:14 | 行動

 1317 50歳で社長を止めて、約束通りに10年前に募集した一人に社長を継いでもらった。その数年前から、50歳になったら、私は社長を止めると、機会ある毎に、関係者に伝えていた。聞く方はあまり、まともに聞いていなかったようで、あれだけ言っておいたのに、無いか問題があるのかと、不安に思った取引先もあったが、私が、押出し研究所にいて、顧問として残ることによって、安心をしてくれたらしい。その時から、お世話になった会社の全てに、東南アジアのどこでもいいから、進出しているか、これから進出する会社で、押出し成型をさせてくれる会社は無いかと、これも、機会がある毎に話した。それから、約二年後に名古屋のK社の社長から、インドネシアに工場を作るが、押出しを中でやってみないかと、打診が来た。その会社とは、私がまだ、会社勤めをしていたころ、25歳のころ、その会社が発展する根本の製品の製作を依頼されて、何とか期待に答えた。その製品を足場にして、急速に拡大して、あれよあれよと言う間に名証二部に上場するまでになってしまった。私が、30歳で独立した時も。どこからか聞きつけて、“早う内に太田君のところに仕事をやってもらうようになるから、そのつもりでいてほしい“いち早く、言ってくれて、約束通りに独立して1年後から、仕事をいただくようになった。それから、20年後、今度は、私が海外へ行きたいと言って社長を止めたのを知って、私のために、機会を提供してくれたのです。

ぜひ、お手伝いをさせてくださいと、いって、社長を止めて、三年半後にインドネシアへ上陸したのでした。着いた場所には、荒涼とした茶色の地面で風が吹くと、マカロニウエスタンのように、砂塵が舞い、枯れ葉の団子が転がっていた。山羊の家族でしょうか、10頭位が、どこかの雑草地へ向かう途中に遭遇した。

 

装置の準備は、その半年前にから始め、私が現地へ入って工場の建設工事が始まり、11月になんとか囲いが出来て、オープニングセレモニーが行われた。その時には装置二ラインが稼働可能になっていた。スイッチオンの儀式に間に遭った。

K社が、日本の下請け(私が勤めていて会社)から、買っていた、毎月600万円くらいの製品(私がその会社で開発した)を現地で生産を始めてしまい、本社に400万円で売った。これだけで、年間2千万円の利益を直ちに、もたらしことになる。勿論、現地には年間1千万円の利益を上げさせた。恩返しとともに、私の目的である、インドネシアにない技術を若者に伝えるということも、現地で日系の会社から次々くる、現地調達ができるようにしてほしいという依頼にも答えながら、着々と、達して行った。

 

一つ残念なここは、その会社の日本人が、私がやることが気に入らなかったのでしょう。私の仕事を理解したり、技術を引き継ごうとする人はいなかった。それどころか、厄介者扱いを受ける良いうになり、私が離れた後、インドネシアから撤退ということになってしまった。

 

私の誇りは、私の技術や考え方を引き継いでいるインドネシア人が3社に分散していて、それぞれが、インドネシアの押出成型の最先端を行っていることです。16年前にインドネシアへ来てよかったと、しみじみ思う。

 

ニュルンベルグで買ったナイキのゴルフシューズ、メイドイン ベトナムです。インドネシアで使っています。2年半で3回目の修理です。

説明しなくても分かります。キャディ達です。なぜか、一人多い。

 

後継ぎ 誇り 足跡


Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« (^_-)-☆何故東南アジア? | TOP | (^_-)-☆これ程でなくても »
最新の画像もっと見る

post a comment

Recent Entries | 行動