2751 安西橋の手前と安西橋の向こう側、安西五丁目と山崎だ。小学校のころ、この道は、真ん中の一車線の広さしかなく、舗装はしてあったと想うが、剥げていた部分の方が多く、ちょっと風が吹けば砂煙が上がっていた。車はほとんど走っていなかったので、アスファルトが残っている場所に座り込んで、眺めの釘と石で、埋まっている釘、入りがね、ねじ等を掘り出し、貯めて、屑鉄屋に持ち込んで小遣い稼ぎをしていた。アルミや銅(赤)や真鍮は高く売れた。リヤカーや大八車が行き交っていて、自転車の後ろにリヤカーを繋げて引っ張っている姿もあった。この通りを塞ぐようにしてラジオ体操をしたし、缶蹴り、水雷駆逐、Sチンなどの遊びをしていた。
安倍川の土手まで500mくらいのところに住んでいて、安倍川には日常的に遊びに行っていて、泳ぎも川に放りこもれて覚えたし、魚釣りや石に下の魚を石をぶつけて取ったり、ぬかビンを仕掛けて取ったりして遊んでいた。時には、安西橋を渡って、大門川、藁科川の方まで遠征し、木枯らしの森付近で泳いだり魚を追いかけたり、ぼったいで魚を捕まえたり、鳥餅でチャッチャ(子供ウグイス)、目白などを捕まえたりしていた。船山にもよく行っていた。蝉やクワガタ、カブトムシは当たり前、アユなの魚やイナゴやドジョウ、蜂の幼虫は食用だった。
その内、砂や砂利の採掘が盛んになり、河原のあちらこちらに、採掘跡の広い深い穴(浅いと思って歩いていると突然深くなってしまっていた)が出来てしまっていて、その穴に落ちて亡くなった子がいて、なんとなく、安倍川で泳ぐことが禁止になってしまったように覚えている。
今の風景、状況からは、想像できないほど、川向う(山崎新田?羽鳥?)は、ど田舎だった。安西橋を渡って向こう側に行くのは冒険だった。大門川で蛍の大群に遭遇した時には、大感激したことを覚えている。安西橋の両岸の下には、昔はコジキと言われていた人たちが住んでいた。そのうちの一人、“ごんじい“に助けられた思い出は忘れられない。
こんなことが原点だったから、インドネシアでの生活は全く苦にならないどころか、快適そのものだ。
故郷 原点 安倍川