引き続き、ギリシャ文化とパウロ書簡との関係を調べている。
現段階でわかったことは、
「パウロの教会観」と「プラトンの理想国家論」との類似性である。
特に、パウロのローマ書12章以下とプラトンの主著「国家」には、
多くの共通点が認められる。
順をおって共通点をあげていくと、下記のようになる。
まず、一なる真理と多なる人間の関係(ενとπoλλα)の問題。
(ローマ書12-3~12-9/国家5巻10章・6巻2章)
次に、真理を信じる人間の倫理観。
(ローマ書12-9~12-16/国家6巻13章)
また、読者に、心の欲望に従わぬように訓戒する言葉。
(ローマ書13-8~13-14/国家9巻1章)
さらには、真理に従う強い者は、弱い者(αστενων)を受け入れるべきだとする結論。
(ローマ書14-1~15-13/国家1巻15章・5巻11章・9巻13章)
最後には、真理にある者は必然的強制(αναγkη)として、真理流布に務めねばならないこと。
(ローマ書15-14~15-33/国家「守護者の任務」)
また、パウロとプラトンの他の書簡・著書による平行記事の共通点も多い。
世から逃れて、真理に化せられよとの主張。
(ローマ書12-1~12-3/テアイテトス176AB)
人間の尺度(μετρos)は神御自身であること。
(ローマ書12-3~12-8/法律4巻716c)
真理にある人間は国法(νoμos)にも従わねばならないこと。
(ローマ書13-1~13-7/クリトン12・13)
強者が弱者を受け入れるところ、そこに神の国(βασiλεiα)があること。
(ローマ書14-1~15-13/ゴルギアス483b~484a)
また、それだけではなく、プラトンが理想国家を語る際に好んだたとえ話、
接木のたとえ、運動競技のたとえ、人間の身体のたとえを、
パウロはその教会観において多用するなど、明らかな類似性が認められる。
ヘレニズム教養人パウロは明らかに、プラトンのある部分に影響されて、
自己の信仰のあり様を語っているのである。
であるから我々は、新約聖書をよりよく理解するために、
深くプラトン哲学、いやプラトン自身を知らねばならないのである。
プラトンという人は、古代ギリシャの偉大な政治家の家系に生まれた人で、
将来は政治家を志していた者である。
それがある時、ソクラテスに出会い、ソクラテスに感化されることによって、
哲学的真理の世界に魅了されることになる。
そして大事件が起こる。
真理をこよなく愛し、国民に広めることに務めたソクラテスが、
他ならぬ国民によって「新奇なる神を導入した者」として、
(プラトン「ソクラテスの弁明」)
裁判にかけられ、死刑となるのである。
プラトンが現実の政治に失望したことは言うまでもない。
そこでプラトンは、アカデメイアという学園を形成し、
執筆と教育によって、真理流布に務めることになるのである。
しかし現実の政治に失望したプラトンであっても、
理想国家をこの世に樹立する夢には抗しきれず、
シラクサの政治顧問になったり、その後も、現実的な政治の世界と結びついている。
すなわち、プラトンにとって理想国家とは、この世で実現できない代物かもしれないが、
あくまでもこの世の現実的な生に密着した、現実的な国家を視野に入れていることだ。
プラトンのこの国家観を、パウロはローマ書12章以下において援用しているのである。
プラトンのいう哲人王をイエス・キリストに見立て、
プラトンのいう守護者をキリスト者に見立て、
(守護者とは善のイデアにのみ従い、善のイデアを知らぬ民衆にそれを告げ、
理想国家の政治を維持する者である)
パウロは、プラトンの理想国家を解釈しているのである。
それは教会という、何かの建物に比したり、どこかの集団に比したり、
見えないキリスト者同士の結束に比したりするものではなく、
この世の教会と国家、この世の宗教と非宗教を貫いて、
来るべき理想国家完成(キリスト再臨)を目指して、
この世の現実的生のど真ん中で成立している代物である。
ローマ書12章以下がプラトンの「国家」に影響されたことを考えると、
2000年間の教会組織とその正当化の歴史は、最大の異端であるということになる。
さて、パウロがプラトン哲学の何に影響されたかは明らかとなった。
同時に、パウロがプラトン哲学の何に影響されなかったかも、我々は調べねばならない。
パウロはプラトンの「国家」の5巻~9巻には影響されているが、
1巻~4巻、及び、最後の10巻には、全く影響されていない。
パウロは1巻~4巻にあるような、人間が真理を自分の力で知り、
自分の力で善のイデアを掴み、それを保持することを、拒否したのである。
(ερosとαγπηの違い)
また、10巻にあるような、正義の報酬は死後の魂への報償にあり、
人間の霊魂は永遠に転生輪廻して、自己の救いを完うするという思想を、
拒絶したのである(エルの物語と死人の復活の違い)。
人間の救いを完うするものは、神御自身である。
人間の救いを始め、保持し、完成させるものは、イエス・キリスト御自身である。
(コリント書Ⅰ15章)
これがパウロの主張なのだから。
現段階でわかったことは、
「パウロの教会観」と「プラトンの理想国家論」との類似性である。
特に、パウロのローマ書12章以下とプラトンの主著「国家」には、
多くの共通点が認められる。
順をおって共通点をあげていくと、下記のようになる。
まず、一なる真理と多なる人間の関係(ενとπoλλα)の問題。
(ローマ書12-3~12-9/国家5巻10章・6巻2章)
次に、真理を信じる人間の倫理観。
(ローマ書12-9~12-16/国家6巻13章)
また、読者に、心の欲望に従わぬように訓戒する言葉。
(ローマ書13-8~13-14/国家9巻1章)
さらには、真理に従う強い者は、弱い者(αστενων)を受け入れるべきだとする結論。
(ローマ書14-1~15-13/国家1巻15章・5巻11章・9巻13章)
最後には、真理にある者は必然的強制(αναγkη)として、真理流布に務めねばならないこと。
(ローマ書15-14~15-33/国家「守護者の任務」)
また、パウロとプラトンの他の書簡・著書による平行記事の共通点も多い。
世から逃れて、真理に化せられよとの主張。
(ローマ書12-1~12-3/テアイテトス176AB)
人間の尺度(μετρos)は神御自身であること。
(ローマ書12-3~12-8/法律4巻716c)
真理にある人間は国法(νoμos)にも従わねばならないこと。
(ローマ書13-1~13-7/クリトン12・13)
強者が弱者を受け入れるところ、そこに神の国(βασiλεiα)があること。
(ローマ書14-1~15-13/ゴルギアス483b~484a)
また、それだけではなく、プラトンが理想国家を語る際に好んだたとえ話、
接木のたとえ、運動競技のたとえ、人間の身体のたとえを、
パウロはその教会観において多用するなど、明らかな類似性が認められる。
ヘレニズム教養人パウロは明らかに、プラトンのある部分に影響されて、
自己の信仰のあり様を語っているのである。
であるから我々は、新約聖書をよりよく理解するために、
深くプラトン哲学、いやプラトン自身を知らねばならないのである。
プラトンという人は、古代ギリシャの偉大な政治家の家系に生まれた人で、
将来は政治家を志していた者である。
それがある時、ソクラテスに出会い、ソクラテスに感化されることによって、
哲学的真理の世界に魅了されることになる。
そして大事件が起こる。
真理をこよなく愛し、国民に広めることに務めたソクラテスが、
他ならぬ国民によって「新奇なる神を導入した者」として、
(プラトン「ソクラテスの弁明」)
裁判にかけられ、死刑となるのである。
プラトンが現実の政治に失望したことは言うまでもない。
そこでプラトンは、アカデメイアという学園を形成し、
執筆と教育によって、真理流布に務めることになるのである。
しかし現実の政治に失望したプラトンであっても、
理想国家をこの世に樹立する夢には抗しきれず、
シラクサの政治顧問になったり、その後も、現実的な政治の世界と結びついている。
すなわち、プラトンにとって理想国家とは、この世で実現できない代物かもしれないが、
あくまでもこの世の現実的な生に密着した、現実的な国家を視野に入れていることだ。
プラトンのこの国家観を、パウロはローマ書12章以下において援用しているのである。
プラトンのいう哲人王をイエス・キリストに見立て、
プラトンのいう守護者をキリスト者に見立て、
(守護者とは善のイデアにのみ従い、善のイデアを知らぬ民衆にそれを告げ、
理想国家の政治を維持する者である)
パウロは、プラトンの理想国家を解釈しているのである。
それは教会という、何かの建物に比したり、どこかの集団に比したり、
見えないキリスト者同士の結束に比したりするものではなく、
この世の教会と国家、この世の宗教と非宗教を貫いて、
来るべき理想国家完成(キリスト再臨)を目指して、
この世の現実的生のど真ん中で成立している代物である。
ローマ書12章以下がプラトンの「国家」に影響されたことを考えると、
2000年間の教会組織とその正当化の歴史は、最大の異端であるということになる。
さて、パウロがプラトン哲学の何に影響されたかは明らかとなった。
同時に、パウロがプラトン哲学の何に影響されなかったかも、我々は調べねばならない。
パウロはプラトンの「国家」の5巻~9巻には影響されているが、
1巻~4巻、及び、最後の10巻には、全く影響されていない。
パウロは1巻~4巻にあるような、人間が真理を自分の力で知り、
自分の力で善のイデアを掴み、それを保持することを、拒否したのである。
(ερosとαγπηの違い)
また、10巻にあるような、正義の報酬は死後の魂への報償にあり、
人間の霊魂は永遠に転生輪廻して、自己の救いを完うするという思想を、
拒絶したのである(エルの物語と死人の復活の違い)。
人間の救いを完うするものは、神御自身である。
人間の救いを始め、保持し、完成させるものは、イエス・キリスト御自身である。
(コリント書Ⅰ15章)
これがパウロの主張なのだから。
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