わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。
わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、
剣をもたらすために来たのです。
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、
嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。(マタイ伝10-34~36)
キリスト者は必然的に憎まれる運命にある。
これは予め、主が述べられた通りである。
最近それを、つくづく実感せざるを得ない。
私が自分の信仰を語るのは、本当に近しい友人かこのブログのみである。
実名を掲載している以上、どうしても周囲に噂が広がる。
周囲はたいてい、筋金入りの無神論者であるから、
私の存在などは大なる疑問物(?)である。
「キリストだの神だの言って、ちょっとおかしな奴だ」
これが私の周囲の人間が抱く本心である。
しかも困ったことに、私は何の宗教団体にも教会にも属さぬ、
いわゆる無宗教主義者であるから、自分を保護すべき組織もなければ、
慰めあう人間関係もない。
そのいい証拠に、去年の4月にブログを公開して以来、
教会信者からの攻撃がいかに多かったことか・・・。
無神論者からは変人と思われ、キリスト教徒からは異端者と思われ、
何とも身の置き場に困る次第である。
無宗教主義キリスト者とは他でもない、敵陣に一人身をさらすようなもの。
私のように、誰よりも馬鹿にされることを嫌う自尊心の塊にとって、
日常生活自体が地獄である。
キリストを語りたくない、しかしそれは、キリスト者の使命に反する。
(マタイ伝10-33)
キリストを語りたい、しかしそれは、周囲に小馬鹿にされることを意味し、
報復行為を否定するキリスト者にとって、それは一種の撲殺に等しい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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しかしそれは、主が告げられた通りである。
キリスト者というのは、キリスト御自身の恵みに与り、
まるで神がなき如く動くこの世に対し、「神はある」という事実に直面した者である。
それが何らかの人間的努力や宗教的詐術によって得たものであれば、
まるでレポーターが事件を客観的に報告するように、
社会と自分を切り離して一人恩恵を楽しむことができる。
しかしただただ主の恩恵によって啓示を与えられた者は、
一人楽しむことは許されていないし、できる筈がない。(マタイ伝10-8)
私は特別天才でもないが、かといって全くの馬鹿でもない。
現代日本でキリストを語れば(キリスト教ではない)、
どのような事態が生ずるか、それぐらいは推測できる。
しかしわかっていても、キリスト者はキリストを告白せざるを得ない。
それが我々の定めである、神より見て最大の喜びであるとともに、
人より見て最大の恥辱である。(マタイ伝10-25)
渋谷のセンター街や新宿の大通りなどで、看板を掲げてキリストを連呼するような者は、
キリスト者の生からすれば、一種の逃避行為である。
自身血を流さずに、血を流している「ふり」をしているに過ぎない。
そこに何の努力も、何の犠牲も、何の苦しみも、何の喜びもありはしない。
キリスト者の生とは、人を愛し、国を愛し、
言葉において行為において、主を告白することである。
それ以外の生は、たとえどんなに高尚な教義を語ろうとも、
たとえどんなに美しい言葉を語ろうとも、たとえどんなに東奔西走しようとも、
キリスト者からキリスト教徒への後退に過ぎない。
兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、
子どもたちは両親に逆らって、彼らを死なせます。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。(マタイ伝10-21・22)
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わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、
剣をもたらすために来たのです。
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、
嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。(マタイ伝10-34~36)
キリスト者は必然的に憎まれる運命にある。
これは予め、主が述べられた通りである。
最近それを、つくづく実感せざるを得ない。
私が自分の信仰を語るのは、本当に近しい友人かこのブログのみである。
実名を掲載している以上、どうしても周囲に噂が広がる。
周囲はたいてい、筋金入りの無神論者であるから、
私の存在などは大なる疑問物(?)である。
「キリストだの神だの言って、ちょっとおかしな奴だ」
これが私の周囲の人間が抱く本心である。
しかも困ったことに、私は何の宗教団体にも教会にも属さぬ、
いわゆる無宗教主義者であるから、自分を保護すべき組織もなければ、
慰めあう人間関係もない。
そのいい証拠に、去年の4月にブログを公開して以来、
教会信者からの攻撃がいかに多かったことか・・・。
無神論者からは変人と思われ、キリスト教徒からは異端者と思われ、
何とも身の置き場に困る次第である。
無宗教主義キリスト者とは他でもない、敵陣に一人身をさらすようなもの。
私のように、誰よりも馬鹿にされることを嫌う自尊心の塊にとって、
日常生活自体が地獄である。
キリストを語りたくない、しかしそれは、キリスト者の使命に反する。
(マタイ伝10-33)
キリストを語りたい、しかしそれは、周囲に小馬鹿にされることを意味し、
報復行為を否定するキリスト者にとって、それは一種の撲殺に等しい。
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しかしそれは、主が告げられた通りである。
キリスト者というのは、キリスト御自身の恵みに与り、
まるで神がなき如く動くこの世に対し、「神はある」という事実に直面した者である。
それが何らかの人間的努力や宗教的詐術によって得たものであれば、
まるでレポーターが事件を客観的に報告するように、
社会と自分を切り離して一人恩恵を楽しむことができる。
しかしただただ主の恩恵によって啓示を与えられた者は、
一人楽しむことは許されていないし、できる筈がない。(マタイ伝10-8)
私は特別天才でもないが、かといって全くの馬鹿でもない。
現代日本でキリストを語れば(キリスト教ではない)、
どのような事態が生ずるか、それぐらいは推測できる。
しかしわかっていても、キリスト者はキリストを告白せざるを得ない。
それが我々の定めである、神より見て最大の喜びであるとともに、
人より見て最大の恥辱である。(マタイ伝10-25)
渋谷のセンター街や新宿の大通りなどで、看板を掲げてキリストを連呼するような者は、
キリスト者の生からすれば、一種の逃避行為である。
自身血を流さずに、血を流している「ふり」をしているに過ぎない。
そこに何の努力も、何の犠牲も、何の苦しみも、何の喜びもありはしない。
キリスト者の生とは、人を愛し、国を愛し、
言葉において行為において、主を告白することである。
それ以外の生は、たとえどんなに高尚な教義を語ろうとも、
たとえどんなに美しい言葉を語ろうとも、たとえどんなに東奔西走しようとも、
キリスト者からキリスト教徒への後退に過ぎない。
兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、
子どもたちは両親に逆らって、彼らを死なせます。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。(マタイ伝10-21・22)
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宮内兄弟よ、主は毒麦でさえ抜き取らぬようにと言われます。兄弟たちの裁きは最後の日に委ねようではありませんか。その時には金銀宝石以外は皆燃えてしまうのですからね。