キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

エクレーシアの本質

2011-08-21 17:45:49 | 聖書原典研究(共観福音書)
二人または三人がわたしの名によって集まるところには,
わたしもその中にいる。
(マタイ伝18-20/新共同訳)



この箇所の原文は,「二人または三人が集まる」という文と,

「わたしがそこにいる」という二つの文が並置されている。

しかし,どちらが時間的に先行する文であるかは,明確に規定されていない。

つまり,訳し方には二通りあるということだ。

日本語訳聖書のように,

「二・三人が集まる」→「イエスがそこにいる」という順序で訳して,

キリスト者が集まればイエスもそこにいて,キリスト者の集まりがエクレーシアだ,という解釈。

もしくは,「イエスがそこにいる」→「二・三人が集まる」という順序で読み,

イエスがいるところ人々が集まり,そこにエクレーシアができる,という解釈。

果たして,どちらが福音書記者マタイの本心に適っているのだろうか?


結論から先に言うと,正しい把握の仕方は,後者である。

すなわち,二・三人が集まれば,第三・第四の者としてイエスが来るのではなく,

イエスがいるところ,そこに,人々がイエスに導かれて集まる。

そこがエクレーシアだ,というのが,福音書記者マタイの本心である。


根拠①
この箇所の強調文は「イエスがそこにいる」だから,そこを優先的に訳すべきこと。
この箇所は「なぜなら(γαρ:ガル)」で始まる理由の文であり,
「二・三人が集まる」という内容の文は,前文にもあるから,
マタイが理由・強調として挙げたのは,むしろ「イエスがそこにいるであること。


根拠②
「イエスもそこにいる」の「も」という語句は存在せず,
「そこに(εκει:エケイ)」という語句の存在によって,
文の流れは明確に後者に重きが置かれていること。


根拠③
他の写本(D写本)には,「イエスがいなければ,二・三人でさえ集まることができない」
というものがあり,この異読の存在が,本来の意味内容の解説的改変であると観るから。


エクレーシアの本質は,人間ではなく,イエスである。

イエスいるところ,そこがエクレーシアであり,

イエスその人が,ある意味でエクレーシアである。

逆に言えば,誰も,何者も,

「我らのグループのみがエクレーシア(教会)だ」ということを,

言うことはできないのである(使徒行伝におけるルカの意図を鑑みよ)。


どの教会にもどの宗教団体にも属さず,

誰一人,実生活においてキリスト者との交わりを持たない私に対しても,

誰も,何者も,「汝はエクレーシアの一員に非ず」と言うことはできない。

逆に言えば,どんな教会,どんな集団に属している人に対しても,

私が,「汝は真のエクレーシアの一員に非ず」と言うことはできないし,言ってはならない。


ただ全ての人は,イエス・キリストの十字架において救われる予定にある者として,

イエス・キリストに繋がることでしか,他人に関与することはできないのである。



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