キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

基礎福音書

2010-02-07 12:40:41 | 聖書原典研究(パウロ書簡)
2009年はパウロ・ヨハネ書簡の原典読解を進めてきたから、

2010年は共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)の研究を予定していた。

しかし、年末年始に再読していたギリシャ哲学(プラトン・アリストテレス)に、

パウロ書簡の言語使用との類似性がわかってから、

今はもっぱらギリシャ哲学の再読をしている。

アリストテレスの主著(「形而上学」や「政治学」)と

プラトンの前期・中期著作(「ソクラテスの弁明」から「国家」まで)の再読を通して

わかったことを、書きたいと思う。


フィシス(φiσis)とノモス(νoμos)という言葉がある。

現代では「自然法(φiσis)」と「人為法(νoμos)」と訳される言葉で、

主に法律用語として用いられる言葉である。

しかしこのフィシスという言葉は、もともと古代ギリシャの哲学用語であって、

最初期の哲学者たち(タレスやエンペドクレス)が、

神話の世界で真理とされていた事柄に対して、
(ホメロス・メシオドスの世界観)

自分たちはあるがままの客観的な真実在を追求するのだ、

真理そのものを追究するのだ、という意気込みで用い始めた言葉である。

すなわちフィシスとは、真理という意であり、そこから転化して、

最初期の哲学者たちが水や火や土を万物の根源と考えたから、

自然や本性という意にも用いられ、

ラテン語に翻訳される際には自然という意のnatureに訳されたのである。

すなわちパウロ当時の意味としては、フィシスとは真理であり、

その対立概念であるノモスとは人間が人為的に構成した法を意味していた。

そして古代ギリシャ文化の主要テーマがこの「フィシスとノモスの対立」なのである。
(それは哲学は言うに及ばず、悲劇や喜劇の主要テーマでもあり、
場合によっては医学や歴史の主要概念でもあった)


哲学においては、真理そのもの(φiσis)と人間世界の法(νoμos)の関係が問題とされた。
(読者はよろしく、プラトン「国家」とアリストテレス「政治学」を参照せよ)

悲劇においては、神の正義・運命(φiσis)と人間の正義(νoμos)の矛盾が指摘された。
(読者はよろしく、ソフォクレスやアイスキュロスの悲劇を味読せよ)

医学においては、自然的な本性(φiσis)と人為的な手法(νoμos)が問題とされた。
(読者はよろしく、ヒポクラテスの医学書を確認せよ)

そしてこのフィシスとノモスの対立において、当時特に強調されていた問題点が、

実はローマ書12章以下においては論及されているのである。

ローマ書12章以下は通常、キリスト信者の倫理や教会のあり様を語っていると解釈されているが、

パウロは明らかにフィシスとノモスの対立を念頭においている。


まず、ローマ書12章においては、神の正義(φiσis)と人の正義(νoμos)を形作る人間との関係、

すなわち一と多の問題が指摘されている。

真実そのものである真理と虚偽なる人間の関係如何?

これプラトンもアリストテレスも固執した問題である。
(プラトン「テアイテトス」「国家」、アリストテレス「形而上学」)

一と多の問題の本質は、何が万物の尺度であるかということである。

当時のギリシャ世界では、「人間が万物の尺度(μετρos)である」とされていたが、

プラトンは「神こそ万物の尺度(μετρos)である」(プラトン「法律」)と主張した。

そのプラトンに呼応するかのように、パウロは12章において主張する。

イエス・キリストが万物の尺度(μετρos)であり、人間はキリストによって生き、

キリストによって一体となることを許されている、と(12-4)。


次にローマ書13章において、真理(φiσis)と法律(νoμos)の関係が指摘される。

当時主張されていたのは、真理(φiσis)を体現した者は、

この不完全なる法律(νoμos)を超越することができる、だ。

法律(νoμos)というものは、弱者が強者を妬んで、強者を縛るために制定したものである。

故に自然の正義(φiσis)を体現した強者は、弱者の制定した法(νoμos)を無視し、破棄し、

弱者を支配して搾取してもよい、という思想である。
(プラトン「ゴルギアス」カリクレスの正義論)

この思想にニーチェは感動し自身の超人哲学を発表してヒトラーを思想的に準備し、

この問題に答えるためにドストエフスキーは「罪と罰」を執筆した。

しかしプラトンは言う、「真理を体現した強者こそ法を完うすべきである」と。
(プラトン「クリトン」擬人化された国法の主張)

そのプラトンに呼応するかのように、パウロは言う。

真理であるイエス・キリストに従う者は、この世の法を遵守し完うせねばならない、と。


最後にローマ書14・15章において、パウロは究極の問題に突入する。

すなわち真理と人間の法の矛盾の、究極の問題。

すべての人間は、その外面、その受けてきた教育・教養・地位・社交辞令をひっぺがえせば、

二つのうちのどちらかの人間に帰着する。
(プラトン「ゴルギアス」カリクレスの主張)

上記の強者の論理の下に生きるか、強者が弱者のために犠牲となる論理の下に生きるか?

プラトンは言う、「強者こそ弱者のために生きねばならぬ」と。
(プラトン「国家」「ゴルギアス」)

そのプラトンに呼応するかのように、パウロは言う。

弱者が強者を妬んで縛ることも、強者が弱者を支配し搾取することも、

どちらもイエス・キリストにある真理ではない。

キリストが人間のために身を捧げたように、

真理(φiσis)を知る強者こそ弱者のために犠牲となり、

己の哲学、己の神学、己の利益を犠牲にして、弱者を受け入れねばならない、と。


とにかくわかったことは、パウロはローマ書12章以下において、

倫理や組織論を語りたいのではなく、神の真実(φiσis)そのものを語っているということ
だ。

ヨハネ福音書記者がイエスと同等の意味に用いた真実(アレーテイア)と、

パウロが用いている真実(フィシス)とは、ギリシャ文化に照らし合わせれば、

同じ意味内容である。

すなわち、ローマ書とは、人間が如何にして救われるかを論述した手紙ではなく、

神の真実(φiσis)なるイエス・キリスト御一人のみを語らんとした、

パウロの福音書であるといえる。

私は思う、新約聖書において最初に記述されたのはパウロ書簡であり、

そのパウロ書簡に影響されて福音書が形成されてきたことを考えれば、

パウロの主著たるローマ書は、福音書中の福音書、

基礎福音書とでも称すべきものではないかと。


どちらにせよ、2000年前の人間の信仰を読んでいるのである。

現代人の感覚-心と体を分ける二元論、信仰と倫理を分ける二元論-によって、

古代人の著作を解釈してはならないと思うのである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿