イエスは言われた。
「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、
神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」
(マルコ伝9-1/新共同訳)
この箇所を読んで、こう言う人々がいる。
「イエスは自分が死ぬ前に、神の国が来ることを信じていた」とか、
「使徒ヨハネの愛の思想は、キリスト再臨まで至るほど重要だ」とか。
まったくの誤解である。
原典を読解せずに、あまりいい加減なことを言わない方がよい。
言葉は、言葉のみによって判断してはならない。
例えば、「あなたは善い人だ」という言葉の意味を探るにしても、
相手が正しく憐憫に富む人間か、それとも、悪しく傲慢な人間かによって、
随分とその意味は変わってくる。
相手が正しい人間であれば、その言葉は誉め言葉になるが、
相手が悪しき人間であれば、その言葉は強烈な皮肉となる。
言葉は人間と人間との間に介在するものであれば、
どういう文脈で、どういう人々に言われたものであるかが重要なのだ。
まず、言葉の意味から確認しよう。
「決して死なない」と訳されている箇所は、本来、
「決して死を味わわない(γευσωνται θανατου)」と訳すべき箇所である。
「死を味わう」とは、肉体的に死ぬことではなくして、
自分(ψυχη)を捨てることを意味する。
すなわち、肉体的生命が尽きることではなく、
イエスの如く十字架を負うことを意味する。
次に、誰に対して言われたものであるか?
マルコ伝の文脈からすれば、イエスの十字架を負わずに、
その栄光だけ手に入れようと欲する使徒たちに言われている。
現に、この文章の前には、ペテロの権威主義が強烈に批判されている。
とすれば、この箇所は、強烈な皮肉として読むべきだ。
ここに立っている人々のある者は、神の国を見るまで、
決して死を味わわないだろうよ!
(マルコ伝9-1/私訳)
己が十字架を負わずに、
すなわち、自分の主義を殺して、弱い者、小さい者を受け入れずに、
神の国に入ったと錯覚する者がいる。
イエスの十字架を知り、罪を赦されながら、
それでいて、イエスの跡に従わんと欲しない人々に対する、強烈な皮肉である。
あんた方はわたしを信じて神の恵みを知りながら、わたしの杯を飲まない。
わたしの恵みを知ったならば、あなた方は必然的にわたしの十字架を負っただろう。
すなわちあんた方は、わたしを信じたのでも、神の恵みを知ったのでもなく、
自分の都合のいいように、わたしを利用しているに過ぎないのだ。
そう、マルコ伝のイエスは言っているのである。
「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、
神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」
(マルコ伝9-1/新共同訳)
この箇所を読んで、こう言う人々がいる。
「イエスは自分が死ぬ前に、神の国が来ることを信じていた」とか、
「使徒ヨハネの愛の思想は、キリスト再臨まで至るほど重要だ」とか。
まったくの誤解である。
原典を読解せずに、あまりいい加減なことを言わない方がよい。
言葉は、言葉のみによって判断してはならない。
例えば、「あなたは善い人だ」という言葉の意味を探るにしても、
相手が正しく憐憫に富む人間か、それとも、悪しく傲慢な人間かによって、
随分とその意味は変わってくる。
相手が正しい人間であれば、その言葉は誉め言葉になるが、
相手が悪しき人間であれば、その言葉は強烈な皮肉となる。
言葉は人間と人間との間に介在するものであれば、
どういう文脈で、どういう人々に言われたものであるかが重要なのだ。
まず、言葉の意味から確認しよう。
「決して死なない」と訳されている箇所は、本来、
「決して死を味わわない(γευσωνται θανατου)」と訳すべき箇所である。
「死を味わう」とは、肉体的に死ぬことではなくして、
自分(ψυχη)を捨てることを意味する。
すなわち、肉体的生命が尽きることではなく、
イエスの如く十字架を負うことを意味する。
次に、誰に対して言われたものであるか?
マルコ伝の文脈からすれば、イエスの十字架を負わずに、
その栄光だけ手に入れようと欲する使徒たちに言われている。
現に、この文章の前には、ペテロの権威主義が強烈に批判されている。
とすれば、この箇所は、強烈な皮肉として読むべきだ。
ここに立っている人々のある者は、神の国を見るまで、
決して死を味わわないだろうよ!
(マルコ伝9-1/私訳)
己が十字架を負わずに、
すなわち、自分の主義を殺して、弱い者、小さい者を受け入れずに、
神の国に入ったと錯覚する者がいる。
イエスの十字架を知り、罪を赦されながら、
それでいて、イエスの跡に従わんと欲しない人々に対する、強烈な皮肉である。
あんた方はわたしを信じて神の恵みを知りながら、わたしの杯を飲まない。
わたしの恵みを知ったならば、あなた方は必然的にわたしの十字架を負っただろう。
すなわちあんた方は、わたしを信じたのでも、神の恵みを知ったのでもなく、
自分の都合のいいように、わたしを利用しているに過ぎないのだ。
そう、マルコ伝のイエスは言っているのである。