キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

イエスの皮肉

2010-08-30 17:03:26 | 聖書原典研究(共観福音書)
イエスは言われた。
「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、
神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」
(マルコ伝9-1/新共同訳)



この箇所を読んで、こう言う人々がいる。

「イエスは自分が死ぬ前に、神の国が来ることを信じていた」とか、

「使徒ヨハネの愛の思想は、キリスト再臨まで至るほど重要だ」とか。

まったくの誤解である。

原典を読解せずに、あまりいい加減なことを言わない方がよい。


言葉は、言葉のみによって判断してはならない。

例えば、「あなたは善い人だ」という言葉の意味を探るにしても、

相手が正しく憐憫に富む人間か、それとも、悪しく傲慢な人間かによって、

随分とその意味は変わってくる。

相手が正しい人間であれば、その言葉は誉め言葉になるが、

相手が悪しき人間であれば、その言葉は強烈な皮肉となる。

言葉は人間と人間との間に介在するものであれば、

どういう文脈で、どういう人々に言われたものであるかが重要なのだ。


まず、言葉の意味から確認しよう。

「決して死なない」と訳されている箇所は、本来、

「決して死を味わわない(γευσωνται θανατου)」と訳すべき箇所である。

「死を味わう」とは、肉体的に死ぬことではなくして、

自分(ψυχη)を捨てることを意味する。

すなわち、肉体的生命が尽きることではなく、

イエスの如く十字架を負うことを意味する。

次に、誰に対して言われたものであるか?

マルコ伝の文脈からすれば、イエスの十字架を負わずに、

その栄光だけ手に入れようと欲する使徒たちに言われている。

現に、この文章の前には、ペテロの権威主義が強烈に批判されている。

とすれば、この箇所は、強烈な皮肉として読むべきだ。


ここに立っている人々のある者は、神の国を見るまで、
決して死を味わわないだろうよ!
(マルコ伝9-1/私訳)


己が十字架を負わずに、

すなわち、自分の主義を殺して、弱い者、小さい者を受け入れずに、

神の国に入ったと錯覚する者がいる。

イエスの十字架を知り、罪を赦されながら、

それでいて、イエスの跡に従わんと欲しない人々に対する、強烈な皮肉である。

あんた方はわたしを信じて神の恵みを知りながら、わたしの杯を飲まない。

わたしの恵みを知ったならば、あなた方は必然的にわたしの十字架を負っただろう。

すなわちあんた方は、わたしを信じたのでも、神の恵みを知ったのでもなく、

自分の都合のいいように、わたしを利用しているに過ぎないのだ。

そう、マルコ伝のイエスは言っているのである。


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