もう何人もの人にいってることだが、俺はとりあえず自分の寿命を50年としたい。そっから逆算して人生設計をし、「今」を形作ろうとしているんだが。
そう考えると、自分の見るもの(in)、聴くもの(in)、聞くもの(in)、話すこと(out)、表現するもの(out)、読むもの(in)…すべての輪郭がはっきりして、「生の充溢」とでも呼ぶべきものを感じられる。一瞬一瞬が貴重になる。会う人一人一人が大切になる。こうした生きかたを、自分のなかで「刻む」と名づけている。
よく人から俺は「生き急いでいる」と言われるが、この「刻む」行為に一生懸命(一所ではない)になっているからだと思う。あと、一点指摘したいのは、こうした俺の性向は「生き急いでいる」というよりも、「死に急いでいる」のだ。後者の呼び名のほうが自分のなかではしっくりくる。言いなおせば、「緩やかに死んで行く」のだ。
人間誰しもが人としての終焉の一点に向けて「緩やかに死んで行っている」。そのことを自覚すると非常におもしろい、と俺は思う。自分のなかに注入する、例えば「情報」「飲食物」などの外的諸物のいちいちを消化して行く過程で、消化しきれないカスみたいなものが体の中に蓄積していって、ある飽和点を、その沈殿物が越えたとき・・・が死ぬ時なんだな…と実感できる。
初めて目にする光景、今日飲んだビール、聴くと癒される曲、笑える話…そうしたものの残りカスで体を満たされ、窒息死する俺!
死因は自殺か、他殺か、ガンかエイズか心筋梗塞か…わからないけど、その飽和点を迎えるのが50歳。そう設定したい。
もし、50歳以上生き延びることになったら、それを俺は(俺のなかでだけ)「脱皮」と呼んで、世界との関係を再構築したいと考えている。
ということで、今日は「ロストチルドレン」(ジャン・ピエール・ジュネ)の続きを観て、酒を飲み、「症例A」を読みながら渋谷に出かけ、酒飲んだり踊ったりバカ話したりする予定。とりあえず最近身の回りで悲しいことが一件あったので、その消化に努めたい。
死期が50歳より早まったら「事故」または「想定外」と呼ぶか。