OT園通園日記

車椅子生活の母を老人ホームへ訪ねる日々。でもそればかりではいられない!日常のあれこれを書いています。

歩道の哲学

2007年06月11日 | 母のこと
母の車椅子を押して散歩に出かけるようになってから、気がついたことがある。
それは、「歩道が誰のため、何のためにあるのかという哲学」が、存在していないということ。
描写能力に乏しい私の文章できちんと説明ができるかどうか、うまく表現できるかは疑問だけれど、書いてみよう。

母との散歩道は、両側に歩道のある片側一車線の道路。
路線バスも走っているし、渋滞することはないけれど、まあそこそこの交通量はある。
道路の脇には、住宅があったり、川が流れていたり、事務所や店舗があったり、そしてなんと畑や休閑地もある。
バス停が2箇所(上り下りで4箇所になる)、信号のある交差点も3箇所あって、散歩の時には、横断歩道を5回渡るのがいつものコースである。

歩道というのは、文字通り、道路の人が歩くための部分ということで、造られたのだろう。
ところが、この頃では、この歩道を自転車も通行する。
また、「バリアフリー」という思想も多少は広まっているからなのか、歩道の段差は、ほとんど解消されている。
多分、自転車ならば、母が通っている道の歩道を、あまり不便を感じないで通行できているかもしれない。

でも、車椅子となると、話は違ってくる。
基本的に20cm位の高さがある(法で高さが定められているのだろうか?)歩道だが、道が交差しているところ、住宅や店舗・駐車場への入り口などはすべてスロープにして、道路との段差が解消されている。
車が出入りするには、このスロープはとても便利(ガッタンとならずに車の出入りができる)。
でも、この段差解消のスロープが連続して現れると、車椅子を押すのはとてもたいへんである。
介助者が居るので何とか通行できているが、一人で町歩きする車椅子使用者にとっては、通行不可能な急なスロープも存在しているように思う。
そうでなくても、短い距離の中で、上ったり・下ったりの連続は、乗り心地のよいものではない。
それほどたくさんのスロープが連続して現れるのだ。

今述べたのは、道路に平行して造られたスロープ。
駐車スペースが道路に面している所では、道路から直角にスロープが造られているところもある。
こういうところでは、車椅子が斜めに傾く。
歩道が広ければ、斜度が緩やかになるのかもしれないが、かなり急な斜度になっている所も存在する。(傾きが急だと、車椅子の進行方向が狂いがちでこわい!→道路にはみ出していきそうになる)

また、歩道への駐車によって、車道を通らなければならないことも時々ある。
人は通れても、車椅子が通行するには、幅が不足してしまうのだ。
車道で車椅子を押すことは、通行している車にも迷惑だと思うが、押している私も、車椅子に乗っている母も、とても怖い。
工事中の建物がある現場の脇の歩道では、たいてい工事関係の車が駐車していて、「ここは歩道?それとも駐車場?」と疑問に感じるほどだ。
歩いて通るだけならば、また、自転車ならば、それほど不自由を感じないこんな些細な事も、幅と重量のある車椅子だと、いろいろなところで不自由を感じるものらしい。

で、「哲学」の話。
つまり、歩道は誰のためにあるの?ということ。
「とりあえず車の通行から、歩行者や自転車などを切り離しておけば、安全だ」と安易に造られた歩道で良いのかしら?
今はまだ高齢社会の入り口だけれど、これからどんどん年寄りが増え、体の自由が利かない人たちが出歩く機会が増えていく中で、そろそろ「歩道」についても、考えをあらためても良いのではないだろうか。
歩道の高さ・スロープの斜度等々、専門家を含めて、みんなで考える場が欲しいと思う。

最後にひとつ、良いご報告も。
歩道で行き合う自転車の小学生、皆とても気を遣って、母に道を譲ってくれる。
そしてたいていの場合、きちんと挨拶もしてくれる。(母は子どもが話しかけてくれるのをとても喜ぶ!)
駐車車両のために上手く通れなくて困っているとき、通りがかりの人がわざわざ戻ってきて、「お手伝いしましょうか?」と声を掛けてくれる。
人のやさしさや思いやりは、まだまだ捨てたものではありません。
そういうやさしさを、街造りのハード面にも活かして行けたら、暮らしやすい町ができるかもしれない。