橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

地方再生幻想〜地方物産のセレクトショップ(一部加筆・色かえ部分)

2016-01-24 18:04:06 | Weblog

夕方、昨年末浅草にできた日本中の物産を集めた商業施設に立ち寄った。今夜は雪が予想されたからか、まったく混雑しておらず、余裕を持って見てまわれた。

東京五輪にむけた観光立国ブームとか、地域振興とか、クールジャパンとか、そんなこんなで、ここ数年の間にこうした商業施設がいくつも誕生したが、五輪までまだ4年を残して、こうした施設も曲がり角に来ていると感じる…。そんな私は間違ってんだろうか??

上記で「地域振興」という言葉を使ったが、こうした商業施設が地域振興に寄与することはあるのか…。以前は私もこうした方法はありかと思っていたのだが、結局、売れるのはそのテナントに入っている店だけであり、その店はすでに地方で成功していて、極端なことを言えば、これ以上宣伝せずともやっていける店ばかりである。舶来ものと老舗ばかりを集めたテパ地下となんら変わらない。地方物産という言葉に付加価値があり、消費者に訴求するから、新たな商業施設の一形態として採用されているにすぎないと思う。

それに、全国からちょびちょび集めたこうしたセレクトショップは、いまや不動の人気を誇る北海道物産展のような爆発力とインパクトに欠ける。イベントとして短期決戦という緊張感も無い。
さらに、観光地という一見の客の多い立地では、それぞれの商品も漠然とした印象しか残せないのではないだろうか。

さらに根源的なことを言えば、食べ物は地産地消がいいと言いながら、都会までパッケージングして(時には添加物を付加して)、送料かけて運んで来ているという矛盾…。あまりのテナント料の高さに、それって誰が潤ってんだ…とも思う。聞けば、店舗によっては100万円単位のテナント料になるらしい。それが商品価格に乗せられていると思うとクラクラする。もちろん、デパートやスーパーとて同じことだが、それも含めて、流通というものが生んだ矛盾について考えさせられる。

地方のものがその地方でちゃんと消費されれば、地方の経済もそれなりに廻るはずで、地域振興など必要ない。そうならないのは、地方に進出した大企業の商品が地方の需要を奪ったからだ。全国展開する大手スーパーマーケットに並ぶ野菜は、地元産のものも無くはないが、多くは、よその大規模生産地からトラックで運ばれて来たものだ。

大企業が作るバラエティと利便性に富んだ加工食品の魅力に抗えなかったのも事実だ。今ごろになって、地方の小さな菓子メーカーの素朴なお菓子に注目したりしているが、もはやここまで大量生産大量消費の仕組みが盤石になっては焼け石に水の感もある。

地方の人々が地元のものを買わなくなったせいで、都会で売らないとやっていけなくなっているのが今だ。そして、都会の商業ビルのテナントに入り、今度は高いテナント料をとられている。もちろん、都会で宣伝出来たことで成功する店もあるだろう。けれど、それが地元にトリクルダウンをおこすほどの大成功に繋がることはほとんどない(と思う)。結局は選ばれしものだけが潤う。

地方再生の一番の近道は、地方の人達が地元の良いものを自分たちで買うことだ。しかし、中央にいろんな形で吸い上げられ、収入の減った地方の人々には、地元で伝統的な手法で作られる手間のかかった商品は高嶺の花となっている。

でも、地方の年寄りって、年金溜め込んでたりするんだよね。そういうお年寄りに言いたい。みなさんが率先して地元の現役世代の作る生産物を買うべきです。年寄りよ大志を抱け。墓には持って行けないお金。最後に地元のために使ってはいかがでしょう。

地方の小さな商店街がシャッター商店街となり、車の運転ができないお年寄りが買物難民になっているとも聞きます。やはりここは地元密着の個人商店が集まった、歩いて行けて、御用聞きにも来てくれる地元商店街の新たな形が模索されるべきなんじゃないでしょうかね。

とはいえ、東京で地方のいろんな食べ物や工芸品を手に取れるのは嬉しいことでもある。テナントのお店の方が潤うなら、これもこれでいいと思う。言いたいのは、くれぐれもそれがその地方全体の再生につながるとか考えない方がいいということで、そこに補助金とか出さないほうがいいんじゃないかってことだ。みなさんはどう思います?


「長くなるのでまたにする。」

2016-01-24 17:20:43 | こじらせ人生
「長くなるのでまたにする。」
考えてみれば、こんなことばっかりだ。
話そうとすると、やっぱり長くなりそうで、ふにゃらむにゃら…。世の中はかくも複雑。公私さまざまな事情にまみれる。
宮沢章夫節健在。
装丁イラストの上路ナオ子さんとのコンビは村上春樹と安西水丸のコンビを思わせる。文章にもイラスト添えて欲しかったなあ。

そうだ、村上春樹&安西水丸といえば、「ランゲルハンス島の午後」というエッセイ集を再読した。

この「ランゲルハンス島の午後」の話しは、私の中では遠いところでこんな新聞記事と繋がっていたりするのだが、それはやっぱり、長くなるのでまたにするのだった。
 
 

 


雑誌「ku:nel」が50代女性向けにリニューアルしたというので買ってみた

2016-01-22 04:12:03 | メディア批評

マガジンハウスの雑誌「ku:nel(クウネル)」のリニューアルがスゴいことになっております。Amazonのレビューはほとんどが★1つ。全く違う雑誌になってしまったと既存のファンが嘆きまくり、酷評が続いています。わざわざ、こんなこと書かなくてもいいのですが、私も買って損した〜と思っちゃったので、思わず投稿してしまっております。

でも、この反応は編集部も織り込み済みなのかもしれません。リニューアル担当者は、もともとの「ku:nel」なんて「しゃらくせえ」くらいに思ってたんだろうなあ…というのが、ページの隙間に垣間見えるような誌面でした。

もとの「ku:nel」のコンセプトは「ストーリーのあるモノと暮らし」でしたが、リニューアル後は「自由に生きる大人の女性へ」にチェンジ。「モノの物語」がどうこうよりも、それを使う「私の物語」のほうこそが大切なようです。特集は「フランス女性の生活の知恵」。パリ在住の熟年女性数人の暮らしが特集されています。

ところで、ここ10年ほどは、旧ku:nelをはじめとして、モノにストーリーを見いだす、「大事に暮らす系」の雑誌が全盛でした。しかしここへきて、それもちょっと翳りを見せ始めています。そもそもは、大量消費に辟易した人たちが、ひとつひとつのモノの背景を大切にしたいと思った結果、”ストーリー語り”に行きついたわけですが、いつのころからか、売れるためにはストーリーがないとね、なんて言われるようになり、気がつけば、もうお腹いっぱい。家中、ストーリーだらけで重いっすって感じになってきておりました。私もモノの背景には興味があるものの、「しゃらくせえ」と言いたくなる気持ちも分かります(誰も言ってないって)。

そして、2016年大寒。
そんなしゃらくささを払拭し、大人の女が「これがカッコいい生き方なのよ!」とズバンと言ってくれるならと、どうリニューアルされるか楽しみにしておりました。現代の「自由に生きる大人の女性」をどう表現してくれるのかも見てみたかったですし。

しかし、そこにあったのは、結局「自由な大人の女性の物語」ではなく、モノのオンパレード。フランス女性の暮らし紹介においても、彼女たちが何食ってるだの、何使ってるだの、モノの固有名詞が並びます。結局「私の物語」は「モノ」という登場人物によって語られる…。そして、そのモノたちには、もはやストーリーもありません。結局、バブルの味をしめた世代は「モノの記号」の組み合わせでしか、物語を語れないのか…そんな落胆を感じました。

文中には「こだわり」という言葉や、「祖母の仕事を見ていたので…」とか「日々の小さなことに幸せをみつける」みたいな言葉が散りばめられ、かろうじて「ku:nel」っぽさを醸そうとしています。しかし多分、旧ku:nelファンからは「そういうことじゃない!」と言われてしまうのでしょう。あまりにもありがちな表現すぎて、そういう常套句から、自立したフランス女性の生き方は伝わってこないのでした。全体的に、取材者が自分なりの視点を持って取材していると思えないところが、一番痛いところかもしれません。

今や日本人女性の多くにとって、フランス人女性の素敵な生き方ってどうなの…という疑念もわきます。フランス女性をお手本にするのって、私などにとってはちょっと小っ恥ずかしいのでありますが、多くのアラフィフ女性はどうなんでしょうか。それに、フランスもテロが起こったりして、なかなか大変そう。そういうことすっ飛ばして、素敵…と言ってるのも、なにかしっくりきません。

とかなんとか、いろいろ文句を言ってしまいましたが、結局一番不満なのは誌面にパンチがないこと。せっかく、「自由に生きる大人の女性」に向けて発信することにしたのですから、もっと自由な誌面にしてほしかった。自由を象徴する「冒険」とか「知的好奇心」みたいなものがまるで感じられないのです。結局、50過ぎたら魯山人かい…。また肩を落とします。

オザケンやオーケンが常連だった「オリーブ」読んで大人になった今のアラフィフは、バブルというモノのシャワーに、知的好奇心も冒険心もアナーキーさも流されちまったんでしょうかねえ。
オザケンもオーケンも紆余曲折を経て、また昔とは違ういい味出してるっていうのに…。

50女に自由を!

そういえば、私物の骨董の器を紹介するコーナーがあって、5人の女性が採り上げられていましたが、5人とも肩書きがあるだけで、プロフィール紹介も顔写真も載っていない。で、その5人の最初を飾るのが、「主婦の秋元麻巳子さん」。主婦…。結局、この顔写真もプロフィールも明かさない人選が今号でもっともインパクトがあったかもしれません。まみこもう50なのか…。

ながくてすいません。
780円もしたんで、つい愚痴が多くなりましたw

私だったら「オザケンの反グローバルライフ in NY」とか
「オーケンのオカルト社会学」とか、「戦うファッションの系譜by川久保玲」とか連載してもらいたいです!スポンサーつかないと思うけどww

 
 
 

何だか変だ〜SMAP独立を助けるSEALDsは現れないのか

2016-01-20 04:17:11 | Weblog

SMAP騒動は、月曜夜のテレビ緊急会見でピークに達した。お通夜のような異様な雰囲気の会見だった。苦渋を浮かべ、憔悴して「謝罪する」4人。もはやSMAPの解散などどうでもいい。見ていた人はまた別の不安に襲われたはずだ。木村拓哉を除く4人は今後、これまで通りの芸能活動ができるのか…、まるで針のむしろの上を歩くような日々が始まるのではないか…。

テレビやスポーツ新聞など大手メディアを見れば「解散回避」に安堵する声が多い。しかし、ネット上に溢れる個々人の声は、4人の今後を憂うものがほとんどだ。会見を見た視聴者に限って言えば、評判を落としたのは事務所のほうであり、また、事務所に残留の意志を示しているとされた木村拓哉のほうではないだろうか。

今回、独立騒動の背景にSMAPマネージャーと事務所側の確執があることはすでに報じられていた。インターネットを日常的に使う人はほぼ、こうした報道に触れたはずで、決してSMAPのメンバーが独立を”画策した”というようなものでないことは分かって、この会見を見たはずだ。

そんな中、木村拓哉一人だけが謝罪の言葉を口にしなかった。さらには、「ジャニーさんに謝る機会を木村くんに作ってもらい…」という草なぎ剛の発言。これ美談みたいになってるけど、よく考えたら、かなり感じが悪い。悪いことしてないのに、なぜ事務所に対して謝らねばならないのだ。なのに、謝ることを勧めた”木村くん”だけが”前向きな”表情で胸を張っている。この1対4の構図を見て、4人の方にシンパシーを感じない方がおかしいのではないか。うがった見方をすれば、4人はこの会見を逆手にとって、わずかながらでも自分たちの正当性を示そうとしたのではないかとさえ思える(考えすぎなんでしょうけど)。

私からすれば、事務所に不利に働くとしか思えない会見を事務所側はなぜやったのか…。

視聴率は30%を超えた。善かれ悪しかれ話題となることが芸能人には大切というなら、最高のパフォーマンス。どうせ、日本人はすぐになんでも忘れるとお思いか…。もしかしたら、ネットでは溢れている4人への同情の声も、リアルでは微々たるものなのか…。

まあどちらにしろ、4人のあの暗い表情を見てしまったら、しばらくの間はSMAPを色眼鏡で見てしまうことは避けられまい。テレビで彼らを見かけるたびに、中居くんこれだけたくさんMCやってて、ひな壇芸人より給料安いんとちゃうか?とか、草なぎくんの主演もこれが最後か…とか、わ、今、キムタク視線そらさなかった?とか、4人の間にくすぶるわだかまりや不満の空気をちょっとした仕草や表情の中に嗅ぎ取ろうとしてしまうに違いない。面倒だ。

もちろん、そんなものは妄想なのである。それに、プロ集団のSMAPはそうした私情は表に出さず、これからもいつも通りに番組を盛り上げてくれるに違いない。しかし、そんな彼らがあれだけ悲壮な表情で会見に臨んだのである。今回ばかりは、先が読めない。


それにしても、何だか変な感じだ。

「解散騒動」が一般紙の一面を飾り、国会で総理大臣が「解散しなくてよかった」と発言するほどのカリスマグループでも、現在の事務所から独立すれば「干されて」しまうのだろうか? 芸能界やメディアが彼らを「干した」ことに対して、ファンは黙ってしまうのだろうか。徐々に露出が少なくなって行けば、彼らのことも次第に忘れて行ってしまうのだろうか。

「解散しない」ことになった今、それはもう分からない。

さすがにSMAP解散でSEALDsのような動きが起こるとも思えないが、今後、もし再び、不穏な何かが起こった時には、独立したメンバーを支えたい!というSEALDsばりのファンが、J事務所やテレビ局前に大挙しちゃったりするといいなあ…なんて思うのだった。

 

 



医療関係の記事に思う〜「学際的」って言葉も聞かなくなったな

2016-01-18 10:44:43 | がん徒然草

医療関係の記事を読んで思うこと。
医療など専門性の高い分野については、専門家の意見をそのまま横流しにして伝えがちであるが、高度で先進的なものであればあるほど、まだ不確定な部分も多く、伝えるものは批判的な視点をもって、情報を精査する必要がある。その情報を吟味する時に必要になるのは、その専門分野の知識ももちろんだが、それまでの人生で学んだ様々な知恵や教訓であったりもする。

例えば、「ゆく河の流れは絶えずしてもとの水にあらず」の方丈記の一節から「動的平衡」なんてことを考えるわけだし、空爆すればするほど、他の場所で復活するテロリストに、抗がん剤に抵抗力を得て転移して行くがん細胞を思ったりもする。もちろんこの間の関係性は実証されているわけではなく、想像でしかないが、こうした想像をきっかけにして、ものごとへの疑問とかそれにつづく検証への道は開けて行くのだと思う。こういう他分野からの想像力が働かない限り、学問というのは自家中毒の袋小路に入ってしまうような気がする。

最近では、大学の「文系廃止騒動」が起こり、産学連携が叫ばれ、理系偏重の傾向がある。かつてよく聞かれた「学際的」という言葉もとんと耳にしない。上記のような考えはもう古くさいのか…。いや、古いものが新しいという今の時代を表しているだけだと思う。


朝日新聞「がん おひとりさま5情報編」を読む〜お金の切れ目が命の切れ目か?

2016-01-17 14:24:32 | がん徒然草

ちょっと間があいてしまったが、朝日新聞に連載していた「がん おひとりさま5」最終回は情報編。おひとりさまのがん患者の心配の最大のものは身体のことをのぞけば、「お金」につきるようだ。

朝日新聞「がん おひとりさま5 情報編 独身患者の集いも」

「お金の切れ目が命の切れ目」と考える人が少なくない。確かにそうだろう。標準治療をやったとしても、私のように別の方法を選んだとしても、お金が通常の生活よりかかるのは事実だ。私も経済的に余裕が無い中、最初はどうしようかなと思ったが、幸か不幸か、お金のないことがいまのところいい方につながっている。

標準的な治療はやっていない私であるが、非常に高額な代替医療を受けたわけではない。以下が1年半前、再発といわれて以降の私のお金のかかり方だ。6年前に唐突にそれまでの仕事を辞めてからの負の遺産を引きずっていたので、経済的に余裕はなく、実家のローンもあるのでしばらく仕事を休んでという選択肢はなかった。なので、なるべく体調に影響の無い方法を選びたい。また、月に10万以上の治療はありえず、できれば5万以下に抑えたい。というような制限により、検討の末、以下のような出費での治療におちついた。

食事療法のために、無農薬無肥料の野菜や玄米にかえたり、亜麻仁油やえごま油などちょっと高価な油にしたり、いい調味料に変えたりで、食費が結構高くなった。ただ、これは通常の食費+αだから、このαの部分を治療費と考えた。

このほか、ミネラルサプリやちょっとした診察で月に当初は4万円くらい、今は2万〜3万くらい。1回90分1万円の整体に3週間〜4週間に1回程度(当初半年は2週1回行っていた)。

簡易サウナで身体を温めているが、それは自宅にあるもの。10年前乳がん初発の時、月に1万円のローンを30回で払って買っていたのがあり、しばらく休眠していたが、今、大活躍。だからこれは電気代のみ。ただ、サウナを持ってる人なんて稀だろうから、岩盤浴とか、外部の施設に行かねばならない人は、これを週に2回だとしても、1回2500円としたらさらに月に2万円程かかる。でも、私と同じようなサウナなら、月1万円程度のローンで3年払えば購入でき、いつでも好きな時に入れます。

あと、再発当初は、足を冷やさない為に、遠赤外線の膝下を温める器具を買ったり、低速ジューサーを買ったり、玄米パンを作ろうとGOPANを買ったり、部分的に温めることのできる温熱器を買ったりと出費は多かったが、手術したと思えば費用は同じようなものだ。それに、低速ジューサーは今はほとんど使ってなくて、買わなくても良かったかも。

でも考えてみれば、これって、ちょっと身体に気を遣ってる健康な女性の出費とそんなに変わらないんじゃないだろうか。そう考えると、治療費とも言えないのかも知れない。化粧もあまりしなくなったし(いいもの食べてるから、あまり肌も荒れたりしなくなった気がする)、高価なシャンプーリンスもやめて石けんシャンプーだし、ヘアダイもやめて、自分でヘナでやるし、かからなくなったお金もある。まるで女優の小雪のようなエコ生活ねwwとうそぶいている今日この頃です。

今、通常の標準治療をやったら、月にいくらくらいかかるのだろう。
手術後、抗がん剤治療やってたとして、高額医療費免除だとして、月に7万から8万が自己負担だったと思うが、私の場合、抗がん剤治療がどのくらい続いたかも分からないので、比較はできない。

この朝日新聞の記事の最後には上野千鶴子さんのコメントで、障害年金も活用してとあったが、障害年金というのは、がん自体の症状が重かったり、治療の副作用によって通常の暮らしがおくれないくらいしんどい人にしか出ない。そういう状態になると働けなくなるのを危惧し、副作用のでない治療法を選んだ私のような人は障害年金の対象にならないのだ。

まあ、私の方法は今の世の中では特殊の部類なので、比較の対象にならないかもしれないが、経済的に余裕がなく、経済的に頼れる親族もおらず、ということが、かえって私を精神的にも肉体的にも楽な方向に導いたことはなんだか皮肉だなあと思うのであります。

もちろん、私もこのままお金がなくっていいというわけではなく、できれば余裕を作って、今の自転車操業を脱し、たまにはゆっくりとリゾートにでも行きたいと思っています。一応、まだがん患者ですから。

でも、ローン抱えたあとがんが見つかり、にもかかわらず、義憤から仕事やめたり、がん再発したりと、いろいろあって、この年齢でお金が無いという現実がある中、どっかでがっつり貯金を作るにはどうしたらいいのかなあというのが今年の目標です。

「下流老人」という本を先日手にし、まあ下手すれば私もそうなるんだろうと思いました。でも、こういう危惧というのは今の常識を前提にしてこそあるもので、その前提に立っていては、この複雑に絡み合った厳しい現実は到底覆すことは難しいのです。だからというので、今の社会には破壊願望がはびこり始めているようにも見受けられますが、常識を破壊するというのではなく、見方をちょっと変えてみるということでしょうか。

今年の目標は見方を変えて、自分の人生に挑んでみる、です。
じゃあ、どう変えていくのか、それはこれからの実践次第というか、自分にもまだちゃんと見えていませんが、なにか分かったら少しずつ報告します。ああ、とりとめもなくなっちゃいました…。


朝日新聞「がんおひとりさま4」を読む〜「病気になったのは自分のせいでも誰のせいでもない」のか?

2016-01-09 01:06:23 | がん徒然草

がんおひとりさまの連載、第4回目。タイトルは「さいごまで自分らしく。」

朝日新聞「がんおひとりさま4 さいごまで自分らしく」

最後までって・・・。

最後がいつになるのかは分からない。けれど、「いつも自分らしく」ではなく「さいごまで」と書くのは、平均寿命まであと30年、さいごまで自分らしくという意味ではないだろう。

記事には、今は子宮体がんの抗がん剤治療も終わり、乳がん再発防止のための薬を飲み続けているとある。抗がん剤治療も終っているということは、多分、子宮頸部まで広がっていたがんも取り除け、その後の再発もないということなのだろう。抗がん剤をやってないので、もちろん今は副作用も無く、普通に仕事出来ているようだ。治療が終ってから3年。再発もしていないようなので、ちょっとホッとした。

なのに、3年もたつ今も「さいごまで自分らしく」という言葉が出る…。一度、辛い治療を体験し、死の淵を垣間見たからだろうか。再発の恐怖もいまだぬぐえないにちがいない。けれど、それもこれも、やはり世の中に「がんは死の病」という絶対的なイメージが根深く浸透しているからだと思う。もちろん、彼女のように、乳がんの後、子宮体がんも発症していては、死を意識するなというのは難しいかもしれない。けれど、今の私は、それさえもやはり世間ががんを怖がりすぎているからだと思っている。

私は現在、抗がん剤や放射線などのいわゆる西洋医学の治療を一切やっていない(放置しているわけではないです。食事療法や低温サウナやミネラル補給や散歩、レメディなどなどはやってます)が、今のところ、再発した乳がんは一時期の勢いをなくしているようだ。腋の下にあった腫れも一時期より小さくなっている。

再発が分かってから1年半。今後どうなるかはわからない。このままずっとなんともないかもしれないし、再び、悪化するかもしれない。私と同じくらいの症状で抗がん剤をやってる人より早く死んじゃうことだって考えられなくはない。けれど、今の私はそうはならないんじゃないかと思えるようになってきているし、もしそうなったとしても、それは自分の選択だからという覚悟が以前よりはできてきている気がする(もちろん本当にそうなったらどうなるかわかりませんが…)。そんなことより、今は、がんが再発しながらも、なんら辛い治療をせず、仕事も普通に続けられ、ストレスなく過ごせていることがありがたい。もし苦しい治療していたら今頃私はどうなっていただろうという思いしかない。治療に頼らず、自分の身体の声を聞くことで、人間の身体と病気というものの関係にも、思いが至るようになってきた気がする(そこらへんについてはまたあらためて)。

そんな私にとっては、この記事の最後に書かれていたこの言葉がひっかかった。

『二つのがんを経験し、お金や生活に困ったことはあった。でも、病気になったのは自分のせいでも誰のせいでもない。「これは自分が歩んできた道なんだ」と受け止めている。』

「病気になったのは自分のせいでも誰のせいでもない。」本当にそうだろうか…。

私は自分が乳がんになったのは、自分のそれまでの生き方すべての結果だと思っている。世の中には先天的な病もあるが、多くはその時の身体の状況を大きく反映する。風邪に感染するのだって、不摂生で免疫力が下がった時が多いように、無理をしたり、食事をおろそかにしたり、悩みを抱えたり、色んなことの結果が「がん」という塊でもあるんだろう。もちろん、自分のせいだけでもない、誰かのせいでもあるだろう。汚れた大気、添加物いっぱいの食べ物、電磁波などなど、がんとの直接の関連は証明されていなくても、身体に悪影響を与える物は世の中に溢れすぎるくらい溢れているのだ。さらに、必要以上の治療や投薬が患者をより一層の不幸に陥れていることだってあるのではないだろうか。

病気を作っているのは自分であり、社会であると考える時、なぜその病気が生まれたのかの原因に思いが至り、対症療法ではない、根本的な治癒への道が開けるのではないか。それは個人の病が癒えるというだけでなく、世の中から病が減って行く道でもあると思う。

もちろん、病気になった患者が自らを責めることは無い。原因と思われるものをあらため、これからはなるべく楽しく暮らす工夫をすればいいだけ。原因を見て見ぬ振りだけはしないほうがいいと思うだけだ。最初は気持ち的にキツいかも知れないが、結果的には心から病気と向き合い、吹っ切れる気がする。

明日は最終回。

 

 


朝日新聞「がん おひとりさま3 入院の保証人、自ら代筆」を読む

2016-01-08 03:11:52 | がん徒然草

朝日新聞の「がんおひとりさま」のシリーズも3回目。乳がん治療後、再就職した矢先に子宮体がんが見つかって手術することになった女性。今回の職場の上司は「体調を見ながら、復帰できるときに復帰してくれればいい」と理解を示してくれたが、術後、がんは子宮頸部まで広がるステージ3の状態である事がわかる。抗がん剤治療を勧められるが、治療費もかかり、仕事ができなければ、生きて行けないと、一旦は治療を断るも、上司がつらいときは休んでもいいと、仕事継続を認めてくれたため、抗がん剤治療を選択した。タイトルの「保証人自ら代筆」というのは、この入院治療の為の保証人として、遠隔地にいる妹の名前の代筆をしたということだ。

朝日新聞「がん おひとりさま3 入院の保証人、自ら代筆」

この記事の患者さんの場合、子宮体がんが頸部まで広がってステージ3ということは、半年前、ステージ1の乳がんが見つかった時に、すでに子宮にもがんはあった可能性が高い。だとすると、乳がんのために使った抗がん剤は子宮体がんに効くわけではないから、その抗がん剤によって体力や免疫力も下がり、子宮体がんが増殖した事は十分に考えられる。彼女が乳がんで使った薬の種類はわからないが、ホルモン剤のタモキシフェンを使っていたとすると、これは子宮体がんリスクを上げることが一般的に分かっている。もともと乳がんのある人は子宮体がんも出来る可能性が高いらしいから、手術のみで済ませる人も多いステージ1の乳がんで、術後の再発予防措置として抗がん剤を使うことは、私からすれば非常識に思える。

このシリーズでは、おひとりさまという境遇の患者を取材し、がん患者の社会的な困難をとり上げようとしているが、この状況を見ていると、やはり問題の根本は治療の選択にあるとしか思えない。彼女を担当した医師の治療選択は間違いではなかったのか…。この場合、そこをこそ指摘するべきでないのかとの疑問が残る。社会的な困難があるとしたら、看病してくれる人がおらず、保証人の署名も代筆せねばならないというおひとりさまの寂しさよりも、「がん治療とはこういうものだ」とか「医師の言う事は絶対である」いう社会の先入観なのではないだろうか。

治療費がかかるからと、彼女が抗がん剤治療を断った時には、希望の光が指したと思った。しかし、悲しいかな、それを上司の「善意」が阻んでしまった。医師の言う治療をさせてあげたいというのは上司の善意だ。けれど、これまでの彼女の抗がん剤への感受性を考えると、化学療法を続けながら働く事はどれほど辛いだろうと想像される。また、休む日が続けば、職場に申し訳なくて、ストレスも溜まるだろう。それで、本当に彼女のがんは治るのか…? 「医師の言う事は絶対だ」という先入観が、善意の上司に、無批判に抗がん剤治療を勧めさせる。これはこの上司のせいというより、それが常識となってしまっている社会のせいだ。

しかし、社会のせいとはいえ、その社会というのは、人、一人一人が集まってできている。結局、一人一人が自分で考える力を養い、自分の身体に責任を持ち、医師の話しにさえもちゃんと批判的態度で臨めるようにならねばならないのだろう。

もちろん、抗がん剤治療をやらないほうが良いというのは私の考え。やらないことのほうが怖くて私にはストレスになるという人もいるだろう。そうなったら本末転倒なので、私は自分の方法を絶対にいいと勧めたいわけではない。私はやらないというだけだ。それは私が分かる範囲でいろいろ調べて考えた末の結論で、多分、がんというものは自分で調べ、考え、納得して決めた治療の方が、効果がある気がするのである。

明日は連載4回目です。


酒井順子著「下に見る人」、著者インタビューを読む

2016-01-08 00:22:54 | 書評/感想

以下は「下に見る人」という酒井順子さんの新刊の著者インタビュー記事。

「人を下に見てしまうという不治の病はせめて表に出さないという自覚が大事」

この本のタイトルの感じ悪さにちょっとひっかかって、記事を読んだ。確かにそうなんだろうし、本も読んでもいないのに、後味の悪さが残る。

自分が他人を「下に見る人」と定義しての本書。「せめて表に出さないという自覚が大事」と著者は語る。けれど、こういうものは表に出していないと本人が思っていても、そこはかとなく表面に現れてしまうもので、自覚などあまり意味が無いように思う。

その昔、地方から出てきたばかりの私は、彼女と同じ都内有名私立女子高出身の女性から「下に見られてる」と感じたことがあった。彼女は別に私をバカにするわけでもなく、フレンドリーに付き合ってくれていたのだけれど、時々、その言葉の端々に「下に見ている」感じを感じ取ってしまうことがあった。もちろんそれは私の思い過ごしかも知れない。それに、だからといって、仲が悪くなる事もなく、すごく仲良しになることもなく、普通の友人として大学時代を過ごした。そこから思うのは、わざわざこういうこと書かなくていいんじゃないのということだ。

いじめはいじめた側を見なければ絶対に無くならないから…というのは分かる。だからといって、「私いじめる側だったんですが…」と、強者の側から自分の行動に対する分析を聞かされるのはあまり面白いものではない。また、「下に見る人」なんてチャレンジングなタイトルつけときながら、「せめて表に出さない自覚」なんていう教育的な態度をとることにも違和感は否めない。

しかし、やっぱりこの本は書いてもいいんだろうなと思う。

自分の心の悪と闇を表に出さずにはいられない彼女の切実さと、こんなあからさまなタイトルで本を出すことにした決断には、もしかしたら本気があるかもしれないと思ったからだ。アラフィフとなってさらに円熟味を増した彼女の感じ悪さは文学の域に達しようとしているのかもしれない。

多分、問題なのは、以下の記事中で「…常に私たちが共通して抱えている普遍的な問題の真ん中を射抜いていて、読むたびに、やられた思う」と、彼女の分析力を褒め称えるインタビュー記事の見方の方だ。少なくとも、記事で引用されている『日本人は「下に見られたくないから」がんばってこれたんじゃないか』という分析に関しては、ちょっと無理があるんじゃないか。

別に感じ悪いのはいいのだ。普遍化なんかしないで、私感じ悪いでしょと、個人的なことを個人的なこととして書いてくれたほうがよかった。「人を下に見てしまうという不治の病」があるとまで言うのならば、「せめて表に出さないという自覚が大事」などと言わず、「私はこんなにヒドいんです」で終ってくれてた方が、人間の業の恐ろしさに、よっぽど普遍を感じたんじゃないかと思う。

人は人を下に見たがる。それはそうだと思う。しかし、それが分析すべきことなのかは、この本を読んでも分かりそうにない。


昨日に続き、朝日新聞「がん おひとりさま2 就職した矢先 再び告知 2」を読む(追記あり)

2016-01-06 13:39:09 | がん徒然草

昨日に引き続き、朝日新聞で全五回で連載されている「おひとりさま、突然がん告知 そのとき仕事は」の連載第2回目を読んだ。

朝日新聞「がんおひとりさま2 就職した矢先、再び告知

今回の記事で、手術前には抗がん剤はやってないことがわかった。さらに、部分切除のようで、ステージ1だから、もちろんリンパ節廓清もやっていないようだ。ただ、再発防止として飲み薬と注射による抗がん剤と放射線を当てたそうだ。そのせいで、だるさやめまい、吐き気などの副作用に悩まされながらハローワークに通ったとある。

その後、彼女は再就職するも上司から「腕が上がらないとはんこも押せないな」などとパワハラ発言を食らい、2ヶ月で職を失い、その後、再就職するも、また子宮体がんが見つかって、子宮と卵巣、卵管の摘出を宣告されてしまう。

今回言いたいのは、「ステージ1でこの治療をやるか…?」ということである。そして、ステージ1程度の人なら、治療後のこんな不幸を背負い込む事などないはずだ、ということである。

私の考えからすれば、ステージ1の乳がんで、手術はしたとしても、再発防止の抗がん剤と放射線治療をやったことが間違いだったとしか思えない。この術後の治療さえやらなければ、彼女は副作用もなく、手術跡の回復を待って、特に体調不良も無く、仕事に向かえたはずである。「腕が上がらないとはんこも押せないな」と上司にパワハラ発言を食らったというが、彼女はリンパ節廓清もしていないのだから、腕がむくんだりする事もなく、上がらなくなるはずなど無い。だとしたら、上司の発言は副作用で体調の悪そうな彼女の姿を見ての反応であるか、まったくの無知故の妄言である。そんな彼の発言は許される物ではないが、もし彼女に副作用がなく、元気に仕事が出来ていれば、こういう反応もなかったかもしれないのである。

抗がん剤や放射線が免疫力を下げる事は誰もが認める事実だと思う。分子標的薬などをのぞく一般の抗がん剤はがん細胞以外の身体の中の細胞も殺してしまう(カテーテルで局部に流す方法などもあるらしいが、それはまだよく知らないので、除きます。また、分子標的薬でも副作用が無いわけではない事はイレッサの例でも知られている)。正常細胞とがん細胞とどちらが先にやられてしまうかのチキンレースが抗がん剤治療だ。手術だって身体を切るわけだから、人間にとってはダメージ。そんな体力の弱った女性の身体に抗がん剤を入れたら、さらに免疫力は下がるに違いない。

健康な人の身体の中でもがん細胞は日々生まれ、免疫細胞によって、日々消されている事は、近年、知られるようになっている。だとしたら、せっかく、手術で腫瘍をとった後に、なぜ、またあえてチキンレースをせにゃあかんのだ…?

がんの直接的な原因は不明だが、物理的精神的ストレスが加わる事ががんの原因といわれることから、体力や免疫力を含む自己治癒力が衰えた時にがん細胞が増えるだろうことは容易に考えられる。だとしたら、転移の無い患者が腫瘍をとった後くらい、体力回復に努め、自分の免疫力を賦活し、自らの力にがん征伐をまかせてもいいのではないか。

抗がん剤と免疫力、がん細胞を殺すスピードは抗がん剤のほうが早いとしても、その副作用による体調不良がストレスとなり、免疫力を下げたとしたら、抗がん剤をやらない時と変わらなくなってしまうのではないか。もしくは、より免疫力が下がり、かえって悪い結果になる事もあるのではないか…?

6ヶ月後に子宮体がんが発見された彼女の場合、ストレス続きで、がんが出来やすい体質になっていたのではないかとも考えられる。そこに、抗がん剤や放射線というストレスをあたえ、免疫力を下げるものが降って来たため、かえって子宮にあったがんの種が増殖し始めたのではないかとさえ思える。このへんの因果関係は証明する事ができないので、そうではないと批判されるかも知れないが、彼女が手術後に、抗がん剤や放射線治療をやったことで、その後の副作用で体調不良に陥った事は事実であり、それによって、次の職場でも嫌な思いをさせられる事になったのも事実だと思う。

手術だけしていれば、けろっとしていたであろうステージ1の人にその後の不幸を背負い込ませたのは、もちろん、その後の職場の上司の無理解なパワハラ発言もあるが、この場合は、必要ない予防の為の抗がん剤や放射線治療をしたからだとしか思えない。

私自身、乳がん再発し、原発とは反対側の腋の下のリンパに腫れがあるという状況ながら、おひとりさまで、フリーランスの不安定な仕事で、実家のローンも抱え、貯金も無く、税金や年金や国民健康保険料に追われながらも、こんなに偉そうにブログを書いたり、平気に日々暮らしていけるのも、上記のような必要ない治療にお金使う事などないと気づいたからで、もし私がそれに気づいていなかったら、今頃、どうなっていたかと思う。もちろん、治る可能性もなくはないが、多くの場合、副作用に苦しみ、仕事は出来なくなり、実家はとり上げられ、両親の少ない国民年金と生活保護で、たいした治療も出来なくなり、死を待つしかなかったのかもしれない。

そう考えると、本当に神様に感謝せずにはいられない。私はまだまだ元気です、っつうか、食養生で10キロ痩せてスリムになって、地下鉄の階段駆け上がれるようになったし、食欲はあるし、カラオケに治療と称して通い詰めたり、まあ楽しくやってます。あ、仕事しないと怒られる・・・(汗)。

今一番心配なのは、3月以降も今やっている仕事(番組)が続くかどうか。終ったら、もうがんの本でも書くしか、私に道はないのであった。とほほ

 


朝日新聞「おひとりさま、突然がん告知 そのとき仕事は1」を読んだ

2016-01-05 20:45:31 | がん徒然草

朝日新聞の「患者を生きる」という企画で「おひとりさま、突然がん告知 そのとき仕事は」(全5回シリーズ)が始まったとfacebookで知った。私もおひとりさまでがんホルダーなので、その第一回目、ちょっと読んでみた。

朝日新聞「おひとりさま、突然がん告知 そのとき仕事は①」

(以下の文章は、上記の記事を読んでから見ていただいたほうが分かりやすいと思います。)

この記事だけではわからないことが結構多いので、早計に判断はできないが、ステージ1の診断で、治療前に彼女がめまいや吐き気で倒れたのだとしたら、それは「がん告知」によるショックからの精神的なものではないのだろうか(手術前に抗がん剤で小さくすることもなくはないので、そうしていて、抗がん剤の副作用で吐き気がしていた可能性もあるが、そこらへんのことはこの記事からはわからない)。なのに、一度の彼女のそんな体調を見て退職を勧告するなんて、その会社の無知も甚だしい。

ステージ1の彼女がショックで体調を崩したのだとしたら、あるべき対応は、彼女を安心させ、気持ちが落ち着くまで見守ってあげる周囲や会社の対応である。そうすれば、その後の不幸は簡単に防げる。

それもこれも(彼女のショックも、会社の対応も)、「がんは死の病である」という肥大したイメージのせいだ。糖尿病の透析が必要ですと言われて、テレビで会見する芸能人はいないと思うが、がんの場合、ステージ1や2でも会見する芸能人はいっぱいいる。がんがそんなに特別な病気とされるのはなぜなのか…。ステージ3から4の狭間で、テレビの仕事なんて続けながらへらへらしている私は疑問でしょうがない。私も会見して、本書いて、健康保険と税金の支払いに追われる生活から逃れたいものだ。

がんというのは半分「社会病」と言える。がん患者を助けるべく企画されたこの新聞記事でさえ、そのへんの配慮はまだまだと思える。治療の内容の是非についてはいろいろ考え方もあろうと思うが、「がん」に関して取り組むべき最大の問題は、「がん」というものの世の中の認識を変えることにあると思う。

では、「がん」はどう認識されるべきかについては、またややこしいのであらためて。少なくとも、ステージ1でこういう扱いを受けることはおかしいことだけ、今回は指摘したいと思います。


税金で追い込まれたらたまらんな。東京新聞「滞納者追い込む自治体」

2016-01-05 20:41:31 | 国内情勢
今日の東京新聞の一面がこれなのであるが、税金の使われ方の杜撰さを考えると、もう何の為に生きているのかわからなくなる。
こんな税金のために追い込まれて、死をも考える人がいる。お上は「国民の義務ですから不公平の無いように」と言って、滞納に対してはサラ金かと思うほどの利率で延滞金をつけているが(支払い期限から1ヶ月を過ぎた時点からの利率は、例えば東京都台東区の場合14.6%)、国から仕事をもらってウハウハする人の為に税金が使われる事は反対の意味で不公平ではないのか。入札で正当に選ばれた業務に税金は使われますなどという事を、もはや誰が納得するだろう。なのに、消費税増税。大企業優遇。

1000兆円もの財政赤字というが、ありもしないトリクルダウン(この前、朝生で竹中平蔵氏さえもトリクルダウンなど無いと否定していた)を目論んでの大企業減税や、必要の無い医療費(おもに薬代)や、挙げだしたらきりがない無駄な箱もの、無駄な広報活動、形だけの地域振興、いまだに形を変えて多数存在する特殊法人、東京五輪を前に雨後の筍のように湧いて来ているクールジャパン狙いの有象無象にばらまかれる無駄銭などなど、どぶに捨てるような大金を考えたら、財政赤字なんてすぐに解消するんではないかと思える。いまや「補助金」は与党の選挙の道具になってるのだから、クラウドファンディングとかが広まって来た今、もう補助金もらってなんとかしてとか考えるのやめにしませんか。私もかつては補助金をもらえば…とか思ったこともあったが、間違いだったと悔い改めております。働ける人には小さな政府、働くのが厳しい弱者には大きな政府の考えで。

国の税金にぶら下がらないと日本経済は成り立たないというのなら、今の日本は幻想の経済大国でしかないのだ。それならそうと腹をくくって、さらなる経済成長なんてあきらめて、人口減少する事だし、豊かな小国(中くらいかな…)への正しい道を歩み始めた方がいい。

みんな、なんでこんなに税金取られたうえに、わけわからない使い方されて、年金を運用で9兆円も損出されて、怒らないのだろう。

「なぜ税金を払わねばならないのか」をもっとちゃんと考えねばならない。憲法の問題もそうだが、「国家とは何の為にあるのか」をちゃんと考えたい。

ドラマ「坊ちゃん」を見た。原作に忠実な方が今っぽかったのに…

2016-01-04 01:11:18 | Weblog
二宮和也主演のドラマ「坊ちゃん」を見た。
ドラマが原作と違ってるのは別にいいと思うのだけど、今回のドラマ「坊ちゃん」の結末がどうなん???と思うのは、今という時代に「坊ちゃん」をやるならば、こうじゃないだろうと思うからだ。漱石の時代から100年を経て、その間に終戦を体験しても、日本人の事なかれ主義や長いものには巻かれろや、ものごとを忖度してすぐ自主規制する性質は変わらず、いや、どんどんそれは大きくなって、世の中は閉塞しているのだから、原作に忠実に描いた方が、今やる意味があるだろうと思うのだ。

もうひとつ思ったのは、この小説は、言葉ならば伝わるが、映像化すると伝わらないことが多すぎるということ。例えば、「フランネルの赤シャツを着ている」という言葉。読めば西洋かぶれそのものだと分かるが、映像にすると、ただ赤いシャツを着ているだけで、フランネルを夏にも着ているニュアンスが伝わりづらい。現代の私たちにとっては珍しくも何でも無い素材や物が、当時としてはそれほど珍しかったということを分からせるための演出が必要だ。

漱石が描こうとしたものが日本の無理矢理な近代化への憂いであり、ただただお上の勧めるものに従順なだけで批判精神の無い日本人への憂いであるのだとしたら、このへんはもっと極端に描いてもよかったのではないかと思う。

このところ、私は、夏目漱石の「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」は田中康夫の「なんとなく、クリスタル」と似ているんじゃないかと思っている(逆か)。多分、橋本治の書いてたことをきっかけにそう思い始めたんじゃなかったかと思うが、記憶は定かでない。

明治維新で西洋かぶれになった日本人を揶揄しながら、日本の形ばかりの近代化を憂えた漱石と、バブル前夜、西洋のブランドものにかぶれ、すべての形あるものを記号化してしまったポストモダンの日本人をカタログ的な注釈付きで描いた田中康夫。「吾輩は猫である」にも出版社がつけた注釈がたくさんついてるが、田中康夫はこれを知ってて、真似したんじゃないのか?(このへんは実際にはどうなんでしょう?私は聞いたこと無いのですが、そう言われてたりするんでしょうか?)

夏目漱石研究の第一人者である江藤淳が、当時、評価の別れた「なんとなく、クリスタル」を絶賛したというのも、今思えばうなづける。漱石が憂えた近代日本の未来は、田中康夫が描いた時代を経て、今こんなことになっちゃっている。

元日の朝日新聞に掲載された岩波書店の一面広告「漱石は100年後の未来に何を見ていたか」。漱石のいくつかの作品から今まさに教訓としたいような言葉が抜粋されていた。
「坊ちゃん」からは以下の文章。

『考えて見ると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊ちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。』

やっぱり、今「坊ちゃん」をドラマ化するのなら、原作に忠実にやってほしかった。

「坊ちゃん」(青空文庫)