橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

高畑勲が体現した民主主義

2019-10-06 18:21:13 | Weblog
高畑勲展が10月6日までだと気づいて、土曜の夜(金曜土曜は21時まで開館)行ってみた。


何の前情報もなく訪れ、何も考えず展示室に入ると、一番最初の壁に大きくかかれていたのは、「高畑勲のクリエーションとは」という問いと「多数のスタッフの才能を引き出した」という文字だった。メモし忘れたので、多少言い回しは違っているかもしれないが、このフレーズを含んだ3行ほどの文章が壁に大きく縦書きで書かれていた。

そして、見終わって、今回の展示のテーマはまさにこれであったことを理解した。高畑勲のクリエーションの手法が宮崎駿をはじめとした多数のスタッフの才能を引き出し、素晴らしいその後の日本のアニメーションをつくったということをいまさらながら理解した。

そんな高畑勲のクリエーションの手法とはどんなものなのか?

彼らのクリエーションの起点と言える「太陽の王子ホルスの大冒険」の音声解説の中に「日本のアニメーションのその後を決定づけた記念碑的作品は、当時の労働組合の中心人物達が集まり、組織され、その製作過程もトップダウン式ではなく、限りなく民主的な制作体制が敷かれた。」というようなことが語られている。

これは当時の東映動画という組織の柔軟性もあったと思うが、展示を見ると、高畑勲の仕事のやり方もまさにこの「トップダウン式でない限りなく民主的な体制」だったことがわかる。

キャラクターを作るときにはスタッフ全員の意見をすくい上げ、そのやり取りの中から、もともと挙がっていたものよりもさらに素晴らしいものが生まれたことがスタッフの証言も交えて語られる(これは朝ドラ「なつぞら」にも描かれていたが)。

演出である高畑は頭の中にあるシーンをスタッフに伝えるために「言葉」を駆使して説明する。その言葉を理解したスタッフが、それぞれの得意なスキルを活かして、その言葉を目に見える形に変えていく。色彩に長けたもの、画面構成に長けたもの、キャラクター造形に長けたものetc. それぞれの分野において自分(高畑)より能力の高いものたちが高畑が言葉で表現したもののイメージをさらに膨らませて形にしていく。そのプロセスの中で、高畑も新たな発見をし、作品はさらに高みを目指す。

今回の展示からはそんな「民主的なクリエーション」が奇跡的に成立した背景に、高畑勲の類まれな「コミュニケーションを諦めない姿勢」があったことが見えてくる。スタッフに作品を理解してもらうために彼は驚くほどに言葉を尽くし、さらに、言葉以外のさまざまな方法で語りかけていた。

原画やセル画、ラフスケッチなどとともに展示されるのは高畑手書きの企画書やプロット。さらに、企画書に至るまでの思考プロセスや、逆に企画が通って、実際に製作に入ってのち、スタッフたちに作品のテーマややりたいことを正確に伝えるための資料の数々。すべてのシーンには理由があり、その意図が明確に語られる。そこに尽くされた言葉の膨大さや、工夫されたイメージ図など、その情熱に感動せずにはいられない。

こんなものを作っていたのかと驚いたのは「テンションチャート」というものだ。物語の進行に伴う緊張と弛緩や感情の起伏を図式化、登場人物の感情の起伏は折れ線グラフで表現されている。

各シーンごとの登場人物の感情についてはスタッフ間で言葉で議論されて尽くしているに違いない。その上で、全体を俯瞰し、物語の始めから終わりまでの感情の動きを、起伏(折れ線グラフ)という形で一目で見せる。シーンごとのミクロな感情について語り尽くしてきた彼らにとっては、これを一目見ることで、それまで言葉で尽くされてきた議論が体感として身体中に染み渡ったはずだ。

最高の作品を作るために、他人(スタッフ)とイメージを共有するにはどうすればよいのか。高畑勲という人は、作品で何を語るかと同じくらいに、「伝える」ことを考え続け、実践していた人だった。

「自分は何を考えているのか」

独り言のように、自分は何を考えているかを質すかのように綴られた企画メモ。人を説得するための企画書というものはまずはそこから始まるという、基本的だけれど、忘れがちなことを高畑の肉筆資料は物語る。人間にとっての最大の謎は「自分の考えていること」かもしれない。他人に何かを伝えたいと思ったら、まずはその謎に立ち向かうことから始めねばならない。自分は何を考えているのか、なぜそう考えるのか・・・。頭に浮かんだことを漏らさず言葉にして書きとめようとしているかに見える高畑のメモは、私たちをそんな基本に立ち帰らせる。

「マーケティング」という言葉が人口に膾炙し、昨今は多くの企画が「ターゲット」を絞って、そこから逆算するように作られる。企画の根拠は「自分の外側」に求められる。他人を説得するために用意されるのは「データ」である。しかし、「データ」というものはそのターゲットの一部しか表現しておらず、そんなデータによって説明されるターゲット像はある意味幻想であり、いまや、その幻想を前提に作られる歪んだコンテンツが、逆に世の中を歪めているかに見える。

「私はこういうことを考えています」ということを表現するのが本来の企画書の根幹であり、だからこそそこに「責任」ということも生まれると思うが、「データ」に責任を押し付けて、「自分は何を考えているか」を曖昧にしている現代社会が民主的から遠ざかり始めているのは当然かもしれない。

民主主義の根幹は「みんなの意見を聞く」ことにあり、決して「多数決」ではない。「多数決」は時間の制約上、話し合いではどうしても決まらない場合の妥協的な決着方法である。それはクリエーションではない。「自分はこういうことを考えています」というそれぞれの異なる意見を聞き、行き詰まっているかに見える現実からいかに飛躍し、別の次元でよりよい解決法を生んでいくか。そんな民主的なあり方の理想をちゃんと理想として、諦めずにクリエーションしていったのが高畑勲という人だったのかもしれない。

まして、高畑の周りにいたのはそれぞれの分野において、彼以上に才能もスキルもある有望な若者たちである。その能力を利用しない手はない。能力のあるものほど、新しく、他と違うことを言う。それを少数だと切り捨てることは、未来の可能性を切り捨てることになるのだ。それを生かし、一つにまとめていくために、高畑は、正直に、誠実に、驚くほどたくさんの言葉を尽くし、伝える工夫を重ねた。

これだけのコミュニケーションの努力の上に作られたのが世界的にも評価される高畑作品であり、ジブリの作品であることを考えると、そこまでの努力を尽くして初めて、民主主義も理想に近づけるのではないかと思えるのである。逆を言えば、そこまでの努力がないから、民主主義は危機に瀕しているともいえる。

昨今の政治家たちの言葉の薄っぺらさ、私たち有権者をまったく納得させられない言説。その裏で彼らは伝えるための努力をしているのだろうか。相手を理解するための努力をしているのだろうか。その努力をしたくない怠け者たちが、「民主主義は多数決」という定義を盾に、民主主義をいいように利用しているように見える。

今の薄っぺらな言葉しか持たない政治家たちには、「火垂るの墓」を見て「あの惨禍を二度と・・」などと語る前に、その映画を作るために高畑勲がどれだけの言葉を尽くし、周囲とコミュニケーションの努力をしてあの作品が生まれたのか、そのプロセスをこそ知ってほしい。それこそが民主的ということなのだと思うから。

もちろん、展示を見ながらほかにももっといろんなことを考えたけれど、ひとつ今回の感想として書くとしたらこれだと思った。他のことはまたいずれ。


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