橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

本当に伝えたいことを伝えるのは難しいなあ

2014-05-02 04:05:00 | Weblog

私は原稿用紙1枚の文章がさらっと書けるようになるまでに、随分時間がかかった。文章にも天賦の才があるのだと思う。小学生の時から作文の上手な人はいて、そういう人の文章は子供の頃からちゃんと構成ができている。私は好奇心はあれど、それがなかなか出来なかった。普段からの片付けられない性格を反映するように、頭の中の物事も分かりやすく整理できなかったのだ。しかし、興味のあることというのは世の中に溢れている。私は自分が面白いと思ったことを人に伝えたくてしょうがなかった。前の晩に見たテレビの話やら、読んだ漫画のストーリーのダイジェストを翌日の学校で一生懸命話していたっけ。我ながら下手な話だったと思う。

そして、大人になったある日、やっぱり私は人に「伝えること」をやりたいのだなと漠と思って、テレビ番組制作の仕事についた。当初は文章を書くことは少なかったが、しばらくして、報道関係のVTRを繋いだりナレーションを書いたりするようになった。ちゃんと伝わるとはどういうことかを本気で意識するようになったのはそのあたりからだ。それからは、片付けられない自分と、秩序無く散らばる情報との闘いだった気がする。すぐに気が散る。他のことが頭に浮かび、目の前のことが構築途中で崩れて行く。また気を取り直し、集中力を取り戻す。その繰り返し。納得いくような構成やナレーションはなかなか書けなかった。

報道系の番組のVTRの構成というのは、ほぼ情報の整理のようなものだ。そのニュースに関わる複数の情報をどう並べるか。しかし、それは付箋に書いた情報Aから情報Zまでを単純に並べ替えるのとは違う。たくさんの情報は、間に入る接続詞によって意味が変わって来る。つまり、ある情報とある情報の因果関係をどう考えるかで、そのVTRの内容は違って来る。そして、その因果関係をどう考えるかは、その事象にたいして自分はどのように考えているか、自分はそれをどう把握しているかということでもある。

ニュースの第一報を聞いた瞬間に「ある印象」を持つ。その印象をとっかかりに、そのニュースをどう採り上げるかを考えて行くのだが、考え始めると徐々に、自分がそのことについて本当はどう考えているのかが分からなくなって来る。分かっていると思っていたことでも、人に伝えるために言葉にしようとすると、それが中々出て来ない。それをがまんしてがまんして、考える作業を持続して、自分が本当にどう考えているのか、何を疑問に思っているのかを絞り出す。

頭の中で浮いたり沈んだりして、見え隠れしているものを、浮いた瞬間に掬い上げる感じはまるで泥水の中の金魚すくいのようだ。紙がやぶれれば、その金魚はすぐにその他大勢の金魚の中に混じって、どこへいったか分からなくなる。それほど意識を研ぎすまさないと、取りこぼしてしまう。そして、そんな金魚すくいの網から逃げて行きがちなものほど物事の肝だったり、自分が言いたかったことだったりするのである。

自分の考えていることを自分で自覚するのがなぜこんなに難しいのだろう。思うにそれは形の無いものを形にする作業だからだ。つまり、自分の考えを抽出するというのは「言語化」の作業である。古代の人々が事物のイメージから言葉を作ったのとはまた少し違うかもしれないが、頭の中の抽象的なイメージに言葉を当てはめて伝えられる形にする作業には違いない。自分の中に取り込んだ様々な言語情報や映像情報などから何が見えて来るか…というイメージ化の作業を経てから、それを再び言語化するというプロセス。伝わらない言葉というのは、そういうプロセスを経ていない気がする。

何がいいたいのかというと、伝わらない言葉というのは「コピペ」された言葉だということだ。誰かが言ってたこと、どこかに書いてあったことの断片をそのまま並べて行く。もちろん、世の中の事象のほとんどは過去からの引用であり、借用である。しかし引用にはなぜ引用するかの意図が伴い、パロディには敬意や解釈がある。そのままもってくるコピペにはそれが無い。元の文章の語尾を変えたり、てにをはを変えたりして、完全なコピペではなかったとしても、自らの意思が介在しない場合、それはコピペである。

「自分の言葉で話せ」とはよく言われることだが、それは頭に入れた複数の情報がおこす化学反応で生まれた抽象的なイメージを言語化せよということだ。そして、その抽象的なイメージこそが、自らの事象に対する考え方である。自分オリジナルの考えというのはまだ言語になっていないということだ。ぱっとすぐに言葉が浮かんで来るとしたら、それは既に一度考えて言語化したことか、他人の発した言葉を覚えていただけにすぎない。

水素と酸素が爆発を起こしたときの煙みたいに、情報が化合すると、頭の中になんだかもやもやとした煙みたいなものが生まれる。このもやもや、一見、分かっていないからもやもやすると思いがちだが、これは何かをわかろうとしている予兆である。この煙をたよりに、結果生まれた水にたどりつく。このもやもやこそが、自分の言いたいことのはずだ。そして、そのもやもやを的確な言葉に置き換えることによって初めて自分の考えが人に伝わる。なんらかの情報を得て、このもやもやが起こらないとしたら、自分は何も考えていないと疑った方が良いし、何かを書いたとしても、それはコピペである可能性が高い。

今、番組の構成の仕事に関わっているが、これは得意だからやっているのではない。これまで、自分の頭の中のもやもやをどう伝えればいいのか、ずっと悩み続けて来たことの結果なのだと思う。肩も凝った、目も悪くなった。ガンにもなった。それでもまだまだ整理能力に劣る私は、もやもやが生まれる前に、たびたび溢れる情報の波に溺れている。

その情報の荒波を泳ぎ切り、さらに、生まれでるもやもやをはらすのに有効なのは、やはり人と会話することだと思う。人に話しているうちに自分の中で物事が整理され、相手が質問してくれたり、興味を示してくれることで、風に消え入ろうとしていたもやもやが、再び目の前に立ち現れる。

物を書くことにおける編集者の必要性ってそういうところなんだろうな。

この文章を書く間もずっと思っていた。「私は一体何が言いたくてこの文章を書き始めたのだろう」。確かに何かを書こうとして書き始めたのだが、読み直すと、何を言ってるか分からない。そして書き直す。言わんとすることが微妙に変わって行く。そして、書き終えようとしている今、最も何が言いたいのかよく分からない。多分、この文章、あまり人に伝わるものになってないんだろうな…。もやもやをつかみきれなかった。

いや、自分が何を思ってるかが分からないまま、人に何かを伝えようとする人をよく見かけるので、それってそもそも伝える前提が崩れてるじゃんと思ってて、それを言いたかったのに、なんだかミイラ取りがミイラになってしまったかも。

「文章を書ける人になりたい」という思いが先走って、必然性のないことを書かせてしまうのかもしれないな。やはりこれが言いたい!という思いが無いと、伝わる文章というのは書けないのですな。そして、思いはあっても、スキルがないと、伝わる文章が書けないのも事実。もちろん天賦の才のある人とか、勢いで伝えてしまえる人は別ですが。

ああ、もうこんな時間。

伝えたいことを伝えるのは本当に難しいっす。

 


夏目漱石「こころ」が朝日新聞で再連載されてますね

2014-05-01 17:01:32 | Weblog

朝日新聞で夏目漱石「こころ」の再連載が始まっていて、それを受けて、姜尚中が舞台となった鎌倉を歩く企画を同時に紙上でやっていた。

姜尚中は漱石の生きた明治時代以降、つまり近代以降を「人が塵芥(ちりあくた)のように扱われ、人間が人間でない時代になりました」と語る。「文明開化」がもたらしたものだ。漱石はそういう近代の到来に反問し(煩悶し?)、「こころ」を書いた。

このまえ、NHKの「72時間」という番組でスカイツリーを下から見上げる人々を追っていた。そこで、今しがたスカイツリーから降りて来た一人の男性が、「上から見ると人間ってちっぽけだなあと思った」と語り、さらに、そう思ったら少し元気が出てきたと言っていた。

技術の発展により、人間はどんどん神の視点を手に入れようとしている。そして自らのちっぽけさを上から見下ろす。神の視点で見下ろす時には元気が出るが、地上に降りて、一匹の蟻となって働くとき、漱石のような思いに駆られないか・・・。

高層ビルの上から地上の景色を見下ろすことは、そうした空しさをしばし忘れる為に、一瞬だけ神の視点を手に入れることのように思えて来た。

もっと考えることはあるが、仕事中なので、ふと思ったことだけメモしておく。