橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

酒井順子著「下に見る人」、著者インタビューを読む

2016-01-08 00:22:54 | 書評/感想

以下は「下に見る人」という酒井順子さんの新刊の著者インタビュー記事。

「人を下に見てしまうという不治の病はせめて表に出さないという自覚が大事」

この本のタイトルの感じ悪さにちょっとひっかかって、記事を読んだ。確かにそうなんだろうし、本も読んでもいないのに、後味の悪さが残る。

自分が他人を「下に見る人」と定義しての本書。「せめて表に出さないという自覚が大事」と著者は語る。けれど、こういうものは表に出していないと本人が思っていても、そこはかとなく表面に現れてしまうもので、自覚などあまり意味が無いように思う。

その昔、地方から出てきたばかりの私は、彼女と同じ都内有名私立女子高出身の女性から「下に見られてる」と感じたことがあった。彼女は別に私をバカにするわけでもなく、フレンドリーに付き合ってくれていたのだけれど、時々、その言葉の端々に「下に見ている」感じを感じ取ってしまうことがあった。もちろんそれは私の思い過ごしかも知れない。それに、だからといって、仲が悪くなる事もなく、すごく仲良しになることもなく、普通の友人として大学時代を過ごした。そこから思うのは、わざわざこういうこと書かなくていいんじゃないのということだ。

いじめはいじめた側を見なければ絶対に無くならないから…というのは分かる。だからといって、「私いじめる側だったんですが…」と、強者の側から自分の行動に対する分析を聞かされるのはあまり面白いものではない。また、「下に見る人」なんてチャレンジングなタイトルつけときながら、「せめて表に出さない自覚」なんていう教育的な態度をとることにも違和感は否めない。

しかし、やっぱりこの本は書いてもいいんだろうなと思う。

自分の心の悪と闇を表に出さずにはいられない彼女の切実さと、こんなあからさまなタイトルで本を出すことにした決断には、もしかしたら本気があるかもしれないと思ったからだ。アラフィフとなってさらに円熟味を増した彼女の感じ悪さは文学の域に達しようとしているのかもしれない。

多分、問題なのは、以下の記事中で「…常に私たちが共通して抱えている普遍的な問題の真ん中を射抜いていて、読むたびに、やられた思う」と、彼女の分析力を褒め称えるインタビュー記事の見方の方だ。少なくとも、記事で引用されている『日本人は「下に見られたくないから」がんばってこれたんじゃないか』という分析に関しては、ちょっと無理があるんじゃないか。

別に感じ悪いのはいいのだ。普遍化なんかしないで、私感じ悪いでしょと、個人的なことを個人的なこととして書いてくれたほうがよかった。「人を下に見てしまうという不治の病」があるとまで言うのならば、「せめて表に出さないという自覚が大事」などと言わず、「私はこんなにヒドいんです」で終ってくれてた方が、人間の業の恐ろしさに、よっぽど普遍を感じたんじゃないかと思う。

人は人を下に見たがる。それはそうだと思う。しかし、それが分析すべきことなのかは、この本を読んでも分かりそうにない。


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