橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

重力を味方にした滑り〜フィギュア全日本選手権に思う

2015-12-28 03:33:59 | Weblog

フィギュアスケート全日本選手権が終った。

優勝・宮原、2位樋口、3位浅田、4位本郷、5位白岩。2位と5位の樋口と白岩は中学2年生だ。一見すれば若手の台頭。しかし、ジャンプを失敗したからといっても浅田真央の滑りは今回も別次元で、本人の落胆した表情とは裏腹に、私にとっては浅田という選手がスペシャルであるということを再確認するものだった。また、今回6位に終った村上佳菜子も、ミスは多かったものの、その滑りは表現力を増し、つぎつぎとジャンプを成功させる若手選手たちよりも魅力を感じた。

この2人のソチ五輪日本代表選手に、より高得点をとった若手選手よりも魅力を感じたのはなぜなのだろうか。彼女らの滑りは何が違ったのか…。

それは重力との付き合い方だと思う。

まだ体重も軽い中学生の選手は、軽々と重力の制約を超えてジャンプを成功させる。その反面、ムチのしなりやシルクのドレープのような、重みが生み出す美しさを纏うことはできていない。タメのある豊かな美しさを表現する為には、ジャンプでは敵になる重力を今度は味方につけねばならないが、若い選手たちにはまだそれを生む重さが備わっていない。25歳になった浅田真央の美しさとは、そうした重さを自在に操る美しさであり、村上も今回それを身につけつつあるように見えた。加齢とともに身体が変化すると、ジャンプを跳べなくなることが多いが、その一方で、その身体の変化によってもたらされる美しさもある。

氷上でスケート靴を履くことで重力を軽減し、バレエにさらなるスピード感と軽やかさを加えた美しきスポーツ、それがフィギュアスケートだと思う。しかし、地面に足をつけて踊るバレエの美しさを再現するには、スピードに流されそうになる身体をうまく制御する技術が必要だ。そして、それができるのは、加齢とともに重くなって来た身体を利用してバランスをとる技を身につけた一部のベテラン選手だけだ。鍛え上げられたしなやかな筋肉と無意識にまで高められた細部に行き渡る神経が、どこでカメラのシャッターを切っても美しいムチのしなるような動きを生む。

そんなしなやかさを身につけた身体は決して空を鋭く切り裂くこと無く、まるで空気に運ばれて行くように滑らかに動く。周りの空気が彼女を支え、引っ張って行くようなスパイラル。空気と一体になって浮かび上がるジャンプ。滑りを見てそう感じられる時、なんて美しいのだ…と感じている自分がいる。

例えば、イタリアのコストナーがソチ五輪でみせたフリー演技「ボレロ」はまさにそんな重力を味方につけた素晴らしい演技だった。大きな空気抵抗を生むはずの169cmという長身が繰り出すステップは、その重さがゆえに氷に吸い付き、まるで氷上でないかのようなキレを生み出した。長い手足は、その遠心力を上手くコントロールして、空気に引っ張られるように滑らかに羽を伸ばし、ダイナミックなジャンプを生んだ。

浅田真央という選手はそうした重力を味方につけた数少ない選手の一人であり、現在、彼女より高得点をたたき出す選手の中にも、それが出来る選手はほとんどいない。王者の風格というのはこういう滑りができてこそだと思うのだが、どうしても、ジャッジにはこういう部分は反映されにくい。

今シーズン、ジャンプでは精彩を欠いた浅田真央だが、それ以外の滑りはどんどん美しさと正確さを増している。それに、重力を味方にすること以外にも、曲の世界観の理解とか、本人の人生とのオーバーラップ具合とか、マイクロレベルでの滑りと曲とのシンクロとか、浅田真央のスゴさを上げたら切りがない。それだけに、低い点数が出ることで、彼女自身が暗い表情になったり、周囲も浅田真央の時代は終わったと感じたりするのだとしたら残念でしょうがなくてこんなことを書いている。

最後にもう一点だけ。

今回の全日本選手権で最も気になったのは、2位の樋口よりも5位の白岩優奈だ。その素直でごまかしの無いスケーティングは、どの瞬間を切り取っても美しい浅田真央のスケーティングに成長できる可能性を感じた。まだ子どもの滑りではあるが、重力から逃れるばかりでなく、重力を味方に付ける滑りができるようになれば、その表現力は陰に陽に素晴らしく花開くに違いない。以上、私の手前勝手な評定だけれど、これから注目したい選手だ。


野坂昭如の遺稿とたき火

2015-12-23 01:46:07 | こじらせ人生

今、出ている週刊金曜日に野坂昭如の遺稿となった「俺の舟歌」が掲載されている。話の導入は庭の桜の枯葉の話。

 

毎朝45リットルのゴミ袋2、3袋になる枯葉。かつては焚火の材料で、焚火は冬の風物詩。でも今や条例で禁止され、子供たちは童謡の「たき火」を知っているのだろうか、もちろん落葉の中で焼いた芋の味など知るわけがなかろう。大人たちの責任。というような内容。

先日、火鉢クラブのイベントにあわせて作った冊子の冒頭は「火のある暮らし、日本の暮らし」として、枕草子の炭火、徒然草の家のつくりようは夏を旨とすべし、そして童謡「たき火」を取り上げ、私なりの言葉を添えた。「たき火」にそえた言葉の趣旨はほぼ野坂さんの言葉と同じで、ちょっと涙が出そうになった。

冊子に載せた童謡「たき火」に寄せる言葉は以下・・・
「今では、たき火は町の嫌われ者です。並木道の落葉はかき集められ、ゴミ袋に詰められて、収集車が集めて行く。放っておけば土に還るはずのものが、わざわざゴミ焼却場に運ばれて行く風景は空しい…。40年ほど前までどこでも見られた、この「たき火」の幸せな風景を私たちは何と引き換えに捨ててしまったのでしょう。火は危ないと言いながら、私たちは今やその扱い方も知らない。」

こうした風景を愛する気持ちはたんなるノスタルジーではなく、自然を愛する心、ひいては自分をとりまくすべてを愛する心につながっている。戦争を絶対にしないという強い気持ちもこうした身の回りの小さな幸せを愛するところから始まるのだと思う。寒さの中のほっとする暖かさを知ることも、お芋を焼いた楽しい想い出も、火の始末がちゃんとできることも、火に責任をもつことも…。たき火にまつわるすべてを、危ないから「触らぬ神に祟りなし」とばかり、すべて捨ててしまったのが今の世の中。そうしたことはたき火に限らない。触らぬ神に祟りなし…。野坂さんが亡くなる直前の別の文章で、「戦前がひたひたと迫っている」と書いたのも、誰かさんのせいではない。私たちすべてのあり方が戦前を呼び寄せているのだ。

私がなぜ「火鉢クラブ」を始めたのか…。野坂さんの文章につられて、つい無粋にも吐露してしまった。政治とはまさに日々の暮らしなのだと思う。


原油価格下落におもう

2015-12-22 12:10:20 | 国際情勢

原油価格が1バレル33ドルとな…。

旅客機の燃油サーチャージは50ドルを切ったら0になると聞いていたが、まだ3月末までは北米で片道7000円。今年8月には50ドル切ってたんじゃないかと思うが、反映が遅いのはどういうことなんだろう?まあそれはおいといても、この原油価格という代物、値段なんてあってなきがようなもので、これまでの価格の推移をあらためて見てみると面白い。

1バレル33ドルというのは、1980年代前半くらいの価格で、90年代にかけて原油価格はもっと下がり、20ドルをも切っている。湾岸戦争の時もちょっとは上がったが20ドル台だ。そんな激安の原油価格が急激に上がり始めるのが2000年代、イラク戦争が始まった後だ。2003年に年次31ドルだった原油価格(WTI)は年に10ドル以上の幅でどんどん上がり2008年には100ドルになり、リーマンショックで一度下落するが、再び2011年には100ドル超に戻る。その後、80ドルから100ドルの間をうろうろしていた価格は、去年2014年の夏頃から再び急激に下がり始め今に至る。しかし、それでも90年代にはずっと20ドル以下の時代があったことを考えると、33ドルという価格もそう激安というわけでもないのかもしれない。

これを見て漠然と思うのは、原油価格が急激に上がった2000年代以降は、中東を舞台にした「テロとの戦い」と「金融資本主義」が両輪となって暴走した時代ということだ。やっぱりこれはおかしいのだ。

ここにきて原油価格が下落していることは、現在のシリア情勢などとも関係がなくはないのかもしれない。ある情報ではロシアのISに対する攻撃がかなり功を奏しているとも聞く。ここ15年間暴走して来たアメリカ主導の金融資本主義が断末魔の声を上げ始めていることを期待したいが、そう簡単でもないのだろう。

にしても、イラク戦争以来の高い原油価格に耐えて来た国内産業は、去年の夏以降かなり楽になっているはずである。だって10年間もの原油高騰に耐えられたのだから、今の状況はうはうはのはず。なのになぜ食品価格は下がらないのか…。反映され始めるのはこれからなのか…?

http://ecodb.net/pcp/imf_group_oil.html


「がん徒然草(2) がんとテロリスト」

2015-12-21 03:47:21 | がん徒然草

「はたらく細胞」という漫画がある。白血球と赤血球を主人公に、身体の中で免疫が働く仕組みを、様々な細胞や血球を擬人化したキャラによるストーリーで解説してくれる。現在発売中の2巻にはがん細胞をNK(ナチュラルキラー)細胞が倒す話が掲載されている。

(以下ややネタバレ)がん細胞は自分ががん細胞になりたかったわけではない。自分が所属する人間様が不摂生をしたおかげで(もちろん不摂生だけではなく、放射能や職業上の問題など自分のせいでないものもありますが)、いつのまにやらがん細胞になって、まわりの免疫細胞からは敵視され、つねに駆逐の対象になっている。がん細胞は自らのそんな宿命に悩み、苦しみ、つねに免疫細胞に狙われるという死の恐怖にさらされるがゆえに、逆にまわりに浸潤することで自らを守ろうとする。漫画はそんながん細胞の悲しみを描いていた。実際にはここに、さらに抗がん剤や放射線という攻撃が加わることもある(漫画はそこまでは描いてはいなかったが)。この状況、空爆受けてるテロリストみたいなものではないか…。自分の中のがん細胞もこんな思いをしているのだろうか。

ずっと自分の中のがんというものを意識してきて思うのは、がんというのは「孤独の病」ではないだろうかということだ。それは単純に一人で寂しいとかいうことではない。「孤独」という言葉の意味は、多分、人それぞれで、たくさんの人に囲まれていても孤独であるということはあるし、信頼しあえる人がいても、またそれとは別の孤独というものもある。「自分にとっての孤独」というものがどこらへんにあるのか…そういうことと「がん」というものはどこかで繋がっている気がする。そして、それに向き合うことで、自分の中のがんも落ちついていくのではないか…。もちろんこんな考えに医学的エビデンスなどない。けれど、漠然と抱いていたこうした思いが、擬人化されたがん細胞と免疫細胞たちの物語に重なって、なにか腑に落ちるものを感じた。

世界の歪みがテロリストを生む。自分の不摂生や現代社会の毒(放射能とかアスベストとかたばことか添加物とか)が身体の中にがん細胞を生む。テロリストを攻撃して殺しても根本的解決にはならず、世界の格差の是正や異民族や異教徒への理解を深め、世界の歴史を知ることが必要であるように、がんの治療というものにも対症療法だけでなく、そうした根本治療というもの必要なのだろうと思う。そしてそれはがんに限ったことでもないのだろう。

私たちの多くは、自分の身体の中で日々起こっている様々なことにあまりにも無頓着だ。そして、日本で暮らす私たちの行動が、めぐりめぐってテロリストの誕生に繋がっているかもしれないということにも無頓着である。そうした想像力の欠如こそが、世の中を不安にし、より住みにくい場所にし、自分の身体をも不健康にしているのだと思う。

がん細胞にも愛を。


「がん徒然草(1) 性格に合わせる」

2015-12-21 03:45:38 | がん徒然草


がんが再発して、いつ死ぬかも知れないから、ちょっとくらい無理してもやりたいことはやっとこうという考え方もある。しかし、無理しなければ死なないだろうという思惑もある。それで無理しないものだから、やりたいことがなかなかやれない。それに「いつ死ぬかも知れないから・・・」という考えの前提には、多分、私って死んじゃうよね(そりゃあいつかは死ぬけど)という思いがあり、そういう思いこそが、自分を死なせる一番の原因である気もする。とすると、やはり、なかなか太く短く的なものごとの進め方ってできない。でもそのおかげでかどうかはわからないが、私はずっと元気に過ごせている。「いつ死ぬかもしれないから」という切羽詰まった感じは自分の性格に似合わないし、似合わないことすると身体に毒だ。自分の”性格に合った治療法”というのもあるんだろうと思う。