橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

安倍答弁は本当に用意周到なのか?

2019-11-24 03:14:04 | 国内情勢
小田嶋隆氏が日経ビジネス電子版で連載している「ア・ピース・オブ・警句〜世間に転がる意味不明〜」を愛読している。
今回のタイトルは「小さなウソを容認すると起こること」。安倍さんの「桜を見る会」に絡む発言についてだ。

小田嶋氏曰く
「われわれは、小さなウソを容認しはじめている。のみならず、バレない効果的なウソについては、どうやらそれらを歓迎しはじめてさえいる。私たちは、あきらかにどうかしている。」

安倍さんの笑顔のぶら下がりを見るとき、「安倍さんは何か逃げおおせる方法を見つけたのだろう」と勝手に解釈して、その姑息な言葉遣いの周到さを妙に信じてしまっていたが、本当にそれは周到な準備の元に語られたツッコミどころのない発言だったのか・・、あらためて思い直している。

実は、考えなしに、その場限りの嘘を言っていただけなのに、それを突っ込むメディアの側が、勝手に安倍ブレーンの有能さに下駄を履かせ、これほど長期政権を保っている首相のブレーンが考えた答弁なのだから、そんなにアホなことを言ってるはずはないと好意的に解釈していただけなのかもしれない。

だから、下手に突っ込むとしっぺ返しを食らうぞと思って、メディアは身動きが取れなくなるのだが、それは自分で自分の首を絞めているに過ぎなかったのかもしれない・・・。

ひとたび、そのように考えれば、この5000円問題は小田嶋さんの言うように、「ウソに決まってるだろ」で一蹴すべき案件でしかない。

安倍ブレーンが有能であるという幻想は、選挙におけるB層にターゲットを絞った代理店戦略やSNSを使ったネット世論形成や対立勢力へのステルス攻撃などに代表されると信じられてきたが、それが本当に彼らの周到な戦略であったのかはもう少し検証されるべきなのかもしれない。
たまたま当たったということはないのか。
そして、そのたまたまを、メディアが「なんかすごいぞ」と勘違いして、下駄を履かせた分析をした結果、安倍さんはうまく逃げ果せるに違いないという判断に至ってしまっているということはないのだろうか???

小田嶋さんが「バレない効果的なウソについては、どうやらそれらを歓迎しはじめてさえいる」というのには、こういうメディアのありようも含まれている気がする。

ただ、官僚や政治家にはたしかに頭の切れる人というのがいる。彼らが用意した首相の答弁は最終的には逃げおおせられる完璧なものであるのかもしれない。しかし、そうした東大話法的「責任を回避するための」言葉は、文法的に責任を回避することはできても、その行間から醸されるうしろめたさみたいなものには鈍感だ。言葉とはそんなに簡単なものではない。人々(国民)の多くは直感的に行間に潜むモヤモヤに気づくはずだ。

政治家とは、このモヤモヤを抱える国民によって選ばれた存在であるのだから、メディアはこのモヤモヤを言語化し、モヤモヤ国民を代表して政治家にそれをぶつけるべきなのだが、なぜか、モヤモヤは放置されたままで、メディアは政府の側が発する東大話法の土俵にのっかって、重箱の隅をつつくような言葉の蟻地獄に引き込まれ、結局、なんだかわけのわからないまま、疑惑は疑惑のままで宙ぶらりんとなり、私たちはなんも考えてない安倍さんに結果的にしてやられている。森友しかり、加計しかり。

「間違ったこと突っ込んで訴えられたらどうしよう」という思いが、「なんだかこの答弁おかしいぞ」というモヤモヤよりも先にある。

どうしてこういう世の中になったのかと考えて思い当たるのは、ここ20年くらいの間に、テレビのコメンテーターが「弁護士」ばかりになり、お茶の間にそうした話法が行き渡ったことが挙げられる。学校の授業でも「ディベート」が採用され、自分が信じていようが信じてまいが、言い逃れられれば勝ちみたいな風潮も行き渡った。

価値相対主義みたいなものが幅を利かせた時代は終わったと思っていたが、最近、あることがあって、それはただ定着して、壁の中に塗り込められただけだということを感じた。自分の考えなどあるほうがおかしいと思っている人が意外に多いのだということを実感している。

だから、政治の報道はなにをどうすべきかを語らず、この事象は誰と誰との関係からこう動くということを予測する「政局」報道ばかりになるのだろう。何を自分は正しいと思うかってことを言わなくていいようにするための仕組みが、日本には行き渡ってるんだよなあ・・・。

はたして、安倍さんのブレーンは有能なのかそうでないのか?

昨今の国際社会における日本のダメさ加減を見ていると、政府ブレーンがそれほど有能とも思えなくなってくるのだが、それに騙される国民の程度が低いだけなのかもしれないな。いや、「有能」という尺度が、私が考えるものとは違ってきてるのかもしれない。
コメント

ファイヤーラジオ#004は「ローマ教皇フランシスコの思想を語る」必聴です!

2019-11-24 01:14:39 | 火鉢クラブ

20日にアップしたファイヤーラジオ#004はローマ教皇フランシスコがテーマなのだが、「ローマ教皇来日 日本が問われる『弱者への心』」と題されたロイターのコラムは教皇の来日にあたって読んでおくといい記事だなと思った。

記事によれば、教皇は
『「世界移民・難民の日」に寄せたメッセージでは、世界はますます「エリート主義となり、排除された人々に対して残酷になっている』と指摘。
さらに「日本人は「困っている人」には大変に親切だ。私が困った顔をしていると、すぐにたくさんの人が助けてくれる。そうした優しさがありながら、日本人の心理には障害や差異への「特別視」が残っている気がする。」と厳しい言葉も語っている。

「上級国民」という言葉が流行語となった今年の日本。
また、大村入管でのナイジェリア人男性ハンスト餓死事件など、考えさせられることは多い。

ファイヤーラジオでは、批評家・随筆家でカトリック教徒の若松英輔さんを招いて、中島岳志さんとともにフランシスコ教皇の思想について語っていただいたが、彼の思想は人も自然も同じ被造物とするアッシジのフランシスコ(カトリックのフランシスコ会の創始者)の「万物兄弟の思想」にもとづいており、多分に東洋的であるという。それがゆえに、彼の思想は西洋よりも、日本でこそ理解されうるのではないかと若松さんは指摘する。
しかし、今の日本人にそれを理解する素地があるだろうか・・。

私たちは物事をカテゴライズして、違うものの並立する世界として捉えがちだが、よくよく見れば、違うとされるものにも重なる部分が多いことに気づく。

「差異とは何か」ほんとうにその差異は存在するのか。そこをちゃんと見極めずして、わかりやすい浅薄な分析やキャッチフレーズに乗っかることの危険性。立ち止まること、口ごもることの中にこそ、一見対立するものをつなぐ真実の「言葉」があるのかもしれない。そして、フランシスコ教皇が伝えたいこととはそういうことなのかもしれない。ラジオではそんな話をした。
ぜひお聞きください!

ファイヤーラジオ#004
「ローマ教皇フランシスコの思想を語る」

コメント

橋本治の絶筆論稿と橋本治という病

2019-10-17 03:48:49 | Weblog

橋本治の絶筆となった論考「『近未来』としての平成・前編」を読む。前後編の予定だったが、前編だけで終わってしまった。昭和の終わりから平成の終わりまでの時代状況を橋本治的に概括しているが、最後にこれから私たちが考えるべき課題が提起されており、それが、後編に続くはずだった。

 その最後の締めの部分を引用する。

 『(前略)社会は「時代」というレールをなくして、もう前には進まない。同じところをグルグル回っていて、そのことで「先へ進んでいる」という錯覚が生まれているだけなのかもしれない。

(中略)どうやら「動いている」らしい数字を注視して、金をそれに合わせて動かす。それだけが経済だったら哀しすぎる。だから、ここでもう一度、そもそも「社会」とはどういうものだったかを考えてみる必要がある。』

 そもそも社会とはどういうものだったかとは、つきつめれば人間とはどういうものかを考えるようなもので、それが、今の経済学が忘れていることだ。人間の在り様を無視して、数字にすべてを合わせる。その時点で、多分、時代はもう先に進まない。先に進んでいると錯覚している人たちが考えているのは多分これまで通りの「右肩上がり」というやつで、実感のない株価の上昇だけで、先に進んでいると思っている。でも、本当の「先」に進むためには、数字だけに左右されないプランBが必要なのだろう。

 金は天下の回り物。人の複雑な思いの末に(何も考えてないこともありますが)、お金が使われたり使われなかったりする。それを一把一絡げで数字にしてわかったふりして欲しくないのよねえって思う。グローバル時代になって、ネットが普及して、ビッグデータとか言って、なんでもマクロに分析したがるけれど、ある意味それもしょうがないけれど、そういう数字には穴があるよって自覚するところからしか、本当の経済学って始まらない気がする。だって、人の行動は読めないから。私自身のことを考えても、口から出る言葉は本心とは裏腹だ。買い物だって、本当にそのとき欲しかったものは買い逃していたりする。結果が全てというかもしれないけれど、その結果を数値化だけすると、そこに残った後悔やその後悔からくる次の行動を読み誤ってしまうのではないか。もちろん、それを理論としてどう確立せよというのか・・とは思う。しかし、すべてを理論化せねばならないのかという素朴な疑問も湧いてくるのだ。

科学的とはどういうことか(社会科学も含め)、そもそも経済は科学になりうるのか、そういうお前アホか、と突っ込まれそうなことをまた考えている。

こういうことを言うせいで、どれだけ自分が「社会」での居心地が悪くなっていることか・・・。そう思うのだが、やめられない。それが「橋本治という病」なのかもしれない。

そもそも「社会」とはどういうものだったか・・・考えねばならない。

 

追記:

以前、筑摩のウェブで書いていたコラムで橋本治は確かこんなことも書いていた。

がんは治療法の研究は進むのに一向に患者は減らず、それなら「なぜがんが増えるのか?」を考えるべきなのに、なぜかそれはあまり研究されていない。まさにそうなのだ。これもまた世間からは嫌われそうな根源的な問いであり、しかし、橋本治と同じ「がん患者」という当事者である私にとっては、前向きに生きるためにこうした根源的な問いこそが重要なのだ。知りたいということが命の灯を繋げる。

 

コメント

ノーベル医学生理学賞をとった研究はがん解明に寄与するか?

2019-10-12 11:42:41 | 火鉢クラブ
日本人が受賞したのはノーベル化学賞リチウム電池だが、医学生理学賞のほうがちょっと気になった。細胞の低酸素応答HIFの研究。細胞、低酸素といえばがん細胞である。

ググったらこんな論文があった。
 

やはり代謝との関係か。幹細胞とか、ミトコンドリアって言葉が見受けられる!まだ読んでないんですけど、ざっと見たら、TCAサイクルの図が載ってたから、そういうこと書いてあるんだろうなと推測する。

がんにしろ、糖尿にしろ、貧血にしろ、多くの病は代謝と大きく関わり、その代謝に大きく関わるのは血液、血流であるということ。そして、結局それは細胞が酸素を取り込む呼吸と代謝の問題に帰結するということを証明していくような研究ではないのだろうか。

この報道をまだあまり見ていないが、そして、日本人の受賞じゃないからあまり詳しくは報じられないと思うが、多分、通常の報道ではHIFというタンパク質の細かい働きの説明にこだわるあまり、この研究に大きな意味でどういう意義があるかがあまり伝わらないのではないかという気もする。どうだろう??

このところ、ちょっと自分の体のこともうちょっと心配しなきゃと思って、がんとはどういうものかを再びちゃんと考えて、対処していこうと考えたりしているので、上の論文も後でちゃんと読まねばな。がんとは何かを考えること。素人目線で、私自身が理解したことを素人でもわかるように伝えることができたらいいなと思う。

時間が取れるかわからないけど、私が学んだガンについての考察を語る会とかゲストとか呼んでやれたらいいんだけどなあ・・。
 
 
ノーベル賞低酸素応答HIFについてのWIREDの記事。だいたいこういう記事を書くのはWIREDなんだよなあ・・。

 
コメント

船曳建夫の橋本治への追悼文

2019-10-12 11:41:04 | Weblog
図書館で群像4月号。橋本治の絶筆論考と船曳建夫氏の追悼文。大学同窓だった彼は「その頃すでに橋本が僕を好きになっていたことは確かだった」とふたりの思い出を語る。人を好きになることはこんなにも苦しくて、悲しくて、しかし豊かで、人生に力を与えるのか。涙が止まらない。橋本治やはり私のメンターだ。

船曳建夫氏さらに曰く
『橋本治の「惚れた弱み」につけ込んで上に立っていた』

「惚れた弱み」ってつけ込まれてこそ。それが嬉しかったりする切なさ。でもつけ込まれながらそこで成長するのが橋本治のすごいところ。

だって、好きな人の好きなものは好きだし、だから一緒に好きなことをやれたら嬉しいもん♡で突き進む。
そして、歌舞伎に首を突っ込み、古典への道をひた走った。
そんな橋本治が私は好きだ。かわいいぞ橋本治。

船曳氏の追悼文の最後の一文は
「あと、追悼文とは、亡くなった人に読んで貰(もら)いたくて書くのだということにいま気付いた。」

そして、その追悼文を読んだ鷲田清一氏は朝日新聞の「折々のことば」でこう書いた。

「真にかけがえのない人には、目下思い煩っていることを面と向かって言えない。」

そうだとは思うけれど、本当は面と向かって聞いて欲しい。けれど、言えないというのも確かで、だから、まず「思い煩っていること」を自分の手でひとつずつ消し去って、にこやかな表情で、面と向かえるようになりたい。せめて生きている間に。

#橋本治 #追悼 #船曳建夫 #鷲田清一 #群像
コメント

高畑勲が体現した民主主義

2019-10-06 18:21:13 | Weblog
高畑勲展が10月6日までだと気づいて、土曜の夜(金曜土曜は21時まで開館)行ってみた。


何の前情報もなく訪れ、何も考えず展示室に入ると、一番最初の壁に大きくかかれていたのは、「高畑勲のクリエーションとは」という問いと「多数のスタッフの才能を引き出した」という文字だった。メモし忘れたので、多少言い回しは違っているかもしれないが、このフレーズを含んだ3行ほどの文章が壁に大きく縦書きで書かれていた。

そして、見終わって、今回の展示のテーマはまさにこれであったことを理解した。高畑勲のクリエーションの手法が宮崎駿をはじめとした多数のスタッフの才能を引き出し、素晴らしいその後の日本のアニメーションをつくったということをいまさらながら理解した。

そんな高畑勲のクリエーションの手法とはどんなものなのか?

彼らのクリエーションの起点と言える「太陽の王子ホルスの大冒険」の音声解説の中に「日本のアニメーションのその後を決定づけた記念碑的作品は、当時の労働組合の中心人物達が集まり、組織され、その製作過程もトップダウン式ではなく、限りなく民主的な制作体制が敷かれた。」というようなことが語られている。

これは当時の東映動画という組織の柔軟性もあったと思うが、展示を見ると、高畑勲の仕事のやり方もまさにこの「トップダウン式でない限りなく民主的な体制」だったことがわかる。

キャラクターを作るときにはスタッフ全員の意見をすくい上げ、そのやり取りの中から、もともと挙がっていたものよりもさらに素晴らしいものが生まれたことがスタッフの証言も交えて語られる(これは朝ドラ「なつぞら」にも描かれていたが)。

演出である高畑は頭の中にあるシーンをスタッフに伝えるために「言葉」を駆使して説明する。その言葉を理解したスタッフが、それぞれの得意なスキルを活かして、その言葉を目に見える形に変えていく。色彩に長けたもの、画面構成に長けたもの、キャラクター造形に長けたものetc. それぞれの分野において自分(高畑)より能力の高いものたちが高畑が言葉で表現したもののイメージをさらに膨らませて形にしていく。そのプロセスの中で、高畑も新たな発見をし、作品はさらに高みを目指す。

今回の展示からはそんな「民主的なクリエーション」が奇跡的に成立した背景に、高畑勲の類まれな「コミュニケーションを諦めない姿勢」があったことが見えてくる。スタッフに作品を理解してもらうために彼は驚くほどに言葉を尽くし、さらに、言葉以外のさまざまな方法で語りかけていた。

原画やセル画、ラフスケッチなどとともに展示されるのは高畑手書きの企画書やプロット。さらに、企画書に至るまでの思考プロセスや、逆に企画が通って、実際に製作に入ってのち、スタッフたちに作品のテーマややりたいことを正確に伝えるための資料の数々。すべてのシーンには理由があり、その意図が明確に語られる。そこに尽くされた言葉の膨大さや、工夫されたイメージ図など、その情熱に感動せずにはいられない。

こんなものを作っていたのかと驚いたのは「テンションチャート」というものだ。物語の進行に伴う緊張と弛緩や感情の起伏を図式化、登場人物の感情の起伏は折れ線グラフで表現されている。

各シーンごとの登場人物の感情についてはスタッフ間で言葉で議論されて尽くしているに違いない。その上で、全体を俯瞰し、物語の始めから終わりまでの感情の動きを、起伏(折れ線グラフ)という形で一目で見せる。シーンごとのミクロな感情について語り尽くしてきた彼らにとっては、これを一目見ることで、それまで言葉で尽くされてきた議論が体感として身体中に染み渡ったはずだ。

最高の作品を作るために、他人(スタッフ)とイメージを共有するにはどうすればよいのか。高畑勲という人は、作品で何を語るかと同じくらいに、「伝える」ことを考え続け、実践していた人だった。

「自分は何を考えているのか」

独り言のように、自分は何を考えているかを質すかのように綴られた企画メモ。人を説得するための企画書というものはまずはそこから始まるという、基本的だけれど、忘れがちなことを高畑の肉筆資料は物語る。人間にとっての最大の謎は「自分の考えていること」かもしれない。他人に何かを伝えたいと思ったら、まずはその謎に立ち向かうことから始めねばならない。自分は何を考えているのか、なぜそう考えるのか・・・。頭に浮かんだことを漏らさず言葉にして書きとめようとしているかに見える高畑のメモは、私たちをそんな基本に立ち帰らせる。

「マーケティング」という言葉が人口に膾炙し、昨今は多くの企画が「ターゲット」を絞って、そこから逆算するように作られる。企画の根拠は「自分の外側」に求められる。他人を説得するために用意されるのは「データ」である。しかし、「データ」というものはそのターゲットの一部しか表現しておらず、そんなデータによって説明されるターゲット像はある意味幻想であり、いまや、その幻想を前提に作られる歪んだコンテンツが、逆に世の中を歪めているかに見える。

「私はこういうことを考えています」ということを表現するのが本来の企画書の根幹であり、だからこそそこに「責任」ということも生まれると思うが、「データ」に責任を押し付けて、「自分は何を考えているか」を曖昧にしている現代社会が民主的から遠ざかり始めているのは当然かもしれない。

民主主義の根幹は「みんなの意見を聞く」ことにあり、決して「多数決」ではない。「多数決」は時間の制約上、話し合いではどうしても決まらない場合の妥協的な決着方法である。それはクリエーションではない。「自分はこういうことを考えています」というそれぞれの異なる意見を聞き、行き詰まっているかに見える現実からいかに飛躍し、別の次元でよりよい解決法を生んでいくか。そんな民主的なあり方の理想をちゃんと理想として、諦めずにクリエーションしていったのが高畑勲という人だったのかもしれない。

まして、高畑の周りにいたのはそれぞれの分野において、彼以上に才能もスキルもある有望な若者たちである。その能力を利用しない手はない。能力のあるものほど、新しく、他と違うことを言う。それを少数だと切り捨てることは、未来の可能性を切り捨てることになるのだ。それを生かし、一つにまとめていくために、高畑は、正直に、誠実に、驚くほどたくさんの言葉を尽くし、伝える工夫を重ねた。

これだけのコミュニケーションの努力の上に作られたのが世界的にも評価される高畑作品であり、ジブリの作品であることを考えると、そこまでの努力を尽くして初めて、民主主義も理想に近づけるのではないかと思えるのである。逆を言えば、そこまでの努力がないから、民主主義は危機に瀕しているともいえる。

昨今の政治家たちの言葉の薄っぺらさ、私たち有権者をまったく納得させられない言説。その裏で彼らは伝えるための努力をしているのだろうか。相手を理解するための努力をしているのだろうか。その努力をしたくない怠け者たちが、「民主主義は多数決」という定義を盾に、民主主義をいいように利用しているように見える。

今の薄っぺらな言葉しか持たない政治家たちには、「火垂るの墓」を見て「あの惨禍を二度と・・」などと語る前に、その映画を作るために高畑勲がどれだけの言葉を尽くし、周囲とコミュニケーションの努力をしてあの作品が生まれたのか、そのプロセスをこそ知ってほしい。それこそが民主的ということなのだと思うから。

もちろん、展示を見ながらほかにももっといろんなことを考えたけれど、ひとつ今回の感想として書くとしたらこれだと思った。他のことはまたいずれ。
コメント

白い巨塔:追記〜最も印象に残ったシーン〜

2019-06-03 03:18:58 | がん徒然草
白い巨塔最終話でもっとも印象に残ったシーンは満島真之介演じる柳原医師と政略結婚の見合いで出会い付き合うようになった婚約者のキスシーンでした。

政略的に見合いさせられたとはいえ、お互い好意を抱き始め、柳原のアパートに通うようになった令嬢の婚約者。そのアパートに、死亡した患者原告側弁護士の斎藤工が原告側の証人になってくれと訪ねてきます。しかし、身を潜め居留守を使う二人。

柳原は財前からカルテを改ざんさせられ、裁判でも嘘をつき、大学での立場を捨てられない自分に良心の呵責を感じ、原告弁護士の姿を窓の外に見て、布団に潜込んで震えます。そして、斎藤工が諦めて去った後、二人は固く抱き合う。柳原の弱さと辛さの両方を受け止められるのは共犯者になりうる政略結婚の婚約者がゆえでしょう。自らも政略結婚させられるという自由を奪われた境遇であり、それは柳原がこれから抱える自由のない未来と重なる。それが幸せな関係の始まりではないとわかってはいても、そこで生まれる強い繋がりもある。ここで抱き合うことは極限状態に置かれたことによる衝動的なものかもしれませんが、その後、柳原が確信に満ちた表情で控訴審の法廷で嘘をつき続けるようになるのをみると、あの瞬間に彼は覚悟したように見えました。少なくともそういう演出に見えました。

しかし、そんな柳原の確信も、彼にすべての罪を押し付ける思慮浅い財前の法廷での発言で、もろくも崩れ去ります。
この確信から翻心する部分があまりに簡単すぎて、ちょっと拍子抜け感もあるのですが、満島真之介の熱演によって煙に巻かれてしまいました。やっぱり、あのキスシーンは衝動的なもので、二人に絆など生まれていないのだろうか、男と女とはそういうものだろうか・・・。ドラマでは二人のその後は描かれないので、結局わからないままですが、やはり、婚約者の彼女も彼の良心の呵責を理解し、それを表に出せない辛さに共感したからこそ抱き合ったわけで、その共感の底には、やはり彼の本音を採掘する何かがあったのでしょう。

アパートの小さなキッチンで慣れない手つきで食事の準備をしようとする嬉しそうな令嬢の姿は、籠の中であろうが、新しい世界を手に入れられるかもしれないというはかない希望そのものでした。そして、それこそが、彼女の側の本音の世界だったのかもしれません。

そして、その二人の本音と本音が重なった瞬間だからこそ、そのシーンは印象に残ったんだと思います。そんなこと滅多にないですから。

幸せとはなんだろうと問われたら、ひとつ「理解者がいること」と答えます(それが妄想だったとしても)。それが悪の道につながることであったとしても、その人の悲しみを共有した上での共感に支えられることもある。その共感に支えられ、理解者がいることで強さを得て、彼ら二人が悪の道を清算する勇気を持てれば、そのときこそ本当に幸せを感じられるのかもしれない。

ドラマでは、彼らのその後は描かれませんでした。田宮二郎のテレビドラマシリーズでは、どういう描かれ方だったかは覚えていませんが、youtubeで見た断片では、一方的に婚約者の親から破談の手紙が届いていました。LINEとかで連絡簡単に取れる今は、また違う展開なんだろうなって気もしますけどね。あの令嬢がかけおちでもして、一緒に無医村に赴いてくれてたりすると面白いのですが、、。意外に先祖返りして、また政争の道具に使われちゃうのか、、。わかりません。

ほんと、幸せな人間関係ってどんなもんなんでしょうね?
依存ではない信頼関係とはお互いが自立して初めて成り立つとはよく言われることだけれど、しんどい時に分かり合える人がいて欲しいのも確か。それが勇気となって自立の道を歩み出せることもあると思うのだけど、それはまだ私が自立できていないからそう思うのか・・・?

また、無差別殺人の犯人の話になっちゃいますが、しんどい時にどうやって人に頼れるかは、その人の未来を分ける気がします。それは秋葉原事件の加藤の時にも思いました。
今の時代、これこそが、いろんな問題の根底にあると思います。そのへんはまた別のところで書きたいと思います。

白い巨塔最終話(公開期限6月9日)
https://tver.jp/corner/f0035076
コメント

「白い巨塔」と無差別殺人と

2019-06-03 03:14:55 | がん徒然草
録画&Tverで白い巨塔をみた。駄作との声もあり、岡田准一が適役なのかという感じもあり、確かに突っ込みどころもある気もしたが、自分ががん患者という立場で見ると、演出を超えて、勝手に自分の人生に重ねていろいろ考えるから、じっと見てしまった。

それにしても、白い巨塔って、こんな裁判中心のお話だったっけ?と思いながら、本当のことを言えない辛さを抱えて生きることについて考えた。

私はまだまだ生きるつもりではいるけれど、それゆえかもしれないが、このところ、人生におけるいろんなわだかまりを解消したいという思いに駆られている。がんという病はそういう辛さを解消した先でなんとかなるのではないかとさえ考えている。

誤解や恐れや勇気のなさで、本当の気持ちをいえなくて、また、自分のプライドや甘えのせいで、おかしなことになってしまった関係性が人生の中にはたくさんある。すべてうまくいくことなどないだろうけど、本当はこう思っているということを自分の中で認めて、できることなら伝えて、残りの人生を生きたいと思う。

本当はわかりあいたいのにわかりあえない人がたくさんいる。
自分の臨終を囲むのはどういう人たちなのだろうか・・。
白い巨塔の財前の臨終のシーンを見ながら、そんなことを考えた。

自分の臨終を囲む人を想像することはなかなかに辛いことだ。
まだ、少し先のことだけに(先かどうかは不明だが)、より想像がつかず、不安の原因にもなる。

先日、無差別殺人を起こし自らの命も絶った容疑者は私と同い年。
人生の先も見えてくる年代だ。
彼は自分の臨終を囲む人について考えたことがあっただろうか。
臨終にそばにいて欲しい人(いてくれないにしても)さえ想像ができない人生というのは辛いに違いない。容疑者に同情するわけではない。彼は絶対的にやってはいけないことをやった。しかし、そうした辛さを胸に秘め、日々生きている人はほかにもたくさんいるはずだ。そうした辛さがどうすれば少しでも和らぐのだろうと思う。

飛躍しすぎと言われるかもしれないが、私が目指す火鉢カフェというのはそういうことも考える場所であったらいいと思う。

白い巨塔からあまりに飛躍しすぎだけれど、最終話の臨終のシーンを見ていたら、こんなことを考えてしまいましたとさ。

がんになって、不安を抱えて、今やっぱり一番に思うことは、素直にならないとダメだなあということだったりするのです。もう、財前のように名声や富を求める気持ちはとうにないから、まだ間に合うかもしれないって思います。

白い巨塔、まだTverで見られるけど、さすがに全5話は長いです。
私の世代には田宮二郎と山本学の白い巨塔が印象に残っているけど、youtubeに残る映像を見てみると、演技は拙いし、思ったほどではない。子供の時の印象を増幅して、記憶は改ざんされている。自分の身の回りのことに関しても、記憶は改ざんされているのだろうなあ・・。

白い巨塔とがんについてはまだ語りたいこともあるが、それはまた別の機会に。
コメント

4月3日(水)のつぶやき

2019-04-04 04:39:39 | おいしい糖質制限食をめざす
コメント

4月1日(月)のつぶやき

2019-04-02 04:53:20 | おいしい糖質制限食をめざす
コメント

3月31日(日)のつぶやき

2019-04-01 04:49:24 | おいしい糖質制限食をめざす
コメント

3月30日(土)のつぶやき

2019-03-31 04:50:19 | おいしい糖質制限食をめざす
コメント

3月29日(金)のつぶやき

2019-03-30 05:18:58 | おいしい糖質制限食をめざす
コメント

3月28日(木)のつぶやき

2019-03-29 05:14:18 | おいしい糖質制限食をめざす
コメント

3月26日(火)のつぶやき

2019-03-27 05:15:26 | おいしい糖質制限食をめざす
コメント