橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

鈴木清順監督の思い出

2017-02-23 01:42:57 | こじらせ人生
鈴木清順監督が亡くなった。
私が初めてディレクターをやらせてもらった30分の旅番組で旅人として出演していただいたのが鈴木清順監督だった。
監督の冥福を祈るとともに、監督に懺悔したいと思います。
(以下、長いのでご注意を)

旅先は鹿児島と私が担当になる以前から決まっていた。梅崎春生の小説の舞台となった「桜島」に行きたいという清順さんの意向以外は特に決め事もなく、旅の内容は私に委ねられた。20代半ば、初めてのディレクター。今考えると、本当に何もわかっていなかった。ただのアホだった。小説「桜島」も斜め読み。その内容を掘り下げて、旅を構成していく力量など当時の私にはなく、ただ、桜島の名所と、小説の中に登場した鹿児島の地名を追って、坊津や枕崎を訪れた。

よくある旅番組のごとくに、70歳の清順監督を、桜島の寒風の中、海を望む露天風呂に入らせたり、開聞岳を望む砂風呂に埋めたあげく、鹿児島の果て、鑑真和上がたどり着いたという坊津では、ただ「果て」というイメージに惹かれ、あてもなく歩きましょうと、「鶴瓶の家族に乾杯」のごとく、ノープランで田舎町を歩かせた。怖いもの知らずとはこのことだ。結果、その日の夜に清順さんとカメラマンから、ちゃんと撮りたいものを決めとかないとだめだろうと怒られた。本当にアホだったと思う。

あれから23年、学徒出陣で応召し、22歳で終戦を迎えた清順さんが小説「桜島」に抱いた思いとはどんなものだったのか、あらためて「桜島」を読んでみた。

読んだ。言葉が痛かった。

沖縄が玉砕したあと、水上特攻基地といわれた最前線の桜島で本土決戦を待つ人々。ほぼ死を宣告されたようなものの、ただ「勝つ」ことしか許されず、死ぬことも負けることも許されない人々の極限。そこで生き延びる人たちは時に人間であることを失う。

『(引用・ある兵隊の言葉)志願兵でやって来る。油粕をしめ上げるようにしぼり上げられて、大事なものをなくしてしまう。下士官になる。その傾向に、ますます磨きをかける。そして善行章を三本も四本もつけて、やっと兵曹長です。やっとこれで生活が出来る。女房を貰う。あとは特務少尉、中尉、と、役が上って行くのを楽しみに、恩給の計算したり、退役後は佐世保の山の手に小さな家を建てて暮そうなどと空想してみたり。人間の、一番大切なものを失うことによって、そんな生活を確保するわけですね。思えば、こんな苛烈な人生ってありますか。人間を失って、生活を得る。そうまでしなくては、生きて行けないのですか。』

そして、いよいよ本土決戦の空気が濃厚になると・・・

『(引用・主人公の言葉)私とは、何だろう。生れて三十年間、言わば私は、私というものを知ろうとして生きて来た。ある時は、自分を凡俗より高いものに自惚うぬぼれて見たり、ある時は取るに足らぬものと卑いやしめてみたり、その間に起伏する悲喜を生活として来た。もはや眼前に迫る死のぎりぎりの瞬間で、見栄も強がりも捨てた私が、どのような態度を取るか。私という個体の滅亡をたくらんで、鋼鉄の銃剣が私の身体に擬せられた瞬間、私は逃げるだろうか。這い伏して助命を乞うだろうか。あるいは一身の矜持を賭けて、戦うだろうか。それは、その瞬間にのみ、判ることであった。』

戦後72年。
これらの本土決戦を前にした人々の言葉は、今、私たちの心の中に浮かんでは消える言葉とどこか似ている。もちろん、志願兵などない、銃剣が体に擬せられることもないけれど、今、この日本の空の下で苛烈な人生と引き換えに生活を得、「私とは何だろう」と多くの人が自問している。

23年前、この小説をさらりと斜め読みしてしまったのは、私がアホすぎたのもあるが、1990年代半ばという時代はまだまだ「戦後」であり、この小説は私にとって「過去の話」だったからだと思う。当時の私は根拠のない明るい未来ばかりを妄想し、未来は過去とつながっていることに気づきもしなかった。そして、未来につながる現在がどんなものを孕み、時代はどんな方向に向かっているのか、兆しを感じることさえできずにいた。この「桜島」に描かれたような人間の本質が時代をどう変えるかなどに思いをいたす滴ほどの知恵もなかった。気づけば「戦後」は「戦前」になり始めている。

鈴木清順監督。
そんなことに今頃気づいたこのアホを許してください。

そんな監督との旅の最後は鹿児島の果ての坊津だった。
ノープランで散策しましょうと言われた清順監督は、小さな路地の奥に、縁側のある一軒の家を見つけ入っていった。私はカメラマンと少し離れたところからその姿を見守った。

縁側にはモンチッチのような小さなおばあちゃんが、一人ちょこんと座っていた。

「おばあちゃん家族はいないの?」
「息子らは大阪に行っとる」
「おじいさんは?」
「もう死んだ」
「そう、じゃあ今一人なんだ?」
「いや」
「え?死んだんじゃないの?」
「まんまんさんがおる」
「まんまんさん?」
「仏さんや」
「…あっ…そう…」
「・・・・」

そこで、ホーホケキョとホトトギスが鳴いた・・・ような気がするのは私の記憶の捏造だろう。黒い屋根瓦の上には白い花がちらほらと残る梅の枝が枝垂れている。空は花曇り。まだ少し肌寒い。縁側の、時間が止まったような空間にちいさなおばあちゃんと清順さん…。なんだかジーンとしたのはおばあちゃんの相手役が清順さんだったからに違いない。他の人と同じ会話をしたとして、幻のホトトギスの声は聞こえただろうか?

実はこのシーン、観光名所を巡る他のシーンとあまりにも落差がありすぎて、力量のなかった私はこれをうまく番組の中で活かすことができず、放送にのせることができなかった。けれど、これまでに私が関わった番組の中でいちばん思い出に残る場面を挙げよといわれると、今もこの場面を真っ先に思い出す。

人は誰でも「まんまんさん」になる。
このおばあちゃんのだんなさんも、戦争で特攻隊として海に散った若者も、清順さんも、そしていずれ私も。しかし、その人がどういう気持ちでまんまんさんになったかは誰にもわからない。

小説「桜島」の中で唯一死んだ見張り兵は、死と背中合わせの日々の中で「私は近頃、滅亡の美しさというものを感じますよ」と語っていた。しかし、その死後、主人公(梅崎春生)はこう語る。

「(見張り兵が)滅亡の美しさを説いたのも、此処で死ななければならぬことを自分に納得させる方途ではなかったのか。不吉な予感に脅おびえながら、自分の心に何度も滅亡の美を言い聞かせていたに相違ない。自分の死の予感を支える理由を、彼は苦労して案出し、それを信じようと骨折ったにちがいなかったのだ。」

鈴木清順”浪漫三部作”の美しさは、耽美と退廃の匂いをさせてはいるが、そこにあるのは滅亡の美だけではないと思う。”自分を納得させる方途”とか、”言い聞かせる”などといった消極的な美しさではなく、破滅に向かわずにはいられないほどの生命力のほとばしりが、その心臓を破裂させた鮮烈さ…のようなものがある。滅亡ではなく、生き切ったと言うべきだろうか(とか語ってますが、実はこれらの映画でさえも、かつて真剣に見ていなかった私は、ちゃんと語れるほどには憶えていないのです。しかし、多分そうなんじゃないかと思うのです)。

戦争というものは人々に「滅亡の美しさ」という悲しい幻を見せる。逆に言えば、その「滅亡の美しさ」が見え始める時、戦争は少しずつ私たちの足下に近づいて来ているのかもしれない。
そんな「滅亡の美しさ」と「生ききった末の滅びの美しさ」の違いを私は見分けることができるだろうか。

「戦後」が「戦前」に変わらないように、まずは自らの人生を「生き切る」努力をせねばならないと思う。

これが93歳まで生き切った清順さんの訃報に際して、考えたことである。

清順さん、あんな旅をさせてしまい本当にごめんなさい。
「まんまんさん」の世界も楽しんでください。


参加者予約受付中!「七輪で炭火パーティ」開催

2017-02-20 15:04:36 | 谷根千・上野浅草・下町

東京は谷根千にある写真館&カフェで

来たる2月25日(土)昼の部、夜の部の2回

能登の珪藻土七輪で炭火焼を楽しむ会を行います。

焼き物は四国愛媛の内子町の原木椎茸、同じく愛媛八幡浜のみりん干しほか。

上記写真の椎茸は原木椎茸じゃないので、今回のものとは厚みが全然違います!

パーティでは肉厚でいい香りの原木椎茸をご用意します。

そのほか、炊き込みご飯と椎茸汁、自分で焙烙で焙じるほうじ茶飲み放題も料金に含まれます。

予約方法ほか詳しくは以下のウェブサイトを参照下さい!

http://hibachiclub.blogspot.jp/


今期の各局ドラマの辛い台詞に打ちのめされておる今日この頃

2017-02-18 00:23:41 | こじらせ人生

今期の各局のドラマは今の自分に追い討ちをかけるような台詞が多くてちょっとブルーになる。

前期は『逃げ恥』にしろ、『校閲ガール』にしろ、夢物語みたいなドラマが多かったので、終始ご機嫌だったのだが、今期は

『タラレバ娘』のタラとレバに「30過ぎて、男も仕事もお金も何もないなんて今まで何やってたの?」と責められて「私はアラフィフだよ…」とうなだれ、

『カルテット』では「志のある三流は四流ということ」と言われて、「私は四流か…」と固まり、

『就活家族』では清掃のバイトをやりながら個人コンサルを立ち上げた三浦友和の姿に世間知らずな自らの姿を重ねて、今後の自分の行く末を憂えてしまう。

『クズの本懐』とかタイトル見ただけで怖すぎて、ドラマ見られない(ブルブルガクガク)。

『大貧乏』は共感できるのかと思ったが、貧乏がテーマではないし、

『嘘の戦争』はつよぽんの頬の陰影がキツくなればなるほど見てるこっちが辛くなる。

アドラーはもういいや。

なんか、前期のバラ色から今期は鈍色、どどめ色へ。どうしてこうも夢破れるシーン、希望が潰える瞬間を畳み掛けるのか…。そんなに現実の厳しさとやらを突きつけたいのでしょうか?

「夢破れて山河あり」と胸を張る余裕も無いのは、今の日本自体が夢破れてさらに山河なしって状態だからなのか…。

もう常識を超えるしかないのであります。