橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

TBS金曜10時ドラマ枠

2017-05-20 01:35:51 | メディア批評

今クールのTBS金曜10時ドラマ枠「リバース」の主題歌、シェネルの「Destiny」が意外に良い。これまであまり気にしてなかったけど、毎週聞いてるうちに「さ・だ・め・を・し・ん・じ・て・る」の1音に1字のサビのラストが気持ちよいことに気づいた。この金曜10時枠は前々クールの「砂の塔」の主題歌(THE YELLOW MONKEYの「砂の塔」)も同じように、毎週見てるうちにジワジワ来たが、ドラマの内容と主題歌の連動がもっとも上手く行っているドラマ枠ではないかと思う。

TBSのドラマは火曜10時の「カルテット」のエンディング曲にしろ、「逃げ恥」の「恋」にしろ、テーマとなる曲が決してタイアップではなく、ドラマの一部として成立していて、そのへんは他局より1歩抜きん出ている気がする。

ところで、金曜10時枠の話に戻るが、この枠、「砂の塔」から見始め、前クールの「下克上受験」は飛ばして、今回の「リバース」を見てるので、てっきり、サスペンス枠なのかと思いこんでいた。実際には違うようだが、もういっそのことサスペンス枠にしちゃったらいいんではないかと思う。

「砂の塔」は最終回視聴率13%超えを記録したし、「リバース」は1クールでやるにはちょっとネタが少なすぎる気もするが、悪くない。どちらも、現代的な社会現象や問題をうまく話に織り込みながら、翻弄される人間の姿と複雑な人間心理を描くことにテーマの中心をおいていて、社会の仕組みの矛盾や推理の鮮やかさを中心に据える昨今の警察もの、推理もののドラマとは一線を画している。

最初はタワーマンションのママ友のマウンティングの話かと思っていた「砂の塔」が、実は母親とは何かを考えさせる、今、日テレで放送中の「母になる」のテーマに近いものを含んだ、しかも巧妙な仕掛けの施されたサスペンスであったことが、この枠に注目するきっかけとなった。今回の「リバース」も結末を知っていても(原作読者は知ってると思うが)、人間心理のドラマとして見られるし。

このTBS金曜10時枠、意外にありそうでなかった現代における松本清張ドラマ的な枠になりそうな気がするのだけれど、サスペンス枠にしません?TBSさん。
考えてみたら火10の「カルテット」もサスペンスだったなあ。

見てないドラマのほうが多いので、ほかにいいサスペンスがあったらごめんちゃい。


雑誌「ku:nel」が50代女性向けにリニューアルしたというので買ってみた

2016-01-22 04:12:03 | メディア批評

マガジンハウスの雑誌「ku:nel(クウネル)」のリニューアルがスゴいことになっております。Amazonのレビューはほとんどが★1つ。全く違う雑誌になってしまったと既存のファンが嘆きまくり、酷評が続いています。わざわざ、こんなこと書かなくてもいいのですが、私も買って損した〜と思っちゃったので、思わず投稿してしまっております。

でも、この反応は編集部も織り込み済みなのかもしれません。リニューアル担当者は、もともとの「ku:nel」なんて「しゃらくせえ」くらいに思ってたんだろうなあ…というのが、ページの隙間に垣間見えるような誌面でした。

もとの「ku:nel」のコンセプトは「ストーリーのあるモノと暮らし」でしたが、リニューアル後は「自由に生きる大人の女性へ」にチェンジ。「モノの物語」がどうこうよりも、それを使う「私の物語」のほうこそが大切なようです。特集は「フランス女性の生活の知恵」。パリ在住の熟年女性数人の暮らしが特集されています。

ところで、ここ10年ほどは、旧ku:nelをはじめとして、モノにストーリーを見いだす、「大事に暮らす系」の雑誌が全盛でした。しかしここへきて、それもちょっと翳りを見せ始めています。そもそもは、大量消費に辟易した人たちが、ひとつひとつのモノの背景を大切にしたいと思った結果、”ストーリー語り”に行きついたわけですが、いつのころからか、売れるためにはストーリーがないとね、なんて言われるようになり、気がつけば、もうお腹いっぱい。家中、ストーリーだらけで重いっすって感じになってきておりました。私もモノの背景には興味があるものの、「しゃらくせえ」と言いたくなる気持ちも分かります(誰も言ってないって)。

そして、2016年大寒。
そんなしゃらくささを払拭し、大人の女が「これがカッコいい生き方なのよ!」とズバンと言ってくれるならと、どうリニューアルされるか楽しみにしておりました。現代の「自由に生きる大人の女性」をどう表現してくれるのかも見てみたかったですし。

しかし、そこにあったのは、結局「自由な大人の女性の物語」ではなく、モノのオンパレード。フランス女性の暮らし紹介においても、彼女たちが何食ってるだの、何使ってるだの、モノの固有名詞が並びます。結局「私の物語」は「モノ」という登場人物によって語られる…。そして、そのモノたちには、もはやストーリーもありません。結局、バブルの味をしめた世代は「モノの記号」の組み合わせでしか、物語を語れないのか…そんな落胆を感じました。

文中には「こだわり」という言葉や、「祖母の仕事を見ていたので…」とか「日々の小さなことに幸せをみつける」みたいな言葉が散りばめられ、かろうじて「ku:nel」っぽさを醸そうとしています。しかし多分、旧ku:nelファンからは「そういうことじゃない!」と言われてしまうのでしょう。あまりにもありがちな表現すぎて、そういう常套句から、自立したフランス女性の生き方は伝わってこないのでした。全体的に、取材者が自分なりの視点を持って取材していると思えないところが、一番痛いところかもしれません。

今や日本人女性の多くにとって、フランス人女性の素敵な生き方ってどうなの…という疑念もわきます。フランス女性をお手本にするのって、私などにとってはちょっと小っ恥ずかしいのでありますが、多くのアラフィフ女性はどうなんでしょうか。それに、フランスもテロが起こったりして、なかなか大変そう。そういうことすっ飛ばして、素敵…と言ってるのも、なにかしっくりきません。

とかなんとか、いろいろ文句を言ってしまいましたが、結局一番不満なのは誌面にパンチがないこと。せっかく、「自由に生きる大人の女性」に向けて発信することにしたのですから、もっと自由な誌面にしてほしかった。自由を象徴する「冒険」とか「知的好奇心」みたいなものがまるで感じられないのです。結局、50過ぎたら魯山人かい…。また肩を落とします。

オザケンやオーケンが常連だった「オリーブ」読んで大人になった今のアラフィフは、バブルというモノのシャワーに、知的好奇心も冒険心もアナーキーさも流されちまったんでしょうかねえ。
オザケンもオーケンも紆余曲折を経て、また昔とは違ういい味出してるっていうのに…。

50女に自由を!

そういえば、私物の骨董の器を紹介するコーナーがあって、5人の女性が採り上げられていましたが、5人とも肩書きがあるだけで、プロフィール紹介も顔写真も載っていない。で、その5人の最初を飾るのが、「主婦の秋元麻巳子さん」。主婦…。結局、この顔写真もプロフィールも明かさない人選が今号でもっともインパクトがあったかもしれません。まみこもう50なのか…。

ながくてすいません。
780円もしたんで、つい愚痴が多くなりましたw

私だったら「オザケンの反グローバルライフ in NY」とか
「オーケンのオカルト社会学」とか、「戦うファッションの系譜by川久保玲」とか連載してもらいたいです!スポンサーつかないと思うけどww

 
 
 

「映像は合成か」とか言ってる間に72時間経って…

2015-01-25 03:20:52 | メディア批評

後藤さんと湯川さんの映った写真(最初のもの)の信憑性について取材を受けた映像編集者の方が、その取材について抗議されている。このブログは記名ブログではないので、本当に取材を受けられ方(新聞には名前出てます)のものかは確認してはおりませんが、ここに書かれていることが本当だとしたら、由々しきことだと思い、リンクしました。

http://metasan.blogspot.jp/2015/01/blog-post_23.html?spref=tw

このブログの記事が正確だとすれば、取材電話をかけて来た記者さんは、「政府関係者から、合成の疑いがというコメントが出たので、それに沿わない部分は書く必要がなくなっちゃいまして…」と言って、この映像編集者が語った中の「合成ではない可能性をほのめかす部分」は”ほぼ”カットしてしまったようだ。この言葉遣いのどこまでが正確なのか確認はとれないが、これを信じれば、この記者さんは政府の発表は常に正しいという前提で記事を書いているようだ。

この映像編集者さんは「太陽光で撮った可能性は否定出来ない」旨話したが、「太陽光では原則こういう影はできない」という記事になっていることを非難しておられる。一方、記者は「原則」という言葉をつけたことで問題ないと考えているようだ。しかし、それは記者の側の論理で、読む人からすれば、太陽光下の写真じゃないんだなと判断するだろう。

そして問題なのは、もし政府がこの写真が合成ではないと発表していたら、この記者さんは、映像編集者さんの言葉を「太陽光下で撮った可能性もある」という方向で使用しただろうと思われることだ。記者自身が、政府の発表次第で言葉の使いどころも変わるという大変なことを、さらっと言っちゃってるのが恐い。あくまで、このブログの記述が正確ならの話ではありますが。

ほんと、読む側には、その文章の中に込められた「逃げ」のニュアンスや「含み」は分かりづらい。こうした記事を書いたことのある人間ならば、なんとなくその背景にある事情は分かるが、読者にとってそんな事情は関係ないのだ。「原則」とか「基本的に」などという言葉が挟まった文章をよく見かけるが、そんなものはほぼ機能しないことを肝に命じて、記事を書いて欲しいなと思うのである。

と、ここまで来ていうのもあれだが、そもそも、この映像の信憑性に関するニュースにどこまでバリューがあるのかがずっと疑問だった。偽物だったらどうだというのだ…。そう思いながら報道を見ていた。もしこの画像が偽物だった場合、どういう状況が考えられるのだ…そういう疑問がないまま、これは偽物か否かの変な分析だけが続く…。

誰か、安倍ちゃんとか菅ちゃんに聞いてみなよ「これが合成だったら、どうなんですか?合成したってことにどういう意味があるんですか?」。

本物の2S画像を使って脅迫するのと、偽物を使って脅迫するのって、どう違うんだ??違うとすれば、人質がもう亡くなっているのに身代金を支払ってしまう可能性があるということだけではないのか?政府が「合成の疑い」と言ってるってことは、もう人質は亡くなっているかもしれないと考えてるってことなの?と私は一瞬思ってしまった。他の場所にいる2人の1S写真を合成したとしたら、それを一つにすることに意味ある?

ああ、わからない…。私はアホなんでしょうか?
「合成の可能性」を一生懸命取材していたメディアの方に教えていただきたい。なぜ「合成の可能性」がそんなにたくさんニュースの時間を割く程、重要な問題なのか…。

今、湯川さんが殺害されたと思われる新たな映像がアップされたとの報道。まだ真偽は確認されていないが、もはや「合成の可能性」とか言ってる場合ではない。5日前の段階でもそんな場合ではなかったはずだ。だって、去年のうちに拘束した旨のメールがイスラム国から届いていたわけだし。

イスラム国とのルートが有るという中田さんと常岡さんにも連絡来ないようだし、やっぱ、政府、やる気あるのかよ…としか思えない。

こんなとき強い味方であるはずの”有志連合”の方々は協力してくれているのあろうか…と思う。いや、こと中東においては、有志連合は役に立つどころか害悪。集団的自衛権とかもっと害悪。テロリスト虫を寄せつける夜の外灯みたいなもんだ。


岡田斗司夫の「風立ちぬ」評が凄すぎて・・・

2013-08-10 16:21:39 | メディア批評

岡田斗司夫の「風立ちぬ」評が凄すぎる(以下リンク)。

http://blog.freeex.jp/archives/51393680.html

(おおいにネタバレですので、映画を見てない方はご覧にならない方が良いかと思います。かなり引きずられます。)

私は自分のブログの「風立ちぬ」の感想http://blog.goo.ne.jp/ebisu67/e/9dba6e6894b96462de2c9f7f5ce76ffbで、おもにその風景の美しさについて書きました。映画を見てそこにしか反応できず、どう言っていいか分らないまま、ほかの部分は保留にした上で、最後にこう書きました。

「『風立ちぬいざ生きめやも』の方に私がそれほど反応できなかったのは、人間社会を怖がっているからなのかもしれません。そんなことを考えて打ちのめされてもいたりします。」

理想を語り、悪い人にはなれず、自分を汚す者には近づかない自分は、本当には人間というものが何もわかってはいないのではないだろうか…という引っかかりとかわだかまりです。なぜかこの映画を見て、こんなことを考えました。
 岡田斗司夫の感想を見てわかりました。「風立ちぬ」はまさに、私がわだかまっていたような部分を考えさせられる、そういう自分を顧みざるをえなくなる映画でした。下手するとこれまでの自分をひっくり返して、いま一度そのあり方を考え直さねばと思うきっかけとなるような映画でした。手放しで良い映画とは言えなかったわだかまりは、そういうところにあったのか…と納得しました。ただ、宮崎駿がメッセージとしてそういうことを打ち出しているわけでは全然ありません。むしろその逆。
いろいろ考えさせられるとか思ってるのは私の個人的問題であり、自意識過剰です。

岡田斗司夫は「風立ちぬ」を100点で98点、宮崎の最高傑作と言っています。その論に従えば、私もそう思います。でも、先にも述べたように、良い映画だった!と素直には言えない感じもあります。これって、自分に自信のある人じゃないと素直に良いと言えない感じがします…。人生の半分以上を終えてしまった自分の現状のダメさとか、人と上手く関われない自分が今後どうしたらいいのかを突きつけられる気がして、頭を真っ白にしたくなりました。あまりの暑さに、何もする気がしないのが、そういう考えにさらに追い討ちをかけます。鬱になりそうです。
自分のダメさを突きつけられるからというだけではありません。じゃあ、バリバリとなにかをやれたとして、その先にあるものは何かをこの文脈で考えると…。やっぱり鬱になりそうです。
そう、「風立ちぬ」をちゃんと語ると鬱になりそうだから、立ち止まっちゃうんです。やはり手放しで良い映画!とは言えない。でも完成度は高いのです…。

でも、多分、今の私はこの岡田論に影響されすぎてもいます。
自分にとっての「希望」とは何なのか…。まだまだ考えることはたくさんありそうです。自分は単純すぎる。でも、複雑であることがいいことなのか…。じゃあどう生きる?ああ、また頭ぐちゃぐちゃです。

自分でもアニメを作っていた岡田斗司夫は、ひとつひとつのシーン、登場人物の視線の方向などから様々なことを読み解いてます。宮崎駿がそう描いたのには理由があるとすべて分析しています。そういう細かいところから分析しながら、人間の深い業とか、美と残酷とか、大きなテーマに言及しています。確認の為に映画もう一度見たくなります。


「風立ちぬ」をいまだ引きずっている。よくわからないのだ。

2013-07-29 21:03:38 | メディア批評

昨日、宮崎駿監督の「風立ちぬ」について書いた。おおむね好意的な感じだったのだけど、やはり最後の一文に「第一弾の感想、時間がたつとまた変わるかもしれません」と書いたように、なんだか引っかかる。

実は私はオンタイムで宮崎作品を見たのは、ポニョと千と千尋と風立ちぬだけだ。あとは子供の時のハイジとコナンまで。未来少年コナンは小学三年当時めちゃくちゃはまり、めちゃくちゃ影響受けていると思う。しかし、あとは映画のテレビ放映さえも見ていなかった。で、何が言いたいかというと、実は千と千尋もポニョもそれほどは感動していないのである。あれだけ世の中が騒いでいるのに、なぜ感動しないのかは謎だった。コナンであれほど感動したのに…。

ののけ姫とナウシカの漫画本は去年末に初めて見て(読んで)、これはよいと思った。

もののけ姫やナウシカ本への共感から、この映画も良いと手放しでいいたい気持ちが先走ったが、そう素直にはいえない自分がいる。美しい風景に涙が出たのは事実。でも、映画が終わったときにはどういっていいかわからなかった。事前に他人の批評は読まずに行った。今、ググってみると、共感できないと言ってる人も結構いるのですね。中森明夫など、これを批判できないようだと宮崎駿ファシズムだとまで言っている。

説明できない…と諦めてたけど、この映画は、素直に感動できない理由をもう一度ちゃんと言語化したほうがいいのかもしれないとも思った。

本当に駄作なのか、自分が何かに気づいてないだけなのか…。

中森明夫は、この映画を批判しているけどどう言ってんだろう。気になる。

 

 


「風立ちぬ」を見てきました~国破れて山河あり

2013-07-28 13:48:16 | メディア批評

「国破れて山河あり」。

震災後、ずっとこのフレーズが頭の中を漂っているのですが(内田樹さんがよく使われているのもありますが)、「風立ちぬ」を見て、最初に浮かんだのはこの言葉でした。

 冒頭のシーン。屋根の上から見晴るかす山並みと田園は、まさにそこを飛行機で飛びたくなるような素晴らしい風景。まだ何も物語は始まっていないのに、涙がこぼれました。そこにあったのは、戦前の日本の美しい景色。雄大な自然の風景だけではありません。蚊帳の向こうにボケる庭、低い町並みと看板の一つ一つ、町行く人の服装、立ち居振る舞い、牛が飛行機を運ぶ道行き…。歩くスピードで生きる人々の暮らしの風景は、黄昏時を思わせる、なんともいえない色気のある美しさでした。

 実話をもとにした話ですから、描かれる風景は、夢の一部をのぞいては、かつての日本の実際の風景なのでしょう。それは、これまでの宮崎映画に出て来る空想や歴史資料を元にしたずっと昔の景色ではなく、戦前生まれのお年寄りならぎりぎり見たことがある、また私たちもう少し若い世代も写真で見たことがあったり、想像がつく、手に届く時代の日本の風景です。

 飛行機の映画ですから、上空からの俯瞰で描かれる景色もたくさんあります。飛行機って風景を眺めるためにあるのだなあと思ってしまいます。それも、風景を“眺める”だけでなく、風に乗り、風景を“感じる”、風景と”一体になる”ためにある。 

唐突ですが、今人気の朝のテレビ小説「あまちゃん」のオープニングタイトルもラジコン飛行機からの映像です。三陸海岸の風景がやたらとグッとくると感じていましたが、ああ…と納得しました。

そのように、飛行機は使い方によっては、美しい風景をより美しく見せてくれるものです。しかし、戦争は飛行機から見た風景を、血の海に、ガレキの山に、荒野に変えてしまいます。

映画のパンフレットには「飛行機は美しい夢」と題された宮崎駿監督の企画書が掲載されていて、その末尾は「全体には美しい映画をつくろうと思う。」で締めくくられています。まさにそんな映画でした。

限られた時間を一生懸命生きる…という多くの紹介記事に書かれているテーマについても思いは巡りましたし、自分にも時間は無い…と身につまされはしましたが、今の自分の涙腺を最も緩めたのは、風景のほうでした。自分の仕事はこれです!と胸を張れる自信の無い私にとって、生きねば!のほうに心が動いてもいいはずなのに、涙が出たのは風景でした。

 「もののけ姫」や「ナウシカ」の時は、映画を見ながら文明論めいたものを言葉で考えようとしました。しかし、この「風立ちぬ」はそういう気にならなかった。いろんなことが考えられそうだけど、それで出てきた言葉は空回りしそうな気がします。風景が語るものは思ったより多い。いや、多過ぎて複雑で説明することができない。考えることを放棄しているだけなのかもしれませんが、ちょっと立ち止まって、言葉の無い風景に涙が出てきた意味を考えて見ようと思います。

 「国破れて山河あり」。

しかし、今の日本は、原発事故という未曾有の出来事によって、この自明の真理さえ覆されかねない状況です。やっぱり、国破れても山河は残らなければならない。「風立ちぬ」に描かれた日本の風景を見ていて、あらためてそう思いました。

でも、「風立ちぬ、いざ生きめやも」の方に私がそれほど反応できなかったのは、人間社会を怖がっているからなのかもしれません。そんなことを考えて打ちのめされてもいたりします。そういう意味では、この作品が駄作であることを望む…。

とりあえず、第一弾の感想です。時間が経つとまた変わるかもしれません。


映画「よみがえりのレシピ」が面白い。地域振興について考えた

2012-12-03 22:59:29 | メディア批評

先日、「よみがえりのレシピ」という映画を見た。山形県鶴岡の在来野菜の話。とてもよかった。その土地の風土の中で長年作り続けられてきた在来野菜。有名なところでは京野菜とか、個別には下仁田ねぎとか亀戸大根だとか。随分種類が減ってしまったけれど、在来野菜を守る活動は最近では東京でもぽつぽつ行われている。しかし、焼き畑農業のいまだ残るここ鶴岡の農業と作られる野菜の美しさは格別で、美しい映像に涙さえ禁じ得なかった。

美しいのは野菜の姿だけではない。人々が素晴らしい。

たまたまなのかもしれないけれど、在来野菜に興味を持つ山形大学の准教授がいて、在来野菜のおいしさに惚れ込んだ気鋭のイタリアンのシェフがいて、在来野菜を漬け物にしたい地元漬け物会社の社長がいて、彼らの野菜に対する愛情が、ひっそりと細々と在来野菜の種を守るべく栽培し続けてきた農家の老人たちを呼び寄せることになった。今まで日の目を見ずとも、栽培が面倒でも、絶やしたくないと、たった数人の老人たちが作り続けていた在来野菜が、准教授やシェフや社長の熱意で日の目を見た。奇跡のような出会いだと思った。

 この奇跡のような出会いはやはりたまたまではないのかもしれない。そう思ったのは、在来野菜を作り続けてきた地元の老人たちの言葉の一言一言があまりにも美しかったからだ。ネタバレになるからここでは具体的な言葉は書かないが、是非映画を見て、一人一人の農家の人の言葉を聞いて欲しい。どんな詩人も及ばない、からだからにじみ出る本当の言葉をそれぞれが語っている。鶴岡の農家の人はすごい。その言霊にいろんな人々が呼び寄せられたに違いない。もちろん、他の土地にだってそういう人はいるとは思うけれど、そういう人が孤立せず、最終的に人が集まり活動の輪となっていったのは、たまたまではなく、やはり鶴岡というところの風土のなせる技なのではないかと思う。行ったことはないが、画面を見てそう感じた。

あと、目から鱗だったのは、イタリアンのシェフの存在。

ああやはり、表現者がいてこそだ。この在来野菜復活プロジェクトが進んだのは、彼の作る料理の力が大きい。もちろん、彼の力だけではない。野菜と彼を繋いだ大学の先生の存在や、野菜そのものの力があっての料理である。多分シェフ本人もそう言われるだろう。けれど、在来野菜の良さを何も知らない第三者に認めさせる、納得させるという点において、この料理のおいしさとビジュアルは最強である。私はまだこの料理を食べたことはないけれど、映画の画面を見ただけで、これは鶴岡に行かなければ!と思った。最近、ミシュランとかグルメとかいう言葉にはちょっと懐疑的である自分がこの料理にはすごく食指が動いた。シェフは味のプロであり、説明のしにくい「野菜の味」についても、わかりやすく説明してくれる。その説明が、映像で見るだけの料理に命を吹き込む。見ただけでこれだから、実際食べておいしければ、より一層、在来野菜というものに対する信頼(信仰というべきか)は高まるだろう。

私の田舎にもこういうスーパーシェフがいればなあ・・・と思った。

地方に特産物があったとしても、それが一品種でなんとかなるほどの特徴的なものでない場合、鳴かず飛ばずなことが多い。野菜は多分そういうものだ。そのおいしさや特徴を理解し、さらに誰にもわかるように表現してくれる人がいない限り、その産品の良さは広くは理解されない。「誰にもわかるように」というところが難しい。山形の在来野菜も漬け物屋さんが漬け物を作っている段階ではなかなか理解されなかった。やはり地味なのだ。派手なのがいいわけではないが、一旦消えかけたものを復活させるというような場合には、発破も必要なのかもしれない。

私の田舎は、かつては水揚げ西日本一といわれた漁港とみかんの町なのであるが、今や漁港は見る影もない。ただ聞けば、鱧の水揚げは日本一とかそうでないとかのレベルで、水揚げされる雑魚の種類の多さも有数なのだそうだ。しかし、あまりそれは知られていない。地元にそれらの良さを理解し、素晴らしい料理に仕立ててくれる料理人がいれば・・・。

地域振興ということで考えれば、シェフは在来野菜プロモーションのプロデューサーとディレクターを兼務しているような存在だ。そしてそこに、歴史的、科学的裏付けをもたらすブレーンとしての「大学の准教授」という存在。言い方はいやだけれど、権威の力でもある。さらに、最初は売れずとも地道に在来野菜の漬け物を作り続けた「社長の野菜への愛情」はスポンサーのようなもの。そして、こうした人々の熱意が、細々と心もとなく在来野菜を守ってきた農家の人々=主役の心に火をつけた。

一部の人だけが張り切っても地域全体が盛り上がることはない。また、儲けだけを考えたら多分地域振興は失敗する。鶴岡では、いろいろな立場の人が自分の持ち場で真摯に仕事と取り組んでいた結果が何かを呼び寄せて、今回のような出会いに繋がったのだろう。多分、私の田舎も、シェフだけ呼んできたところで上手くはいかない。本気の人が集まった時に生まれるパワーというものをこの映画は見せつけてくれた。

そんな鶴岡はまさに地域振興のお手本なのだが、これをマニュアル化することはできない。在来野菜と同じく、地域振興の方法にもその土地土地に合った形があるはずなのだ。シェフが重要とは思うが、今回登場した奥田シェフが私の田舎に行ったからといって成功するというものでもないと思う。

すべては自分の地元を愛するところから始まる。すべてを愛せなくとも愛せる部分を見つける。そこからしか地域振興は始まらない。今時、地元を愛するなどというと、愛国心と結びつけた変な方向にも逝きかねないので、あえていえば、愛するとはその土地の風土の良いところを愛でるくらいの意味で、英語で言うパトリオティズム、愛郷心。景色や食べ物など具体的な風物を愛することで、決して国家を対象とするナショナリズムではない。つまり愛するものも中央集権ではなく、自分の身の回り、地域それぞれであるべきなのである。

今の時代、そうなっていないから、地域振興というものがなかなかうまくいかないのだと思う。地方から東京に来た人間が言ったのでは説得力がないかもしれないけれど、東京とて21世紀はそれぞれの町が地元の魅力を磨くことでしか生き残って行けないと感じている。

地域振興は自分の地元の良いところを見つけるところから。

そんなことを考えさせられた「よみがえりのレシピ」であった。

 

ところで、最後になったが、種(たね)の話をしてこの長い投稿を終わりたい。

今、農業の世界ではF1種の種というのがじょじょに問題視されはじめている。多くの農家では、F1種という、一代限りで子孫を残せない種で野菜を栽培し、次の年はまた新しく種を種屋から買っている。品種改良によって安定的な収穫は得られるかもしれないが、その種からは二代目は生まれないか、生まれても一代目のような形状にはならないらしい。F1種とは、一代のみの安定的な生産を目指して品種改良により生まれたもので、二代目以降は勘案していないのだそうだ。そうすることで、農家はまるで小作のように自立性を奪われ、生産を種屋に依存することになってしまうという。TPPで農業に関して何が問題だといって、一番はこの「種の問題」なのではないかと思う。こうした農業のあり方はアメリカが本場であり、TPP受け入れによって、世界的な種屋に日本の農業が依存してしまうことである。TPPの問題は一般に考えられているような、単に生産物の輸出入の問題だけではないのだ。いざという時、種を売ってもらえなければ、日本は農作物を作ることができなくなってしまうということにもなりかねない。軍備よりも何よりも必要な安全保障は食料自給である。映画ではその辺には触れていないが、こちらの問題も、緊急に考えるべき大問題なのだ。

 「よみがえりのレシピ」は12月15日から東京渋谷アップリンクで上映が決定。来年は各地で公開するそうです。

詳しくはこちらを。

「よみがえりのレシピ」公式サイト http://y-recipe.net/


マスメディアも人のせいにしてる場合か~なぜ「菅首相退陣表明」の速報テロップが出たか

2011-06-04 10:42:33 | メディア批評

菅総理が辞任の時期を明確にしないことで、鳩山さんがダマされたとか、菅の猿芝居だとか、やっぱりそもそも小沢が悪いんだとかテレビや新聞は大騒ぎであるが、一番悪いのはマスコミじゃねえのか今回の場合。それもテレビの罪は大きい。

なのに、今朝もテレビをつけたら、いまだに反省も無く、「なぜこんなことになったのか?」なんて分析してる。なんで政治家の中で犯人探ししてるのか意味分からねえ。これって、政治部の記者がダマされた、アホでしたってことに私には思えるのだが、テレビを見る限り、そういう自覚はないみたいだ。

というのは、不信任案決議の日の、民主党代議士会の中継。菅総理が「私が果たせる一定の役割を果たした段階で、若い人に責任を引き継いでいきたい」そう言い終わるか終わらないかのうちに、テレビの速報で「菅首相退陣表明」というテロップが出た。

え?なんで?と思った。

「一定のメド」なんて、こと原発事故の収束のメドなんて、もちろん早く収束して欲しいが、いつになるかなんて誰にも分からない。これ、あとでどうとでも解釈出来る内容じゃん。あの演説の言葉を聞いてとっさにそう思った。

しかし、テレビでは「菅総理退陣を表明」って見出しでニュースをやっている。だれも、それを疑っていない。まあ、つぎに演説した鳩山さんも、もうみんなひとつになりましょうよなんて、不信任に反対みたいなこと言い出したんで、みんなもうそっちに流れるのが既定路線だったんだろうけど、もし、あそこで、「この一定のメドっていつのことなんですかね?菅さんもしかしたらそのへん曖昧にしてませんかね?」って論評する解説者がいて、速報テロップが「菅総理、退陣の意志示すも時期は明言せず」だったら、それを目にしたり、耳にしたりした小沢派の議員とかは、これはちょっとおかしいぞ?ということになって、投票行動を変えていたのではないだろうか。

特に代議士会に出席していない参院議員はテレビを見ていただろうから、そういう評価があれば、それを同胞の衆院議員につたえて、いま一度、投票方針を考え直すよう、投票までの短い時間ではあるが、奔走したのではないだろうか。それで状況は変わっていた可能性がある。

 

なぜ、あんなにはやく「菅総理退陣表明」のテロップが出たのか。

 

それはいつものことであるが、すでに記者がそういう情報を得ていたからであろう。しかし、確認文書には「辞める」とは一言も書いていない。

その文書は投票時間の前には公開されているし、あの確認事項はどうみても辞めることを確認しているものには思えない。「民主党を壊さない」というあたりに、「菅総理が居座ると不信任賛成者が増えて、民主党は保たなくなるから辞めるしか無いだろう」という鳩山氏の希望みたいなものは垣間見えるが、それは希望でしかなくて、そんな文書が効力をもたないことなんてあのどうとでも解釈出来る法律を見慣れた人間なら分かるだろうにと思う。

 

なのに、なぜ誰もそこに疑義を挟まなかったのか?

 

多分、菅さん側の有力議員の誰かが、そのへんを分かってて、「これは菅さんも腹を括ったね」って、記者に言ってたんだろうなあ。そんで、記者たちの間では、「もう菅さん腹括った」が既定路線になっちゃったんだろう。

私の勝手な想像ですけど。

以下、私の勝手な想像でお送りすると、マスコミの記者もあの確認文書を見た時、時期が明示されてないなくらいは思ったと思う。それをどう解釈するか。自分の判断じゃなく、政治家への取材でそこの含意を測ろうとしたんだろう。しかし、利害当事者である民主党の人間に話を聞いた所で、自分に都合のいいことしか話さないのは当然だ。

執行部に近い人間は、多分、あの確認文書が絶対的なものでないことが分かっていて、「確認文書交わしたんだから、総理は腹を括った」と言うだろう。その場合、「腹を括る」の意味は、震災復興に命をかけるくらいの意味だと思う。辞めるということではない。一方で、鳩山さん周辺の人間は、希望的観測もあり、記者に対し「菅さんは辞めるよ」と言うに決まっている。

 結果、速報「菅首相退陣表明」となる。

 

政治部の記者は、自分が政治家と近く、そこからインナーサークルの情報を確実にとれるということが、できる政治記者だと考えている。しかし、それは諸刃の刃でもあって、政治家にいいように使われてしまうことも多い。

特に近年、政治家にとってマスメディアは「利用するもの」となっている(それは官僚にとっても同じだ)。今回の事例なんて、それのいい例ではないかと思う。政治家の意見は意見で聞きながらも、客観的な視点を保ってあの確認文書や菅総理の演説を聞けば、すぐに「菅首相退陣表明」の速報テロップは打てないはずである。ほんと、マスメディアは、自分たちも今のぐずぐずな状況に加担しているということを自覚した方がいいと思う。

でも、自分で判断して、結果誤報を出すことを恐れているのだろうなあ~。

鳩山さんがダマされた、菅さんがダマした。あの議員はこういってたのに、なぜだ・・・。誰かに聞いて取材すれば、誤報を取材源のせいにできるもんなあ…。

誰か権威のあるものとか、肩書きのあるものが言わないと、情報を情報とも認めない。こうしたメディアの風潮はなんとかした方がいいと思う。

それじゃあ、権力者に利用されるばかりだ。

 

もし、私が今もテレビの仕事を辞めていなかったら、報道フロアで、あの代議士会の中継を眺めながら、「これっていつ辞めるかわかんないじゃん?」とぶつぶつ言ってたと思う。けれど、そんなぶつぶつは、スタッフルームのみで留まり、政治部には届かない。政治部記者は既に「菅総理退陣表明」でテロップを用意していて、取材で裏とれてるからといって、私みたいな契約ディレクターの言葉など誰も聞いてくれなかったはずだ。多分ね。想像ですけど。


かつて報道の仕事をしていたころ、政治家の会見や演説を聞いていると、結構「へ~っ」と思うことが多かった。私は、取材に飛び回るクラブの記者と違って、そうした情報をもとにしながら番組を作る仕事をしていたので、政治家に直接話を聞ける機会は少なく、会見や演説をくまなく見ることで、情報を得ようとしていた。デイリーニュースの頃はなかなかくまなく見るのは難しかったが、ウイークリーの頃は時間に余裕もあったので、取材テープを見れるのをいいことにいろんな人の取材VTRを見た。

一番、なんだよ!(怒)と思ったのは、オバマのプラハ演説。

あの演説で、彼が「長崎と広島」に言及し、「我が国は世界で唯一核兵器使用した国」という言葉を聞いた時、これは画期的な演説だ!と思った。自分の番組内では「スゴいですよ」と騒いでいたが、当初、あのプラハ演説の中で切り取られ放送で使用されたオバマの言葉は、核開発を標榜する北朝鮮やその意志をかいま見せるイランに対する牽制の部分だった。その頃はデイリーニュースの担当で、その日、そのニュースの担当では無かったので「そこじゃないだろ!」と歯がゆい思いをした。多分、当初は、国際通信社が切り取って配信した部分をそのまま使ったのだと思う。確か、毎日新聞はそこの部分に触れるのが早くて、特集記事を書いてたと思うが、それ以外のメディアが、オバマの画期的な発言を賞賛し始めたのは、数日経ってからだった。

政治家や経済人は会見で実はいろんなことを言っているのに、取材者の方が、当初から「欲しい答え」しか求めていないために、結構重要な事項が見落とされていることが多い。でも、政治家はやはり政治家で、彼らのおはこともいえる演説や会見の行間で、その表情も含め、本音やその人の本性をかいま見せることも多いと思う。

まあ、記者からしてみたら、こういうのを「素人」の見方というんだろうけど、今や、食い足りない「素人」たちが、衆院や参院のウェブ中継や、ニコ生、USTREAMなど編集されない記者会見の全貌を見て、みずから考える時代になっている。私がテレビ局内にいる特権で、でも記者クラブにははいれない非特権階級として何年前からやっていたこと(会見VTRを見ること)を、今や、別にテレビ局内にいなくてもある程度誰でもできるようになっている。

だからこそなお、政治記者は、差別化を求め、インナーサークルでの取材にこだわるのかもしれない。しかし、それは「利用される」ということと紙一重であることに厳しく自覚的であらねばならない。

ただ、私も、もし特権階級であったなら、インナーサークルでとれる情報を重視していたかもしれない。非特権階級だったからこういう批判的な見方をするようになっているのかもしれない。

でも、今回の不信任案決議の顛末を見ると、やはり、マスメディアが政界内部情報に振り回された感はいなめない。引いた目と両方が大事だ。

誰か第三者に聞いて答えを出すんじゃなくて、本人の言葉から自分で判断することもやはり大事だなあと思う。

 

最後に、今回の話とは直接関係ないが、

私は、あの「加藤の乱」の後、どういう経緯だったか忘れたが、テレビのとある番組から菅さんのところにインタビュー取材に行っている。当時の私は今よりもっとアホだったので、たいした質問はできなかった(あまり憶えていないのだ)が、唯一、「加藤さんの行動は誤算だったんじゃないですか」と尋ねたときの、菅さんの苦虫をかみつぶしたような表情だけは憶えている。

あれが、彼の教訓となったのだろうか。


 


なにをいまさらだけど。つまらないぞ「’先生’たちによる朝生・原発問題審議会」

2011-05-30 11:37:21 | メディア批評

出会いの無くなった朝生

ここんとこ朝生がつまらない。

3月以降、震災と原発がテーマで、今もっとも身につまされる話題にも関わらずつまらない。

なにをいまさら、と言われるだろうか。


原発事故が起こった今、かつてのように原発をテーマにすることはタブーでもないし、

インターネットという表現の場ができたことによって

これまでテレビでタブーとされていた発言は広く流布してありがたみが減っている。

にもかかわらず、まだテレビにとってそこはタブーなのか、

インターネットやCS朝日ニュースターなどではすでにおなじみで、

参院の委員会でも証言した脱原発派の京大の小出氏、元東芝で原発設計やっていた後藤氏、

ソフトバンクの孫正義氏らは呼ばれていない(ほかの理由かもしれないが)。

それがどういう理由にしろ、かつて朝生が担っていた、

タブーに挑戦という役割はもう終わっている。

もちろん視聴者が桁違いに多い地上波テレビという意味はあるが、

逆にその限界のほうが露になっている。


それでも、これまで私は、結構朝生をチェックしていた。

それはなぜか。


朝生は、ネット的言論人と、ネットなんて信用できんといわんばかりの政財界および

その関係先のおじさまが相まみえて意見を戦わす唯一と言っていい場だったからだ。

新興勢力と既得権益の出会いの場だ(楽天三木谷氏が経団連脱退を口にしたらしいが、

三木谷さんあたりは、この場合の新興勢力には入れてませーん。

もっと不安定で後ろ盾の無い人、あるいは非主流派的な人です)。


だいたいこの2つの勢力は常に別の場所で活動していて、

その話を聞く場にいるのはそれぞれを信奉する人々たちであり、そこにはバトルも摩擦もない。

あるのは拍手と喝采。頷くたくさんの頭。

 

2つの勢力が共にまみえる場があるとしたら、

それは皮肉にも、政府の記者会見がフリー記者にも一部解放されたことで、

会見場がクラブ記者とフリーの(互いに言葉を交わしはしないものの)

無言のバトル場になっていた。そんくらいのもんだ。


昨年の夏、若者不幸社会というテーマの回の朝生

東浩紀氏と堀紘一氏がぶつかって、東氏は一時退場、また戻ってくるということがあった。

マングースとハブのごとき異種格闘技、それによる対立と和解は、

生放送の番組としては、おおよそほかでは見られないものだ。

2人のあまりの話の通じなさにどんよりする一方で、東氏のいらだちが伝わって、

おじさんたちにも目に見えない何らかの変化を与えるかもしれない、

なんて淡い期待を抱いてしまった。

まずは、動かなかった空気を動かす所からだ、なんてね。

普段どう考えても同席しないだろうと思われる人たちを集める効果は

こういうところにあると思った。

もちろん東氏は、世代間対立は望んでいないだろうし、

バトルやろうとしてやったわけじゃないので、

私が勝手に盛り上がっただけですけど。


しかし、震災後、そんな私の淡い期待も泡と消えそうだ。

朝生は、そんな異種混合の可能性を捨ててしまったのだろうか。

いや、震災前からその兆候はあった気もする。


震災直後、一瞬日本は「戦後」だった。復興の機運で希望も生まれかけていた。

しかし、原発事故が深刻だということが分かるにつれ時間は巻き戻り、

日本は「戦中」になってしまった。

それ以前、震災前のある期間から「戦前」のような雰囲気だったと思う。

社会と経済は閉塞し、解決方法が見いだせない。

既得権益を持つ人々はそれを守ることに汲々として、自分たちだけの殻に閉じこもっていた。

資産を回して有機的に世の中を動かしていこうなんてこれっぽっちも思ってなくて、

仲間だけのインナーサークルで、嵐が去るのを待っていた。

自分たちが問題を大きくしている台風の目であることに気づきもせず、

政府が、日銀が、アメリカが、世界の自浄能力が何とかしてくれるだろうと淡い期待を抱いていた。

でもそんなわけもなく・・・。そして震災。

色んな問題を他人事みたいに考え、責任転嫁してきたツケは原発事故という形で返ってきた。

そして、「戦前」殻に閉じこもっていた人たちの守る姿勢はさらに強化された。

既得権者は自分の権益を守ろうとしてよりいっそう堅い殻の中に閉じこもり、

自分たちの仲間内でだけ資源を融通し合っている。

そこには意識的なものもあれば、無意識で行われるものもある。

それが、このところの朝生のキャスティングにも表れている気がする。

政治家、学者、経済評論家・・・、なんとか審議会の席に座っていそうなメンツばかりだ。

ほとんどのパネリストが「先生」と呼ばれたことがあるんじゃないだろうか。

今回も、脱原発vs脱原発懐疑派、違う立ち位置の人間を呼び、対立軸を作っているようではあるが、

あくまでもネットではなく地上波テレビに出そうな人の範囲の中からの人選のように見える。

まるで、「朝生原発問題審議会」みたいだ。


なんだかんだいってみんな「先生」だから、基本的に物わかりが良い。

本質的ないらだちなど抱えていない人がほとんどだ(のように見える)。

だから、喧嘩になることもなく、ちょっと怒鳴り声が聞こえても、

それはその場の議論を覆すような本質的な問題を含んではおらず

(東浩紀のいらだちはそういう本質的な問題を含んでいたと思う)、

それぞれの意見が順に述べられて討論(討論とは言わないか・・・)は終わる。

結局、その意見を掬うか掬わないかは官僚の胸先三寸である審議会と同じようなことになっている。

審議会は、先生方の単なる意見表明の場であり、その意見が通ろうが通るまいが、

自分は政府に対して意見を述べられるような立場であることを表明する場でしかなくなっている。

つまらないときの朝生はそんな感じだ。

もちろん、パネリストの人それぞれが悪いわけじゃない。

場を設ける側の問題だ。


いまや、保守だとかリベラルだとか、右とか左とかの対立はもはや有効な対立軸ではない。

今、有効な対立軸があるとしたら、新興勢力と既得権益(とその取り巻き)の対立だ。

別の言い方をすると

「何か新しいことをやろうとしている人vsあるものを守りたい人」の対立軸だ。

田原総一朗という人のテレビ的な感性は、

これまで、出る杭や変わり者、ある意味での嫌われ者、お騒がせ野郎などなど、

「あいつなんなんだ」ってやつを呼ぶことで

朝生をいい意味でテレビ的な異種格闘技戦の場にしていたと思う。

玉石混淆。石がだめなわけではなく、一般的には石と思われるものに、

時には驚くべきものも混ざっているという意味も込めて。

そういう玉と石や、玉なんだけど石の味方をする人や、玉になりたい石や、

石の道をまっとうしたい石や、玉同志でつるんでる人などなど、

普段の社会生活では、あまり接点の無い人々をごった煮のごとく同じ席に座らせて、

あーだこーだ言わせるのが朝生だったはずではないだろうか。

それとも私の思い過ごしか。


一方で世の中を見渡すと、自分と同じような階層や収入の人としか付き合わない、

そんな社会になっているような気がする。

そして、自分でも気づかない間に、仲間内の基準でしかものごとを判断しなくなっている。

そのことで、社会全体への無理解が広がっていると思う。


先日、被災地に復興住宅を建てようというNPOの会合に、

被災地から東京に避難してきたという女性が参加していた。

震災前までは漁師民宿をやっていたという。

30人くらいの人が参加して活発に発言していたが、

彼女の話が一番面白く、発見があった。

頭で考えただけでは出てこない発言である。

今の朝生にはこういう部分も足りない。


最後にもう一点。経済合理性だけの基準はどうよ


朝生だけでなく、最近の報道番組の出演者は

この10年くらい弁護士と並んで経済学者が多い。

これは、経済合理性の面から様々な事象を考えることが

日常となっていることの現れだ。

今回の原発問題にしても、文化や思想の面からエネルギー政策を語る人がテレビには出てこない。


このところのテレビの討論やニュース番組がつまらないのは、

全てが経済合理性という板の上で、良いだの悪いだの言ってるに過ぎないからだ。

その経済合理性の追求が、今の破綻をもたらしているにも関わらず、

私たちは懲りずにその判断基準でものごとのほとんどを斬っている。


突然、「判断基準は美です。」とか言ったら頭おかしいと思われるのだろうか。

「判断基準が美であるとはどういうことか」を説明するのはちょっと面倒だ。

経済的指標、つまり儲かるか儲からないかは、

数字の大きさという誰にとっても分かりやすい指標だから理解されやすい。

しかし、私たちは経済合理性の追求によって快適さや安心など数値では表せないものを失った。


人間の快適や安心というものが一体どこから生まれるのか。

生活というものを構成する要素をいま一度考え直してみるべきだ。

生活=お金の動きだけでは決してない。


朝生、来月はどういうテーマで誰が出るんだろうな・・・。

 







 


切り込み隊長の発言から、年始の朝生の東浩紀を思い出した~ウェブ上の直接民主制は・・・

2011-01-24 01:28:24 | メディア批評

切り込み隊長がfacebookの話から、ウェブの中の公共なんてことを

ブログに書いていて、やはり、ウェブ上の直接民主主義は

その可能性の片鱗を見せ始めているのかなあ・・

と久々に政治のことを考えた。

 

去年の上半期の朝まで生テレビの席上で東浩紀が

ウェブ上の直接民主主義について発言し、

その話で盛り上がるかと思われたが、その場で大きな発展は無かった。

ただ、その話が、一部の人々の印象に残ったのは確かだ。

開けて、今年年始の朝生では、マスメディアにおける、つうか

朝生自体におけるソーシャルネットワーク導入の遅さにツッコミが入り、

その辺の話から、ウェブ上の直接民主制の話に移行するかなと思いきや

司会の田原総一朗が全くその辺に理解を示さない様相を

呈したからなのか否か、

東浩紀は直接民主制の話を持ち出すなんて暴挙は犯さず、

今年第一回目の朝生は、不毛な不毛な終わってる朝まで生テレビに

なってしまったのだった。

 

YOUTUBEに尖閣の映像が流出し、ウィキリークスで国家の機密が漏れ、

facebookが一つの国とまで言われる今、

2011年最初の朝まで生テレビのテーマは、

どう考えてもメディア論にすべきだった。

政権交代後、問題だとされている事象が問題視されるその根底に、

マスメディアの報じ方が大きく関わっていることも忘れてはならない。

現状では、メディアのあり方を語ることが、

同時に将来の政治のあり方をも語ることになるということに、

なぜ今回の朝生に出演した多くのパネリストが

自覚的でなかったのかが不思議でならない。

 

今現在という時期は、

人々の意見のすくいあげられ方が、テクノロジーの進化という

外力によって変化を余儀なくされている時だと思う。

このネット社会の広がりを前提に、

どういう仕組みで人々の意見はすくいあげられるのかということを

新たな目線で考えてみるべき時なのだ。

 

私も勉強不足で、ウェブを介した限定的な直接民主制というものが

具体的にどういったものになるのかイメージできているわけではないが、

数万人の自治体が、数万人にフォローされてる状態のツイッターアカウント

というイメージは、

直接民主制についてなにか示唆してくれるものがあるような気がする。

 

長いこと、政治以外でも「代議制」的な仕組みが社会を動かして来たが、

それは今や「特権」とか「利権」という言葉に置き換えても

差し支えない感じになっている気もする。

いろいろ考え直してみなきゃならんなと思う2011年だ。

 

考えてみれば、「編集権」ということもある意味

「代議制的」でもあるよなあ・・なんて思う。

かといって「衆愚」「ポピュリズム」に陥ってもいかんしとかも思う。

結局、「代議」「編集」「特権」などのもとから、「覚悟」や「責任」

「ノーブレスオブリージュ」的なるものが希薄になって来てしまったことが

問題なんじゃなかろうか。

直接民主制の話してたのに、間接民主制の問題点になっちゃったよ。

まだまだ私も旧世代の人間ですわ。

 

今年は、ルソーの言う「一般意志」とはどういうものかを理解するところ

から始めようかな(そんなん去年やっとけって話なんですが・・・)。

 

ああ、今日はわかるようなわからんことを徒然書いてしまいました。

日々のニュースをみていると、一つ一つの政策に反論するのも嫌になる。

とはいえ、それも重要なことなんだろうな・・。

根底をくつがえすシステム論を考えちゃうのは、

現状に疲れているからという見方も出来る。

わーどっちなんだ~、頭がウニだ。

とにかく粘り強く考えられる体力胆力をつけねばならぬな。

すべては身体からでござる。

 

わー、ほんとに久々に垂れ流し的記事でした。推敲せずにポスト!

 


このブログのタイトルの理由~「まんざらでもないもの」を探して

2010-11-29 03:05:03 | メディア批評
久々に自分のいくつかのブログの過去の記事を見ていて、この記事を再読した。
以前からあったこのブログに「what is value?~ナンシー関のいない世界で」
というタイトルをつけリニューアルした時に書いた記事だ。
今やほとんど読まれることもないけど、なんとなく今こそ読んでもらいたいな
と思ったので、ここに再掲することにした。

では、以下再掲記事です>>>

先日(09年8月)、本屋に行くと、ナンシー関リターンズという本が平積みに並んでいた。
なぜ今、とも思ったが、最近私の生活範囲にナンシー関的なものが枯渇していたので、
懐かしさのあまり購入した。中身を見て溜飲が下がった。

これはサブカルとは言えないのではないか。
これは社会批評の王道なんじゃないか。
芯食いすぎちゃってシャレにならない。
ここまで社会批評性が高かったとは。
時代が変わろうとする今、この本を手に取ったことは、必然だったのだ。

ナンシー関は20年近く前の文章で、
今の日本のいろんな問題点の根っこの部分をことごとく言い当てている。
遡上に載るのは、『加賀まりこ司会の「夜のヒットスタジオ」。
誰がまりこのお眼鏡にかなうかが見物』だったりするのだが、
テレビの中の芸能人の人間模様に視聴者(世の中)がどう反応し、
それが何を意味するのかを的確に語っている。
その文章で引用されている加賀まりこの台詞が『工藤静香は好きだけど、酒井法子は嫌』
というのも今見ると感慨深い。
そして、ナンシー関は言う、
「テレビがどんどん下世話になっていく。」
さらに言う、
「私たちは事の重大さに気づいていない。」
全然古びていないとか、今でも通用するとか、
そんな上から目線の評価なんておこがましい。
もう普遍的な文章なのだ。

芸能というのは、常に大衆の生活の通奏低音みたいになっている。
芸能に対する大衆の反応を読み解く事は、政治に対する大衆の反応を読み解くことよりも、
ある意味、的確に社会を分析できる。そういう意味で、彼女は社会批評家なのだ。
世の中の人々の無意識に眠る深層心理なんてお見通し。
文章からは、世の中のあまりの鈍感さに一人ため息をつくナンシーの姿が見える。
でも、ため息をつくばかりでもなくて、ちゃんとイイもんめっけて、
世の中の‘まんざらでもなさ’も感じている。
批評の正しいあり方である。

このナンシー関の文章をよんで、
「『まんざらでもない』ものを見つける事が人間の幸せなんじゃないか。」
とあらためて思った。
「まんざらでもないもの」は、「ため息をつきたくなるもの」の山の中にまぎれていて、
ぶつぶつ言いながらその山をかき分けて見つけなければいけない。
それはアグレッシブな作業ではない。地味な日常的な作業だ。

『ナンシー関のいない世界』に今私たちは生きている。
世の中は、「まんざらでもない」を見つけることを忘れた。
そして、大味な「イケテル」を手に入れようとした。
そんな私たちは、壁にぶち当たり、とうとう「change」というところにまで来てしまった。
「まんざらでもない」小さな幸せの見つけ方を失った世界は、
壁にぶち当たるしかないのだろう。
「まんざらでもない」小さな幸せは、大きな理想のないところではみつからない。
そして、厳しい批評のある場所でのみ見つけることができる。
「まんざらでもない小さな幸せ」をみつけることは、そんなに生易しいものではない。
けれど、「change」後の混乱するであろう世界を生き延びるには、
その生易しくはないスキルを磨くしかないのだと思う。

そこで、歴史的衆院選の行われる今日から、このコラムを始めようと思う。
ナンシー関のいない世界でも、楽しく生きていきたいからね。

最後にもう一つ。
この「リターンズ」に触発されて、
本棚から引っ張りだした既得のナンシー関本でこんなフレーズを見つけた。

ここから引用
『番組寸評
昨今、テレビではいろんな番組を制作しているようだが、
無防備に私たちの生活になだれ込んで来るそれを道徳的観念を持って制御するには、
批評能力が必要だ。当局の設置した臨時低俗番組徹底追放協議会および運動本部が、
この状況を打開せんとすべく運動部員の鋭い感性を結集し、
今ここにビバーンと送る現代人のバイブルです。毎朝読んで肝に命じて下さい。』
~引用ここまで(「ナンシー関大全」より)
高校生のとき(?)に友人と作っていた新聞の一節。
完敗だ。ナンシー関と競っても勝負にならないのは分かっているが、
負けたとしか言えないような先見の明である。
テレビに対して、「無防備に私たちの生活になだれ込んでくる」という表現を使う
モノの見方の的確さ。
「打開せんとすべく」の後に「ビバーンと」が来るところが、彼女の誠実さの証である。
わたしもこうした誠実さをめざしたいものである。ずんばります。

再掲ここまで>>>

このときはまだテレビの仕事をしていた。
そして今は辞めて、新しい仕事を模索している。
しかし、どんな仕事をしようが、批判精神は重要だ。
この初心を忘れず生きて行きたいと思う。
まんざらでもないものを探して。

いまさらながら、「朝まで生テレビ~若者不幸社会~」東浩紀 ”退席” に思う

2010-07-27 11:09:56 | メディア批評

東浩紀が堀紘一と対立し、「もうやってらんないよ」と席を立つ騒動となった今回の朝生。ツイッターで、「退席」というつぶやきを見て、いったい何が!と思っていたが、夕べやっと、録画してた番組を見た。

かつての野坂昭如と大島渚の怒鳴り合いを知る世代としては、なんか久々の爽快感だった。東浩紀がガチで切れてたというのもあるが、この「退席」騒動で今回の放送、救われたみたいなもんだ。

パネリストはこんな感じ。
東浩紀(早稲田大学教授、批評家)
猪子寿之(チームラボ代表取締役社長)
河添誠(首都圏青年ユニオン書記長)
勝間和代(経済評論家)
清水康之(NPO法人「自殺対策支援センター ライフリンク」代表)
城繁幸(Joe's Labo代表取締役、作家)
高橋亮平(NPO法人「Rights」副代表理事)
橋本浩(キョウデン会長、シンガーソングライター)
福嶋麻衣子(モエ・ジャパン代表取締役社長)
堀紘一(ドリームインキュベータ会長)
増田悦佐(経済アナリスト)
水無田気流(東工大世界文明センターフェロー、詩人)
山野車輪(漫画家) 

以下、敬称略します。

今回の討論、途中までは本当に酷かった。
東浩紀が「退席」することを先に知っていなければ、絶対にテレビを消していた。

「世代間格差」「年金」「自殺」「規制緩和」「労働市場」etc.日本経済閉塞の原因総ざらいみたいな感じ。何が話したいのかわからない、方向性が見えないままに、いろんな人のいろんな発言が断片的に繋がってダラダラ。温度も低ーい感じで続いていた。つまんないと思ってテレビを消してしまった人は、あの喧嘩を見れなかったわけで、この酷い番組進行は2重の意味で罪作り。

番組冒頭で、「若者は本当に不幸なのか?」とか口上してるんだったら、まず東、猪子、福嶋あたりに「若者は本当に不幸なのか?」を語らせてから議論を始めるべきだったんじゃないのか。

だって、「不幸なのか?」って疑問形で始めながら、みんなそれぞれ自分の分野からの答えをすでに持っていて、その疑問を本気で解こうとしていない。「不幸なの?」「はい不幸です」で終わり。そこを前提に討論を始めている(例外もあったが。そしてその例外発言の時にこそ場はもりあがったのだが)。

「私は不幸じゃない」と思ってる人が、なぜこんな不景気な時代に不幸じゃないのかを考える事が、不幸減少の方法を見つける鍵になるかもしれないのになあ・・・。
本質的にそういう人間(お金がなくても私は不幸じゃないと思っている人)がいることを信じてないんだよな、多くの人は。
すぐに、あなたは能力があるからそんなことが言えるんだという話になってしまう。

確かに、人の能力に差はあるし、要領悪くて努力してもうまくいかない人もいる。そのためのセイフティネットの整備は必須だと思う。しかし、今までテレビで行われてきた議論は、マクロな議論すぎるのだ。年金問題とかね。
そんな大きな仕組みの話しかしないから、一市民はみんな自分には手の届かない事だと思って、絶望するんだよ皮肉な事に。
こうした討論番組に希望がないのはそのせいだ。

税金の再分配の問題点とクリエイティブな社会作り、ネガティブな問題点の指摘とポジティブな解決策の提案、両方必要だと思う。しかし、これまでの日本のメディアに置ける議論には、前者の分量が多すぎた。
東浩紀の肩を持つわけじゃないが、前者は「それってもう知ってる事」なのだ。

こうした議論がダラダラ続いて、むすーっとしてた東浩紀は、堀紘一に「帰れよ」と言われなくても、最初からずっと帰りたかったのはありありだった。

そんで、ある時点でしびれを切らして「それってもう知ってる事」「その先の話をしよう」と、この討論の不毛さに言及したら、堀紘一が、あんたはいつも他人の批判ばかりして、自分の意見を言わないと噛み付いてきたわけだ。

堀紘一は、前提となっている番組進行については、疑問を抱いていなかったからね。
東浩紀とは、その点で食い違っていることが悲劇だった。
東浩紀の悲劇は、本質的なところに疑問持っちゃうと、相手からすれば意味分かんなくて、変な奴扱いされるというケースの典型であった。

で、怒って一旦「退席」した後、東浩紀は再び戻ってきた。
そして、あらためて意見を述べたのだが、まだ興奮が冷めてないのか、本当に自分が思ってる事を適切に言えてなくて、ただ単に火に油を注いだだけになってしまう。

堀紘一に「東さんあんたが全て神さまじゃないから」と言わしめてしまうのだ。
あとは一気に火が回る。

東「やってらんないですよ」
堀「じゃあ帰んなさいよ」
東「堀さんが神さまなんだ、この番組で」ときて、
田原総一朗が「何言ってんだよ!堀さんが決められる分けないじゃない」と怒鳴る。
東「じゃあ、司会の役割で何とかしてくださいよ!」

やっとそこで、第三者的に高橋亮平が「公共の放送で感情的になるのやめましょうよ」と割って入って、落ち着きを取り戻す。
この時の高橋はネ申であった(ツイッターで東自身もつぶやいてるが、今回はこの高橋亮平の地に足の着いた対応はもっとも注目に値した)。

そして、その後の数分が、今回の朝生の全てであったといってもいい。

まず、東浩紀が本当に言いたい事をちゃんと言えた。
これはやはりあそこまで怒鳴って吹っ切れた産物である。
東のこの時の発言はこんな感じ。

「若者不幸社会」とか言うけれど、若者が怒ってるといって「若者vs高齢者」みたいな構図で話しても議論が堂々巡りで無駄。若者はそこまでバカじゃない。
だから、若者論とか世代間格差という話はやめにして、みんなで話をしよう。
日本は不幸不幸というけれど、先行世代が作ったインフラで、お金があまりなくても楽しく生きられるという面もある。それをポジティブに捉え直して、今後のことを考えよう。
また、クールジャパンとか、トヨタとか巨大企業に比べれば生み出すお金は少ないけど、文化的な価値とかシンボルは大切で、むしろそういうものを大切にする事で人は幸せになって行く。日本も文化的なものでヨーロッパみたいに自信を持つべきだ。
(東の話ここまで)

この話が討論の最初に出てたらなあ・・。なんて言ってももう遅いけど、ほんとに私もその通りだと思うのよ。
東浩紀のあの態度にはちょっとだだっ子みたいだなとも思ったが、上記の主張に関しては、全面的に賛成。

そして、堀紘一もその東浩紀の話をちゃんと聞いていた。
多分この東の話を聞いて、堀も東のそれまでの不機嫌を少し解したに違いない。

そして、そのすぐ後、東浩紀が日本人の自信喪失について語ったとき、奇しくも田原が今回の議論を象徴するような発言をした。

田原「なんで日本人は自信失ってるの?」
東「それは、すぐこうやって景気の話とか税金の話とかばっかりやって、
  暗い話しか出てこないんですよ。だからといってお金の話を軽視するわけ
  じゃないんですよ・・・」

そしたら田原総一郎が言ったのが以下の言葉だ。
 
 「戦後の日本はね、金の話以外はできなかったんだよ。」

 「じゃあ、(文化の話も)するようにしましょうよ」と東は軽く言ったが、
実はこの辺に、今回の討論における世代(だけじゃないけど)間の断絶の原因や、戦後日本の抱える問題点もあるのではないかと思う。

多分、世の中の多くの人は、お金の話をすること、もしくは、全ての価値をお金に言い換えることが、人々にもっとも訴求する方法だと考えている。
メディアの切り口なんてほとんどがそれだと言ってもいい。
そして、そうした価値観や手法は、打算的な思いからだけではなく、朝生に出演するような善意の知識人にも浸透している(そう考えると、対話の断絶性とか、格差とかって決して世代間だけではないよなあ)。

私は、数年間報道局で仕事をしていて、ずっと、政治や経済の話と文化の話の断絶を不思議に思っていた。文化とは生活の中から生まれるはずなのに、その生活を守るための政治や、生活そのものである経済は、まるで別のもののよう扱われているのだ。「文化は男の仕事じゃない」みたいなね。

「人はパンのみにて生きるにあらず」なんて、理想主義と言われそうだが、「戦後、金の話しかできなかった」日本では、今、金以外のことを話す必要があるのだと思う。
「文化」は「文明」に服従するものではなく、車の両輪。
霞を食って生きる人も必要と言う事だ。
それに時代も変わったのだ。アップルを見てご覧!

また、東は文化を海外に説明するための「言論」「言葉」が同時に必要だと語ったが、その通りだ。
本当に、伝わる言葉で伝えないと物事って伝わらない。
「言葉」は重要である。

だってそもそも、今回の朝生、みんな話が下手だったんだよ。自分が普段やってる事の情報を断片的に語るのみで、ビジョンを語れない。情報も整理されていない・・。

この私の文章だって人のことは言えませんが・・・。

最後になったが、
堀紘一が東浩紀のクールジャパンの話を受けて、韓国メディアの話をしたのは、ちょっと微笑ましかった。
あんなにぶつかったのに、東の話が実は中身が無いわけではないことを知ると、ちゃんとリアクションするあたりは、単に頭の固い頑固オヤジではないのだろう。お互い、気まずそうなんだけど、ここは歩み寄れるかもしれないという照れくさそうな表情が垣間見えた。それに、高橋亮平の議論を決裂させないようにしようとする冷静な対応にも、メディアは老人が仕切ってるから古いんだと認めて議論を展開させようとする田原総一郎にも好感が持てた。こうしたいろんな世代の反応を見てて、日本の未来も世代間の隔絶も、そうそう暗澹たるものでもないのではないかと、わずかではあるが希望の光が見えた気がした。

ほかにも、福嶋麻衣子の「村」の話とか、面白そうなテーマが登場したが、断片的に語られるだけだったのは残念。やっぱ、人々が動く映像として見えてくる将来のビジョンというのは魅力的ですよ。数字の目標なんてくそくらえ!
誤解を招かないように言えば、ほかのパネリストが訴えていたしっかりした現状認識も大切。それを踏まえた将来ビジョンを希望です(わ~、最後に言い訳がまし)。

今回を教訓に、次回は一歩先行く議論を期待します。

退席シーンはyoutubeで見られるようです。

 

というわけで、私はこんなの始めてます。こちらもよろしくおねがいします。

日本の暮らしを考える「火鉢クラブ」

http://hibachiclub.blogspot.com/

メイドインジャパンをいろんな形で売る

「shop出島DEJIMA by出島プロジェクト」

http://www.dejimajapan.com

 


ニコ動、Ustが朝生激論づいている件について。地殻変動か?

2010-03-01 02:22:32 | メディア批評
ニコ生激論「ベーシックインカム」に続き、
今日、朝までダダ漏れ生討論「ジャーナリズム論」放送。
ってつい放送って言っちゃうのだが、放送じゃないよね。ま、いいか。

ところで、番組は、
司会 第1部 田原総一郎 第2部 津田大介で19時から6時間!!
やることあるのに結局25時まで見てしまった。

誰かが、もうテレビ朝日はいらないとつぶやいていたが、本当にそうかもしれない。
こうしたタブーのない討論を聞くために、
より多くの人がネットテレビにアクセスすること希望。

こうした番組をいつやるか知るには、ニコニコ動画をマメにチェックするか、
今ならツイッターが確実なのかもしれない。
津田大介@tsuda 東浩紀@hazumaあたりをフォローしとけば
結構情報が引っかかってくると思う。

ニコニコ動画、Ustream合わせて10000人くらいが見てたのだろうか?
テレビに比べれば格段に低い視聴率だが、
見てる人たちの思い入れの強さを考えると、あながち影響力がないともいえない。
週刊朝日が完売したのと同等の影響力はあるかも。

ツイッターといい、ネットが何かを動かし始めている。
やはり下克上のツールか?

にしても、メディアって起業してやってくのがいかに大変か
神保哲生さんらの話で実感。
私がやろうとしているのはジャーナリズムメディアではないが大丈夫か?
気が引き締まる6時間だった。

時代の変わり目を実感し
とりいそぎ、報告まで。

ニコニコ動画生激論「ベーシックインカム(キリッ」を見て考えたこと ~長いので気をつけて!!

2010-02-25 17:11:20 | メディア批評
ニコニコ動画で20日土曜深夜にやった東浩紀氏司会のニコ生激論
「ベーシックインカム (キリッ」。視聴者は最終的にのべ5万人弱。
ベーシックインカムという言葉が少しずつ知られ始めているとは思っていたが、
5万人近い人がこんな夜中に視聴するとは驚いた。
見ていた年代層はどういう分布なのかなあ・・・。

「ベーシックインカム」というテーマについては、
今後、議論されるべき重要なテーマであることは疑いもないが
自分自身、これまでテレビの仕事をやってきたというのもあるし
(もちろん偉そうなこという立場にはないし、
この3月いっぱいで辞める予定だが)、とりあえず今回は、
「ベーシックインカム」の是非はおいといて、
単純にこのニコ生激論が「番組」としてどうだったのかを
なんとなく考えてみた。

現在、ニコニコ動画にアップされるオリジナルコンテンツの中で、
報道系の公共性を帯びたものというと、大臣会見など、
編集や構成を必要としない(会見の場合編集あえてしないでしょ)ものが
ほとんどではないかと思う。
しかし、今回の「ニコ生激論」は、明らかに「朝まで生テレビ」を意識していて、
出演者も朝生に出演したことのある方が多数。
当然、途中でVTRが入ったり、生アンケートをとったり、
段取りもあれば、演出もあった。

この実験は、今後、ネット上での映像コンテンツ、特に報道系のそれが、
どういう形になっていくのかを考える上でも参考になったはずだ。
そこで、今回の番組が、実験的な試みということは分かりつつ、
あえて、見ながら感じた「違和感」など、批判的な意見を述べさして下さい。

当然のことかもしれないが、第一印象はよくも悪くも「素人くさい」。
いろんな仕切りにおいて、全体的にかなりグダグダな感じだった。
「そもそもテレビの素人がやってんだし、機材もないんだし、
 そんなことはどうでもいいんだよ。わかってないなあー」という
ニコ生視聴者の声が聞こえてきそうだ。
それに、私も「ニコ生」が地上波テレビ同様の段取りと演出を
きちっとやったところで、そりゃ違うんじゃないかと思う。
もともと予算的にも無理だし。

この50年間、テレビは「分かりやすく伝える」を追究し、
「見せ方」にこだわるあまり、その技に溺れ、
最も重要であるはずの「何を伝えるべきか」ということを
置き去りにしてしまった。
今回のニコ生激論のような番組は、テレビが置き去りにした
「何を伝えるべきか」を取り戻そうとする動きだろう。
だからこそ、あえて、「見せ方」なんかにこだわっちゃいけない。
私はそう思う。でも、でもだ、
なるべく多くの人に「ベーシックインカム」という聞き慣れない概念を伝え、
それについて議論する時、
「こういう不親切な感じってありなんだろうか?」とも思った。

まず、山森氏のベーシックインカムについてのVTRでの解説が
立て板に水で、入ってこなかった。
あまりにも教科書的な構成の解説で、生激論で語られる内容に有機的に
絡んでこない。今までテレビをやっていた経験からすると、
これは、スタッフの打ち合わせ不足のような気がする。

基本的な解説の他に、現在日本国内ではどういう問題点が指摘されてて、
どういった議論があるのかなど、論点となりつつあるポイントを
最初の方に一度整理してもらえると、その後の激論も分かりやすかった。
個人的には、財政的な部分でどういう議論があるんだろうとか思ってたので
そういう辺りの現時点での日本の論調をもっと整理して知りたかった
(ずっとつけてはいましたが、長くて深夜だったので、意識が飛んでて
頭に入ってなかっただけだったらすいません。もしくはつぶやきの方を
見てたとか・・・)

激論本体についていえば、悪く言うと、
「選民たちのサロン雑談」を感じる部分が結構あった。
難しい事を日々勉強する余裕もあるし、IQも高い人たちが、
突発的によくわからないことを言い出す。そして議論を支配する。
今回の視聴者には、それを一生懸命理解しようとする人も多かったとは思うが、
これには、拒否反応を示す人もいるのではないかと思った。

具体的にいうと、これは長々と展開された
ホリエモン&小飼弾氏のぶっとびトークのことを指しているのだが、
それに対し、ぶち切れるコメンテーターもいたほどだもの、
そうした状況も含めて、モニターで見せられている側は、
ちょっと心の距離を遠くしたのではないだろうかと、
老婆心ながら心配になった。

これまで、ネットの世界で自らの意見を述べる人のツールは
テキストが主流で、そこで活躍する人も活字メディアの人が多い。
活字メディアは、ある程度思考を巡らせた上で、
満を持して自分の意見を開陳できるある程度思慮深い世界だ。
それに対し、生放送の映像の世界は、時間の流れに支配され、
「しゃべりの上手さ」がモノを言う瞬発力の世界だ。
出演している人の中には、あまりそうした場で揉まれていない人もいて、
その得手不得手があからさまに画面に表出。
容赦ない弱肉強食の世界が繰り広げられてしまった。
これって、皮肉にも最もテレビ的な、それもテレビの悪い部分が
強調される展開になったってことだ。

もちろん、4時間近くにわたる議論では、
興味深い議論もいくつもあって、得る部分はあったし、
ここでは、あえて気になったことを挙げているので、
今回の番組を否定しているのではないことをお断りしておきます。
むしろ良かったと思ってます。
 
ところで、23日に行われた「アルファブロガーアワード2009」では
テレビとツイッターというテーマでトークが展開され、
USTやニコ生などのウェブの映像メディアのコンテンツは、
今のテレビコンテンツ的なるものを目指すべきではないし、
違う進化をするだろうというような意見が出されていた。
私もそういう気がする。

しかし、こうしたプレゼン(人にものごとを伝えること)を行う上での
「基本的な」スキルや考え方は、ネットであろうが、テレビであろうが、
予算があろうがなかろうが、そう違わないのではないかと思う。

今のテレビの報道のあり方に幻滅し、より公共性の高い話題を選び、
人々に訴えかけ、世の中での議論を喚起しようというのなら、
ウェブメディアにも、もっと分かりやすい解説と、
話の展開の工夫は必要になると思う。

ネット上では、時に、分からない人は分からなくてもいいんだよ的な
投げ出しが容認される(ような気がする)。
もちろん、それで良い場合もあると思う。
しかし、ネットが今後さらに普及し、放送と通信が融合し再編されていく中で、
利用者の裾野がさらに広がった時、
そうした意識はどのように変化していくのだろうか?

例えば、ベーシックインカムみたいな、マスメディアは採り上げないけど、
全国民が当事者となるような重要なテーマを採り上げようという場合。
まさに今回のニコ生のような場合。
それをムーブメントにしようという目論見があるなら、
より一般的な人にも伝える努力が必要なのではないかと思った。
また、東さんが主張されるように、将来的に、
SNSによる直接民主制をやってみない?って話になった時に、
全ての人々に基礎情報を届けるメディアとして
ネットの映像メディアが使われるようになった場合、
やはりそこには、もう少し伝えるためにスキルが必要なのではないかと思う。

テレビの世界にいて思うのは、
活字の世界の方がたくさんの情報を載せられる分、
また、映像コンテンツを作るという作業がいらない分、
考える事にかける時間も多く、より物事を深くとらえているなということだ。
テレビは、物事を深く考える以前に、やる作業が多過ぎるの。

だからこそ、テレビの世界以外の人から発せられる問題提起は重要だし、
現に、そういう活字メディアの人たちにコメンテーターという形で
頼っている部分も多い(そのコメンテーターの善し悪しは別にしてね)。

だから、今回のように、東さんのようなテレビの人ではない人が、
ものすごくテレビ的な田原総一朗の役割を試みる事は、
今後のメディアのあり方を考える上で、すごく試金石になると思った。

でも、それが、「テレビはダメだから・・・」というような
今のネット上の言論で主流になっている風潮にモロに乗っかって、
さらにその姿勢を尖鋭化させてしまったとしたら、
そこには、置き去りにされた人たちの憎悪が生まれるかもしれないと
危惧してしまう。

テレビの現場にいながら、どちらかというとネットや活字の情報に親しみ、
ネット上の有象無象の情報を、時には信じ、時には疑い、
常に話の種としてきた私は、
なかなか周囲の人間の共感を得る事ができなかった。
そして、職場で、なんだかひとりぼっちになった気がして、
この不況の時代リストラされるわけでもないのに、
今の職場を去ることにした。
それだけ、既得権を持つ層というのは、新し物好きを怪訝な目でみるし、
既にあるものに素朴な疑問を呈するものを受け入れない。
受け入れてもらうには、何らかの権威の冠が必要なのだ。
そして、そういう保守的な人々は、既得権を持つ層だけでなく、
何も持たない一般の人々の中にもまだまだ多く存在していると思う。
政治と金の問題以降の民主党の現在を見て、なんだか萎える私である。

そういう状況の今の日本で、
新しい考え方にはついていけねーよと諦め、
さらにはニヒリズムに走った人々が、ダークサイドに陥らないことを願う。
新しい考え方を伝える時には、
より熟考を重ねた伝え方を模索せねばならないと強く思う。

最後になってテレビの肩をもつようだが、
やはりテレビが50年かけて積み上げて来た「伝える」というノウハウは
バカにできないのだ。テレビの現場では、
上記のように萎えるような事もあるが、本当に多くの人が寝る時間も惜しんで、
どうしたらより「伝わるか」を一生懸命考えているし、
そのスキルは尊敬に値する。
そういう事実を差し置いて、「テレビはダメだ」と簡単に切り捨てる事はできない。
私なんて、考えるばかりで(ってそれほど考えてないけど)、
テレビという媒体に本気でのめり込めなかったから、
20年も続けてきたこの仕事を辞めることができるのかもしれない。
ある意味脱落者なのだ。

テレビが、もう少し、視聴率というものを柔軟に解釈していたら、
現在、違う状況があったかもしれない。
NHKの好調は、受信料が安定しているという制作費の問題だけでもないのだろう。
現に民放にもいい番組あるし。

テレビの側が、もうちょっとだけ、
「何を伝えるべきか」「何を伝えたいのか」ということに意識的になれば、
通信と放送メディアは仲良くできるのにと、
そんな大きなことなどどうする事もできない私は、
一人力なく、思う。

放送の中立性とかなんとかが、「伝える」の主語を消し、
テレビ報道は、判断を見ている側に任せるメディアになった。
もちろんプロパガンダメディアになってはいかんのだが・・・。
本当に難しい問題だ。

ニコ生を語りつつ、とめどなく語ってたらテレビの話になってしまいました。
すごい長くなってしまいすいません。

なんだかんだ言っても、これまでテレビをやってきたんで、
ネットのことはよく分かってません。
なんでもマニュアルを見ないでできる範囲しかやってません。
それで、偉そうなことは言えないかもしれませんが、
感じたままを書いてみました。
もはや論理的整合性もないんじゃないかと心配ですが、
最後まで読んでいただきありがとうございました。

人志松本のすべらない話~5周年記念 夢のオールスター戦

2009-12-27 00:08:29 | メディア批評
久々に見たが、「すべらせない話。」だな。
5周年らしいが、飛天の間みたいな演出も
もはやゴージャス感のパロディにさえなってない。
オマエら本当におもしろいと思ってるのか!
・・って、それほど否定するようなもんでもないんだけどね。

小藪千豊の「俺が俺が」(漏れそうで漏れないウ☆コの話です)はちょっと面白かったし。

腸の中のウ☆コを「俺が俺が」と擬人化(?)して、
ちょっとかわいいやんと思いましたぞ。
「もやしもん」の菌たちの顔が浮かびました。
見た方にしかわからん話ですが・・。すんません。

全体的に、本人がオチと想定していた部分で落ちないことが多く、
話をもうひと展開させて、笑いを取ろうと必死になったり、
話を落とすために、周りの他の芸人がフォロー入れたり、
そんなスリリングな状況を観察させていただいた2時間だったかなと。
そういう、的確なフォローで笑いに持ってくという意味で
松っちゃんはやはりすごいなあと思いました。

かつて、実家に帰省した際、
父親に「AVのモザイク外しの機械」の取り付けを頼まれた私としては
宮川大輔父の「Hサイト入りすぎてウイルスだらけのパソコンの話」も
そのまんまだけど、ツボでした。

というわけで、全然ダメと言うほどでもないけど、
今の私にとってはマンガ「ひまわりっ」の猿渡(副)主任のほうがオモロいでんな。
という結果のひさびさの「すべらない話」でした。