橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

がんを治すとは

2016-01-08 03:53:47 | がん徒然草

私はがんを治すために、がん細胞と戦っているのではない。

がんをめぐる社会の在り方と戦っているのだ。

いや、それさえも戦わなくていいのかもしれない。

ただ、我が道を行けばいいのかもしれない。


朝日新聞「がん おひとりさま3 入院の保証人、自ら代筆」を読む

2016-01-08 03:11:52 | がん徒然草

朝日新聞の「がんおひとりさま」のシリーズも3回目。乳がん治療後、再就職した矢先に子宮体がんが見つかって手術することになった女性。今回の職場の上司は「体調を見ながら、復帰できるときに復帰してくれればいい」と理解を示してくれたが、術後、がんは子宮頸部まで広がるステージ3の状態である事がわかる。抗がん剤治療を勧められるが、治療費もかかり、仕事ができなければ、生きて行けないと、一旦は治療を断るも、上司がつらいときは休んでもいいと、仕事継続を認めてくれたため、抗がん剤治療を選択した。タイトルの「保証人自ら代筆」というのは、この入院治療の為の保証人として、遠隔地にいる妹の名前の代筆をしたということだ。

朝日新聞「がん おひとりさま3 入院の保証人、自ら代筆」

この記事の患者さんの場合、子宮体がんが頸部まで広がってステージ3ということは、半年前、ステージ1の乳がんが見つかった時に、すでに子宮にもがんはあった可能性が高い。だとすると、乳がんのために使った抗がん剤は子宮体がんに効くわけではないから、その抗がん剤によって体力や免疫力も下がり、子宮体がんが増殖した事は十分に考えられる。彼女が乳がんで使った薬の種類はわからないが、ホルモン剤のタモキシフェンを使っていたとすると、これは子宮体がんリスクを上げることが一般的に分かっている。もともと乳がんのある人は子宮体がんも出来る可能性が高いらしいから、手術のみで済ませる人も多いステージ1の乳がんで、術後の再発予防措置として抗がん剤を使うことは、私からすれば非常識に思える。

このシリーズでは、おひとりさまという境遇の患者を取材し、がん患者の社会的な困難をとり上げようとしているが、この状況を見ていると、やはり問題の根本は治療の選択にあるとしか思えない。彼女を担当した医師の治療選択は間違いではなかったのか…。この場合、そこをこそ指摘するべきでないのかとの疑問が残る。社会的な困難があるとしたら、看病してくれる人がおらず、保証人の署名も代筆せねばならないというおひとりさまの寂しさよりも、「がん治療とはこういうものだ」とか「医師の言う事は絶対である」いう社会の先入観なのではないだろうか。

治療費がかかるからと、彼女が抗がん剤治療を断った時には、希望の光が指したと思った。しかし、悲しいかな、それを上司の「善意」が阻んでしまった。医師の言う治療をさせてあげたいというのは上司の善意だ。けれど、これまでの彼女の抗がん剤への感受性を考えると、化学療法を続けながら働く事はどれほど辛いだろうと想像される。また、休む日が続けば、職場に申し訳なくて、ストレスも溜まるだろう。それで、本当に彼女のがんは治るのか…? 「医師の言う事は絶対だ」という先入観が、善意の上司に、無批判に抗がん剤治療を勧めさせる。これはこの上司のせいというより、それが常識となってしまっている社会のせいだ。

しかし、社会のせいとはいえ、その社会というのは、人、一人一人が集まってできている。結局、一人一人が自分で考える力を養い、自分の身体に責任を持ち、医師の話しにさえもちゃんと批判的態度で臨めるようにならねばならないのだろう。

もちろん、抗がん剤治療をやらないほうが良いというのは私の考え。やらないことのほうが怖くて私にはストレスになるという人もいるだろう。そうなったら本末転倒なので、私は自分の方法を絶対にいいと勧めたいわけではない。私はやらないというだけだ。それは私が分かる範囲でいろいろ調べて考えた末の結論で、多分、がんというものは自分で調べ、考え、納得して決めた治療の方が、効果がある気がするのである。

明日は連載4回目です。


酒井順子著「下に見る人」、著者インタビューを読む

2016-01-08 00:22:54 | 書評/感想

以下は「下に見る人」という酒井順子さんの新刊の著者インタビュー記事。

「人を下に見てしまうという不治の病はせめて表に出さないという自覚が大事」

この本のタイトルの感じ悪さにちょっとひっかかって、記事を読んだ。確かにそうなんだろうし、本も読んでもいないのに、後味の悪さが残る。

自分が他人を「下に見る人」と定義しての本書。「せめて表に出さないという自覚が大事」と著者は語る。けれど、こういうものは表に出していないと本人が思っていても、そこはかとなく表面に現れてしまうもので、自覚などあまり意味が無いように思う。

その昔、地方から出てきたばかりの私は、彼女と同じ都内有名私立女子高出身の女性から「下に見られてる」と感じたことがあった。彼女は別に私をバカにするわけでもなく、フレンドリーに付き合ってくれていたのだけれど、時々、その言葉の端々に「下に見ている」感じを感じ取ってしまうことがあった。もちろんそれは私の思い過ごしかも知れない。それに、だからといって、仲が悪くなる事もなく、すごく仲良しになることもなく、普通の友人として大学時代を過ごした。そこから思うのは、わざわざこういうこと書かなくていいんじゃないのということだ。

いじめはいじめた側を見なければ絶対に無くならないから…というのは分かる。だからといって、「私いじめる側だったんですが…」と、強者の側から自分の行動に対する分析を聞かされるのはあまり面白いものではない。また、「下に見る人」なんてチャレンジングなタイトルつけときながら、「せめて表に出さない自覚」なんていう教育的な態度をとることにも違和感は否めない。

しかし、やっぱりこの本は書いてもいいんだろうなと思う。

自分の心の悪と闇を表に出さずにはいられない彼女の切実さと、こんなあからさまなタイトルで本を出すことにした決断には、もしかしたら本気があるかもしれないと思ったからだ。アラフィフとなってさらに円熟味を増した彼女の感じ悪さは文学の域に達しようとしているのかもしれない。

多分、問題なのは、以下の記事中で「…常に私たちが共通して抱えている普遍的な問題の真ん中を射抜いていて、読むたびに、やられた思う」と、彼女の分析力を褒め称えるインタビュー記事の見方の方だ。少なくとも、記事で引用されている『日本人は「下に見られたくないから」がんばってこれたんじゃないか』という分析に関しては、ちょっと無理があるんじゃないか。

別に感じ悪いのはいいのだ。普遍化なんかしないで、私感じ悪いでしょと、個人的なことを個人的なこととして書いてくれたほうがよかった。「人を下に見てしまうという不治の病」があるとまで言うのならば、「せめて表に出さないという自覚が大事」などと言わず、「私はこんなにヒドいんです」で終ってくれてた方が、人間の業の恐ろしさに、よっぽど普遍を感じたんじゃないかと思う。

人は人を下に見たがる。それはそうだと思う。しかし、それが分析すべきことなのかは、この本を読んでも分かりそうにない。