橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

最近の「朝まで生テレビ」は出演者がつまらない

2014-08-30 07:06:19 | Weblog

「朝まで生テレビ」を久々につけていた。データの参照が多いなあとあらためて思った。30年前の番組開始当初の朝生はこんなにデータを提示していただろうか?大島渚と野坂昭如が喧嘩していた記憶しか無い。

それにしても、当時のただの喧嘩みたいなエンタメ討論よりも、今の討論の方が不毛な気がするのはなぜだろう。データをを出す事で分かりやすくなるような気がするが、結局、議論を細分化するばかりで、その問題を俯瞰する大きな視点で語る事を阻害してしまっている。

私たち視聴者はテレビの中で開陳される論客の見方を理解するのに必死で、語られている問題を自分のこととして引き寄せて考える余裕などない。問題の当事者ではなくただの傍観者だ。ここ数年の朝生が、見終わって、結局何を話したのかまったく記憶に残らないのは多分そのせいだ。

いつの頃からかテレビでは「専門家」でない人が討論番組等にあまり登場しなくなった。今の朝生は政治家や学者やNPO関係者や時には経営者、そんな人ばかりが自分の得意分野の「データ」や「情報」を携えて登場する。小説家とか映画監督とか思想家とか、何考えてんだかよくわからないような人達は呼ばれない。自分の感情や感覚から意見を言うような「非科学的」な人は、テレビで発言するのは適切ではありませんと思ってるかのようだ。

そんなわけで、今日は前半、金融政策と財政政策の話ばかりしていた。「数字」で経済をコントロールしようとする話だ。でも、本当にコントロールなんてできるのか…と「非科学的」な私は思う。

「実際の経済」と「経済学が考える経済」はイコールではない。「実際の人間の体の機能」を「医学」が完全に把握できているわけではないように、実際の経済の複雑さを経済学者がすべて把握出来るわけはないのである。ある程度のコントロールはできても、コンピューターにかならずバグが出るように、実際の経済にはバグが起こりうる。コントロール可能だったはずの「原発」にも事故は起こった。「科学」は「自然のすべて」を完全に把握出来ているわけではないのだ。

データでわからないことを、これまで人間は経験知や直感で補って来た。そういう意味で、最近の朝生にも、自らの体験や感覚に忠実な論客がいてもいいんじゃないだろうか。

ただのエンタメにもみえるかつての大島渚と野坂昭如の喧嘩であったが、そこにはもっと本気があった気がする。数年前にブログにとり上げた東浩紀の退場事件も同じく。

「客観的なデータに基づいた冷静な意見」というのは基本ではあるけれど、時に、自分の本音をまったく棚に上げるという愚挙をおかす。もちろん本音ばかりがいいわけじゃない。けれど、「自分の気持ち」というものを無視し、合理性とか数字の整合性だけで判断した意見は、こと「経済」という人間の営みの総体を分析する分野においては間違いを犯すと思う。

自分がお金を稼いだり、使う時にも、カッとなったり、にやにやしたり、卑屈になったりと、非合理な態度をとってしまうのが人間なのである。そんな「経済」を理解するときに、そういう変数を考慮しないのはおかしい筈なのだ。

かなり強引な論旨の展開になってしまったが、結局言いたいのは、今のパネリストたちが、常に田原さんの進行や提示するテーマにしたがって、話の前提を違える事なく、良い子の意見を言ってていいのかってことだ。あなたの本当に言いたい事はこれなのか?本当は何が言いたいのだ、ぐだぐだになってもいいから言って欲しい。あまりにも皆が、われこそは「正しそうな」ことを言おうとしているように見えるので、そんな破壊願望的なイライラを覚えてしまうのだ。いや、冷静さは大切なんですけどね…。

だとしたら、私自身が今見たいと思う討論のテーマはどういったもので、それを語るのはどういう論客がいいのか。その論客を観衆の前に引っ張り出すにはどうしたらいいのか…?それとも、もはやすべての討論は不毛なのか…。

次回はそんなことを考えてみたい。

って、次回あるのか…