橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

クリエイションの自由を勝ち取るための「アンチ・ウォー」~コムデギャルソン・メンズコレクション

2014-07-29 12:18:19 | Weblog

6月に開かれたパリコレのメンズコレクションでコムデギャルソンのテーマが「アンチ・ウォー」だったのだそうだ。そのことについて書かれたこんな記事にfacebookのTLで出会った。

「コムデギャルソンが掲げた反戦の深刻さ」http://www.asahi.com/and_w/fashion/SDI2014072516411.html

常に服で何かを語ることを拒否して来た川久保玲がこうした具体的なテーマを掲げたことにこの記事の筆者は衝撃を受け、この時代状況の中、明確なテーマを語るほかなかった川久保玲は不本意だったろうと書いている。

数年前から、川久保玲はファッションのグローバル化に対し、クリエイションの自由を奪うものとして警鐘を鳴らし続けていた。店舗面積あたりの売り上げですべてを決める百貨店の昨今の方針など、すべてが金勘定の世界にも違和感を述べていた。

彼女がインタビューなどで吠え始めていた5年前、ジル=サンダーがユニクロと組んだ+Jが登場し、それをジルはファッションの民主化と呼んだ。廉価になって多くの人に自らの服を着てもらえるから。最初のシーズンの服の完成度は驚くほどで、私も買ってしまったけれど、結局ユニクロとジル=サンダーの蜜月は長くは続かなかった。その裏にどんな事情があったかは詳細には分からないが、やはり無理だったということだろう。
2014年の今、結局「クリエイションの自由」を訴え続けていたコムデギャルソンのほうが力強く前を向いて進んでいるように見える。

これまで、日本において「アンチ・ウォー」という言葉は誰でも口に出来るお手軽なファッションのようなものだったと思う。しかし、今、その言葉がリアルに差し迫って来たこの時に「アンチ・ウォー」を言葉にすることは、これまで口にしたのとは比べ物にならない程に勇気のいることではないだろうか。

それに、川久保玲がテーマとした「アンチ・ウォー」は「クリエイションの自由」を守るための「アンチ・ウォー」なのだと思う。

テーマがどうあれ、ギャルソンの服は気分が上がるし、
秋冬物も欲しいから、仕事下さいって感じですww


そもそも「社会貢献」って何?~「善い行い」をすれば億万長者になれるか?

2014-07-05 04:03:19 | Weblog

『「善い行い」をすれば億万長者に?”社会貢献”を評価軸にした新たな成功の方程式とは?』という記事が私のFACEBOOKのタイムライン上に上がってきました。

http://logmi.jp/16378

私も以前は、善い行いが自分の仕事になればWINWINとか思って、
とある社会貢献を兼ねたビジネス(というほどのものではないが)を
やろうとしたけれど、3・11以降、やはりそれって違うかも…と思って、
やめてしまいました。

この記事のタイトルだけを見て言えば、「善い行い」自体が目的ではなくて、「成功」が目的で「善い行い」をやる人が出て来るのではないかと思えます。

結果的にはそれでも善いことをやるのは同じことじゃないか、と言われそうですが、
多分、その「善い行い」は善行を受ける側のことをあまり考えていない表面的なものに
なりそうです。それは、通常の商売において、儲けるために安かろう悪かろうになる人が結構いることを考えても想像に難くありません。

そもそも「社会貢献」って何でしょう。
本来なら、商売にしろ何にしろ、すべての仕事は社会貢献的な側面をもつはずで、
正直に、自分も欲しいと思えるものを、適正な製造方法で作り提供していれば、おのずとそれは人のためにもなるはず。けれど、個人による実態把握が不可能なまでに拡大し複雑になった経済環境においては、「仕事」でそんなことしていたら商売上がったり…という考えが支配的になり、自分の仕事がそのまま世の中の役に立っているという感覚を得られなくなってしまいました。それで、多くの人がボランティア活動に参加したり、NPOを立ち上げたり。
「仕事」とは別、といわんばかりに、課外活動をやっています。

もちろん、それもいいことだと思います。
けれど、普段の「仕事」の罪滅ぼしを、「社会貢献」で穴埋めするということになってしまっては意味が無いと思うのです。

「社会貢献」=「いわゆる人助け」だけではないはず。
まずは、今自分がやっている仕事を、本当に自分がやっていてよかったと思える仕事内容にして行くことの方が先のような気がします。

無農薬のおいしい野菜を作り、良いデザインと素材で、お針子さんに適正な賃金を払っている服を作り、個性あるくつろげる喫茶店を経営し、人を殺すための道具など作るのをやめる。そして、こうした商品がちゃんと売れれば、いわゆる「社会貢献」など必要なくなると思うのですが、やはり甘いですか…。

なぜ多くの人が、今の自分の仕事の現場で、「仕事は仕事しょうがない…」と考えているのでしょうか…?もちろん私もいろんな妥協をしているわけですが、まずは今の自分の仕事の場で闘うこと(別にけんか腰にということではなくね)が、善い行いの第一歩ではないかとも思います。

「いいね!」のクリックがいとも簡単なように、括弧付きの「善い行い」は、今やっている仕事の中で闘うことと比べたら、意外と簡単なんじゃないでしょうか。

無償の愛とは何ぞや


そもそもユーザー感情なんて読めるのか、自分のことも分からないのに…

2014-07-03 18:27:34 | Weblog

facebook上で「FacebookのサンドバーグCOO、ユーザー感情の操作実験を謝罪」という記事が話題になっていて、このタイトルだけに反応し、以下の文章を書いて、自分のfacebookのタイムラインに投稿した。それをこちらにも転載。

上記のニュース記事はこちら http://japan.cnet.com/news/business/35050302/

>>>>>>>以下

実験まではしないものの、ユーザー感情を読むというのはすべての商売の現場で行われること。しかしながら、あまり読みすぎて、自分はユーザー感情が読めてると過信するのは、人間の感情の機微というものに対しての冒涜じゃないだろうか。他人の気持ちはそんなに読めやしない。

ものを作って人に売る時の基本はやはり、自分がいいと思ったものを、伝わりやすい形に仕立てることだと思う。自分は感動しもしないのに、他人の心を読んだ気になって作ったものは、最終的に、その読みこぼしている「他人の感情の機微の部分」に復讐されるのではないだろうか。

人間が頭で理解出来ることなんて、宇宙の真理や生命の神秘のほんの断片。現在の科学はその断片だけをハメた隙間だらけのパズルを見ながら全体像を想像しているようなものだとつくづく思う。まるで、パネルクイズアタック25のチャンピオンクイズ。それも獲得枚数1枚みたいな世界。運良く顔の真ん中の部分を取ってたから読めましたみたいなまぐれの世界でしかない。何枚かパネルが開いていても、見えてない部分に落とし穴があると考える方が科学的にも正しいんじゃないだろうか。

人間は神にはなれないに100万点!

追記>>

でも、最近、感情を読まれたいと思っている人も多いんじゃないだろうかって気もするよな。なんかメディアとユーザーの共依存みたいな状態なのか…。ものづくりにおける考え方がマーケティングとなってから先、受ける側でさえ、喜んで、勝手に想像されたユーザー像を受け入れてる感じもする。

で、さらに追記。

上記の文章は自分が書いたことだから、そのとおりに思っているのだが、ひとつ書き落としていたことがある。

「自分がいいと思ったものを」と書いたが、この自分がいいと思っていることというのがくせ者で、しばしば「いいと思っているつもりになっている」ということがある。人間実は自分のことが一番わからないもので、心の奥の奥の声に耳をそばだてると、ちょっと違うことを言っていたりする。人はなかなか自分に正直になりきれない。

で、ちょっとそのへんを真剣に考えず、さらっと流してしまうと、「自分がいいと思ったもの」はなんだか通り一遍なつまらないものになっている。「いいもの作っても売れない」というものの何割かにはそういう通り一遍が混ざっていると思う。