橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

テレビ朝日とTBSがグーグルとライセンス契約

2009-09-29 14:02:35 | Weblog
TBSとテレビ朝日が違法アップロード対策として
GOOGLEとライセンス契約した。
まずは、ニュース番組からYOUTUBEに配信するらしい。
テレビ局側は、有料サービスの開始も求めているという。

けどなあ、視聴者は、ニュースに関しては
有料じゃ見ないだろうなあ。
今のテレビのニュースじゃ、ネット以上の内容がないもん。

有料利用が望めるとしたら、芸能コンテンツだが、
これは、芸能プロダクションとの著作権契約がネックだ。
芸能プロは、もはや独自でコンテンツを制作し、
ウェブ配信を始めているところもあるし、
元締め役としてのテレビ局の役割は薄れつつある。

ニュースに話を戻す。
テレビニュースが、YOUTUBEに正式に乗っかるということは、
個人のビデオニュースとライバルになるということだ。
テレビで一度流したものの流用だから、制作費という面では、
テレビの方に利がある。
しかし、テレビには放送法によって、
中立の立場で放送するという枷(あえて枷と書くが)がある。
さらに、記者クラブ制度に縛られる部分もある。
自由な報道が出来るという意味では、
個人のほうに利がある。

ネット世界は、特に報道に関しては、
地上波放送の内容にめちゃめちゃ厳しい。

テレビがYOUTUBEに参入したことは、
本当に自らを利するのだろうか?

橋本治の本を開いたら・・今日も80年代に思いをはせる

2009-09-28 03:12:57 | Weblog
橋本治の新刊(といっても連載のまとめ)「明日は昨日の風が吹く」の
まえがきに書いてあって知ったんだけど、
この連載が載っていた「広告批評」が終刊したのといっしょに
発行元のマドラ出版も解散していたんですね。
でも考えれば当然か、広告批評出すための会社だったんだし。
30年くらい続いたんだっけ?
80年代の象徴的存在でした。

この前書いた、坂本龍一の80年代の懐かしい曲もそうだけれど、
今、時代の30年サイクルが、
次のサイクルに変わるとこなんだなあとしみじみ思いました。
あの頃の気分がなつかしくなるのも、
新しい時代が始まるからですかね。

70年代から80年代に変わった時は
空気が軽くなった気がしたけど、
軽薄の時代になっただけで、
戦後から解放されたと思って、実はそうでなかったと。
真実を見てなかっただけなのかもしれないと思う。

でも、80年代からは学んだこともあります。
80年代は、一方で田中康夫の「なんとなくクリスタル」から始まったけど
これって、まさにその軽薄を引いた目で見てるんだものね。
「記号」にぶら下がる日本人の愚かしさ。
外見にごまかされない(外見で分かることもあるが)、
権威にごまかされない、いいものはいい、つまらんものはつまらん、
セクト分けしない、などなどなど、今の自分の中に生きています。

時代は巡るのではない、螺旋状に進んでいくと誰かが言ってたが、
00年代から10年代への変化は、
30年前の反省を踏まえて、これまでのいい部分は生かしつつ
1段上を螺旋状に上がって欲しいもんです。

橋本治の本のタイトル「明日は昨日の風が吹く」は、
昨日の風は今日から明日へ吹いてくんだから、
つまり歴史は繋がってるんだから、そこから学んでよね!
という意味もあるんじゃないかと思うんだけど、
結局、日本人なんて昔からなんも変わっちゃいねえってことで
また同じ失敗繰り返しました、にならないようにしたいもんですね。

どっちにしろ、風は吹いてんだから、
本物の軽やかな時代にしたいものです。

そういえば、ナンシー関も
「広告批評」で連載してたっけ。

土曜ドラマ「再生の町」

2009-09-27 11:43:18 | Weblog
このところのNHKドラマは、時代の予言者のようである。

NHKの土曜ドラマ「再生の町」がゆうべ最終回を迎えた。
このドラマ、財政破綻しそうな市を立て直すというテーマだが、
ニュータウン計画という巨大公共事業を見直すか否かという
ことを軸に話が組まれていた。
奇しくも、放送期間中に、八ッ場ダム中止が話題となり
ダムとニュータウンの違いはあれ、とてもリアリティが増した。

今現在、日本が抱えている問題点や、国民が漠然と感じている不満や
期待感を昇華する形でドラマをつくるということに関しては、
NHKは完全に民放を凌駕している。

同時期にTBSでは「官僚たちの夏」を放送していたが、
しかし、こちらは、官僚が熱かった時代という過去の話だ。
官僚はこうあって欲しいという思いは託せるものの
今、新政権が霞ヶ関の変革に挑戦しようとしている中、
この話にシンパシーを感じるには、
少々、歴史に対する認識が必要となるだろう。

一方で、「再生の町」は全く今現在の出来事をモチーフにしていて
誰でも感情移入ができる。
しかし、視聴率自体は、実は、この「再生の町」も一桁だったようだ。
最終回の視聴率はまだ出ていない。
ちなみに「官僚たちの夏」は初回14%台から徐々に一桁に落ちていっている。

「再生の町」をべたぼめにしてるようだが、
全5回という制約もあってか、作りは粗い。
話もよく言えば分かりやすいが、悪く言えばステレオタイプかもしれない。
それでもなぜ私が、このドラマを評価するかというと、
それは、このドラマで描かれたようなわかりやすい変革と
人々の熱い思いが今の日本には必要だからだ。

ドラマは、財政再建のため、ニュータウン計画を凍結させ、
医療や子育て、高齢者施設、教育など
暮らしに関係する現場の予算削減を最小限にとどめるという
財政再建プロジェクトチームの役人と
ニュータウン推進の市議会議員やそこにつながる役人の戦い。
そして、そこにニュータウン推進を公約に当選した市長が加わる。
(この市長は自らの公約をめぐって苦悩することになるのだが)

ニュータウン凍結に変わる町の将来ビジョンを示せと言われた
プロジェクトチームは、
パートナーシップ構想という市民参加の行政構想を提示。
行政コストを下げるため、市民にも参加してもらおうというものだ。
また、市営住宅の空き部屋を子育て支援や高齢者施設に流用するなどの
プランを提示する。
これは、行政の縦割りを廃し、各部局の垣根を取り払わねば実現できない。
また、国(国交省)に申請し許可を取らねばできないことだ。
まさに地域主権の実現である。

そして、これは民主党や社民党など、現在の与党が考えている構想と合致する。
ドラマはやや勧善懲悪的なところもあって、手放しで礼賛というわけではないが、
これから各地で、このドラマのようなぶつかり合いが次々に起こると考えられる中
市民に取ってなんらかの参考になったんではないかと思う。
とはいえ、最後、市長のびっくり発言で一件落着みたいな、
ちょっと水戸黄門的なところもあって、そんな簡単じゃないよなと思ったのも事実だけどね。

とにかく、
これまで、国の決めたことはどうせ動きゃしない、
どうせ大きな企業が議員とつるんで何でも決めてしまうから
一市民にはどうしようもないとあきらめていた人々に、
世の中は、市民一人一人が中心の新しい時代に入ったということを
実感してもらうという意気込みが感じられるだけでも
このドラマは評価されてもいいと思うのだ。

ちなみに、このドラマで、ニュータウン推進派の急先鋒である
市議会のドンを演じていた近藤正臣は、
長良川河口堰撤去を訴える「2009長良川救済DAY」の呼びかけ人に名を連ねている。
現代の悪代官役、やりがいあっただろうなあ。

最初に書いた、NHKドラマは予言者という言葉には
もう一つの理由があるのだが、
長くなったので、あとでアップします。
ちょっとお出かけ

坂本龍一「Playing The Piano 2009 」

2009-09-26 17:12:58 | Weblog
帰宅してメールを開いたら、iTuneからのお知らせ。
坂本龍一の「Playing the piano2009 Japan fan's selections」の
リリースを知らせるメールが届いていた。
YMO時代から最近の曲まで(ほぼ30年!)、
ピアノで演奏したものの中から人気投票で選んだベスト版だ。
何気なく開いて試聴したら涙が出た。

実家の居間に寝転んで、
ラジカセから流れる曲を聴いている高校生の自分が見えた。
土曜日の誰にも邪魔されない昼下がり。
80年代前半、バブルがやってくるちょっと前(歳がバレるね)。
まだ世の中は、不景気と言われるカテゴリーのはずだったのに
その当時の曲は、なぜか、軽やかでキラキラしていた。

東京がTOKIOと呼ばれ、スーパーシティになったのが80年。
日本が高度成長期を経て、オイルショックも切り抜け
次のステップに向かう先触れみたいなものを
どこかで感じていたのだろうか。

うまく説明できないが、当時の曲には、
未来に向かって開いている感じの曲が多い(主観だけど)。
70年代の、まだクラシックな風情が残る日本から、
次の時代に向けて、軽やかな風が吹き抜けているような感じ。
(今考えれば、当時の日本はただの怖いもの知らず、若木の至り
  地獄への入り口だったのかもしれないが・・・とほほ)

ユーミンの「パールピアス」のジャケットはペパーミントグリーンで
ライナーノーツのイラストは安西水丸で、という、そんな時代だった。
ナイアガラトライアングルの音がそこここで聞こえていた。

そんな時代のそんな曲たちの中に、都会を見つけ、憧れている田舎の少女に
またそれとは別な軽やかさを見せてくれたのが、
坂本龍一の音楽だった。

このPLAYING PIANO2009にも入っている「セルフポートレート」は
1984年リリースの「音楽図鑑」に収録されている。
上記の、土曜の昼下がりの私は、ラジオのFMから流れるこの曲を聴いている。
私は、この曲に「なつかしい未来」という別名をつけていた。

そして、私は、その曲を聴きながら、こんな詩のようなものを書いている。

  <Self Portrait~なつかしい未来~>

   孤独なんだか 元気なんだか
   楽しいんだか 寂しいんだか

       なんだか

   お別れみたいな気もするし
   はじめて会った気もするし

      けっして戯れず

   未来をみつめるということは
   孤独であるということかな

   写真の中でぼくらは笑っている


これだと「セルフポートレート」ではなくて、
「グループ写真」だったりするのだが、
そこは、なんとなくこの曲から受けたイメージを書いただけなので
いいかげんですね。
なんでこういうイメージ抱いたかはわからないけど、
興味のある人は聴いてみてください。

教授の曲の中では「音楽」という曲(このアルバムには入ってないけど)や
「パースペクティブ」なんかが、
私の中では、この「セルフポートレート」と同じカテゴリーに入っている。

共通点は、日常のリリカル。

日々の生活や自分のまわりの世の中には、いろんな音符♪が踊っている、
跳ねている、揺れている、震えている・・そんなことを感じさせてくれた曲。
言葉とは違う表現手段がある、もとい、
音符一つ一つにも思いがあるということに
気づかせてくれたのがこれらの曲たちだった。
例えば、マグカップ、例えば、白いシーツなどなど、
じっとして動かないモノ、もの言わぬモノもたくさんの音符♪の集積で
できていて、何かの刺激があると飛び出して音楽を奏でる。
そんなイメージ。

そんなリリカルな音の玉たち、
いろんな色のカラフルな音符たちが集まって、
今の自分を形作っている。

そして、今、スピーカーから流れてくるピアノの音が、
私の中のいろんな色の音符を刺激して、
なつかしい未来を、昔の自分を、今の自分を、
未来の自分の姿を浮かび上がらせる。
かろやかな風吹く、やさしい未来。

時代がいくらデジタル化しようと、
緑の木漏れ日の下で、名前をつけたノートブックPCを開いて
のんきに鼻歌歌っていたい。
電子だって、自然の一部だ。

今、これらの曲を聴いてこんなことを考えるのは、
日本に、新しい時代に向けて風が通る穴があいたからかもしれない。
灰色の未来につながりそうなものには耳を傾けたくない。
やっと緑色の未来に繋がる道が見え始めたところだ。
心のアンテナの感度を高めて、なつかしい未来をキャッチしたい。

これを書いている今は、
あれから25年後の土曜の昼下がり。
青空の下、ベランダでは洗濯機が回っている(うちは洗濯機が外なのだ)。
9月にはめずらしいいい陽気で、さっきガリガリ君を食べたとこ。
洗濯物干したら、アルバム本体を買いに行こ。

今、ふと思ったが、25年前はまだ、
歌の歌詞の中に、都会の緑が結構登場していたかな。
東京がまだ、松本隆のいう「風街」だったのかな。
私は、それにあこがれてここにやって来たのにな・・。
そんな東京になったらいいな。

実は、昨日、某港区のTSUYAに行ったのだが、
発売日3日目だというのに、
「Playing the piano2009」置いてなかった!

ちなみに、昨日発売の橋本治の新刊「明日は昨日の風が吹く」
も近所の本屋どこにも置いてなかった。
いいものをちゃんと仕入れようね!







八ッ場ダム 

2009-09-26 03:59:25 | Weblog
八ッ場ダム報道については、ちょっとため息がでる。
テレビを見る限り、住民の中止反対を訴える声ばかりが
報道されている。
ダム中止によるコストは、継続した場合より大きいとか
治水には必要だとか。
まるで建設に反対し、中止を喜ぶ声は全く無いかのようだ。
そして、50年間国に翻弄された住民は、
また翻弄される事になるのかといって、前原国交相を責める。
確かに、住民が翻弄されているというのは事実だけど
そこでダムを造っちゃうという事は、
やり逃げした自民党政権の逃げ得じゃないか。
責められるべきは民主党政権なんじゃなくて
50年間も、反対する住民をねちこく責めて、
嫌な思いをいっぱいさせて、なんとか賛成に転じさせた
自民党政権ではないか。
このダム計画に群がった族議員たちだけがいい思いをして、
犠牲になるのは結局住民たちだ。

ダムは治水に必要と国交省は言うが、
本当に役人の出すデータが正しいかどうかは
どこのニュース見てもわからない。
それに、基本的に、もう巨大コンクリートダムの時代じゃないんだ。
前原国交相だって「緑のダム」と言っている。
これからの治水対策は、森の保水力を高めることを中心に行うべきだ。
コンクリートのダムを造る事で、川につながる自然を破壊し
それがいかに災害を生んで来たかも考えるべきだ。

それに壊すにもコストがかかると言うが、
それは反対側から見れば、
ダム建設中止で仕事を失う土木業者が「壊す」という新しい仕事を
得るってことでもあるんじゃないの???
それに、土建屋さんには、緑の治水事業という
新たな仕事をやってもらえばいいじゃない。
ノウハウがないなら勉強してもらえばいいじゃない。
そのくらいの努力はしてもらってもいいでしょう。
ダムに比べたら事業規模は小さいのかもしれないが
多分、そうした緑の治水事業に、都会の大手ゼネコンは
必要ないはずだ。地元の業者を下請け、孫請けに使う
大手ゼネコンにはここでご退場いただいて、
地元の土木業者が直接、治水事業を請け負えるようにするべきだ。
はあ~、一気に言ったら息が切れた。
(あ、今言ったような事、朝生TVで上杉隆が言ってる)

もとい、民主党がやるべきことは
緑の公共事業で、村に仕事は行きますよという話をして、
それで生まれる、自然豊かな村の姿を想像してもらって
住民を説得する事だ。
八ッ場ダム周辺を緑の象徴として、ダムをやめた勇気ある村として
今後の日本の田舎のあり方のモデルになるよう応援する事だ。

あなたは当事者ではないから言える事だと批判されるかもしれないが、
このダムが完成してしまうという事は、影でかつての自民党の族議員が
ほくそ笑むことではないのだろうか。そんな憎たらしいものを
保証金と引き換えでのうのうと作らせていいのだろうか。
そんな過去の遺物、負の遺産はぶちこわして、
新しい道を選び、そちら側から利益を得ることのほうが、
これから日本がいろいろな面で変わっていかなければいけない中で、
プラスに作用するのではないかと思う。
中止に反対してる住民のみなさん。
一度でいいですから、前原さんの話に耳を傾けてみてください。


最初、報道の批判していたのに、逸れてしまったので
最後にちょっと戻すとするか。

将来の世の中のビジョンの全くない、現在の報道は
まさに古い自民党体質だ。
発言の揚げ足をとっては、ワイワイ言ってる。
政権交代した今、
もはやメディアは、自分たちが今まで、古い体質を引きずってると
見下していた政治家よりも古い体質に蝕まれてる。
民主党の議員のほうがよっぽど先を見ている(違う人もいるようですが)。
おまいら遅れてんだから、ちょっと政府の言う事を一回じっくり聞いてみろ。
それから、文句をつけるべきところは文句をつける。
そうしないと、メディアは国民からも見放されるぞー。

同じようなイライラを抱えてる方は、以下のブログをどうぞ。

「保坂展人のどこどこ日記」
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/7eaba4bbf3409d6bf7151d9501304ff2

鳩山演説温暖化ガス25%削減

2009-09-23 11:35:13 | Weblog
鳩山首相が、国連で、温暖化ガスを2020までに90年比25%削減すると演説した。
会場からは拍手がおこり、演説後には多くの国の首脳に握手を求められていた。
サルコジやゴアも絶賛していた。
日本の首相が、こんなに国際社会から喝采される光景は、
ついぞ見た事がなかったから、なんだか嬉しくなってしまった。

しかし、国内では、経済界が実現は無理だと反発している。
石油のでない日本では、80年代から省エネが進められていた。
そのため、欧米などより、既に削減できる幅が少なく、
その欧米より大きい削減目標等実現できるわけがないというのが理由だ。

政府は、排出量取引などの方法も取り入れるとしているが、
それに対しても、
各企業が排出権を買い取るための費用を捻出するため
企業の国際競争力が損なわれるとか、
海外の途上国からの排出権買い取りのための増税は
国民生活を圧迫するとか批判が多い。

マスメディアの報道は、こうした懸念を示す事に行きがちだが、
では、目標を達成しなかったらどうなるというのだろう。
「温暖化しているというのは嘘だ」という一部の学者の意見に
組するとでも言うのだろうか?
批判だけで終わらせては、何の未来も無い。

化石燃料の時代から、再生エネルギーの時代に移っていくのは
もう既定路線と言ってもいい。
その移行をスピードアップする為に政府の政策がある。
エネルギー転換していくには、経済界の理解を得て、
産業構造を転換していかなくてはいけない。インフラ整備も必要だ。
大変な作業である。
企業の中には商売替えを強いられる所もあるだろうし
電力会社だって、今のままの方が楽に決まっている。
こうした改革は、
楽に儲けたい既得権益者に対し、
苦労は伴うが、将来の世の中にとっては利益となる
どうしても必要な作業なのだということを納得させる作業だ。
そして、そうして作った新しい未来のほうが、
現在の世の中よりも快適で人間らしい生活が待っているということも
理解してもらわねばならない。
大変な作業だというのはわかっているが、
それをやらないことには、世の中は今のまま袋小路から抜け出せない。
経済成長のために、自然を犠牲にして来たのがこの戦後60年間だった。
これからは、自然と共生していく時代である。

マスメディアは、批判を行う一方で、
何らかの解決策を提示する努力が必要ではないかと思う。

また、政府の温暖化対策の具体的な方針を
早いとこ取材して、国民の前に提示し、議論の遡上に載せてほしい。

このところ政権が不安定だった日本は、
国際会議でほとんど蚊帳の外という感じだったのが
この政権交代で、俄然注目を浴びている。
日本は変わるという事を世界中が期待しているという事が
ひしひしと伝わってくる。
この風に乗って新しい未来に向かう事は、決して間違いではないはずだ。

理屈でわからないときは、気分のいい方を選べばいい、のだと思う。

そういう意味でもうひとつ気になるのが「八ッ場ダム」だ。
次回はこの話を。

のりP保釈から考える

2009-09-20 04:50:12 | Weblog
さすがに、鳩山政権発足当日は避けたが、保釈されたのは、その翌日だ。
アメリカ人の政治学者が、この政権交代をして「日本の戦後が終わった」と
言っているのに、当の日本人はのりPを追っかけている。
日本人はというより、もはやマスコミか?
覚せい剤事件だから、報道局の記者が出動するのも当然なのかもしれないが、
総動員というのはいかがなものか。
さすがに政治部の記者は新政権を追っかけてるだろうけど、
社会部はほとんどがのりPに関わってたんじゃないかと思う。

会見が始まった6時半、横並びに全局分並んだモニターには
全てのりPが映っていた。NHKも。
これは、前日にも見た光景で、その時は宇宙人。
でも、鳩山さんが乗った車を追っかけるために、
上空にヘリまでは出動しない。

ヘリのチャーター代数十万円。
予算削減とうるさき折に、なんでこんなヘリのお金はでるのか?
各局でギャラの高い40代以上の派遣ディレクターが
リストラされているというのに・・。

それは、視聴率がとれると経営者側も信じているからだ。
現に、のりP報道が続いた8月は、低迷するニュース番組の視聴率も
ちょっぴりよかったようだ。
そのためには出費もしょうがないとなってしまうのだろう。
(それに、現に、夕方4時から5時にかけての視聴率は
 通常よりよかったようだ。)

でも、まぬけなことに、
結局今回の出所騒動で、一番おもろかったのは、
出迎えの車の運転席と助手席にいた男二人組だ。
いかにもヤ○ザのような、黒サングラス。
人をなめくさったあの表情。
車の正面から構えるカメラに向けて
どんどんアップになるあの2人の姿を見た時はもう釘付けだった。

やっぱ、ヤ○ザ?

そのほかにも車のナンバーが8888だったりとか
想像が膨らむ仕掛けが満載なのだ。

しかし、のりPの会見については、つまらんの一言。
何の言葉も印象に残っていない。
やたらテレビのカメラがドアップをとっていたことと
大粒の涙こぼしてたことしか印象に無い。
だからか、翌日のスポーツ紙は、こぼした涙22粒とか数えてた。

視聴者が、酒井法子の出所に注目したのは、
出て来た時の表情で、
彼女が本当のワルなのか、それとも
夫に勧められ、自分の弱さ故に覚せい剤にハマっていった
ただ可哀想な人間なのかを、見極めたいからだ。
言い換えれば、演技なのかどうかだ。

しかし、それがあんまりよくわからないまま、
さらっと酒井法子お披露目は終了してしまったのだ
(逆に考えれば、ここまで煙にまいた事で、
 やはりこれは、かなり腹をくくった姐さんであると
 判断した人もいたかもしれないが)。
そういう意味では、本人にとって
このお披露目は大成功だったのかもしれない。
しかし、テレビ的には、え~~~、である。
テレビはまたしてものりPの実像に迫れなかったのだ。

テレビが酒井法子が本物のワルなのか否かを判断する材料を
情報としても映像からも、ほとんど示せない一方で、
週刊誌や、ネット上では
彼女に関するさまざまな情報が飛び交っている。
テレビ視聴者の中のどのくらいがこうした情報に触れていたかは定かではないが、
今やかなり多くの視聴者が、なんらかの形で知っているだろう。

ただネットの情報は、玉石混淆で、一概に信じる事ができない。
そこで、人々は、テレビを、より公共性が高いという理由で、
様々な怪しい情報をジャッジするための
「目安」にしているのではないか?
「テレビで言ったから、あれホントっぽいね」とか、
「とうとうテレビでも情報出て来たから、なんか動くね」とか
(もちろん本当にテレビ報道が正しいかはわかりません)。

そしてもう一つ、先にも述べた、
「被写体の無意識の発露の発見ツール」「嘘発見機」的使い方。

視聴者は、謝罪する酒井法子の表情やしぐさから、
彼女自身さえも気づかない無意識を読み解こうとしたはずだ。
映像というのは時に、言葉より饒舌だ。
ある人々は意識的にそうしたテレビの機能を認識し、
ある人々は、無意識にそうした機能を利用している。

そういう意味で、
もう誰も、テレビの取材や分析力など、
制作者側が意識的に報じている内容には期待してはいないのではないだろうか。

驚くべき事に制作者側も、もはや取材や分析に期待していないという見方もある。

先日、知り合いのディレクターもこぼしていたが、
ニュース映像やドキュメントの制作現場では、
「強い画、強い画!」、つまり、
目が離せない印象の強い映像の多用を求められる。
一方で、伝えるべきテーマとか
問題点はあいまいであることが(最近)多い。
報じられるニュースの社会的意味など興味を示さない制作者もいると聞く。

さっき、テレビは被写体の「無意識」を映すメディアだという話をしたが、
この「強い画」のセレクトというのも、「無意識」の産物だ。

何をもって強い画とするのか、それは言ってる本人でさえ説明できないだろう。
戦場で人が死んでる映像が強いと言って(実際の放送ではモザイクかかっちゃいますが)
それがなぜ強い映像かを説明できるだろうか。ショッキングな映像が
なぜあなたにとってショッキングなのか?言葉で言い表すのは難しい。
「血が流れてるから」とか、それは答えにならない。
「じゃあ血が流れてるのがなんでショッキングなんですか?」
「死にそうな人をみるのがなぜショックなんですか?」という話だ。
我々はそうしたものを「強い画」とひとくくりにしている。

制作者は、自らの「無意識」が反応した「強い画」を放送することで、
視聴者の「無意識」に訴えかけ、画面に目を留めてもらおうとする。
一方、視聴者は、そうした映像から、「被写体や世の中の無意識」を読み取ろうとする。

なんか無意識だらけだ。

視聴率という顔の見えない相手と格闘し続けて来たために
テレビというのは、顔のみえないものしか相手にできなくなったのかもしれない。

よく、視聴者の「俗情」に訴えるという言い方を聞くが、
それは、本人も気づいていない欲望つまり「無意識」に訴える事と同じだ。

なんだかまとまりがつかなくなってしまったが、
とにかく、酒井法子はうまいこと、人々の無意識の網をすり抜けた気がする。
問題意識も切り口も分析も捨てたテレビは、自らの最後の切り札である
無意識の領域さえ機能しなかった。路頭に迷わなければいいが・・。

でも、視聴率が上がるからいいのか?
いや、そんなことしてたらもっと悪いことが起こる気がする。




新聞配達人

2009-09-18 14:39:04 | Weblog
2ヶ月ぶりに新聞の集金が来た。
平日仕事に出てるので、タイミングが合わず払いそびれていた。
さらに、新聞の契約は3ヶ月で、
その契約も7月末で切れているはずなのだが、
いまだに確認もなく、朝刊はポストに放り込まれ続けてもいた。
どうなってるんだろうと思ってた時に
留守電に新聞代払って下さいというメッセージが入っていて
その翌日の午前中集金人がやってきた。


こちらとしては、なかなか来ないなあと思っていたのだが、
向こうとしては払ってもらってないという意識でいたようで、
「2ヶ月分溜まってるんですけど」と迷惑そうに言う。
まるで、こちらが払いたくなくて逃げているような口ぶりに
カチンときて、そっちが来なかったんじゃないんですか
と言うと、何度も来たと言って、不機嫌になった。
さらに、契約だって切れてるのに新聞が入り続けていると
抗議すると、「なら今月で止めますか」と逆切れ。
いいですよ、止めなくてと言って、契約を求めると
「これからは、一ヶ月ごとに確認しますから」と一方的に言って
契約書も書かず、集金だけして帰っていった。
こんな口約束なんて、後で「取ると言った覚えはない」と言えば
無効にできるのになあ。ずさん。
帰り際に、私は「平日は午前中しか絶対いませんから。土日ならいますけど。」
と付け足した。


なんだか不毛なやりとりにため息がでた。
この集金人は、これまで何度も留守宅に来ていながら
なぜ、いままで一度も留守電にメッセージも残さなかったのだろう。
ドアにメモ書きを残さなかったのだろう。
多分、何度来ても留守で、その度いらいらしたに違いない。


いつも家にいるわけないじゃないか。


2度ほどきて留守だったら留守電にメッセージを入れておけばいいではないか。
それを2ヶ月間放置して、勝手にいらいらを募らせるなんて、
なんて不合理なんだ。相手も私もいらいらするだけじゃないか。
それでイライラした結果、私にまるで「滞納している」と言わんばかりの態度。


そんな集金人の態度に、職業上の倫理観を求め厳しく当たった後で
しかし、私はなんだか悲しくなってしまった。


私はなんで、こんなところにまで職業上の倫理や合理性を厳しく求めてしまうのだろうか。
弱っている人にはそこまでしなくてはいいではないか。
カチンと来ても飲み込んで
次からは電話してから来て下さいと言えばいいだけではないか。


新聞の集金は、歩合制で、集金できなかった分は集金人が立て替えるシステムの
販売店も多いと聞く。結果、多くが立て替えに廻り、収入は微々たるものになる
者もいるらしい。そんな状況では、不機嫌になるのも当然と言えば当然だ。


彼らが、合理的に仕事を遂行できるだけの余裕を持てるほどの
セーフティネットはやはり必要なのだ。


新聞とは、入り口を記者という社会のエリートによって支えられ、
出口の集金というところでは、こうした集金人によって支えられている。
世界でも珍しい宅配という新聞のシステムは、こうした配達、集金、営業によって
支えられているにも関わらず、エリートたちは、
そちら側には見向きもしない。


政権交代とともにマスメディアの崩壊の音が聞こえる。
マスメディアは、新聞にしろテレビにしろ、自らの闇にまず目を向けるべきだ。



無意識の中の邪悪

2009-09-15 09:33:03 | Weblog
ナンシー関にはまだ批評するべきテレビ番組があったのだろうか。

急速に、地上波テレビに対し興味を失っている自分を振り返って考える。
決して、現在、全てのテレビ番組をダメだと思っているわけではない。
ドキュメンタリーやドラマの一部には、
心に訴えかける何かを持つものも放送されている。
しかし、ナンシー関のようなセンシティブな批評家にとっては、
それらの「真っ当な番組」を褒める事は『こっぱずかしい』部類に入り、
正面切って批評の対象にしないだろうと思われる。
彼女が批評の対象にしたのは、「真っ当であるべきものの中の間抜けや緩さ」であり、
「一見くだらないものの中に存在する、真摯さ」であり、
画面の中の「無意識の邪悪」や「無意識の罪」を発見し、世の中に提示することだった。
実は、それら無意識がもたらすものが、今の世の中でもっとも大問題を引き起こしている。
「小泉旋風→小泉改革→格差拡大」しかりである。
無意識が暴走しないように、メディアの番人をやっていたナンシー関
(本人はそう言ってはいなかったが)。
大衆の無意識をもっと意識するだけの繊細さを制作者の側が持たねばならない。

話は変わるが、この一週間で聞いた話は、
今世の中で起こっているいろんな問題の凝縮だった。
メディアとの関係で書けるかな・・。
それはまた後で








ブログ復活の理由 

2009-09-09 16:44:31 | Weblog
3年塩漬けにしていたブログを復活させた理由のひとつは、
昨日も書いたように、ナンシー関に触発されたからだが、
もう一点は、これからマスメディアの過渡期になるかもしれないからだ。

民主党が言ってる記者クラブの解放がどういう影響を及ぼすのか、
それとも何にも変わらないのか・・・。

よく、記者クラブはテレビと新聞の既得権益のようなことを言われるが、
問題なのは、その閉鎖性ゆえに、官僚の側が情報操作に利用できる事だ。

「発表報道」に堕しているといわれるマスメディアに対し、
官僚は自分たちに都合のいい情報だけを流す可能性がある。

その可能性を私が実感として感じたのは、
あの耐震偽装問題の時だった。
この事件の時、
マスメディアは官僚から出てくる情報に踊らされただけではないかと、
今でも私は思っている。

私はクラブの記者ではないので、そうした官僚発の情報を一次情報として
直接受け取ることはない。クラブの記者からやってくる情報を元に、
自分なりに考え、追加取材をするだけの立場だ。
ゆえに、クラブが決めた報道方針とまったく違う事は、報じる事はできない。
当時、取材から私が導いた答えは一般に報じられているそれとは違っていた。
結局、耐震偽装について私が取材し考えた事は、
自分の所属するメディアで報じられる事はなく、
ただこのブログにのみ書かれている。

興味がある方は、過去の記事「耐震偽装捜査終了らしい。」を読んで下さい。

裁判員制度も始まり、マスメディアは、
情報の出元を明示するよう配慮しているようだ。
事件報道ではたいてい、
県警によればとか警視庁への取材でという言葉が聞かれる。
そして、それがほとんどだ。独自取材でとか、めったに聞かない。
裁判員の予断を防ぐため情報の出元を出した事が、
ただ警察情報を垂れ流していた事がばればれになっただけという状況だ。

そんな私も、最近は独自で取材を行う事も無く、既存の情報のまとめや、
過去のクロノロジー的なものしか担当していない。

私は記者ではない。ジャーナリストでもない。
理解がめんどうくさい情報を分かりやすく噛み砕いたり、
素朴な疑問を呈したり、
興味を持ちやすく加工して提供する役回りだと認識している。
しかし、そんな自己認識の私でさえ、素朴な疑問を抱いて、
それに忠実に行動すれば、
人脈を駆使したディープな取材なんかできなくても、
なんだかオカシイと思える事象はいっぱい出てくるのだ。

昨今のニュース番組は、
ただのニュースでは視聴率がとれないといって、
「のりP事件」ばかりを報じ、グルメ情報を流し、
視聴者の俗情を刺激するようなものばかりを流すが、
それは、単純に政治や経済のニュースで視聴率がとれないから
ではないと思う。
政治や経済のニュースを、視聴者に共感を持ってもらえるように
料理する事ができていないだけだ。
料理というより、その問題の核心は何かを抽出する事ができていない。
テレビはその努力を怠っているように見える。
俗情をあおることの方が簡単だから、そっちに流れているだけだ。
だから、小幅にしか視聴率は動かない。
さらにいえば、テレビで働いている人間の多くが、
視聴者の興味を見誤っているのではないか。
テレビ局という特殊な狭い世界で生きているがゆえに、
テレビという箱の外側にいる人の感覚が
わからなくなっているのだろう。
先頭を走っていると信じているテレビマンは、
一周遅れで、視聴者の前を走っているのかも・・。

ナンシー関は泣いている・・・かもね~再開にあたって

2009-09-09 02:12:43 | Weblog
本屋に「ナンシー関リターンズ」という本が並んでいたのを見て触発され
自宅の本棚から引っ張りだした既得のナンシー関本でこんなフレーズを見つけた。

ここから引用
『番組寸評
昨今、テレビではいろんな番組を制作しているようだが、
無防備に私たちの生活になだれ込んで来るそれを道徳的観念を持って制御するには、
批評能力が必要だ。当局の設置した臨時低俗番組徹底追放協議会および運動本部が、
この状況を打開せんとすべく運動部員の鋭い感性を結集し、
今ここにビバーンと送る現代人のバイブルです。毎朝読んで肝に命じて下さい。』
~引用ここまで(「ナンシー関大全」より)

高校生のとき(?)に友人と作っていた新聞の一節らしい。
完敗だ。ナンシー関と競っても勝負にならないのは分かっているが、
負けたとしか言えないような先見の明である。
テレビに対して、「無防備に私たちの生活になだれ込んでくる」という
表現を使うモノの見方の的確さ。
「打開せんとすべく」の後に「ビバーンと」が来るところが、
彼女の誠実さの証である。もう泣けちゃったね。
この言葉を、ブログ再開の記念に掲げたい。


冒頭でも言ったように、
先日、本屋に行くと、ナンシー関リターンズという本が平積みに並んでいた。
なぜ今、とも思ったが、最近私の生活範囲にナンシー関的なものが枯渇していたので、
懐かしさのあまり購入した。
そして、やっぱりすごいわ、今こそナンシー必要なんじゃんと強く思ったら、
このメディアブログを塩漬けにしてた事ふと思い出したのだった。

久々に読んだ、ナンシー関の文章は、サブカルを超えちょりました。
前にも読んだ事ある文章なんだろうけど、
どんどんひどくなってくメディアの状況に、
かつて読んだ時より、こっちの感度が敏感になってるんだろう。

ナンシー関のコラムは社会批評の王道でござった。
芯食いすぎちゃってシャレにならない。
時代が変わろうとする今、この本を手に取ったことは、
必然だったのですね多分。

ナンシー関は20年近く前の文章で、
今の日本のいろんな問題点の根っこの部分をことごとく言い当てている。
遡上に載るのは、『加賀まりこ司会の「夜のヒットスタジオ」。
誰がまりこのお眼鏡にかなうかが見物』だったりするのだが、
テレビの中の芸能人の人間模様に視聴者(世の中)がどう反応し、
それが何を意味するのかを的確に語っている。
その文章で引用されている加賀まりこの台詞が
『工藤静香は好きだけど、酒井法子は嫌』だというのも今見ると感慨深い。

そして、ナンシー関は言う、
「テレビがどんどん下世話になっていく。」
さらに言う、
「私たちは事の重大さに気づいていない。」

全然古びていないとか、今でも通用するとか、
そんな上から目線の評価なんておこがましい。
予言者だよ。

芸能というのは、常に大衆の生活の通奏低音みたいになっている。
芸能に対する大衆の反応を読み解く事は、
政治に対する大衆の反応を読み解くことよりも、
ある意味、的確に社会を分析できる。
そういう意味で、彼女は社会批評家だ。

世の中の人々の無意識に眠る深層心理なんてお見通し。
文章からは、世の中のあまりの鈍感さに一人ため息をつくナンシーの姿が見える。
でも、ため息をつくばかりでもなくて、ちゃんとイイもんめっけて、
世の中のヤまんざらでもなさユも感じている。
批評の正しいあり方である。

このナンシー関の文章をよんで、
『まんざらでもない』ものを見つける事が人間の幸せなんじゃないか、とさえ思った。
「まんざらでもないもの」は、「ため息をつきたくなるもの」の山の中にまぎれていて、
ぶつぶつ言いながらその山をかき分けて見つけなければいけない。
それはアグレッシブな作業ではない。地味な日常的な作業だ。


『ナンシー関のいない世界』に今私たちは生きている。
世の中は、「まんざらでもない」を見つけることを忘れた。
そして、大味な「イケテル」を手に入れようとした。
そんな私たちは、壁にぶち当たり、
とうとう「change」というところにまで来てしまった。
「まんざらでもない」小さな幸せの見つけ方を失った世界は、
壁にぶち当たるしかないのだろう。

「まんざらでもない」小さな幸せは、大きな理想のないところではみつからない。
そして、厳しい批評のある場所でのみ見つけることができる。
「まんざらでもない小さな幸せ」をみつけることは、そんなに生易しいものではない。
けれど、「change」後の混乱するであろう世界を生き延びるには、
その生易しくはないスキルを磨くしかないのだと思う。


そこで、このコラムを再開しようと思う。
ナンシー関のいない世界でも、楽しく生きていきたいからね。