橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

突然ですが、和紙のちぎり絵って知ってますか?一部訂正あり。文中に記載。

2010-03-31 11:11:28 | Weblog
先日から左側サイドバーに、私のもうひとつのブログ「Japan I love! My favorites!!」を載せています。
将来のjapan紹介サイトに向けて、全然しょぼくはありますが、自分の身の回りにある
手近なところの愛すべき日本のものを乗っけてます。
今日は、手前味噌ではありますが、私の母が作った和紙のちぎり絵を紹介しました。
で、こちらでも、ちょっと紹介。

これは花の「カラー」です


田舎で、表具店だけではやってけないので、
母はこのちぎり絵を教えています。教えていると言っても、小規模ですし、
材料代+1000円くらいしかいただいていないので、いつまでもビンボーです(笑)。
(さっきまで、500円と書いていましたが、1000円の間違いでした。私の思い違いです。訂正いたします。)
娘の私から見ても呆れます。
でも、これってもしかしたら「FREE」ってこと?とか思いつつ、
ちょっと先取りしすぎて日の目が見られなかったのだなあとか、
勝手に納得したりして。娘の私がFREEを体現するぞー!なんてね。

というわけで、もうちょっと母の作った和紙のちぎり絵を宣伝。

民話「傘地蔵」より


これは・・?


このちぎり絵を見て興味を持たれた方は、
ここにコメントを下さるか、ツイッターyurysに返信ください。
この辺は大作なので、もっとシンプルなのもあります。

「Japan I Love! My Favorites!!」ブログの方には、また別の作品「富士山と桜」などを掲載してますので、よろしければ見に行ってやって下さいませ。




とうとう、テレビ局勤務が終わった。これからは「日本を世界に」と「ガンの治療法探し」を

2010-03-29 03:09:40 | ツイッターで仕事辞めました~その後
この金曜日をもって、20年近く続けてきたテレビ番組の制作の仕事をとうとう離れました。
また、機会があればとも思いますが、とりあえずこれからは、
テレビ以外の所でなんとか生計を立てられるように活動を開始します。

前回のブログにも書きましたが、
日本のものを世界に発信するサイトを立ち上げたいと思っています。
このところ、日本在住の外国人がこうしたサイトを次々立ち上げてて
ちょっと焦っております。
その上、この2週間ブログも更新していないような始末。
結局、テレビの仕事を辞めると最終的に決めて、これまでの2ヶ月の間に
何かが形になっているわけではないし、
始めてみると、まだまだ勉強しないといけないことが次々出てきてちょっとビビってます。
もう飛び降りちゃって、下に地上が見えているのですから、
あとは羽をバタバタさせて浮上するしかありません。

♪昔ギリシャのイカロスは、勇気一つを友にして
ロウで固めた鳥の羽を両手にもって飛び立ちましたが(byみんなのうた)
結局、調子にのっておっこっちゃうんですよね。
みんなのうたでは、ぼくらはイカロスの鉄の勇気を受け継ぐと英雄視してますし、
私も子供の頃、なぜかこの曲で号泣してましたが、
大人になった今、自分がこんな立場になろうとは・・・。
鉄の勇気を持ちながら、調子に乗る事無く、
着実に事を進めねばならないと肝に命じる次第です。

以前の「ツイッターで仕事辞めました」にも書きましたが、
これから、資金を借りるべく、事業計画書も書かねばならない。
それに、住宅ローンモラトリアムも一応申し込まなければ・・・。

とにもかくにも、サイトを作るという目標に向かっていく経過を
このブログやツイッター上でつぶやいていこうと思います。
これから仕事辞めようと思っていて、かつ計画性のない私のような方の
参考に少しでもなれば幸いです。

また、乳がん体験についても、これを機に、一度まとめようと思っています。
私のは特殊な治療を選んだので、万人に適用という訳にもいかないので
がん宣告から治療法を選ぶまでの道のり「医者の選び方」を中心に書こうと思います。
ちなみに、私は6年前乳がんが発覚。
種類は比較的穏やかと言われる粘液がんでしたが(アグネスチャンもこれらしい)
早期をちょっと過ぎていて直径2,5~3cmのしこりがありました。
しかし、放射線のピンポイント治療というのをやり、切らずに腫瘍は消えました。
今のところ再発は無く、普通に生活しています。
治療法を決定するまでに3ヶ月、大学病院から東洋医学まで、
7人の医師に会いました。再建手術の形成外科もいれるともっとです。

腫瘍が早期からそれに近い場合、治療にどう取り組むかより、
治療法を決める段階が本当に大事だと今実感しています。
私が体験した一体験談ではありますが、少しでも誰かの参考になればと思っています。

実は、私が最終的に治療をゆだねた担当医は、
あの筑紫哲也氏が最後に訪れた医師でもあります。
なぜ、筑紫さんがあの先生のところへ行ったのか・・?
ご家族に話を伺えればなどと妄想していますが、
そんなこと妄想するのも、自分の体験談がちゃんとまとめられたらの話ですね。

これまで、お金をもらう仕事では、テレビのナレーションや構成しか書いた事がありません。
まとまった文章といえば、このブログで書いている程度です。
しかし、書く事をやりたいと思ったのだからやってみようと思います。
(ウェブの方ではビデオも導入しますよー)

まるで中学生の決意表明の作文みたいですね、今日のブログ・・。
本当に、現時点で「思い」しかない私ですが、
なんとかその思いをつないでやってみたいと思います。
こんな青臭い言葉をはずかしげも無く綴ってる私はなんなんだろう。
ほんと自分がアラフォーなのか疑問です。人生積み重ねてないなあ・・。
自分に愚痴言っててもしょうがないので、今日はこの辺で。
みなさん、こんな私ですが、
今後、計画が具体化してきたらご意見などお寄せいただけると嬉しいです。

とりあえず、数日中に名刺のデザインを決めねばー。

もう一個のブログ「Japan I Love! My favorite!!」(左サイドバーにURL)もよろしくです。
自分の好きな日本の身近な雑貨などを英語で紹介するブログを試験的に作ってみました。
世界に発信するサイト作ると言う割には、英語が中学生並みでお恥ずかしいのですが
本サイトでは、ちゃんとネイティブの協力も得るつもりですので。

わー、朝になるー。寝よ。
今日は元いたニュースの4月リニューアル最初の放送。感想も送らねばー。





住宅ローンモラトリアム、そして、日本の家と私の野望(笑) 

2010-03-14 12:37:16 | ツイッターで仕事辞めました~その後
ふと、住宅ローンモラトリアムでググっていたらこんな記事を発見しました。

ゲンダイネット3月2日
『ほとんど応じてもらえない住宅ローンのモラトリアム』
http://gendai.net/?m=view&g=syakai&c=020&no=44838

大手銀行に申し込まれた住宅ローンモラトリアムのうち、
応じてもらっているのは、申し込みのたった1割程度らしい。

返済額を減らす方法として、返済期間を延ばすものと、返済額を一時的に減らしてその分3年後から上げるものがあるそうですが、前者だと、毎月の返済額が7万6970円の35年ローンの場合、 返済期間を10年間延ばしても返済額は6万9842円と、たった7128円しか少なくならない。しかも、総返済額は564万円も増える。後者でも、数十万円総返済額が増えるらしいのです。

やっぱり銀行は、絶対自分たちは損しないようにするのね。って、それは商売の鉄則だけど、自分らがかつて公的資金たんまり入れてもらってる事なんて忘れてるんですね。
返済したんだからいいだろ、って言うかもしれないけど、それは住宅ローンや中小企業モラトリアムを受ける側だって、先々返済ちゃんとするつもりで、今、「一時的に止めてくれ」と言ってるんです。
大銀行はちょっとは反省しろー!!!

これまでのブログにも書いていますが、私は親が住んでいる実家の住宅ローンを抱えていて、仕事を辞めるにあたって、それ以後返済をモラトリアムしてもらえないかと思っています。
私が借りているのは、地方銀行ですが、さて、どういう対応に出るのやら。
相談に行くのは4月に入ってからになりそうですが、
ちょっと電話で探りを入れてみようかなあ。

お前が分不相応に家なんか建てるからダメなんだろという方もいらっしゃるかもしれないので、言い訳がましくも、一応断っておこうと思うのですが、この住宅ローンはやむない事情で組んだのです。

親が暮らしている実家は、本当に古い家で、明治時代に建った商店街の長屋の一軒だったのですが、周りの家がだんだん切り離して建て替えていく中で、支えを無くしたこともあってか、一部土壁は崩れ、本当に地震でもあったらやばいぞってことになっており、父母は日々不安のうちにその家で暮らしておりました。
お金がなくて、それまであまり修理できなかったのもあります。
雨漏りなどもあり、本当にどうにかせねばという状態が続く中、とりあえずリフォームの相談をしてみたところ、これはもう建て替えないとダメだよと知り合いの大工さんにも宣言されたようです。両親もボロい家で暮らす事はやぶさかではなかったのですが、危険と隣り合わせとなり、どうしようと悩んでいたようです。

しかし、シャッター商店街となりはてた地方の商店街で、表具店なんていまどき田舎での需要はのぞめないクラシックな商売をやっている両親にそんなお金はなく、困っていたところに、たまたま出入りの銀行が「住宅ローン借りませんか」という話をもってきたのですね。でも、返済能力のない両親に借りられるはずもなく、私のところにお鉢がまわってきました。

年取った両親に今から東京出てこいと言うのも酷だし、もし実家を畳んで、東京で広い部屋に越したとしても、家賃が激上がりするか、遠くに離れるかどちらか。
それに、細々とはいえ、お店を開けておく事で社会とのつながりを保って生活している両親からそれを奪う事は、生きる張りを奪うようなものでしょう。
また、当時丁度、不景気のおかげなんでしょうか、私のような、テレビ局で契約で働く保証のないものでも、奇跡的に住宅ローンを組む事ができたのです(しかし、結局ローンを組んだのは最初に話しをもちかけた銀行とは違う所になったのですが)。

で、今の実家が完成し、25年の住宅ローンを払い始めました。
払い始めてもう6年になります。
そんなわけで、不可抗力により組まざるを得なかった住宅ローンです。どなた様も銀行様も、こんな景気の悪いおり、たった1年待ってくれという私の願いを聞いてくれたってバチは当たんないでしょ、と思うのですがいかがざんしょ。

ところで、当初の住宅ローンモラトリアムとはちょっと話がずれますが、ここで、この実家の話を少し聞いてもらえますでしょうか。

というのも、この、家に対する思いが、私が仕事を辞めて今後やろうとしていることにも、間接的に関係があるからです。

ローンを組んで新しく建てた実家は、資金不足で、狭い上に、建材などの部分で妥協の産物でもありますが、暮らしやすい家になったと、自分では結構気に入っています。
店舗の裏側に居間があって、その奥に壷庭があります。いわゆる町家風のつくりです。
居間と廊下と台所と風呂場が庭を囲んでいて、どこにいても庭が見えます。狭い庭にはいろんな植物が己生えに茂っていて、ちょっと野山を切り取って来た風情。腰高の風呂の窓を開けると庭に面した露天風呂気分。空を見上げれば時には月も見えます。昔の家からとっておいた沓脱ぎ石は縁側代わりの廊下の前に置かれていて、廊下に座ってぼーっとできます。
居間のサッシの内側の障子は雪見のガラス障子です。
建材などは、カタログから選ぶセミオーダー形式で、窓は普通にサッシ(アーケード商店街は消防法で防火ガラスのサッシにしないと違法なのです)、町家風とはいっても、予算と面積の制約で、京都の町家とは似て非なるものではありますが・・。

今はこの家に満足していますが、昨今の家の標準的スタイルであるLDKな間取りと違うこうした家を作る事は結構大変な作業でした。最初に設計士さんから出されたプランは、店舗の奥のドアを開けると、すぐ廊下があって、廊下の途中にトイレ、その先にキッチンと居間があり、その先に裏通りに面した小さい庭があるというもので、店舗にちょうど2LDKの家をくっつけた感じでした。しかし、町家の作りでは、多分、店舗のすぐ裏は、ちょっとした部屋(玄関間)があるはずです。店番してる時ちょっと中に引っ込んでも、「ごめん下さい」という声が聞こえる位置に部屋がなくてはいけない。田舎の表具店なんて、いつも店に誰かいる訳じゃないですから。お昼ご飯食べるときは引っ込む。そういう時のために店のすぐ裏に部屋が必要なんです。いつでも店番置いてちゃんと商売している今時のお店はそんなことないのかもしれません。そういうちゃんとしたお店なら、近くにあるのはトイレだけでいいのでしょう。しかし、年寄り2人の、人もそれほど訪れない店には、こうした仕様が使い勝手がいい。

ながながくどくど説明しましたが、これを設計士さんに分かってもらうのは実は比較的容易でした。それよりも難しかったのは、昔の家のいい部分を残したいという漠然とした希望を伝える事です。私の主観的な家への思い入れや思い出などが入り混じって、それをどう説明してどう具体的設計にしてもらえばいいものかが分かりませんでした。

実のところ、壊してしまった昔の家、それをそのまま再現したかったのが本音です。
昔の家は、先にも述べましたが、いわゆる町家の作りで、土間があって、家の真ん中に小さい壷庭がありました。庭に面した部屋は表面に歪みのある、昔の流れるようなガラスの入ったガラス戸で囲まれていました。階段は箱階段、風呂は五右衛門風呂、台所は(釜屋と呼んでいましたが)一旦靴を履いて下に降りる土間でした。そういえば和式便器も白ではなく、伊万里風の青い画が描かれたものでした。また、これが子ども心に一番グッと来てたのですが、物干に繋がる木の雨戸には、小さな木の節穴があって、晴れた日に雨戸と内側の障子を一緒に閉めると、節穴から光が入り、ピンホールカメラになって、障子のスクリーンに外の景色が逆さに映るのでした。また、物干から屋根に登って何度も夕焼けも眺めました。瓦と瓦の隙間には雑草が顔をのぞかせています。そこから眺める西の空を鳶が行く様は、私にとっての枕草子の雁の様です。思い出すと涙・・。

住んでいた当時は、もう古いボロ屋で、人を呼ぶのも恥ずかしく、自慢など決してできなかった家ではありますが、ほかにも、挙げだしたらきりがないほどいろんな思い出が詰まっていました。

物理的にそのまま再現するのは資金的に全然無理です。面積からして土間も諦めなくてはならないでしょう。
では、そんな気分だけでも再現できる家はどうやれば作れるのか?
夏休みを家の打ち合わせにあて、実家に帰り考えました。

方眼紙に自分で素人なりの設計図を書いて試行錯誤です。
長屋を切り離すので、間口が片側50cm計1mも狭くなり、建坪も以前よりずっと狭くなります。そのため、当初は、昔の家と同じ間取りで、真ん中に壷庭をとる発想は私にもありませんでした。裏庭でもいいやと思っていたのです。しかし、実際に設計士さんから提示された間取りから見えてくる生活は、どうしてもしっくり来ませんでした。
店舗のすぐ裏に部屋がひとつあって、ダイニングキッチンがあって再奥に庭があるのが何故ダメなのか?

帰郷から何日目だったか、家の向かいの道を登っていったところにある、かつては金比羅様の祀られる本殿のあった場所から商店街を見下ろしていたときのことでした。
「やはり部屋は狭くなってしまうけど、家の真ん中に壷庭つくるしかないなあ」とふと思ったのです。

うちの家が、貧しいながらも、最終的に殺伐としなかったのは、家のど真ん中に庭があったからだ、そう思いました。
そして、それを裏付けるシーンが頭の中に浮かんできました。
大学で東京に行くまでの私は、よく、庭の蟻の行列にすいかの欠片を落としてやったりしていましたが、庭で特に思い出に残っているのが、夜トイレに行く時に内庭に面した廊下から見上げた月や星座です。闇の怖さも覚えています。時には野良猫が侵入しどきりとする事もありました。トイレ(ご不浄)は外に面してないとだめなのです(って決めつけ過ぎw)。水回りはすべて庭に面してる、つまり半分外にあるのが、生活の基本だったことを再認識しました。そういえば、母は洗濯機も外に置く派です。当時は部屋にいるときも台所でも風呂でもトイレでも、一日中何をしている時でも、外とつながって日常を過ごしていました。アーケード商店街という町中に住んでいても、この小さい庭が家の内部にあり、向かいの鎮守には大きな楠木が茂り、秋には葉っぱでたき火をして、木にまたがった。そういう風に四季を感じる事が、お金がないということを私の中で決定的な問題にしなかったのではないかと思えてなりません。

家の中の全ての場所から見える庭。今の建築の主流がどうであろうと、部屋が狭くなろうと、そういう自分の家族の暮らし方の基本だけは崩してはいけないだろうと、その時気付きました。
夕焼け空の下、今は廃墟になってしまった鎮守の崩れ落ちた狛犬の横でアーケード街を見下ろしながら、やっぱり家の真ん中に壷庭をつくることに決めました。
そして、その後、それを基準にして、すべてを決めました。居間などの住居部分は狭くなってしまい、ちゃんとした客間も無いような家ですが、商店ですから、人がくれば店で話をしてますし、両親はこの家に満足しているようです。

長くなりついでにもうちょっと話すと、この家は、もともと真ん中の壷庭をはさんでお店のある表が2階建て、母屋のある裏が3階建てでした。木造の3階建てです。しかし、家業が傾いて来たために、私が生まれる前に裏の3階は他人の手に渡ってしまい、広かっただろう庭には仕切りの塀が作られていました。
今回老朽化を理由に、この他人の手に渡った3階も取り壊し駐車場になりました。
父が小さい頃には、まだこの木造3階はうちのもので、曾祖母らが3階の座敷で映っている写真もあるのですが、この3階というのが、サンルームのようにガラス戸が入っていて、私は一度そこに行きたくてしょうがありませんでした。曾祖父の時代は、茶懐石などもそこでやってたなどという話を聞かされた日にはなおさらでした。でも、そこを買い取った人の家とは仲があまり良くなくて、私は一度もその3階には行けぬまま、家の最後を看取ったのです。
しかも、家を壊す時、持ち主からいろいろ難癖を付けられ、結局裏の3階の解体費用と駐車場にする費用は私が出しました。本当に私が最後を看取りました。
そんなこともあったからでしょうか、私の密かな野望の中には、ゆくゆくは裏の土地を買い戻して3階木造を建ててみたいというものもあったりします。

原体験としてこんな住宅体験をしているために、私はどうしても昨今のフローリングのマンションは買う気になれず、東京で築40年の賃貸ボロマンションに住んでいます(地震が来たらかなりヤバいです)。そのかわり周りの環境は最高です。春は近くで桜が舞います。
さらには、「木造4階建てマンションを建てて母子家庭向けの格安NPO不動産をやって、そこの最上階に住むんだあ」とか、「やっぱり日本の家には借景が必要なのよ」とか、贅沢かつ妄想めいたことを日々口にして、たぶん、多くの人にあきれられています。でも、できる事ならばいつか、日本の風土に合った本当に心地よい家というものを作ってみたいです。自分のためでなくてもいいし、高価なものである必要もありません。

妄想ついでに、最後にだめ押しすると、
今回住宅ローンモラトリアムを申し込んでまで、私が今の仕事を辞めて新しい道に進むのは、以上のような野望を達成するための一歩という意味も無くはないのです。

私はこれから、日本のものを海外に紹介するサイトを立ち上げたいと思っています。まだまだ、日本の工芸や建築や産業や美術についての勉強が足りないのは分かっていますが、もう、歳も歳だし、そろそろ始めないと間に合わない。もう実践と勉強同時進行です。
このサイト計画については、いずれあらためて書きたいと思います。

事業資金借りるにしても、住宅ローンモラトリアムってもらうにしても、
この事業の計画書が鍵となるのでしょうから。

モラトリアムはそんなことでなんとかなるわけでもないのかもしれませんが、
他の角度でのサバイバル法も考えつつ、野望実現に向けてがんばるぞー!なんて言ってたら空が白んで来てしまいました。私は一体何をやってんだー。とほほです。
長い事私の極私的妄言におつきあいいただきありがとうございました。

我はいかにしてツイッターで仕事を辞めしか ~その3~

2010-03-07 19:31:27 | ツイッターで仕事辞めました~その後
「いかにしてツイッターで仕事を辞めしか」を2回書いているのだが、今のツイッター上のつぶやきの方が忙しくて、ついつい続きを書くのを忘れてしまう。
ツイッター再始動して2ヶ月、もはやつぶやき数も659に及んでいる。できればリアルタイムで、現在の仕事を辞めるまで、やめてからなどをつぶやきたいので、早く現在に追いつかなきゃ。

というわけで、その2の続き

1月4日にツイッター再始動した私。
翌日、ご近所さんとつながる喜びを覚え、そして3日目は鳩山さんのつぶやきをチェックする所から始まった。でも、この時点では

「yurys 鳩山さんのツイッターフォロー始めたのですが、あまり面白くないす。普天間問題や藤井さんの辞任など、悩み多き鳩山さんの本音つぶやきが聞きたいのに。でも、首相に本音のつぶやきっても無理でしょうから、加藤紘一氏が総理はツイッターを最もやるべきでないと言ったのは、ある意味正しいですね。」

なんて書いていて、ツイッターのこと全然分かってない。
けど、TL上のいろんなつぶやきにやり取りが発生しているのをみるにつけ、またその中に、RTだの他人のアカウントなどが混じっているのを見るにつけ、自分がどんな意見を言うかより、他人とのコミュニケーションにこそツイッターの面白さはあるんだなあということが漠然と分かって来た。

そして先の「加藤紘一発言」の7分後、

「yurys 鳩山さんは自分がつぶやくというよりは、フォロワーのいろんな声を聞くためにツイッター始めたんですね。つまんないのもしょうがねえか。」とつぶやいている。

さらに5分後にはでは早速鳩山さんに声を送ります!とばかりに

「@hatoyamayukio 鳩山さーん!国家戦略室をはやく戦略局にして、ガンガン政策進めて!私も地域社会に貢献するNPOプランがあるのだけど、政府がこれじゃあ鬼に金棒どころか鬼にうまか棒くらいすぐ折れちゃいそうで、プラン実現に二の足です。ところで鳩山さんうまか棒知ってます?」

と鳩山総理に返信したのだった。もちろん鳩山さんからの反応はなし。こんなもんかと思いながらも、ちょっと寂しい感じもあった。

この日は、また、自分のブログ更新のお知らせもツイート。
しかし、まだURLをつぶやきの中に入れるという初歩的な事さえやっていない。自分のプロフィールの所にブログのURLが書いてあるからいいかと、このときは思っていたのだが、これでは、ブログ見ようと思ったら、一度私のプロフィールページに行かねばならず、ひと手間多くなってしまう。それでお客さんがぐっと減るなんて、この時はあんまり気付いてなかったのだなあ。

その後、その週は主にテレビや新聞を見ながらのつぶやきに終始。有名人のフォローとかをとっかかりに少しずつフォロワーを増やしてった。

そして、一週間の仕事を終えて迎えた土曜日の朝。
パソコンを開いて、TL上に現れたのは「しりあがり寿」先生のこのつぶやきだった。

@shillyxkotobuki全人類に告ぐ。目を覚ませ!ヤカンを火にかけ、湯を沸かせ
8:11 AM Jan 9th

冬の寒い朝のこのつぶやきは、私のこれまでのツイッター歴の中で、燦然と輝くベストつぶやきだ。

組織の中で、自分の考えと組織の考えの折り合いを付ける事に一日の力の多くを使い、しかし決して今のままでは、誰かに指示された仕事しかできない。その限られた範囲の中で、自分の思いを少しでもどう滑り込ませるか・・・。息の詰まるような毎日に、日に日に今の仕事を辞めるという気持ちは膨らんでいる。しかし、先立つものもなく、仕事人としての自信も無く、どこかに突破口は無いかともがいているような日々。年は開けたものの、一向に気分は前向きにならなかった。

番組改編の4月まであと3ヶ月。自分はどうするのだ・・・。なんとか1週間の仕事を終え、眠りについて、そして目覚めた土曜の朝に飛び込んで来たのがこのつぶやきだったのだ。

「全人類に告ぐ。目を覚ませ!ヤカンを火にかけ、湯を沸かせ」

寒い冬の朝、湯気の立ち上る湯のみからすするお茶のほっとするありがたさがよみがえる。さらには、枕草子の「冬はつとめて・・・」の情景が浮かぶ。寒さで張り詰めた空気の中をさみーさみーと思いながら、朝起き抜け最初の火を入れる。空気がほっとゆるんで、固まってた気持ちも緩む。昔は炭起こし、今はガスをパチン。

朝一番のあたたかいお茶は、気持ちを目覚めさせ、身体を温め、今日も一日がんばりますという気持ちを、大げさではなく、静かに呼び起こす。

世界の皆さんおはようございます!!

私の部屋のテーブルには常にティファールが置かれているので、つい目に入り、しりあがり先生に「ティファールじゃダメ?」と返信してしまったのだが、これはやはりダメだなと後悔。先生のつぶやきを遡ってみたら、すでに電気ポットはダメとつぶやかれておりました。

でも、この土曜の朝のつぶやきは、私を、新しい朝が始まる気分にさせてくれた。

そしてこの日、私はツイッター上で、この朝のつぶやきとは全く違う世界とも接触することになる。

その4へ続く>>>



補足「ツイッターで津波情報、原口総務相が釈明」だそうですが、それがなにか?

2010-03-03 11:44:38 | Weblog
以下のブログではテレビ報道を中心にとりあげていますが、
江川紹子さんのブログを見ると、読売新聞の方が先に報じてたようですね。
それに微妙な内容変更も入ったりもしてたようです。http://ow.ly/1dcrf

以下の記事は速報性に注目したためテレビのことがメインになっていますが、
災害報道が義務づけられる報道機関という意味で、
テレビだけでなく新聞にも同様に言える事です。
ここまで、今日追加しました。

以下は、ゆうべ書いたままです。

なんだか、原口さんがツイッターで津波情報流してたというのを
テレビのニュースがとりあげていましたねえ。
あるニュースでは「総務相が釈明」となってたけど、
なんで釈明なの???
つぶやきを評価するというニュアンスではなくて、
それ大丈夫か的なとりあげ方です。

ある記者が
「成りすましも懸念されるし、総務大臣が出す防災情報として
(ツイッターは)なじまないんじゃないか?」と聞いたんだとか。
けど「成りすまし」問題なんて、原口さんの本人認証マークつければ解決することですよねえ。
もちろん、サービスに入ったばかりで、「成りすまし」という存在を知らない人には危険ですが、それもツイッターが普及していく中で解消するでしょうから、とりあえずすぐやるべきは、公的立場にある人のツイッターは本人認証の印を必ずつけるようにすることでしょうかねえ。

どこの記者が質問したかは分かりませんが、
「総務大臣が出す防災情報としてなじまないのではないか?」
という質問。
「なじまない」ってどういう意味なんでしょう。
「良くないと思います」でもないし、はっきりと自分の意見を言わない微妙な言い回し。じゃあどうしろって言うんだ!!
ツイッターを2ちゃんねるの書き込みとそう変わらんだろ、くらいに思っているんでしょうか。そうしたお墨付きもないメディアに、大臣の発言が載るなんてヤバいということでしょうか。
マスメディアにとって、ネットはすべて一括りで「怪しい」のでしょうか。
(でしょうか3連発!)
テレビ局もツイッターアカウント持ってるのにね。

テレビ局の人はよく、「ツイッターは炎上しないのか?」と心配してるんですが、まずツイッターに「炎上」という言葉はそれこそ「なじまない」んじゃないでしょうか。
そりゃあ、批判が盛り上がるのを今は便宜的に炎上って使ってたりするけど、ちょっと炎上とは違う気が・・・。なんて言えば良いのだろ。
本人には見えない所で凄い事になってたりもするからなあ。
まあ、いいか。
 
ところで、原口大臣はクロスオーナーシップ問題や放送通信事業の規制監督を行う日本版FCC構想を遠慮なく公言しています。
そんなこともあって、マスコミに嫌われてんですよね。
今回のツイッター報道にも、裏にそんな思いがあるような気がしてならん。原口はネットなんて怪しいものを政府に持ち込もうとしてやがる、そんなやつはもぐりだ!的なね。
内心、「本当に成りすましが出て来て、
ウソの防災情報流して、被害者続出。
原口責任とって辞任へ」なんてこと妄想してんじゃないか?

ツイッターやってる側からしたら、なんでこれがニュースなのかよくわからないです。今回の原口さんのつぶやきの件は、ツイッター上の大臣の成りすましの懸念というのが肝なんじゃなくて(解決法があるから)、国民に向けて速報を打つ権利を持っているのは誰なのかという事ではないでしょうか。
大臣に逐一速報されちゃったら、テレビとか意味なくなるものね。
速報性が売りであるテレビ、特にNHKの存在意義の一つは、
広く国民にそうした防災速報などを速報する事。
今までは、防災情報はだいたいテレビの速報から知ってましたもんね。しかし、今やより広く防災情報を伝えられるのは、携帯電話端末だったりする現実があるわけです。
だって、津波警報出た時、海岸の岩場にいたら、
テレビの情報はキャッチできないものねえ。
それに、大臣が直接書き込んだら、テレビ局に情報を伝えて、
そこの記者が文章を打つ時間分省ける訳だからより速報性があります。

今回の問題は、速報性というテレビの存在意義をも揺るがしかねない問題を世の中に知らしめるきっかけになりかねないのでした。

それにしても、大臣でもすぐに自分がメディアになれるほど、
報じるためのスキルは必要なくなっています
(もちろん、ストレートの情報に限られますが)。

しかし、こう誰もがメディアになれると、
本当に不正確な情報も出回りやすくなるわけで、
確かに防災情報などは、情報の出所の確かさを確認することが必要となります。記者クラブ問題として指摘されるような点もある一方で、やはりマスメディアの人々は、そうした情報を扱う事には長けています。なので、彼らが、成りすまし的なものを懸念するのも理解できます。

だから、本当に早くやるべきは、原口大臣!
本人認証ですよ。とりあえず。
そんで、今後の放送と通信のあり方についてじっくり考えて下さい。

ニコ動、Ustが朝生激論づいている件について。地殻変動か?

2010-03-01 02:22:32 | メディア批評
ニコ生激論「ベーシックインカム」に続き、
今日、朝までダダ漏れ生討論「ジャーナリズム論」放送。
ってつい放送って言っちゃうのだが、放送じゃないよね。ま、いいか。

ところで、番組は、
司会 第1部 田原総一郎 第2部 津田大介で19時から6時間!!
やることあるのに結局25時まで見てしまった。

誰かが、もうテレビ朝日はいらないとつぶやいていたが、本当にそうかもしれない。
こうしたタブーのない討論を聞くために、
より多くの人がネットテレビにアクセスすること希望。

こうした番組をいつやるか知るには、ニコニコ動画をマメにチェックするか、
今ならツイッターが確実なのかもしれない。
津田大介@tsuda 東浩紀@hazumaあたりをフォローしとけば
結構情報が引っかかってくると思う。

ニコニコ動画、Ustream合わせて10000人くらいが見てたのだろうか?
テレビに比べれば格段に低い視聴率だが、
見てる人たちの思い入れの強さを考えると、あながち影響力がないともいえない。
週刊朝日が完売したのと同等の影響力はあるかも。

ツイッターといい、ネットが何かを動かし始めている。
やはり下克上のツールか?

にしても、メディアって起業してやってくのがいかに大変か
神保哲生さんらの話で実感。
私がやろうとしているのはジャーナリズムメディアではないが大丈夫か?
気が引き締まる6時間だった。

時代の変わり目を実感し
とりいそぎ、報告まで。