橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

なにをいまさらだけど。つまらないぞ「’先生’たちによる朝生・原発問題審議会」

2011-05-30 11:37:21 | メディア批評

出会いの無くなった朝生

ここんとこ朝生がつまらない。

3月以降、震災と原発がテーマで、今もっとも身につまされる話題にも関わらずつまらない。

なにをいまさら、と言われるだろうか。


原発事故が起こった今、かつてのように原発をテーマにすることはタブーでもないし、

インターネットという表現の場ができたことによって

これまでテレビでタブーとされていた発言は広く流布してありがたみが減っている。

にもかかわらず、まだテレビにとってそこはタブーなのか、

インターネットやCS朝日ニュースターなどではすでにおなじみで、

参院の委員会でも証言した脱原発派の京大の小出氏、元東芝で原発設計やっていた後藤氏、

ソフトバンクの孫正義氏らは呼ばれていない(ほかの理由かもしれないが)。

それがどういう理由にしろ、かつて朝生が担っていた、

タブーに挑戦という役割はもう終わっている。

もちろん視聴者が桁違いに多い地上波テレビという意味はあるが、

逆にその限界のほうが露になっている。


それでも、これまで私は、結構朝生をチェックしていた。

それはなぜか。


朝生は、ネット的言論人と、ネットなんて信用できんといわんばかりの政財界および

その関係先のおじさまが相まみえて意見を戦わす唯一と言っていい場だったからだ。

新興勢力と既得権益の出会いの場だ(楽天三木谷氏が経団連脱退を口にしたらしいが、

三木谷さんあたりは、この場合の新興勢力には入れてませーん。

もっと不安定で後ろ盾の無い人、あるいは非主流派的な人です)。


だいたいこの2つの勢力は常に別の場所で活動していて、

その話を聞く場にいるのはそれぞれを信奉する人々たちであり、そこにはバトルも摩擦もない。

あるのは拍手と喝采。頷くたくさんの頭。

 

2つの勢力が共にまみえる場があるとしたら、

それは皮肉にも、政府の記者会見がフリー記者にも一部解放されたことで、

会見場がクラブ記者とフリーの(互いに言葉を交わしはしないものの)

無言のバトル場になっていた。そんくらいのもんだ。


昨年の夏、若者不幸社会というテーマの回の朝生

東浩紀氏と堀紘一氏がぶつかって、東氏は一時退場、また戻ってくるということがあった。

マングースとハブのごとき異種格闘技、それによる対立と和解は、

生放送の番組としては、おおよそほかでは見られないものだ。

2人のあまりの話の通じなさにどんよりする一方で、東氏のいらだちが伝わって、

おじさんたちにも目に見えない何らかの変化を与えるかもしれない、

なんて淡い期待を抱いてしまった。

まずは、動かなかった空気を動かす所からだ、なんてね。

普段どう考えても同席しないだろうと思われる人たちを集める効果は

こういうところにあると思った。

もちろん東氏は、世代間対立は望んでいないだろうし、

バトルやろうとしてやったわけじゃないので、

私が勝手に盛り上がっただけですけど。


しかし、震災後、そんな私の淡い期待も泡と消えそうだ。

朝生は、そんな異種混合の可能性を捨ててしまったのだろうか。

いや、震災前からその兆候はあった気もする。


震災直後、一瞬日本は「戦後」だった。復興の機運で希望も生まれかけていた。

しかし、原発事故が深刻だということが分かるにつれ時間は巻き戻り、

日本は「戦中」になってしまった。

それ以前、震災前のある期間から「戦前」のような雰囲気だったと思う。

社会と経済は閉塞し、解決方法が見いだせない。

既得権益を持つ人々はそれを守ることに汲々として、自分たちだけの殻に閉じこもっていた。

資産を回して有機的に世の中を動かしていこうなんてこれっぽっちも思ってなくて、

仲間だけのインナーサークルで、嵐が去るのを待っていた。

自分たちが問題を大きくしている台風の目であることに気づきもせず、

政府が、日銀が、アメリカが、世界の自浄能力が何とかしてくれるだろうと淡い期待を抱いていた。

でもそんなわけもなく・・・。そして震災。

色んな問題を他人事みたいに考え、責任転嫁してきたツケは原発事故という形で返ってきた。

そして、「戦前」殻に閉じこもっていた人たちの守る姿勢はさらに強化された。

既得権者は自分の権益を守ろうとしてよりいっそう堅い殻の中に閉じこもり、

自分たちの仲間内でだけ資源を融通し合っている。

そこには意識的なものもあれば、無意識で行われるものもある。

それが、このところの朝生のキャスティングにも表れている気がする。

政治家、学者、経済評論家・・・、なんとか審議会の席に座っていそうなメンツばかりだ。

ほとんどのパネリストが「先生」と呼ばれたことがあるんじゃないだろうか。

今回も、脱原発vs脱原発懐疑派、違う立ち位置の人間を呼び、対立軸を作っているようではあるが、

あくまでもネットではなく地上波テレビに出そうな人の範囲の中からの人選のように見える。

まるで、「朝生原発問題審議会」みたいだ。


なんだかんだいってみんな「先生」だから、基本的に物わかりが良い。

本質的ないらだちなど抱えていない人がほとんどだ(のように見える)。

だから、喧嘩になることもなく、ちょっと怒鳴り声が聞こえても、

それはその場の議論を覆すような本質的な問題を含んではおらず

(東浩紀のいらだちはそういう本質的な問題を含んでいたと思う)、

それぞれの意見が順に述べられて討論(討論とは言わないか・・・)は終わる。

結局、その意見を掬うか掬わないかは官僚の胸先三寸である審議会と同じようなことになっている。

審議会は、先生方の単なる意見表明の場であり、その意見が通ろうが通るまいが、

自分は政府に対して意見を述べられるような立場であることを表明する場でしかなくなっている。

つまらないときの朝生はそんな感じだ。

もちろん、パネリストの人それぞれが悪いわけじゃない。

場を設ける側の問題だ。


いまや、保守だとかリベラルだとか、右とか左とかの対立はもはや有効な対立軸ではない。

今、有効な対立軸があるとしたら、新興勢力と既得権益(とその取り巻き)の対立だ。

別の言い方をすると

「何か新しいことをやろうとしている人vsあるものを守りたい人」の対立軸だ。

田原総一朗という人のテレビ的な感性は、

これまで、出る杭や変わり者、ある意味での嫌われ者、お騒がせ野郎などなど、

「あいつなんなんだ」ってやつを呼ぶことで

朝生をいい意味でテレビ的な異種格闘技戦の場にしていたと思う。

玉石混淆。石がだめなわけではなく、一般的には石と思われるものに、

時には驚くべきものも混ざっているという意味も込めて。

そういう玉と石や、玉なんだけど石の味方をする人や、玉になりたい石や、

石の道をまっとうしたい石や、玉同志でつるんでる人などなど、

普段の社会生活では、あまり接点の無い人々をごった煮のごとく同じ席に座らせて、

あーだこーだ言わせるのが朝生だったはずではないだろうか。

それとも私の思い過ごしか。


一方で世の中を見渡すと、自分と同じような階層や収入の人としか付き合わない、

そんな社会になっているような気がする。

そして、自分でも気づかない間に、仲間内の基準でしかものごとを判断しなくなっている。

そのことで、社会全体への無理解が広がっていると思う。


先日、被災地に復興住宅を建てようというNPOの会合に、

被災地から東京に避難してきたという女性が参加していた。

震災前までは漁師民宿をやっていたという。

30人くらいの人が参加して活発に発言していたが、

彼女の話が一番面白く、発見があった。

頭で考えただけでは出てこない発言である。

今の朝生にはこういう部分も足りない。


最後にもう一点。経済合理性だけの基準はどうよ


朝生だけでなく、最近の報道番組の出演者は

この10年くらい弁護士と並んで経済学者が多い。

これは、経済合理性の面から様々な事象を考えることが

日常となっていることの現れだ。

今回の原発問題にしても、文化や思想の面からエネルギー政策を語る人がテレビには出てこない。


このところのテレビの討論やニュース番組がつまらないのは、

全てが経済合理性という板の上で、良いだの悪いだの言ってるに過ぎないからだ。

その経済合理性の追求が、今の破綻をもたらしているにも関わらず、

私たちは懲りずにその判断基準でものごとのほとんどを斬っている。


突然、「判断基準は美です。」とか言ったら頭おかしいと思われるのだろうか。

「判断基準が美であるとはどういうことか」を説明するのはちょっと面倒だ。

経済的指標、つまり儲かるか儲からないかは、

数字の大きさという誰にとっても分かりやすい指標だから理解されやすい。

しかし、私たちは経済合理性の追求によって快適さや安心など数値では表せないものを失った。


人間の快適や安心というものが一体どこから生まれるのか。

生活というものを構成する要素をいま一度考え直してみるべきだ。

生活=お金の動きだけでは決してない。


朝生、来月はどういうテーマで誰が出るんだろうな・・・。

 







 


東電の配当ゼロで都バス赤字転落か~戦後終了と千年女王

2011-05-26 11:24:29 | 東日本大震災

報道によれば、都バスって、東電株の配当がないと20億の赤字なんだって。

都交通局のルーツ東京市電気局がやっていた電気供給事業は

戦時中の国家総動員法による配電統制令で国の管理下に入り、

その後それが東電になった。それで大株主ってことらしい。

つまり、東電は戦争の産物なんだ。不覚にもいままで知らなかった。

 

ほんと、あの日戦後は完全に終わったんだなあ。

象徴的な事象がこんなところにもあったなんて・・・。

 

国家総動員法でまとめられた電力事業ならば、

その前は、もっといろんなところで発電事業をやってたということだ。

ならば、戦前のように、電力事業を誰でも参入出来る形に戻せばいい。

いつまでも国家総動員のなごりを引きずっていることはない。

 

あの日終わったのは戦後だけではないかもしれない。

 

東電の5大大株主、信託銀行2社、大手生保2社、東京都の順。

都は東電株3.15%保有で26億円の配当。

仲間で既得権を分け合って美味しい思いをしている風情。

都交通局はこれまで7億円の黒字だったというが、

この配当が無かったら大赤字ということだ。

そもそも事業が成り立っていなかったということじゃないか。

東電がみんなの電気料金を集金したお金は、

原発の下請け、孫請けの作業員のところになんか十分に行ってなくて、

配当となり、仲良しこよしの既得権者の赤字の補填にまわってたんだ。

電気代、高い高いと思ってたけど、

都バスを存続させるためのお金も払ってたようなものだったんだなあ。

そんなことも知らないで、バスはどこまで行っても200円で、

安くて良いねなんてのんきなことを言っていた。バカだったわ。

 

そう。戦後以外にもうひとつ終わってると思ったのは、

株式会社の仕組みである。つまり資本主義。

いや、もちろんすぐにどうこういうことはないんだろうけど、

ここは終わりの始まりなんだろうな。

ああ、まさに資本主義500年の歴史がガラガラと崩れて行く。

 

今この2011年という時点は、

新自由主義が台頭し始め、イランで革命が起こった1980年頃から

30年間の動きの変革期であるようにも見える。

関東大震災や世界恐慌など80年前と同じようなことが起こっているようにも見える。

さらに、資本主義まで行き詰まって、500年周期の変革期のような気さえする。

そのちょっと前、ルネサンスの三大発明、印刷技術、羅針盤、火薬が

新しいものに取って代わられようとしている。

 

人間の知恵を記録する印刷技術は電子書籍に、

エネルギーを司る火薬は石炭、石油を経て、原子力の失敗により、

太陽光など自然エネルギーにシフトしようとしている。

さて、羅針盤は何に対応するんだろうか。

宇宙に行くならロケット技術だろうけど、ちょっと違う気がする。

GPS携帯電話かな。もうどこにいたってつかまっちゃうw

いや、もっと他のものの気もするが、思いつかない。

 

さらにいえば、中沢新一氏が指摘するように、資本主義を生んだ一神教は・・・。

 

2000年の周期の変化も起ころうとしているのだろうか。

なんだか千年女王が出てきそうである。

なんだなんだ。東電が転べば、都バスが止まる・・・

風が吹けば桶屋が儲かるだと思ってたが、

なんと都バスの話が千年女王の話になってしまった。

 

というわけで、

最後に、また身近な話に戻すけど、

車に乗らない身としては都バスは便利だ。

町並みを見ながら町名を聞きながら行く道のりは町を身近なものにする。

町並みの見えない地下鉄は、

自宅と会社をつなぐタイムトンネルのようなものだ。

間の過程を見せないことで同一化させ、地域社会から切り離し、

自宅も会社もそれを囲む社会というものの中にあることを

忘れさせてはいないかと思う。

地上の電車でも、満員電車にもみくちゃでは外を見る余裕も無い。

バスという存在は、そういう意味で、ちょうどいい程度に

世の中を感じさせてくれる乗り物だ。

 

自転車で行く距離も、雨の日等はバスを利用するが、

近隣のお年寄りや通園通学の足になっているのがよくわかる。

都バスが赤字になろうと、こういうものは合理化してはいけない。

いろんなことに税金が使われているけど、

そもそも税金は、こういう人々の生活の基本をなす事業が

赤字になっても存続させるためにあるのだ。

合理化と言う前に、財政の優先順位を見直して欲しい。

税金はまずは、町の人々に届かなくてはいけない。

 

 

 

 

 


今日25日16時~「新寄付税制&NPO法改正実現をめざす緊急院内集会」が開かれるらしい

2011-05-25 10:40:32 | 東日本大震災

震災で寄付という考え方が定着しつつある中、NPO寄付税制の改正案が今国会で審議されています。

震災前から国会に提出されていたのですが、震災でどーなってしまったのか、

しばらく状況がわかりませんでした。これが通れば、寄付による税金の還付が増えるので是非にも通って欲しい法案ですが、今どうなるかの瀬戸際。

ということで、本日5月25日の16時から院内集会が行われるそうです。


詳細はこちら(↓クリック)

【緊急開催!】今国会で新寄付税制&NPO法改正の実現を!5・25緊急院内集会


実は私、自らの所属するとあるメーリングリストの中で、

以前この寄付税制改革について投稿していました。

それも3月11日のお昼前に。

その後、この法案についてフォローしていませんでしたが、

院内で緊急集会も開かれるということなので、この投稿内容をこのブログに再掲します。

震災以前の文章で、今読むと、特に前半部分はややズレた感じもするやもしれません。

でも、そこはお許し下さい。3・11前と後で世の中の何が変わり、

何が変わっていないのかを感じるためにも、そのままの形で再掲します。


以下、その投稿です>>>


「寄付税制改革」の話、私も注目していました。

というのも、私は最近、
日本にもフランスのメルシーみたいな寄付付き商品の文化を作りたいと思い、
寄付付きのメイドインジャパン商品の開発販売の事業を開始したからです。
収益の20~25%を寄付にまわしたいと思っていますので、
この法案が通るか通らないかで、この新しいソーシャルビジネスが
日本で根付くか根付かないか随分状況が変わってしまうんです。
自分のことだけでなく、この法案が通るか通らないかって
今後の社会のあり方を考える上で、実は結構大きな事だと思います。

メディアでも、予算関連法案が通らないと・・・なんて連日やっているけれど
子ども手当の話と、与野党の解散を廻る駆け引きの話しかしないですよね。
この予算関連法案にこの寄付税制も入ってるんですよー。
先日、国会中継を見てたら、玄葉国家戦略担当内閣府特命担当大臣(つまり「新しい公共」担当)が、
寄付文化を日本に根付かせるためにも法案を通させて欲しいと答弁してました。
せっかくタイガーマスクが出て来たというのに、
この法案が通ってくれないと日本の寄付文化への画期的な改革は成し遂げられない!
この「寄付税制改革」「新しい公共」の目玉だと思います。

○○○(このMLの名称)はすでにご存知かもしれませんが、
この寄付税制改革によって、
寄付した額の最大50%が税金から還付されるんです。
例えば、500万円の人が年間10万円寄付した場合、
最大4万9千円還付されます。

これまで、寄付は「所得控除」でしたが、
新しい法律が通れば、「税額控除」になります。
これで還付される額が全然違ってきます。

また、これまで、寄付が控除されるのは、
国税庁が認定したたった190の認定NPO法人に対するものだけでしたが、
新しい法律では、認定元が地方自治体に移り、認定要件も緩和されるので、
最寄りの身近NPOに寄付をして税金を還付してもらう事が容易になります。
これは、大きな改革だと思います。

この辺は、2月13日付けの東京新聞生活図鑑
「税制改正で進むか個人の寄付」にうまくまとめられています。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/seikatuzukan/2011/CK2011021302000075.html

寄付の税額控除という仕組みを取り入れる事で、
自分では使い道を決められなかった税金が、
ある意味、一部自分で使い道を決められるものに変わると
考えられないでしょうか。

なんだかわからない無駄遣いをされるくらいだったら、
身近な使い道の見える最寄りのNPOの為に寄付をして
その税額控除として税金が使われる方がよくないですか?

世の中に必要な仕事をすべて行政頼みにするのではなく、
NPOなどが担って行くための一助になると思います。
また、ひも付き補助金の制限から解放され
NPO自体がやりたいことを思ったようにやれるようになるのです。
私もなんとか、この法律が通ればと思っています。
がんばって、ツイッターやフェイスブックなども活用して
議員に呼びかけてみます。


(後略。引用ここまで)

このときは張り切っていたのですが、この記事を投稿した数時間後、震災が発生。

こういうこと考えている状況じゃなくなってしまったんです。


今読むと、”今は昔”感満載。

とはいえ、考えたらみんなが寄付してる今こそ、これは実現して欲しい所です。

増税するって言ってる財務省としては、反対なんでしょうけど、

もう官主導の世の中から変わっていく時ですだー。


私としては、上記投稿中にもあるように、寄付付き商品のプロジェクトを始めたばかりで、

この寄付税制改正案が通るか通らないかで、このプロジェクトの収支が変わってくるという身につまされた事情もあります。寄付することで赤字になっては、プロジェクトも長続きするわけも無く元も子もありません。


これが、その商品の販売サイトです

「shop出島DEJIMA」
http://dejimajapan.com   


この商品はイラクの子どもの絵を今治タオルとコラボさせました。

このブログでは何度も書いていますが、イラクの医療支援とともに、

メイドインジャパン製品の宣伝にも繋がればと思い始めたプロジェクトです。

絵を描いたのは白血病を克服したハウラちゃんという女の子。

イラクでは湾岸戦争、イラク戦争を経て、現在、小児がんが増えています。収益の20%ほどが彼女のようなイラクの小児がんの子供の医療支援資金となります

(JIM-NET日本イラク医療支援ネットワークに寄付)。



こうした事業をなんとか続けて行けるよう、是非「寄付税制」の国会通過を願っています。
この事業ともども、みなさま法案通過を後押しよろしくお願い致します。


提案:自治体で防災用に木炭の備蓄を

2011-05-25 00:49:08 | 東日本大震災

炭屋の知人と話していて、

「地方自治体で防災用に国内産の木炭とコンロの備蓄をやってくれれば、

国内産木炭の需要につながり、木炭需要が増えるということは、

里山の再生にも繋がるのではないか」という話がでた。

今回の震災の被災地でもある岩手は炭の産地なので、

まずは東北の炭から購入を進めてはどうだろうという話になった。

里山保全にもなるので、林野庁の後押しも欲しいところ。

(以下5行25日午前加筆)

炭屋の儲け主義と思われてはいけないので、加えて言えば、

防災用の炭は、炭屋を通さず、木炭の生産者から自治体が

直接買い上げる仕組みを作るべきだという。

あくまでも里山再生、炭焼き職人保護の立場である。

炭屋を通さないのは、炭相場を不安定にしないためでもある。

(加筆ここまで)

 

そこで、今日、自分の地元の自治体に別件で行く用事があったので、

上記の提案を文章にして、防災課に持って行ってみた。

 

ペラ1枚、提案という程のことでもないのだが、突然訪ねて、はずかしげも無く

以下の文章と「火鉢クラブ」のブログアドレスの書かれた名刺を渡してきた。

 

 

   

      地方自治体による防災用木炭の備蓄のすすめと

      夏休み親子防災教室:「炭火での調理を学ぶ会」の提案

 

 東日本大震災によって、緊急時の電気ガスなどのインフラの脆弱性が露になりました。5月になった今も、温かい食べ物が行き渡らない被災地もあるとの報道が成されています。温かい食べ物、ことに寒い地域において暖をとることは、被災直後の二次的犠牲者を減らすためにも重要なポイントとなります。そして、まだまだ日本国内における大地震の危険性は去っていないのです。

 そこで、震災時の緊急用熱源として、木炭と七輪の自治体による備蓄を提案致します。木炭は長期保存してもガス・液体燃料などとは違い保管が簡単で危険性が有りません。また、自治体による定期的な木炭購入で、炭に使う間伐材等の利用も増え、里山保全につながると思われます。まずは、炭の産地である被災地岩手県の炭を○○区で購入することで、被災地支援という形から、この木炭備蓄計画を始めてはどうでしょうか。

 

ただ、炭の使用については、常に一酸化炭素中毒や火災の危険性が伴うということで、近年、使用が敬遠されてきました。そうして利用が激減したことで、多くの人が正しい使い方を知らないままです。炭は、特に品質の良い国産の木炭は、正しい使い方を知っていれば、極めて危険性の低い熱源です。それを周知するためにも、上記の備蓄のすすめと併せて、炭火の正しい使い方のレクチャーを行えないかと思っています。夏休みに、親子で参加出来る防災訓練として、寺の境内などを利用しての、炭火と七輪による調理教室の開催を提案致します。



提出した文章は以上の通り。


火鉢クラブ主催の夏のイベントとして、災害緊急時に備えた木炭と七輪の使い方教室をやれないかと思っていた所、自治体による木炭備蓄の話が浮上したため、これは是非ともカップリングしてやるべきだと思い、急いで上の文章を書いて、役所の人に持って行った。

今日は、担当者がいないということで、この紙と名刺を渡しといてくれるということだったが、果たして何らかのリアクションはあるだろうか。


対応してくれた職員の方によれば、わが地元自治体でも災害用のコンロと練炭の備蓄はやっているようである。しかし、練炭の原料は石炭である。地球温暖化の問題を考えると、ここは木炭に変えて欲しい所だ。木は二酸化炭素を吸って育つので、燃やした時に二酸化炭素が出ても、プラスマイナスゼロ。排出二酸化炭素量は増えないのだ。職員の方にも、その辺伝えて、里山保全などにも繋がるので是非木炭に変えて下さいと言っておいた。


森林の多い地域では、こうした災害用の備蓄燃料は木炭を採用している所ももしかしたら多いのかもしれない。でも、今日の役所(都内)での話から考えるに、都内の自治体の備蓄は練炭が中心なのではあるまいか。そうなのだとしたら、練炭を採用している自治体のみなさん、木炭備蓄を考えてはいかがでしょうか。


里山保全のために、定期的に炭を購入することを考えるのであれば、備蓄した炭は、防災訓練や自治体のイベント等で利用し、その都度買い替えていけばいいと思う。この際、行政も、いろんな面での炭の効用(脱臭、吸着、熱源、ミネラル補給などなど)にもっと目を向けても良いのではないかと思う。


岩手など被災地の炭を購入する被災地支援という形から始めてはどうだろう。このブログを読まれている林野庁の方、各自治体防災担当の方、いかがでしょう。


また、この提案になにか問題点があれば、そうした指摘も是非おねがいします。



 

 

                       


すばる6月号:中沢新一「日本の大転換(上)」を読んだ。

2011-05-18 21:12:19 | 東日本大震災

中沢氏の論旨を要約するとこんな感じだろうか

(乱暴な要約なので、是非ともあとですばる6月号を読んで下さい)。

 

原発のような原子の内部にまで分け入ってエネルギーを生むことは、

地球生態系の「生態圏」の外側である「太陽圏」に属することである。

つまり地球の誕生、生成に関わる宇宙活動の範囲の事象である。

生態圏の内部に外部を持ち込むことは、

世界(生態圏)を超越した神を設定した一神教と似ている。

そして、社会の外側に勝手に膨張する(膨張し続けなければならない宿命の)市場を

独立させた資本主義も同根ではないか。

 

現在、これら全てを包含する知の形態が必要で、

それに「エネルゴロジー(エネルギーの存在論)」という名まえを与えたい。

 

人類のエネルギー革命の歴史は、「火の使用」を発見したところから始まって、

7次の革命を経て現在に至る。

 

1)火の使用 

2)農業牧畜の発達による都市の形成 

3)炉の発達による金属の鋳造 水力風力のエネルギー利用 

4)火薬発明による「燃える」から「爆発する」火への移行 

5)石炭利用による産業革命 

6)石油発見と電気の利用 

7)原子力とコンピューター 電子の量子力学的動きの利用がもたらした技術

 

現在は、この7次にあたり、一神教的な思想から生まれた原子力、

資本主義ともに限界を露呈している。

 

こんな感じの内容だと理解した(ほんと乱暴な要約ですが)。

 

そして、中沢氏は次のように書く。

その論旨におおむね頷いたのだが、ここだけちょっと引っかかった。

引っかかったというより、どう解釈して良いかわからなかった。

 

「原子力とコンピューターによる「第7次エネルギー革命」をへた資本主義は、

 かつてないほど大きな規模に成長を遂げたけれど、

 ますます生態圏との連絡を絶たれた自閉系へと変貌をとげていったように思われる。

 この経済システムは、いまでは生態圏にとっての毒物のような存在になってしまったが、

 生態圏にはそれを薬物に変える能力はない。」(この5行そのまま引用)

 

 

コンピュータによる革命は原子力や資本主義と連動して毒薬を振りまきはしたけれど、

そこから逃れようとする人々のうめきやあがきのような声も、

そのコンピューターの一部インターネットという仕組みを利用して上げられている。

ツイッターなどは一時、新たな直接民主制へのヒントとさえ思われた

(今のツイッターからはそういう空気は減少したかに見える)。

それは薬物に変わろうとしたあがきではないのか?

それとも、こうしたインターネットの進化は管理社会につながる過程でしかないのだろうか。

ベーシックインカム論などとともに語られるソフトな管理社会を受け入れるという議論

(もう十分管理されてるんだろうけど)などを考えても、

ネット上にあるかに思われる希望はメビウスの輪でしかないのだろうか。

 

やはり、いったんメビウスの輪の外側に出ないとだめなのか?

と、パソコンで文章を書きながら、じゃあどうすればいいんだと思って、

その解決策はすぐには見つからず、

すぐに具体的な行動に関する答えを求めようとしてしまう自分に落ち込む。

 

でも、この解釈は、中沢氏の文章をちゃんと理解していないのかもしれない。

それで最初に「どう解釈して良いかわからなかった」と書いた。

分かる方コメントででも教えて下さい。

 

自然が好きで、といっても、

都会の窓から見た夕焼けでも、小さな庭の草花でも、木漏れ日の露地でも、

それを感じているだけで生きていられる自分は、人間との付き合いが下手である。

そんな私に、単純に自然に帰れなんていう資格もないし、

これから必要となる文明の大転換はそんな単純なことでもないのだろう。

いや、やっぱ単純なのか?

 

「昔に戻る」ことはありえないとどこかで思っている。

人間の進歩に向けての本能とその逆の本能の狭間にあって、

退化することと、ぐちゃぐちゃに絡んでしまった糸を解きほぐすことが、

具体的にどう違うのかが分からないでいる。

どこに向かえば良いのだろう。

とりあえず、来月号の(下)を楽しみにしよう。

 


国立新美術館「シュルレアリスム展」に行った~神の存在が絶対的な世界の人々の芸術

2011-05-15 16:04:11 | 書評/感想

友人からチケットをもらったので六本木に行った。

この黒川紀章設計のガラス張りの新国立美術館は、

ロビーからガラスの向こうに緑と空が見えて清々しい。

通路には椅子とテーブルがたくさん置かれていて、

観賞後思わずそこに座ってうたた寝してしまった。

ガラス張りで明るい上に、やはり身ぎれいにした人が多く、

併設のカフェレストランもポールボキューズだったりして、

やはり私がいつもうろうろしている上野界隈のような、

ホコリと油の膜が1枚薄ーく張ったような感じはみじんもない。

やたら5月のさわやかな風が吹く。上野も美術館たくさんあるけど重厚。

旧と新にどういう差があるのか分からないが、

こっちのほうは近現代美術が多いのかな?と思ってちょっとググったら、

この美術館は展示のみで美術品を所蔵しないんだとか。

また、ロゴの新のマークは佐藤可士和らしい。ポップなはずだ。

シュルレアリスムとか、以前やってたルーシー・リー展とか、

こういう時代のものがこの美術館には似合うな。

 

シュルレアリスム展は今日まで。

土曜日はかなり込んでいた。込んでいたので、列の後ろから遠巻きに、

見られる絵から見ながら順不同でうろうろしていた。

シュルレアリスムって、ダリやマグリットの名まえや有名な絵こそ知っているが、

その時代背景や思想背景はちゃんと知らない。勝手なる想像の範囲。

けれど今回、解説音声を聞いたり、プログラムを読むこともなく、

見たまんま感じたまんまで、ちょこっとメモをとってきた。

ここは「素人たれ」という岡本太郎の言葉にならい、

その辺をすべてねぐって、絵を見た直感的な印象だけメモっとく。

 

というわけで、何の役にも立ちませんが、

絵を見ながら気になったことだけ書き留めたメモを以下紹介します。

あくまでも印象です。

 

<デ・キリコ>

展示最初の方にあったキリコの絵。

「ギョーム・アポリネールの予兆的肖像」ドロップ型のサングラスかけた男。

たむけん(たむらけんじ)そっくりw

日本のお笑い感性をもつものには笑いに見えてしまう。

日本ではシュルレアリスムが「シュール」となり

「シェー」のイヤミとなっていたりすることの象徴であろうか。

サングラスの男は、オルフェウスの石膏像らしいが、

それに黒いサングラスをかけさせる感覚は、

教科書の歴史上の人物に落書きする感覚だよな。

森鴎外はぷんぷんマーク、孫文にはお下げがあったよ、確か。

 

「ある午後のメランコリー」は野菜。アーティーチョークかな。

これも笑える、って言ったら怒られるかな?

 

 

<シュルレアリスムの画家や詩人の集合写真>

その隣の部屋の壁にシュルレアリスムの意味がかかれていて、

記録してこなかったので、その文言は忘れたが、

それを読んで「結局シュルレアリスムって、人の目を気にしないってこと?」とメモしている。

今、ネットでシュルレアリスムの意味を調べると

「理性の支配を退け、夢や幻想等非合理な潜在意識の世界を表現することによって、

人間の全的開放をめざす20世紀の芸術運動」とある。

一方で、集合写真におさまる人々は、みな身ぎれいで、

十分に人目を気にした理性全開の状態にあるように見える。

しかし、それも私の偏見なのだろうか。人目を気にしないということが、

衣服や身なりに気を遣わないということとイコールではないものな。

彼らにとって、身なりを整え、オシャレすることは生活の一部であり、

芸術とは別の括りだったのか?

これを考えてると長くなりそうなので、今はやめて、次の絵へ。

 

<マン・レイの「数学的オブジェ」>

関数曲線を形にしたオブジェを写真に撮った作品。

数学的関数で表される曲線というのはもっと美しいのかと思っていた。

個人的な感想だが、あまり美しいとは思わなかった。

ただ、一点美しいかもと感じたのは、私がもし蟻になって、

そのオブジェの上にちょこんと乗っかって、蟻の視点で巨大なオブジェを見上げていたら

美しいと思うのかもしれないということだ。

今、小さな写真を見ている私は、言ってみれば、神の視点でこの作品を見ている。

数学が美しく、自然が美しいと感じるのは、

それに囲まれた人間の視点で世界を見ているからなのだろうか?

 

<ジャコメッティ「処分されるべき不愉快なオブジェ」>

私からすると、処分されるべきと思う程不愉快じゃない。

私が不愉快と思うポイントは、一番に、

置こうとしてもすぐに倒れてイライラするとかそういう点だ。

その点、このオブジェは表面から生えた三角錐の角が支えとなって、

しっかり床に置かれている。そのほかの造形から言っても、何が不愉快なのかわからなかった。

不愉快という感情は人によって随分異なるから、

そういう意味では、他人の目や考えを意識しないという

(私の勝手な解釈ですが)シュルレアリスムの思想に沿っているのかもしれない。

 

ジャコメッティのもうひとつの彫塑「男と女」は

男と女というよりは、どっかの国の国旗みたいだった。

 

<マッソン>

マッソンの絵がたくさんあった。

マッソンは、いかにもこの時代っぽい感じがした。

大正から昭和初期の日本の漫画みたい。

戯画的であり、明るさを感じる。

「恐慌」というタイトルの絵でさえも楽しそうだ。

 

<ポロック「月の女が円を切る」>

無意識の共有という意味では、ポロックの「月の女が円を切る」。

この絵を見て、月がどこにあるか女がいるのか、円はどれかなど全然わからないのに、

このタイトルがぴったりな気がしたのは、

私もこの絵からこのタイトルの言葉に現れたイメージを共有したということだろう。

もし、この絵にタイトルがついていなかったら、私は何というタイトルをつけただろうか。

 

<マリー・トワイヤン「早春」>

この絵は・・・・。第二次世界大戦直後に書かれた絵らしいが、

荒野に、墓石もない棺桶の形に土が盛り上がっただけの墓が延々と並ぶ。

その墓の上には小さな蝶々が何匹か止まっている。暗い絵だ。

戦争という人災がもたらした暗さ暗鬱が全面を覆っている。

震災、津波に襲われた日本の姿を思い出した。しかしすぐに思い直した。

これはあくまでも人災のもたらした暗鬱さの絵である。

天災を乗り越えようとする日本の姿とは根本的に違う。しかし、またすぐに思い直した。

今まさに日本を襲っている人災、原発事故。

この暗さは、その表出の形こそ違え、まさにこの絵の表現する暗鬱に重なる。

この絵がシュルレアリスムであることは、そういうことなのか。

具象的であれ、その絵に描かれたそのものを表すのみでなく、

別の事象における同様の心象や感情を表すことに成功している。

人為による災難のもたらす絶望的な暗さをこの絵に感じた。

蝶々が希望の徴という解釈があるそうだが、

それは放射線を吸い取ってくれるひまわりや菜の花といった種類の希望のような気がする。

 

エルンスト「最後の森」

ヨーロッパの森は怖いんだな。

自然と対峙する西欧思想を感じる、

なんて簡単には言えないのかもしれないけれど、

なんか共生してる感じはしないんだよな。怖がってる感じ。

 

上のトワイヤンの「早春」からも、また他の絵からも感じたが、

やっぱり、どうやっても西欧ってヒューマニズムなんだよな。人間が中心。

 

このシュルレアリスム展を見渡して感じたことだが、

自動筆記とか、いろいろ「解放」を模索している割りには窮屈なんだよな。

窮屈だから解放を求めるんだろうし、そういう心情がよく表れていると言えば言える。

先に書いた、きちんとした身なりの話ではないが、

みなちょっと無理しているように見える。

 

神を畏れ、なのに神をも乗り越えようとする西欧人のアンビバレントは、

日本人の私には窮屈に見えるのかもしれない。

マンレイの数学的オブジェがちっともいいと思えない私は、

そうした西欧の視点を理解出来ていないのかもしれない。

いいとか悪いとかいう事ではない。

 

<ダリ>

そんな中、ダリの絵は私にも分かりやすく、やっぱ良かった。

彼の絵には、神に規定された人間という制限に対してあがこうとする形跡が感じられない。

かといってそれは神の否定でもない。神はいるよ、でもオレはオレ的な。

 

今回、初めてみた「部分的幻覚:ピアノに出現したレーニンの6つの幻影」。

ピアノの鍵盤の上に小さなレーニンの頭が黄金に光りながら転がっている。それも6つも。

どこでも見たことがないはずだけど、どっかで見たことがあるような風景だ。

つまり、ダリの絵は、まさに眠っている時の夢で見た風景を描きましたという絵である。

 

ピアノの楽譜にはう蟻。椅子の上にはさくらんぼが転がる。

座る紳士の背中にはピンで布ナプキンが止められ、

すこし開いたドアの外にはなにやら見えるが、それが人なのか、なにかの固まりなのかわからない。

絵の中の全ての登場物が、すべて意味ありげに、すべて意味を探って欲しいと求めてくる。

それは、私たちが夢占いに自らが見た夢の意味を求めるような感じだ。

 

今回展示されたシュルレアリスムの絵で、

ダリ以外の絵には、この夢占いのような感覚を感じることはなかった。

ダリのみが絵の中に夢占いの要素、つまりフロイト的な解釈を、見るものに要求していた。

 

<マグリットとダリ>

シュルレアリスムの画家で日本でも有名なもう一人、

マグリットの絵の印象もダリのそれとは異なる。

ダリの絵が「夢で見た場面」だとしたら、マグリットの絵は「白昼夢」だと思う。

昼間、実際になにかを見ていて、「そう見えちゃったのよね」という感じ。

「陵辱」も「ストロピア」もまさにそんな感じの絵だ。

 

ダリの絵が、夜眠っている時に見る夢だと思う理由のひとつに、

高さとか距離とか大きさの感覚がある。

自分の見る夢が基準になっているので、他の方はどうか分からないのだが、

夢の中のシーンで特徴的なのは、

大きさとか高さとか距離の感覚が現実を完全に超えてしまう点だ。

実際には存在しないはずの大きさのものが登場する、

距離感がめちゃくちゃである、

そうした点は、まさに私たちが夢で見る世界である。

ダリの絵はそうした縮尺や距離感のめちゃくちゃさが

他の画家と比べて突出している。

時間をワープするように、ビヨ~~~ンと水飴を延ばしたり縮めたりするように

ものの縮尺をぐちゃぐちゃにする。

しかし、多くが現実世界に存在するものの変形であることが多い。

この世には存在しない(と思われる)けど、抽象ではない。

そういう感覚、場面って、自分も夢で体験しているので共感しやすいのだ。

 

あと、夢の中にあるのは、見ちゃいけないものを見る感覚。

夢の中に昼間の現実の生活の中での抑圧が表れるからだろうが、

ダリの絵はそういう見ちゃいけないものを見る感覚も感じさせる。

 

マグリットの絵には(少なくとも今回の展覧会に来ていた絵には)、

そうした深層心理の”無意識の”表出といった風情は、私には感じられない。

例えば、顔の中に球体(鈴らしい)が流れている「秘密の分身」。

ああいうのって夢では見ない気がする。あれは、目覚めている時に想像する画像だ。

 

そういう意味で、シュルレアリスムの2代巨匠ダリとマグリットは、

シュルレアリスムの裏と表というか、内と外というか、夜と昼みたいだなと思った。

 

で、最後にまとめ。

私にとっては、ミーハーチックではあるが、やはりダリがもっともよかった。

さっき、少しだけ西欧人における神の問題に触れたが、

日本人にとっては、彼がもっとも理解しやすいのではないだろうか。

何をもって理性からの解放とするか、精神の自由とするかは人によって解釈が違うと思うが、

自分では制御出来ない眠っているときの夢を描くこと(実際にはそうじゃないんだろうけど)、

そういう風に見えるものを描くことが、私からはもっともシュルレアリスムに見えた。

 

そのほかの多くの作品からは、自由にならねばという窮屈さとか抑圧とかを感じ、

そこからの解放が目的化している気がした。

そして、その理性から解放された所に何があるのかが見えてこない気がした。

「神というものが絶対的にある世界」の外側はあるのか?

それとも理性から解放された所に神がいるのか?

それを考えるには、私には知識も勉強も足りない。

ただ漠然と、西欧近代とは何だったのか、なんであるのかに思いを廻らした。

 

腰痛と闘いながらの鑑賞で、あんまりゆっくり鑑賞できていない。

そういう、せっかちな鑑賞が、分析もせっかちなものにしてるかもしれない。

 

こういうのって、印象批評って片付けられちゃうのかな。

未来派、キュビズム、岡本太郎etc、そしてその時代背景

いろいろちゃんと勉強して、ちゃんと分析してみたい気もするが、

時間がそこまでない。

というわけで、私はあくまでも橋本治の「わからないという方法」よろしく、

必要に応じて調べようと思う。

 

せっかくレビューを書いたのだが、あと1時間程で入場時間終了。

もし、間に合う方がいたら是非に(いないと思うけど)。

 

 

 

 

 

 


今治タオルストールとミニタオル イラクの子どもたちに届きました

2011-05-12 14:39:16 | 出島DEJIMAプロジェクト

これまでにも、このブログでは紹介させていただいている、イラクの子どものイラストをプリントし、現地への医療支援の寄付付き今治タオルのガーゼストールです。震災があったこともあって、イラク支援のこの商品の紹介はしばらく行っていませんでしたが、メイドインジャパン製品を買ってもらいたいし、そろそろ通常の活動も復活させようと思い、再びこの場で紹介させていただくことにしました。

この写真は、今治タオル第一弾となったストールとミニタオルの花の絵を描いたハウラちゃんです。彼女の手元にタオルが届きました!彼女はすでに白血病を克服しています。

商品はこちら http://dejimajapan.com

実は、震災の前々日(3月9日)に、イラクの医療支援をやっているJIM-NET(日本イラク医療支援ネットワーク)から、イラクの子どもたちの手元にこのストールとミニタオルが手渡されたときの写真を送ってもらっていました。しかし、ブログにアップしようとした矢先に東日本大震災が発生。JIM-NETの方たちも、東北の支援に向かいました。3月19日に予定されていたイラク戦争検証についてのイベントも中止され、私もこちらの活動から少し遠ざかっていました。

しかし、考えてみれば、このイラクでは戦争という人災でガンが増えています。日本でもこどもたちへの放射能の影響が懸念されている今、イラクのこともそろそろ伝える意義があると思い、2か月おくれになってしまいましたが、イラクで医療支援を受けている少女たちに今治タオルが手渡されたときの写真をアップすることにしました。

こちらはシャハラちゃん。スレイマニア近くの村に住んでいる16歳の少女。白血病の治療をしています。

彼女はこのストールをとても喜んでくれたようで、こうして鏡でストールを付けた姿をチェック!

微力ではありますが、こうしたプレゼントで彼女たちがちょっとでも喜んでくれたら思います。

JIM-NETの佐藤氏がシャハラちゃんを訪ねた時のことを書いたブログ記事はこちら。

http://kuroyon.exblog.jp/14933234/

 

こちらは、ラーラちゃん。

ラーラちゃんの記事はこちら

http://kuroyon.exblog.jp/14916511/

ブログの写真では楽しそうに笑っています。ただ、このときあまり容態が良くなかったそうです。佐藤さんもブログの方で、(ラーラは)悟りきったように優しい目をしていると書かれています。子どもに悟らせてしまう世界って・・・。彼女たちが屈託なく笑っていられる世界になることを願います。

 

JIM-NETとイラク大使の間で東日本大震災の被災地に対し何ができるか会談がもたれました。

「イラク大使と支援を話し合う」http://kuroyon.exblog.jp/15192899/

「東日本大震災に対するイラク大使からメッセージ」http://kuroyon.exblog.jp/15226292/

 

JCICA(Japanese Craftsmen with Iraqi Children Artists)ジェシカ

イラクの子どもアートとメイドインジャパンのコラボ商品は以下のサイトで購入出来ます。価格の20%がイラクの小児がん医療支援を行うJIM-NET(日本イラク医療支援ネットワーク)に活動資金として寄付されます。

「shop出島DEJIMA」http://dejimajapan.com

 

 


20ミリシーベルト問題から考える~取材におけるセカンドクエスチョンの重要性と問題解決を求める姿勢

2011-05-11 13:25:18 | 東日本大震災

記者会見やインタビューの映像を見て常々思うことがある。

なんでそこで追求をやめるのだ、聞きたい事はその先ではないか・・・

プリーズ ワンモア クエスチョン!!


昨日見た映像にもこんな場面があった。

フジテレビ「とくダネ」の一コーナー。

福島県の幼稚園や学校の屋外活動を制限する放射線量が

年間20ミリシーベルトとされた問題の是非を問う内容で現地で取材していた。

ツイッターなどではフジテレビでこうした企画が放送された事を評価する声もあり、

私もこの取材を批判するつもりは無い。

ただ、聞きたい事はその先ではないかと思う一場面があった。


福島県では現在、放射線の専門家がアドバイザーという形で、

放射線の許容量についての講演会を行っている。

この日は、長崎大学の山下俊一教授が登壇していた。

そして、20ミリシーベルトの許容を求め、

「我々日本国民は日本政府の指示に従う必要があります」と述べていた。

えーっ!いつの時代の話だよという発言なんだが、

ということは、専門家も20ミリシーベルトを安全な線量だと

思ってないんじゃないか?という疑問が残る。

そう思ったんだろう、講演後、番組のディレクターもぶら下がり取材を行っていた。


その時のやり取り。


山下教授       「20ミリシーベルトは過渡的なレベルだと考えた方が良いです」

ディレクター「分からないという事は安全とも言い切れない?」

山下教授       「もちろん、もちろん。グレーゾーンでどこに線引きをするか

                        ということが今議論されていることです」

ディレクター「福島に住んでいる方は、その値を耐えて下さいという事ですか?」

山下教授       「もし耐えなかったら、逃げなくちゃいけないですね。

                        避難どこにさせますか、あなたは。」


山下教授は、ほら、あなたも答えられないじゃないかといわんばかりに

ディレクターに質問を振って満足げな顔をした。

そのあとも、すこしディレクターは食い下がっていたようだが、

それはナレーションベースのノイズになっていて、山下氏の発言は聞き取れず、

かろうじて一言、「それはご本人の希望によると思います」という部分だけが

オフレベルで聞こえてその場面は終わった。


え~!


そもそも、山下氏は放射線健康リスク管理アドバイザーという立場で、

取材をしているディレクターに向かって「あなたならどうする?」と

逆質問するのは反則である。悪いディベートの見本みたいなもんだ。

政府のアドバイザーという直接に問題解決に関わる立場にいる人間が、

その職務に無い立場の人間に「あなたならどうなんだ」といって黙らせてはいけない。

意見を求める事はいいけれど。


ディレクターも開き直られてひるむことはない。

「それはあなたたちの仕事であって、危険が少しでもあるのならば、

政府に様々な手を尽くして一時避難を検討させるのが使命ではないのか?

なぜ避難する事が無理なのか?なぜそういう前提で考えるのか?」ということを聞いて欲しかった。


20ミリシーベルトを肯定する学者も、明らかにこの基準値が妥当でないことは認めている。

こうなると、知りたいのは、政府がなぜ「避難は無理」と考えているかだ。

避難が必要な人口は何人で、それを日本国内の自治体で分散して適当な時期まで受け入れる

としたらどういう方法があるのか。たしかにとても面倒な作業だと思われるが、

原発事故は人災の部分もある。対策を考えるのは政府の義務ではないか。


20ミリシーベルトという数値には学者も半信半疑である事が取材の中ではっきりしたのなら、

取材者は次の質問を投げかけなければならないはずだ。

この場合なら、「なぜ、避難は無理という前提に立つのですか?」ではないか。

聞き返していたのかもしれないが、そこを放送で使わなければ意味が無いのではないか。


政府が、避難を大した検討もしないで無理と断じているなら批判に値する。

一方、もしそこで、「避難は検討したが、これこれこういう理由で、

耐えてもらうしか無いという結論に達した」という答えが出てくるのだとしたら、

またそこから解決策にむけての議論ができるはずだ。

「無理だ」という理由を政府内だけで囲っていたのでは何の解決にも繋がらない。


質問者が一瞬ひるむのは、

 自らも「避難は難しいかもしれない」とどこかで考えているからだろう。

もちろん、私自身も、住民避難を検討した時に起こりうる困難をいくつも想像出来る。

しかし、それを誰が検証したというのだろう。

途中で起こると思われる混乱にひるんで、多くの人が検討する事さえ自主規制している。

しかし、本当に混乱するかどうかはやってみなければわからないのだ。


多くの報道を見ていて思うのは、問題点を批判するための取材手法ばかりで、

その問題を実際に解決するにはどうしたらいいかという視点が取材者にあまり見られない事だ。

メディアは中立でなければならないという考えに縛られているのだろう。

メディアが中立であらねばならないのは当然だが、

「なぜ問題解決に至らないのか?」を問うことはできるのではないか。


政府や東電は、反対もある中、

みずから推進してきた原子力発電で起こった事故にも関わらず、

批判されれも事情をきちんと説明して理解してもらうという謙虚な姿勢を忘れている。

どう考えても、上記の山下氏は開き直っている。

「あなたならどうしますか?」と突然振って、ディレクターを黙らせる。

それで質問合戦に勝った気でいる。そんな不誠実を許して良いはずが無い。

自分が不誠実でないならば、なぜ避難の道筋をもっと真剣に考えようともしないのか?

取材者はそこを突くべきだ。


とくダネでも、政府の対応の問題点は伝わってきたけれど、

じゃあ、どうすればいいの、という疑問が残る事も事実だ。


そんな被取材者の不誠実を突くために、

記者やディレクターはぐっと踏ん張って、

セカンドクエスチョン、次の質問を忘れては行けないと思う。


記者会見やぶら下がり取材などでは、たいて第一の質問はかわされてしまうことが多い。

しかし、なんとなく慣習的に、記者は次の質問をかぶせて食い下がる事をしない。

記者クラブの記者会見を見ていると、一人一問という暗黙の了解があるのか、

回答に対するさらなる質問はしてはいけないことになっているように見える。

やりとりになるのをあまり見た事が無い(最近の開放された会見ではそういう場面もたまに見かけるが)。

大抵の場合、最初の質問に対する答えは腑に落ちなかったり、疑問が残る事が多いのだが、

それはそのまま放置されている。もちろん時間の制約もあるとは思うが、

一言、的確な切り返しのセカンドクエスチョンができないものかと思う事が多い。


ニュース番組のキャスターがスタジオにゲストを呼んで話を聞く時の様子を見ていても、

最初から答えを想定していて、それ以外の話の展開にはついていけてない。

自分の用意した質問をして、思ったような答えが返ってこないと、

すぐにその方向をあきらめてしまう。

批判する事には慣れていても、問題解決しようという視点が無いから、

批判をかわされた時に、次の質問が出てこないのではないかという気がしてしょうがない。


最近の「朝まで生テレビ」を見ていてイライラするのも、

司会者の田原氏ほか、インサイダーを自認するパネリストが、

自分は政府内部の事情を知っているとか、そういったことを臭わせて

暗黙に実現不可能の線引きをして議論しているように見えるところだ。

問題解決をめざす意見がないわけではないが、

そういう意見が、軽くスルーされたり、途中でつぶされてしまう傾向にあるように見える。

番組は「本当にそれは実現不可能なのか?可能性は無いのか?」という

国民の側の疑問には答えてくれない。


多くのメディアの取材者は、最初に設定した取材テーマ

ーーとくダネの場合は、20ミリシーベルトは是か非かだったがーーに対する答えだけを

求めようとしがちだ。取材によって、その答えは「ほぼ非である」と分かっても

非難するばかりで、その先を求めようとしないのだ。


危ないという答えを出されて、じゃあ、そこに住む人はどうすればいいのか?

その政府の言い分を覆すためには、

批判する先の解決方法の議論に行かねばならないはずである。


原発報道に限らず、これまでの様々な事象におけるメディアの報道の多くが、

加害者側を非難する事に費やされ、被害者側の具体的な救済を模索する方向にいっていない。


意味のあるセカンドクエスチョンができる能力は、

問題の解決を求める姿勢の中でこそ培われるのではないだろうか。




 


原発をどう考えるかは美意識の問題か~岡本太郎の言葉から考える

2011-05-09 15:25:05 | 東日本大震災

 

岡本太郎、小松左京、彼らの著作を今再び手に取ろうとしている(初めて読むものもあるが)。


岡本太郎と小松左京はあの大阪万博テーマ館のプロデューサーとサブプロデューサーだ。

 万博のテーマプロデューサーでありながら、単純な未来志向にノーを突きつけ、

 「人類の進歩と調和」というテーマにも異を唱え、

太陽の塔の中に石器時代や縄文時代を思わせる空間を作った。

 「人類は進歩なんかしていない。(中略)みんなで妥協する調和なんて卑しい」と語った

太郎の言葉を、原発事故という事態に至ってしまった現在を生きる我々は重く受け取るべきだ。


大阪万博公式ガイドには万国博協会会長のこんな言葉も掲載されている。

 

「科学と技術さえも、その適用を誤るならばたちまちにして人類そのものを

破滅にみちびく可能性を持つにいたった。このような今日の世界を直視しながらも、

なお私たちは人類の未来の繁栄をひらきうる知恵の存在を信じる。

多様な人類の知恵がもし有効に交流し刺激しあうならば、

全人類のよりよい生活に向っての調和的発展をもたらすことができるだろう」

 

40年後、私たちは、その人類への希望的観測が

はかないものだったことを思い知らされている。


小松左京の「日本沈没」や「首都消失」は言うに及ばず。

それから40年、彼らが危惧した「科学の進歩の暴走」である原発事故が起こった。

 40年前に彼らが危惧した事態が現実となった。

 かつてSF小説が鳴らした警鐘を今あらためてこころに留め置きたい。


そして再び岡本太郎。

今年は岡本太郎生誕100年で、彼の著作が書店に並んでいる。

これまでに読んでいなかった「今日の芸術」と「日本の伝統」を購入。

ついでに「沖縄芸術論」も購入。あらためて、彼の先見性と本質を見る力に驚いた。


特に、彼の言う「芸術はけっきょく生活そのものの問題」というところに強く共感する。

 

どういう世界に住みたいか、何に囲まれて暮らしたいか、どういう気分で生きたいか、

 そしてどう死を迎えたいか。どう弔うか。

 それらは「美」の問題だ。その中には宗教や思想も含まれるかもしれない。


私は、原発を受け入れるか否かも、結局は「美意識」の問題ではないかと思っている。

原発の見た目が美しいとか美しくないとかいうだけの話ではない。

人間の五感、第六感も含めて、厭な感じを持たず、

体全体で受け入れられるものかどうかということである。


ちょっと話は飛ぶが、

内田樹氏がブログでこんなことを書いている。

「内田樹の研究室~弁慶のデインジャー対応について」

http://blog.tatsuru.com/2011/05/07_1001.php


危機にはコントロール出来る「リスク」と

 人間の能力では避けられない「デインジャー」の2種類あるが、

 「デインジャー」は人間の力では防げないのだから逃げるしか無い。

 現代の人間の多くは「リスク」のヘッジばかりをやって、

 「デインジャー」を察知してはやいこと逃げるというあり方を忘れている。

 「厭な感じがするから今日はやめとこ」みたいな能力だ、というような内容だ。

そしてさらにこう続ける。(以下5行はそのまま引用)

「デインジャー対応」というのは事故前の福島原発を見て、

「なんだか厭な感じがする」能力のことである。

その「厭な感じ」が消えるように設計変更を行ったり、運転の手順を換えたり、

場合によっては操業を停止したりする決断を下せることである。

それができる人間がそこにいれば、そもそも事故は起こっていない。


この内田氏の話にでてくる「デインジャー対応」能力をそのまま美意識というのは飛躍し過ぎかもしれないが、美しいなあ」を初めとして、「いい気分だ」とか、「この雰囲気は好きだ」とか、「抱きしめたい」とか、逆に「これは厭な感じがする」とか、「離れた方が良い気がする」とか、証拠や理由を上げての合理的な説明は上手くできないけれど自分の存在に影響を及ぼしそうな何かを敏感に見極める能力をひっくるめて「美意識」というのではないだろうか。


私たち日本人は、本来なら身の回りに溢れ、

自らの身体感覚ととともにあるはずの「美」を、

 いつのまにか、何か特別なものにしてしまった。

「美」を体現するものではなく、鑑賞するものにしてしまった。

 そこに現代の不幸がある気がする。


そして、311後の世界では、

その不幸を解消する方向に日本は向かうべきだと思う。

そこでは、岡本太郎が自らの著書の中で訴えている

『美を祀り上げない』生活の中の美を見つめる精神が必要だ。


出島プロジェクトでやりたいことはそういうことだ。

椎茸売ったり、火鉢にあたったりしているけれど、

それもそういうことのひとつというつもりでやっている。

 


ちょっと弱音を吐いてみる。~東浩紀のニコ生「黒歴史」発言をきっかけに自分のことをふりかえる~

2011-05-08 21:06:15 | 東日本大震災

東浩紀の論説は、これまでそれほど熱心に追ってきたわけではないが、

去年の夏、ブログで朝生での彼の発言をとりあげたところ、

その記事にめちゃめちゃアクセスが集まり、

それ以来、このブログの検索ワードの首位は毎日「東浩紀」状態だ。

それで、なんとなく彼のツイッターもフォローし、言動をゆるーく追っている。


そんな東浩紀が、先日、といってももう1ヶ月近く前のニコ生で斎藤環と対談したのだが、

その映像を、タイムシフトで今朝視聴した。

 

ホストの斉藤氏としては「動物化するポストモダン」あたりをネタに

311以後、「キャラ的なるもの」はどうなっていくのかを語りたかったようだが、

東氏は自分の震災前の仕事は全部「黒歴史」だと爆弾発言!

震災後自分が分からなくなった、自分なんて誰も認めていない、

自分なんてダメとわめき続けていたのだ。

面白かったけどちょっとびっくり(本気かなあ~?)。

斉藤氏は、本職の臨床医に戻って、口数少なく彼の話を聞いていた。


斉藤氏も言っていたが、東氏がそんなに認められていないとは思えない。

しかし、震災前後で、いろんなことが変わってしまいどうしていいかわからないという気持ちはなんとなく分かる気がした。(東氏からしてみたら、私みたいなものにばかり共感され、認められたい人には認められないとさらに不満に思うかもしれないが)。


というのも、震災のあと、自分もどうしたらいいのかわからないのだ。

そして、それは共感者を失う事からくる経済的喪失への恐れではないかという気がしている。

世の中がこんな状態で、共感の得られない事を言ってしまったら、取り返しがつかなくなる。世間からはぶんちょにされて生きて行けなくなる。そういう恐怖が、私だけでなく、ツイッター上の人々の発言を限定し、減らしている気がする。

 

震災の前と後では、多分、共感を得られることの種類が変わってしまった。

しかし、どこまでが共感の範囲かがわからない。誤解を恐れず言えば、今は震災と原発の話をしておけば大丈夫なのだ。

そして、世の中が、震災と原発の話一色になってしまったことは、それと全く関わりない仕事をやっていた人にとっては、おまんま食い上げの状況を作りかねない。

 

東氏が震災後の自分に自信をなくしているのは(本当になくしているかは別として)、そういう共感がえられない恐怖、ひいては、そこからの収入が得られなくなる恐怖と繋がっている気がしてしょうがない。収入なんて卑近な問題かもしれないが、又、自分が今経済的に厳しいせいかもしれないが、意外とそういう危機感は多くの人が抱いているのではないかという気がする。いや、東氏はホントはそうじゃないかもしれないが、東氏の言動をきっかけに、自分も含めたそういう人々のことを想像した。

こういう感じは、大企業や行政等、大組織にいる人にはわからないかもしれない。私も組織で働いていたらそうだったろう。しかし、組織を出て独りで収入を確保しないと行けない立場になると、共感を持ってくれる人が何人いるかが命綱になる。


また、東氏は必要以上に自分が認められてないというが、それは、大学や学会、文壇などの既存の権威や組織、はたまた自分が信頼している人から認められていないという意味なのだろうか?

 斎藤氏も「三島賞をとりツイッター7万人のフォロワーというのはスゴいのになんで?」と訝っていたが、安定の得られる場所(既存の権威や組織)や信頼できるものからの承認ではないことが、この震災後において、彼を不安にさせているのではないだろうか。そんなチンケな人間じゃないぜと東氏に怒られそうだが、きまぐれなツイッターの空気はすぐに変わる。震災後すでにがらりと変わっていて、これまでと同様の承認が得られるかは未知数なのだ。

 

震災後の日本にあってより実感として感じるのは、象の余裕とねずみの焦りだ。


東氏くらい有名人になると、そんなに心配しなくてもいいと思うし、こんな話に東氏を引き合いに出すのは間違いかもしれないが、東氏の言動をきっかけにこんなことを考え始めたので、ここまで、ニコ生の話使わせてもらいました


ということで、まさに「ねずみの焦り」の側である自分のことである。

振り返るってみると、私も震災によって、それまでやっていたことをどう扱っていいか分からなくなってしまった口だ。

 

今年に入って、寄付付きのメイドインジャパン商品というものを開発して販売しようとしていた。イラクの子どもの描いた絵をメイドインジャパンの高品質製品にコラボさせ、価格の2割を、イラクへの医療支援NGOへの寄付にあてる。NGOの乏しい活動資金が、正当な経済活動によって生まれたらいいなと思って始めた事だが、震災後、すべての支援のこころざしが日本の被災地に向かい、イラクへの支援は目を向けてもらいづらくなった。

 まあ、それは当然の事だ。今は、国内の復興に国内の資金を集中させる事が急務である。

 

問題はそのあと。

じゃあ、国内の被災地支援向けに何か企画をと思った時に、無償でないと受け入れられない空気が出来上がっていた。私が震災前にめざした、誰も経済的にマイナスにならない形で、つまり経済活動で支援金を生むというスキームは、儲け主義と受け取られかねない雰囲気になってしまった。

チャリティを目的とした品質二の次の商品を売って募金を得るのではなく、チャリティでなくとも欲しいと思ってもらえる魅力ある商品を作り、たまたまそこに募金が含まれているというちゃんとした商売にしたかった。商品を通してNGOの活動についても知ってもらえればと考えていた。しかし、世の中の人みんなが、無償でボランティアをやりたいと言っている今、自分の生活費をこのチャリティ事業で稼いで、一部を募金しようと言うスキームは理解されづらくなってしまった。


こういう善意を経済活動にしようとした私が間違っていたのか?

欧米では一般的になっているスキームは日本人の心情にはそぐわなかったのか?


いや、すでにチャリティの権威として存在している赤十字は、

寄付だけを集めるとはいえ、職員の人件費は寄付金から手数料として抜いている。

それには誰も違和感を持たない。

しかし、ちゃんと商品を作ってその価値に見合う価格で販売し、さらにその一部を寄付しようという行為のほうが、なぜか儲け主義と思われてしまう。


おかしな話だが、最初から「寄付付き」と言わねば良いのである。

言わずに商品を売って、利益の一部を寄付したら、良いことだと言われる。

多くの大企業が実際にそうしているように。

最初から「寄付付き」と言ってしまうと、この機に乗じてと思われる。

結果、寄付をするのは同じなのにである。


では、あなたも寄付付きと言わねば良いだろうという人もいるだろう。

そう、言わなくていいのである。

しかし、資金の無い私のようなものが、大企業のふんだんに宣伝費、流通費をかけた商品と同じ土俵で競争するには、何か別にアピールするものがなければ戦いにならないのだ。私のような個人には、商品が売れなければ寄付するお金さえ捻出出来ない。宣伝費もかけられない。そこで、「寄付付き」をうたう事で、商品に興味を持ってもらおうと思ったのだ。そもそも、寄付する先の状況(イラクの小児がんの状況など)を知ってもらいたいという目的があるのだから、寄付付きをうたう事が、状況を知らせる入り口にもなる。もちろん、震災前の状況で考えた事だ。


もともとお金のある人はいくらでも支援ができるが、私のように収入のないものは支援しようにも支援出来ない。

多分、今、この震災後にも被災地の支援したくてもできない人というのはいくらでもいるだろう。身体一つでボランティアに行こうにも、養う子供がいて働かねばならないとか、家族がいるのにリストラされたとか、自分の生活で精一杯の人は、被災地の惨状をテレビで目の当たりにしながら、募金箱を見るたびに、何もできない自分にうちひしがれているかもしれない。

どうせ何かはやってお金を稼がねばならないのだから、それを仕事にすればと思ったのだが・・・。

状況が変われば上手くいかないものだ。


震災を経て、資本のあるもの、既得権のあるものの強さをまざまざと見せつけられた感じだ。持つものと持たざるモノの差をひしひしと実感させられた。(もちろん、これは差があるという事実を述べているわけで、批判しているわけではない。こういうときに資金のあるものからの支援はもっとも重要だし、素晴らしい事だと思う)。


仕事を辞めて資金も無く、アイディアだけでなんとか乗り切ろうと思ってやってきたが、この未曾有の危機に、なんとかなっているのは大企業ばかりだ。仮設住宅の発注も結局、国は大手に丸投げしている。


新しく始めた事、小さな集団でやっていることなど、

まだ何者か分からないものは、こうした危機的状況のとき敬遠されがちだ。

震災後の統一地方選挙でも現職の当選が多かったように、

人々は、その内容よりも、見知ったもののほうに動く。


ただ、希望がないわけではない。

自分の目で見た範囲では、どうかんがえても、

小さい集団がやっているもののほうが楽しそうだ。実際楽しんでやっている。

合理的でもある、美的にも良い。

将来性はこっちのほうがあるように見える。

 

それに、上記で述べたような事も、私の思い込みの部分が大きいかもしれない。

一部の人の言葉を拡大解釈してしまっているのかもしれない。


自分の事で言っても、

上記チャリティ以外に進めている火鉢クラブは

お金にならないながらも、やるたび共感を得ている。

震災後の暮らしを考える場になると思うし、

自分の中でも、いろいろな発想がつながってきている。

このコンセプトをどう収益の上がるものにしていくかだ。


それに、上記のチャリティ商品に関しても、

将来、国内が落ち着いてきたら、再び国際支援が必要になってくる。

イラク戦争の検証にしても、アフガンの問題にしてもなんら解決していないのだ。

徐々に宣伝を再開したいと思う。


東氏が新しく借りたコンテクスチュアズの事務所も、震災でひび割れたそうだが、

私のマンションもひび割れが広がり、先日、2階のコンクリが一部はげ落ちた。

こうした物理的な不安が、その他のいろんな心理的な不安に繋がってるのだろうな。


鬱々して、やるべきことをやってないだけかもしれないのだと思う。

その不安がまた不安を増幅している気もする。

動き出せば、また共感者を見つけ、そこに希望が出てくるかもしれない。

たいていいつもそうだ。私はがんばり屋さんではないので

いつもこうして言い訳ばかりしている。

 

東さん引き合いに出してすいませんでした!

基本的には関係ないです。ただのきっかけ。



イラクの子どもアートと今治タオルのコラボ商品はこちら

「shop出島DEJIMA」http://dejimajapan.com

 

「火鉢クラブ」のブログはこちら

http://hibachiclub.blogspot.com/







 


電気料金値上げはコラテラルダメージと言っていいんじゃないか

2011-05-08 16:17:04 | 東日本大震災

アゴラに掲載されていた東電の電気料金値上げについての前田拓生氏のブログを読んだ。

http://agora-web.jp/archives/1321517.html

 「株式会社だから利益を出していかねければいけないことから、

 電気料金を引き上げるしか無い」という解説が

テレビでされていたらしい。

 本当にこんな解説をしていたのだろうか。

だとしたらアホである。


普通に考えて、逆だろう。

 株主がその責任を負えばいいんじゃないのか。

 これまでそこから利益を得ていたんだから。


電力供給をせねば国民生活が・・・というならば、

資産を吐き出させて、一時的に国有化すべきだ。

 

海江田大臣が「東電には補償のために稼いでもらわないと」とか、

 「電力供給義務を果たせるようにしないといけない」とも言ったというが、

 それは詭弁というものだ。

単なる「値上げ」を「稼ぐ」というのは・・・


それに、そもそも日本の電力事業というのは、

「稼ぐ」と言っていいんだろうか。

生活にどうしても必要なもの、買わざるを得ない商品を売っている上に、

それを一私企業が独占する形になっているからだ。

営業せずとも、サービスせずとも、

頑張らなくても収入が約束されている。


実際の電力以外に電力会社が私たちに与えてくれるサービスがあるとしたら、

 それは、安全に発電を行い、安全に送電してくれるということしか無い。

 つまり、彼らが「稼ぐ」ためにやるべき事は、

より確かな安全を提供することだ。

まさに、現在、福島第一原発で作業されている作業員の方たちは、

その安全のために働いている。


もし、値上げされたとしても、

それがその方たちの追加手当というならば文句はない。

しかし、それは現場で作業しもしない社員の給与を、

2割なんてもんじゃなくもっと大幅にカットするなり、

送電網等の資産を吐き出したりした上での話だ。

いくら賠償のためとはいえ、

現場で働きもしない社員の給料を2割とか、

数千万円貰っている役員報酬5割カットというだけで、

電気料金さらに値上げというのは納得出来ない。

どうせなら、

現在現場で働く下請け業者と東電社員の給料を逆転してはどうだろう。

 

都合のいいときは一私企業といい、

都合が悪くなると電力はインフラですからという。

本当にありえんわ。

東電だけの問題ではない、これは国ぐるみの問題だ。

 

こうした電気料金の値上げとか、増税とか

震災や原発事故の影響によるリストラは

被災地だけでなく、全国に及ぶ。

こういうのをコラテラルダメージ(二次的被害)というのだ。

今後は、こうした二次被害についても

少しずつ考えて行かねばならないと思う。



 

 

 


どーでもいいけど、NHK「土曜マルシェ」が気になって、どうでもいいことを書いちゃった

2011-05-07 17:16:17 | 東日本大震災

最近、全国の緊急地震速報を確認するためにずっとNHKをつけている。NHKしかついてないと言っても過言ではないかもしれない。そんくらい、震災後はどんな番組をやっているかに興味が向かないのだが、実は結構、番組入れ替わってるんだよなあ。そんな中ひさびさになごやかに突っ込める物件を発見した。


土曜朝の情報番組「土曜マルシェ」だ。訳すと「土曜市場」。

 

ちなみに番組サイトには

「新感覚“癒やし”系マガジン番組。心豊かな生活をおくるための様々な情報を発信します!毎回、大物ゲストが愛するペットと登場。プライベートライフを赤裸々に語る「マルシェでわんにゃん」や、ガーデニング、クッキングのコーナー、そして巷で噂のカルチャースクールから、プチ旅行まで、さまざまな話題をお届けする「もぎたてマルシェ」など、おしゃれライフを演出するさまざまな情報満載でお送りします!」とある。


よくもここまで、視聴率とれそうな気がする要素を並べたもんだ。プライベートを「赤裸々に語る」とか、土曜朝とは思えないエグイ言葉も見える。それで視聴率がとれると制作者が本当に思っているのかは疑問だが、震災後の空気の中、素通りしてしまう番組がほとんどの中で、司会者同士がやたら牽制し合ってたのが気になって、時々見てしまっている。

 

司会者同士の牽制だけではない。よく見れば、番組の風体も極めて平穏を装いながら、その実、違和感満載。たまに奇をてらい、しかしその実何も考えてない。そんな印象を受ける不思議な番組だ。

 

チェックや水玉模様のセットに囲まれて番組を進行するのは、薄ら笑いをうかべるチュートリアル徳井。その隣で不敵な笑みを浮かべるMEGUMIとNHKのアラサー女子、神田愛花アナ。3人が横並びで進行する。横並びだけどバラバラ。

 

初回から「僕たち噛み合ってないですよね」と笑っている時の徳井の口元が引きつっていて、2回目以降大丈夫かと心配になった。みんな自分の役割がつかめていない。つかめてないというより、つかみたくなくて好き勝手やっている。でも心の奥ではちょっと躊躇もある。そんな感じ。


はっきりいうと、番組の進行を仕切る親分がだれか分からなくて、微妙な空気を醸しているのだ。

なんだか今の日本みたいだ。


多分、メインはチュート徳井。しかし、ボケの徳井を前に、MEGUMIとしてはしっかりした私が進行せねばと考えているふしがある。あの、テレ朝深夜の名番組「虎ノ門」で、並みいるお笑い芸人を審査員としてバッサバッサと斬ったMEGUMIN姐さんとしては、そう振る舞わざるを得ないのかもしれない。でも、メインは徳井。


徳井とMEGUMIの関係性をなにかに例えれば、親分の愛人の相手をしてる最近勢いを増した子分みたいな感じだ。オヤジの女には服従ですわ。でも今人気あるのはオレなんですわ、か。


そして、こんな姐さんたちを横目に、私そんな世界の人たちとは関係ありませ~んといった風情でのほほんと我が道を行っている神田アナ。番組ウェブサイトを見てみると、「NHKアナの中でも特にオシャレ好きな神田アナ。さらに、釣りや歌舞伎観劇など趣味にもかなりのこだわりが。」との紹介。アラサーの「オシャレ好き」。

 

この3人のキャスティング誰が考えたんだろう?としみじみした。


番組のブログでも、徳井があの薄ら笑いを浮かべながら

我々MC3人も、探り探りですが、これから楽しんでいきます。」と書いてるし。今日の放送でも「大丈夫かなっていうくらい、3人が3人ともリラックスしてるから・・・。」自虐発言。

番組始まってもう1ヶ月以上になるのに、この人たちは、自分たちの居心地の悪さを、色んな形で毎回毎回言及してるのだ。


でも、この奇妙な違和感は彼ら出演者のキャラクターの関係性の問題だけではない。番組内容自体が奇妙だ。


ウェブサイトの番組紹介だけみてもかなりゆるい番組だとわかるが、グロテスクなゆるさというか、癒しとか言いながら、バブルの人特有の肉食っぽい匂いとかキャリアの匂いがする時がある。

 

私が、たまたま目にした回で言うと、バイオリニストの高島ちさ子がゲストの回のカルチャースクール紹介は、確かポールダンス。天井まで伸びた棒につかまって妖艶なダンスを繰り広げる、バブル以降、六本木とかの外人クラブとかでよくやってたやつ。圧巻は、高島のバイオリン演奏に合わせて、教室の先生がポールダンスを踊って、スタジオ大喝采の図。


今日のゲストは、メロリンQ山本太郎がゲスト。

 カルチャースクールは、ロココ調の椅子作り教室。椅子作り名人から教わるロココの技。材料費15~50万円!それを18個も作った女性が紹介されていた。スタジオにはルイ15世の座ったという椅子が登場。徳井が座るパフォーマンス。


これって、癒し?

癒しというより、さらなる精進。

いや、精進する事が癒しとなる時代なのだろうか?

もうひとつの「やりがい」を得ることが、ある意味「癒し」となる人もいる。これはステレオタイプな癒しに辟易した人のための、新しい形の癒しなのか?確かに番組紹介にも「”新感覚”癒し系マガジン番組」とある。ネタのセレクトといい、薄ら笑い妄想芸人徳井をキャスティングしたことといい、このズレ感は狙いなのだろうか?

もしかしたら、このわけのわからなさが時代の閉塞を打破する希望に繋がる可能性を秘めているとか?それで、あえて違和感を醸すような、にゅるっとしたキャスティングをしてるのか?

繰り返すが、これは制作者の狙いなのか?しつこくてゴメン。


結局、司会3人の座りの悪さや微妙な空気は、お互いのキャラクター特性はあれ、こうした番組自体の突拍子も無さとか、統一感のなさとか、わけわからなさにも由来しているのではないかと思えてきた。


そう考えると、表には出てこない、番組制作者のことがもっとも気になる。誰だこの番組作ったのは?

出演者の3人をも翻弄する制作側は何を考えてこの番組を制作したのか(って、おおげさかw)。

 

ワンマンなチーフディレクターとかプロデューサーの意図的な演出なのか。それとも、ワンマンな指導者不在で、スタッフ皆での制作会議で、癒し、ペット、ガーデニング、クッキング、カルチャースクール、プチ旅行とかいうわかりやすいキーワードを並べて、その範囲で、とりあえず見た事なさそうな珍しいネタを集めました!ってだけなのか?

 

後者な気がする。

 

結局、私が感じた番組への違和感のもとは裏側にいる多くの人間なんだろう。それも表に決して顔を見せない。そして、その違和感が生まれた理由が、彼らの意識的なものか無意識かはわからない。

 

別に糾弾しようと思わないのは、番組に悪意が感じられないからだ。そして、糾弾しやすい独りの突出した意図が見えづらいからだ。でも、それのほうが怖いんだよな。

なんかやっぱり日本っぽいなあ。


もう自分でも何がいいたいのか分からなくなってきた。

 

いろいろ書いたけど、そもそもこの土曜マルシェに引っかかったのって、

単純に「徳井、こういう番組やっていいのか?!」と思ったからだよなあ。

妄想で売ってる芸人がある意味常識必要な情報番組の司会者やっていいのか?

猫の写真撮って、優しい徳井くんでいいのか?そっちへ行っちゃうのか?


つうか、そういうこと考えてる事自体が、もはや古くさい感じがする今日この頃。

私自身、自分自身の方向性が正しいかどうかもよくわからなくなっている。

徳井君のように、目の前にあるものをやるしかないのかもしれない。

そしてやりながら考えるしかないのかもしれない。

 

私は多分もうテレビはやれない気がしている。

いろんなことを考えながらやるには、せわしすぎるのだ。

テレビの仕事を辞めて、火鉢カフェやったり、イラクのチャリティ商品作ったり、行商したり、全ては人に何かを伝える仕事をテレビとは別の形で実現したいという思いからやっている。

人に何かを伝える仕事とはなんだろう。

また、テレビの仕事をやろうと思うときはくるのだろうか?

 

どーでもいいことに時間を使ってしまった。駄文。

 

 

 

 

 

 

 

 



火鉢クラブの原木椎茸販売終了!その報告 やはり原木椎茸キテマす!?

2011-05-07 00:26:34 | 出島DEJIMAプロジェクト

昨日5月5日こどもの日に、谷中夕焼けだんだん上の中華料理店「深圳」前の広場で、

愛媛県内子町小田の原木椎茸を販売しました。

 

他に、雑貨屋さん2軒とパン屋さん(この日はケーキ類を販売)が一緒でした。

 参加されている方は、すでに店舗を持っている方、これから始めようとしている方など様々。

 

雑貨の

「東京キッチュ」http://www.tokyokitsch.com

店舗:東京都荒川区西日暮里4−27−7

 

「COCOKO」http://cocokoron.exblog.jp/ 

 

パン、ケーキは

根津のダイニングバー「あるたい」さんのハンドメイド

「あるたい」東京都文京区根津2−27−8

 

で、「火鉢クラブ」のお店はこーんな感じでオープン。

今回は原木しいたけのロゴも作成し、

かなり本気の原木椎茸アピールとなってます。もはや、原木椎茸は火鉢クラブの顔ですなw

 

火鉢クラブですから、当然炭火で椎茸を焼いてみなくてはいけません。

で、焼いてみたわけですが

今回、通りがかる人々が一番反応したのが、この椎茸を焼いてる匂いです。

火鉢クラブの面目躍如!

 

ほんとに良い匂いなんですよ~。みんな何だろうと思って振り返ると椎茸!

矢野顕子の「ふりむけばカエル」ならぬ、「ふりむけばしいたけ」ですよ。

 

若い子も指差して、「あ、しいたけだあ~」とか言ってましたから。

しいたけアピール度高し!

 

というわけで、「原木椎茸、キテる?」なんて思ったのですが、

現実を振り返ると、やっぱ、商売って難しいわ、が実感です。

 

椎茸とか単価の小さいものを売って生活して行くのって大変だよな~と

お金を稼ぐという事にいまさらながらいろいろ考えるところのあった露天販売でした。

 

とはいえ、原木椎茸をアピールして行く事の意味みたいなもんとか、

面白さも発見出来た販売会でした。

では、その辺の感想も交えて、今回のレポートです。

 


<初の原木椎茸だけの販売~商売は厳しい>

 

そもそも、火鉢カフェ開催時のみに販売していた原木椎茸でしたが、

今回は、はじめての椎茸単独販売でした。

 

今回とどいた椎茸はこちら。原木椎茸のとれる時期ももう終わりなので、

今回、なかなかこれだけの量を集めてもらうのは大変だったようです。

ほんとうに小田のみなさまありがとうございました。

 

やはり、時期もおわりなので、形も重さも随分ばらつきがあります。

当初は、大と小にわけて、◎個◎円で売ろうかと思っていたのですが、大と小のカテゴリーに分けるのも難しいと思い、グラム売りにしました。

 

でも商売としてはこれが失敗だったかもしれません。

 

これまでの火鉢カフェでの販売では、

袋詰めで送ってもらって袋単位で売ってたので利益も見えたのですが・・・。

一度全体の重さを量って、単位当たりの原価を出すべきでした。

箱から出して測っていると椎茸の傘がちぎれたりするので、あきらめて、

以前パック詰めで送っていただいた時の量を思い出して、だいたいで値段を決めたんです。

 

だから、100gの袋が何袋とれるのかがはっきり分からないままの販売開始となり、

儲けが出るかどうかは一か八かの賭け状態になってしまいました。

商売としてはあり得ないと思いながら、

前日夕方届いた椎茸を、丁寧に時間をかけて重さを量る余裕がありませんでした。

で、一か八かで臨んだ販売当日。

100g250円にしました。

上の写真の一枠に入っている椎茸が、100gですが、どうですか?

この量で250円は高いと思いますか?安いと思いますか?

 

この量だったら、スーパーで売っている198円くらいの菌床椎茸より

多いんじゃないかという気がします。

それを考えたら、格段においしい原木椎茸がこれで250円は安いと私は思うのですが、

まあ、売る側だから、おおっぴらにそうも言えません。

 

 

出島P火鉢クラブでは、卸価格を設定せず、

道の駅で売ってる値段で買ってそれを東京で販売してます。

そもそも道の駅って安いのですけどね。

ぶっちゃけ原価をバラしますと、だいたい普通の大きさので1個22~23円くらいの感じ。

多分、今回の100g分は150円分くらいじゃないかと思います。

単純計算で100gあたりの儲けは約100円になるはずですが、

送料1050円で、まず10個分はただ働き。

あと、箱の中で割れちゃってるヤツとかをはじいて、試食分とか、売れ残りとか、

販売終了前の割引とかいろいろ換算すると、儲けってほんとに出すの難しいんですよね。

 

とはいえ、原木椎茸の育ち方を考えると1個25円弱っていうのは安すぎやしませんか?

原木椎茸って、収穫までに1年以上かかってるのです。

原価があがると、私の儲けはもっと減るわけですが、

そういうことより、ものの価値の評価として、25円は安いよなあと思うんです。

世の中どんなもん食べさせられてるか分からない時代に、

自然栽培、めちゃおいしい原木椎茸がこの値段って・・・。

 

そんなことを考えると、自分の儲けの話を別にしても、

これだけのしいたけを250円という値段で売るという事が

妥当だろうかと疑問に思えてくるのです。

 

ただ、今回、観光客も多い休日の谷中での露天販売ということで、

 

お客さんのターゲットが絞れないという部分もあり、

あんまり高いと売れずに余ってしまうかもな~とも思いました。

お客さんの反応を見ていると、この250円という価格を、思ったより多くの方が高いと受け取られていたようでした。

 

もう少し高かったら、もっと余っていたかも・・・。

 

 

というのも、原木椎茸のおいしさというのは、まだまだ知られていないんですよね~。

 

中には、原木と菌床の違いを知らないというかたもたくさんいらっしゃって、

「原木」ののぼりを見て、『「厚木」から来たんですか?』と勘違いされる方もいたくらい。

 

原木の良さを知らなければ、通常のスーパーなどでの菌床椎茸の値段を考えると

250円は高い気がしますよね。多分、そういう方が多かったのかなあ。

100gの量を確認して、やっぱりやめとくとおっしゃる方もいました。

 

一方、原木の美味さを知って、もうこっちしか食べれないという方もいて、

安いと言って800gまとめ買いしていかれていました。

 

一度食べていただければ、その違いは必ず分かってもらえると思うのですが、

まだまだ、原木椎茸とふつうの菌床椎茸の本質的違いって認知されていない。

 

今回から『原木しいたけ』というロゴを作って、

『原木』を強調した販売方法にしたのもそのためです。

 

 

『原木栽培』の椎茸を応援したいのです!

 

 

 

<里山を守る原木椎茸>


おいしいという理由だけではありません。

これは火鉢クラブの設立趣旨でもありますが、

炭にしろ原木しいたけ栽培にしろ、「里山再生」に役立つのです。

これまでにもこのブログで書きましたが、内子の原木椎茸栽培を行う原木は、

内子で菊炭の原材料になる「櫟(くぬぎ)」です。

原木椎茸は、火鉢クラブのシンボルマークである菊炭になる櫟の木から生えてくる。

そして、こうした産業で木を使う事が、里山の整備にも繋がり、

山の健康が保持されるのです。

 

パルシステムが、原木椎茸の販売を広く行っているのも、原木椎茸を生産する事が、

つまり原木を山から切り出す事が、里山の再生につながるという環境保護の観点からの

ようです。

 

ただ、私たち出島プロジェクトの火鉢クラブでは、

そうした自然保護の観点は当然の事ながら、

「楽しい」「オモロい」「うれしい」「わくわくする」という点にも

重点をおきたいと思っています。

 

笑顔を呼ぶ商売。

あくまでも「ふりむけば、しいたけ」の精神です!

しいたけに言われちゃしょうがない、しいたけのふりして笑っちゃうw

 

原木から椎茸が生えてくる姿のかわいらしさ、はたまた奇妙さ、森の不思議、

そして、焼けてくる時のいいにおい、ぷりっぷりの食感、もちろんしいたけを焼くのは、

もうひとつの森の恵み「炭」です!

 

<ふりむけばしいたけ>

♪悲しい わたし悲しい その時

「おいらを食いな」と声がして

ふりむけばしいたけ、その匂いはしいたけ

しいたけに言われちゃしょうがない

しいたけに言われちゃ笑っちゃうw

 

 

考えてみれば、私は子供の頃、椎茸が嫌いでした。

それが食べられるようになったのは、

25歳くらいのとき、テレビディレクターとして旅番組の仕事で行った出雲の宿で、

裏庭の原木椎茸を「焼き」と「天ぷら」で振る舞われた事がきっかけでした。

しいたけってこんなに美味いものだったのか・・・。

それ以来、しいたけ大好きです。

たしか、出雲・立久恵峡が目の前に見渡せる温泉宿だったよなあ。

五右衛門風呂があって、娘さんが薪を入れて焚いてくれた。

今考えれば、まさに火鉢クラブな宿だったのだった。宿の名まえを失念。

その時のビデオもとってなくて・・・。大仏の横顔した奇岩もあって、いいところでした。

 

話が逸れてしまいました(汗)。

 

椎茸販売の話に戻しますと、

結局、今回送ってもらった椎茸の85%くらいが

ちゃんとお客さんの手元に渡っていったんじゃないかと思います。

 

15%は、試食に出した分、箱の下の方でひしゃげたりして売り物にならなかった分

(売り物にならなかったしいたけは、七輪の上で焼かれて、匂いをいっぱい出してくれました)。

あと、自家消費分として200g。

純粋な残りは、こうして干し椎茸にするべく天日干し中です。これも後日販売出来るか?

 

で、最後にもう1枚の写真を紹介。

今回は、谷中の深圳前で場所を固定して販売しましたが、

ここまでの移動はこのような形で行いました。ほとんど行商スタイル。

 

小さい子どもが二人乗れるバギーを借りて、荷物を載せたのですが、

これが結構、様になってると思いませんか?

ただ、夕方になってこのスタイルで谷中周辺を一回りしたのですが、

怪しいと思われたのか、一個も売れませんでしたw

もとの場所に戻って、止まって売ってたら、少し売れました。

行商は、やはり、毎日根気づよく歩いて、認知してもらって、

お得意さんを作っていかないとダメですね。

 

とはいえ、この行商スタイルなかなか気に入ったので、

原木椎茸が出始める次の秋には、このスタイルで挑戦してみようかなあ。

 

また、「原木椎茸」と「菌床椎茸」の違いや、

「原木椎茸と里山再生の関係」などについては、あらためて書きたいと思います。


目印はこのマーク!明日5日(祝)谷中で愛媛県内子町小田の原木椎茸販売

2011-05-04 15:33:02 | 森から始まる未来

いよいよ明日に迫った原木椎茸販売。

目印はこのマーク!

 

 

 

販売場所:谷中夕やけだんだん上 

                        中華「深圳(しんせん)」軒先

               荒川区西日暮里3−14−13

                     最寄り駅 JR日暮里駅、メトロ千代田線千駄木駅

                                             詳しい場所は、こちらのチラシ(←クリック)の地図をご覧下さい


     販売時間:午前11時~午後5時頃

               (商品がなくなるまで)


 

 

 

 


火鉢カフェで好評!愛媛県内子町小田の原木椎茸を限定販売!

2011-05-03 01:36:19 | 森から始まる未来

 

 

販売場所:谷中夕やけだんだん上 

                       中華「深圳(しんせん)」軒先

                       荒川区西日暮里3−14−13

                 最寄り駅 JR日暮里駅、メトロ千代田線千駄木駅

                               詳しい場所は、こちらのチラシ(←クリック)の

                                                                                       地図をご覧下さい


販売時間:午前11時~午後5時頃

               (商品がなくなるまで)



 

  一日火鉢カフェでおなじみの内子町小田の原木椎茸を、ご好評により、5日のこどもの日に販売することになりました。


炭の材料となるくぬぎの木に菌を植え付け栽培する森の恵み原木椎茸。肉厚で、プリプリした食感は普通の椎茸と一味違います。是非おためし下さい。

                                                                      

小田のうどんとつゆも少し販売します

 

つゆは、椎茸と大豆と昆布でとった出汁を使っています。現地では、下の写真のようにたらいうどんが名物ですが、つゆがちょっと甘めなので、このつゆを使った原木椎茸入り鴨南蛮なんてのも最高です!

 

あと、おまけで、出島プロジェクトのもうひとつのプロジェクJCICA(ジェシカ)のイラクの小児がん支援募金のついた今治タオルのガーゼタオルストールも販売します。160×50cmの大判で、膝掛け、肩掛け、ベビー用のおくるみにも。

母の日のプレゼントにもどうぞ!

*ストールは、ウェブショップ「shop出島DEJIMA」でも

  購入出来ます。

http://dejimajapan.com


 谷根千散歩のついでに是非おいで下さい。